2025年10月31日金曜日

龍見寺大日如来


 本日仏像クラブ初の平日開催で八王子市の龍見寺の東京都文化財ウィーク1日だけの御開帳にでかけた。10時前にお寺についたが、すでに住職からの説明が始まっており、普段閉じられている扉が明け放れた厨子の中、大日如来・文殊菩薩・普賢菩薩を拝観できた。大日如来は平安時代末の作で像高88センチあまりの寄木造。漆箔、玉眼で条帛を懸け、裳をつけている。宝冠が当初のものか説明はなかったが、凝ったつくりで恐らく都の仏師の作であろう。作者は不明で「新編武蔵風土記」によると奥州湯殿山にあったが、住職の説明によると源頼朝奥州征伐に従軍した在地の豪族横山党が戦利品として持ち帰ったもので、もとは奥州藤原氏による制作のもの。またもう一説は横山党が鎌倉時代に土地の仏師に作らせたとのこと。また金箔は他の仏像より厚めに造られているとのこと。あとでご住職と話す機会があったので岐阜県の石徹白大師堂の例をあげ藤原三代秀衡の寄進が有力だと申し上げた。矜持は珍しく文殊・普賢で大日三尊とでもいうのだろうか。他には例がないとのこと。堂山という近く野山のほこらに祀られていたが里の曹洞宗の龍見寺の客仏として祀られていた。素晴らしい大日如来でお寺のHPにはかの有名な西村公朝氏によると銘があれば国宝指定されてもおかしくない作。奈良円成寺の大日如来より優れていると大絶賛だとか。仏像クラブの面々からも感嘆の声があがり、昼食でよった八王子の居酒屋でおおいに語り合った。

2025年10月26日日曜日

特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂④(弥勒如来その一)


 今週の日曜日(10月26日)半蔵門ミュージアムの講演会を聴講した。テーマは「興福寺北円堂諸像と運慶の時空」講師は山本館長だ。東博の北円堂展覧会にあわせて行ったもので、運慶研究の第一人者である山本館長が1時間半にわたって興福寺北円堂の創建と鎌倉再興、運慶の作品と北円堂諸仏作成時の運慶工房について事前に配布された講演資料をスライドの画面に写しながら語られた。特に興味をそそられたのが昭和9年の弥勒仏修理時に発見された運慶制作当初の「興福寺北円堂弥勒仏像台座反花(そりばな)内部墨書」に書かれた担当仏師のこと。また施主の近衛家実の「猪熊関白記」に北円堂諸仏を担当したのが運慶だと書かれているというくだりだ。いよいよ弥勒仏像(弥勒如来)に話が及んだ。弥勒仏像の光背は後補で当初は背板と円光背をあわせたインドマトゥーラでつくられた仏像に見られる「グプタ式光背」であり、その光背なら後ろに控えている仏弟子2名が隠れないとのこと。「運慶講義」で語られた「グプタ式光背」にはその様な意味があったと理解した。弥勒仏の内衣は薬師寺薬師如来や室生寺釈迦如来に見られる古くからの形式で定朝で簡略された仏像形式の復古を運慶が果たして「猪熊関白記」に書かれた「旧のごとく北円堂を建立」というう施主の要望の上をいく運慶のうまさについて語られた。次回は弥勒仏像内納入品からの話について報告する。

2025年10月20日月曜日

特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂③(北円堂持国天)

先週の木曜日ニコニコ美術館で特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂が取り上げられ、東博学芸員児島氏の解説で1時間半展覧会を鑑賞できた。番組では,無著の玉眼のドアップ等の映像が流れ、弥勒如来の納入品が弥勒菩薩であることや運慶銘では無著・世親とあるのに、願主近衛家実の「猪熊関白日記」には世親・玄奘と書かれている件や、無著の持つ包みは世親が明治期一時持っていたことなどが語られ、後半は四天王の話題となり、運慶の子息四人が担当し、北円堂が藤原不比等の菩提を弔うための創建であるため、再興した四天王は天平彫刻の模刻像であり、彫眼の瞳の部分を立体的に作られたりそれぞれ子息四人の個性が出ていることなどが語られた。会場内の解説のため各像の配置へのこだわりも語られ、ここに挙げる持国天は長男湛慶の制作と断定し湛慶の生真面目さが出ているなどマスコミうけするトークも絶妙だった。今は中金堂に祀られる四天王は元々北円堂にあることを裏付ける実験としての意味合いを持つ今回の展示だが、児島氏は湛慶の持国天を配置した際、正面を向く弥勒・無著・世親とぴったしで確信したなど、1時間半飽きさせない番組となった。確かにそれぞれの違いに興味がそそられたがたくましい骨格や表情には統一感が認められ運慶指導のもとに造像されたことは間違いないと思った。いろいろ深く知れたのでまた会場に行きたいと感じた。


