2022年11月26日土曜日

京都大原三千院の阿弥陀三尊

 

11月18日(金)の朝、京都駅から京都バスで大原三千院に向かった。最近流行りの瑠璃光院で多くの善男善女が降りたことで紅葉の盛りであることが分かった。大原に着き参道を三千院に向かう。ものすごい真っ赤や黄色の紅葉が映える参道を写真を撮りながら進んだ。三千院は参道より少し高いのでイチョウの葉はすべて落ちていて、黄色の絨毯ができており三尊像がいる往生極楽院をそめていた。小学館の「古寺行こう」というブックによると、三千院は門跡寺院だが寺名、所在地を変更して明治維新後に移転してきたため、もとさんぞんあった往生極楽院の地にたっている。阿弥陀三尊は平安時代後期の定朝様式の仏像で、像高2.3メートルの座像だ。最大の特徴は像がぎりぎり納まるくらいしかない狭いお堂に低い須弥壇をしつらえ、三尊を配置した構造にある。それによって参拝者との距離が非常に近く、臨終者の枕元に来迎する阿弥陀三尊の姿を目の当たりにするかのような迫力がある。勝林院・来迎院を午前中にみる予定なので、そうぞうに御朱印をいただき、三千院を後にした。



2022年11月20日日曜日

清水寺の迦楼羅

今日から京都奈良の今年二回目の旅行に来ている。今日の夜は清水寺秋の紅葉ライトアップがあるので、夕飯のとりすきフルコースを頂き急いで、タクシーで清水寺に向かった。なんとか最終入場に間に合ったが、人が多いのはいつものことだ。本殿の千手観音と28部衆も金網越しにしか見られなかった。お目当ての迦楼羅様もよくわからなかった。江戸時代初期の清水寺再興造仏に活躍した運慶まっしょうを自称する七条仏所で徳川幕府の御用仏師として起用されたと思われる。清水寺の本堂二十八部衆の製作にあたった宮内郷康音である。当時は仏師界を代表する七条仏所の重要人物が幕府との関わりのなかで清水寺再興仏に活躍したのである。康音再興の奥の院から手を伸ばして、写真を撮り清水寺を後にした。

新薬師寺の頞儞羅大将

今日は奈良に朝早く起きて出かけた。室生口大野からバスで到着するとまさに目がつぶれるほど、真っ赤な紅葉に包まれた室生寺が現れた。仏像の詳細はのちほど、書くが室生寺から取って帰して特急券を車内購入して奈良に向かった。昼食を食べ急いで午後の拝観へ。新薬師寺へ13年ぶりに向かった。香薬師堂のおたま観音は事前予約が必要とのことでお堂は固く閉ざされていた。気を取り直して十二神将と薬師如来を観賞する。いつもは伐折羅大将にばかり目が行くが、隣の頞儞羅大将も迫力あるポージンクをしている。奈良旅は移動に時間かかるので、次回からは奈良に一泊するスケジュールで行きたい。また奈良と大阪が近いので、大阪から入ることでもいいだろう。そんなことを考えながら京都を後にした。

2022年11月13日日曜日

大倉集古館普賢菩薩

 

今月3日の文化の日、初めて大倉集古館に国宝普賢菩薩をみにいった。大倉集古館の普賢菩薩は東博の「名作誕生展」で見ており、スポットライトにあたった截金文様がきれいに残る平安仏だ。前の週に行った神谷町駅から坂をあがると中国風の建物がみえて来た。入場券を購入して上人像などを見てから2Fの展示室に古いエレベーターで向かった。普賢菩薩は東博で見た展示ケースに収まったいたので鑑賞した。ネットに名品図録解説として「普賢菩薩は『法華経』を信仰し受持する者を守護するとされ、その信仰が特に隆盛した平安時代中期から後期にかけて、多くの優れた画像や彫像が製作された。特に女人往生の典拠となった同教は女性貴族の間であつい信仰を集めた。(中略)保存状態は総じて良好で、本体はもちろん、台座の蓮華や象、その下の框にいたるまで造立当初のものである。鮮やかな彩色や着衣の各部にほどこされた細線な截金文様も、この期の華麗な趣をよく残している。頬から顎にかけてふっくらと膨らんだ面貌や、全体が丸みを帯びて小ぶりに造られた体躯の表現などは童子を思わせながら、顔立ちは崇高さえをたたえ、腕前で合掌する姿は敬虔で静謐な趣を際立たせる」山本勉先生は円派と断定しており、平安時代の貴族の女性の思いを一身に受けた菩薩像をいつまでも眺めていた。最近リニューアルされた地下のミュージアムショップで普賢菩薩のクリアファイルを購入し、大倉集古館をあとにした。

 

2022年11月3日木曜日

増上寺三解脱門


 先週の土曜日「増上寺三解脱門公開」にあわせて仏像クラブで港区愛宕の寺社と三解脱門拝観に出かけた。愛宕神社の出世の石段などを巡り増上寺に着くと三解脱門に受付とロッカーが設置されており、U案内人の話ではカメラは持ってきてよいとのことで、身軽になりほぼ垂直な設置された階段を三解脱門にあがった。増上寺三解脱門は東京にありながら、関東大震災にも空襲でも焼けなかった奇跡の門で400年前の江戸が壇上に広がっている。中央に釈迦三尊、周りに十六羅漢が配され壇上にいた説明者によると室町末期から江戸時代にかけての製作とのことだったが、山本勉先生の「仏像」によると宿院仏所の宗院で美術史的には織豊政権から豊臣氏滅亡の慶長20年までの桃山時代、政治的には江戸幕府開設間もない時期につくられたとのこと。宗貞・宗院は奈良金峯山寺の蔵王権現を製作した仏師だが、荒らしい蔵王権現と違い徳川政権誕生で戦国が終了した当時の世相を反映してか穏やかな釈迦如来となっているが、山本先生によると、鎌倉時代初期の快慶作品に学んだ端正なまとまりがあり、奈良の地の長い造像伝統が突然花開いた観があるとのこと。よく見ると肩のあたりに快慶御得意の截金文様がほどこされている。このころは造仏活動も盛んで運慶の末裔七条仏師の東寺での活躍もあり注目すべき仏像は多い。これから東京の仏像も丹念に見ていきたいと思った。