2020年12月31日木曜日

悲田院の阿弥陀如来

泉涌寺を出て、今回の京都非公開文化財特別公開の目玉である泉涌寺塔頭悲田院の阿弥陀如来を見にいった。快慶作と分かったのが最近のことなので今回初めての特別公開となった。もとは平安期に創建した法性寺を荒廃したため鎌倉期に九条兼実が再興した「後法性寺殿」にあったと伝えられている。悲田院では客仏扱いのため本堂の隅に置かれて展示されていたので、かえってより近く拝観できてよかった。2017年の奈良博快慶展では光背なしの展示のため今回が初めて見る光背付きの阿弥陀如来であった。光背の赤色がみごとで、目を見張った。髻が高く表現されており元は宝冠阿弥陀如来であることがわかる。宝冠阿弥陀如来は3種類あり真言系の紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀如来、天台系の常行三昧の本尊、そのどちらでもない阿弥陀如来である。紅頗梨色は赤色を意味するが日本では赤色の作例はほとんどない。悲田院の阿弥陀如来が後法性寺殿にあったならば天台の寺院のため常行三昧の本尊として祀られていたであろう。快慶が若いころに制作した仏像なのでわざと光背に赤い色を用いて造ったのかもしれない。裏道を通って東福寺に向かうため、悲田院をあとにした。



 

2020年12月28日月曜日

慈眼堂の千手観音

 

清凉寺がコロナ禍の影響で16:00で拝観時間が終了したので近くの慈眼堂へ向かった。雑誌の念持仏特集で藤原定家の念持仏として紹介された仏像だ。官界を離れて嵯峨に隠遁した定家は、千手観音の傍らで「小倉百人一首」を撰したという。現在は中院町文化保存会で保存しており、堂外から常時拝観できる。お賽銭を入れると中の照明がつく鎌倉辻薬師堂方式での拝観となった。のぞき窓からわずかの時間拝観できたのでよかった。帰りの喫茶店の店主に中院観音を見に横浜から来たというと驚かれたぐらい京都にはまだまだ隠れた秘仏があると感じた




2020年12月19日土曜日

清凉寺帝釈天

 

弘源寺の毘沙門天を見てからコロナ禍で16:00閉門の清凉寺にあと30分しかなかったためタクシーを利用して向かった。宝物館が開いていたで訪問し源融の釈迦三尊や毘沙門天展で出会った清凉寺の毘沙門天などを急いで見てまわった。日本美術全集の写真で注目したのがこの帝釈天だ。東博の皿井学芸員の解説によると宝物館の前は清凉寺の三国伝来の釈迦如来の脇侍として文殊菩薩とともに釈迦三尊として本堂に安置されていたとのこと。衲衣の上に鰭袖(ひれそで)を持つ衣をつけ左手は掌を下にして拳をつくり、右手は右わきに構えて持物(亡失)を執り、象の上で左足を踏み下げ半跏趺座する典型的な帝釈天のポーズだという。また東寺の帝釈天が密教像のなかで一番古く造られたものだが、それに匹敵する平安前期にさかのぼる古い作例であるという。運慶の修復した東寺帝釈天に比べると見劣りがするがなかなかの優品だ。通常より1時間早い閉門のため本堂に行くと釈迦如来に焼香できるとのことで三国伝来の釈迦如来を近くで拝観して大門が閉まった清凉寺の勝手口から外へ出た。




2020年12月12日土曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」⑤(相模原普門寺の聖観音)

 

相模川流域のみほとけ展では住職でさえはっきり見たこともない、秘仏が展示されていた。相模原にある普門寺の聖観音もそのひとつで、いかにも秘仏らしい独特な雰囲気をもつ仏像だ。図録によると普門寺は愛甲郡にある古刹で天平年間に開創されたとのこと。本像は髪際高で三尺(104センチ余り)髻を結い、髪束を三段に表す珍しい表現だ。上半身に条帛と天衣、下半身に裙と腰布を着ける。腰をやや右にひねり、台座上に立つ。ヒノキの割矧造りとみられる。耳後ろから足に通じる線で前後に内刳りのうえ割首する。髪の毛筋彫りや薄い衣文線は丁寧に彫られ、顔が小さくプロポーションが整っており、平安時代後期の定朝様式を示すとのこと。数少ない定朝様式の仏像が実家の近くの町にあるとは驚かされる。海老名の龍峰寺を皮切りに相模川流域のみほとけを訪ねてみたいと思った。


2020年12月5日土曜日

蘆山寺の地蔵菩薩


 11月1日京都駅でお昼をいただいてから蘆山寺に向かった。蘆山寺では大河ドラマに合わせて「明智光秀の念持仏と蘆山寺」というイベントをやっていた。蘆山寺には昨年も行っていたので、今回訪れる予定ではなかったが京都出発の直前に購入した雑誌に「念持仏」を知るという特集がくまれており法隆寺の橘夫人念持仏や全国の戦国武将の念持仏が載っており改めて興味がわき蘆山寺を訪れることになった。お寺の説明では信長がで比叡山に関係するという噂で明智光秀に蘆山寺焼き討ちの命がくだったが、朝廷と関係深い蘆山寺は叡山とは関係ないとの正親町天皇の詔により難を逃れたという。光秀はその後本能寺の変の直前に縁のある蘆山寺に地蔵菩薩を預けたという。いつも陣中で礼拝していた念持仏をあえて手放すことで光秀は死を覚悟したとのこと。紅葉が美しい庭を眺めながらしばし休み次のお寺に向かった。