 

2025年10月12日日曜日

武蔵国分寺御開帳


 昨日(10月10日)初めて武蔵国分寺の薬師如来を拝しに西国分寺に向かった。御開帳は法要終了後の11時からとInstagramの投稿があったので、先に近くの「潮(うしお)」という蕎麦屋で大海老天のランチ定食をいただいてから武蔵国分寺に向かった。国分寺市役所の向かいに案内板があり問題なく武蔵国分寺薬師堂についた。ボランティアの方など大勢の善男善女がいたが、わりあいゆっくりと拝観できた。薬師如来の両側には顔を護摩で黒光りした江戸時代の十二神将がおり、薬師如来の厨子の脇に室町時代の日光・月光菩薩が祀られていた。螺鈿細工と思われる扉が明け放れた厨子の中に大正三年指定の旧国宝重文の薬師如来が鎮座していた。御開帳ながらだれも説明者はいなかったは残念だったが、参拝者に渡されたしおりによると、薬師如来は平安時代末期の木彫寄木造。像高は約1.4メートルと半丈六で漆箔仕上げ。蓮華座に座し、印相は右手が施無畏印、左手に薬壺を持つ。台座・光背は後補。顔の凹凸が激しくあまり修復がされていないように思われた。先月佐渡国分寺で見た薬師如来に比べ見劣りするのはいなめないが、通常重文は収蔵庫に保存されているがここは厨子に納められ重文の薬師堂に安置されているので祈りの空間ができている。それでもここで多摩で平安時代の仏像がみれるのは貴重。近くには広大な旧武蔵国分寺跡の公園があり、奈良時代から信仰の場所だったことがうかがえる。今後も護り続けたい国の宝には違いないと思った。

2025年10月9日木曜日

特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂②四天王多聞天


 特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂の最大の見所は普段中金堂に安置されている四天王を北円堂の弥勒・無著・世親を囲んで展示されている点だろう。この議論は古く、1990年に藤岡氏が指摘し、その後伊藤史朗が「興福寺曼荼羅」に画かれている北円堂四天王から多聞天以外の四天王の像名を変更する説を1995年に出しその後「仏の瀬谷さん」が追認して現在にいたっている。私がこの説を知ったのは2010年発行の別冊太陽「運慶」に寄稿した藤岡氏の掲載文が初めてだが今回東博児島学芸員によって北円堂の鎌倉当初の状態を東博に再現された。なかでも印象的だったのが当初から尊命が変わらない多聞天で、右手に戟を執り、左手で宝塔を高く掲げて、それを仰ぎ見る姿が露出展示で眼前にせまってくる。宝塔を高く掲げるのは東大寺戒壇堂の四天王多聞天の奈良時代以来の伝統的な姿だが、宝塔を仰ぎ見るダイナミックなスタイルは運慶仏らしい。失われた古像を単に復興するだけにとどまらず、新たに創出した斬新なスタイルこそ運慶の真骨頂だろう。異材を嵌入する塑像風の瞳を盛り上げる表現、むき出しにする八重歯、天平風の甲西に獅子噛のアクセント、激しい動静といった古制と新用とが破綻なくまとめられている本像は四駆のうちひときわ目をひく四天王だ。四天王は湛慶・康運・康弁・康勝が担当したとのことだがもしかしたら遺作がない康運に運慶が手を加えてできたと想像するのも楽しい。会場のグッズコーナーで多聞天のフィギアを購入して東博を後にした。

2025年10月2日木曜日

佐渡・新潟仏像探訪記④(山寺薬師)


 佐渡・新潟仏像探訪最終日の20日はお彼岸の中日で上越市清里区にある無人の山寺薬師を訪ねた。上越妙高駅からタクシーに乗り、地元のタクシードライバーも行ったことない山寺薬師に向かった。ここら辺は地滑りが多く災害の人柱供養堂もある悲しい歴史があった村のようだ。タクシーは急な参道の下で停まり、参道脇の道祖神に励まされながら、山寺薬師本堂が建っている中腹の広場に出た。本堂らしき建物は中に入れるようになっており、ガラス越しながら、なかの仏像を拝観できた。像高140センチの室町時代の3体の座像を拝観した。入ると流れるアナウンスやパンフレットによると室町時代に地元の三善氏の寄進により再興され、檜の寄木作り京仏師筑後法眼の作とのこと中央が薬師如来、左に阿弥陀、右に釈迦如来を安置されている。写真を撮影しお寺をあとにした。新潟にはまだまだあまり知られていない仏像が多くあるようだ。直江津の図書館に旅の帰りに寄ったが、「にいがた秋の文化財一斉公開」(2025年10月開催)中越の小地谷にある妙高寺愛染明王など魅力的な仏像に出会いにまた訪れたいと思った。