2011年1月29日土曜日

平安のみほとけ国宝勝常寺の薬師如来

平成20年夏に会津を旅した。会津は「仏都会津」と呼ばれるほど仏像が多くある地方で知られている。朝風呂につかり東山温泉駅で乗合タクシー「仏都会津巡り号」に乗り一路、慧日寺跡をめぐり徳一大師廟をお参りし、今回のお目当ての勝常寺へ向かう。住職の案内で本堂にとおされ薬師如来と対面した。平安時代初期の作で京都で出会った神護寺の薬師如来のようにきびしいお顔をしており、目つきがするどい仏像だ。衲衣(のうえ)は衣が両肩を覆う、インド伝来の伝統的な通肩(つうけん)で着用している。会津五薬師のひとつ、中央薬師とも呼ばれる勝常寺は会津盆地のほぼ真ん中に位置する。薬師如来と両脇侍である日光・月光菩薩立像の三尊は会津を代表する御姿である。両脇侍が薬師如来の隣にはなく収蔵庫に収められているのは残念だった。

2011年1月22日土曜日

葛井寺(ふじいでら)の十一面千手千眼観音

近鉄の藤井寺でおり葛井寺はすぐ近くにあった。ここには天平時代造立の千手観音があり、毎月18日が御開帳の日にあたり、多くの参拝客が詰め掛けていた。特に4月18日は大法要にあたり敬謙な信者が熱心に祈りをささげる場となっている。私の隣の女性も経をとなえながら祈っていたが、こちらは仏像を興味本位で見にきているのがなんだか申し訳なく感じた。気をとりなおして仏像をみると頭に十一の化仏をいただく十一面観音で、聖武天皇の発願と伝えられている脱活乾漆像(だっかつかんしつ)。 まばゆい光背のごとく円形に広げられた千の慈悲の手は左右各19本の大手と左501本右500本の小手がある真数千手観音だ。大手には輪宝や宝鉢・羂索(けんさく)などの持物をもち、全体がバランスよくまとまっており仏師の力量を感じる。手前で合掌する真手は指先が触れあう刹那のかたちで、天平の匠が生み出した祈りの美だ。慈悲あふれる穏やかな眼差しもこの仏像の魅力のひとつだろう。境内にでると、うららかな春の光が満ち溢れていて、藤の花も満開でとても穏やか気分で寺をあとにした。

2011年1月15日土曜日

湖北向源寺の十一面観音

約20年ほど前になるが、夏季休暇を利用して若狭・近江の十一面観音をめぐる旅にでた。その旅行でいまでも印象に残っているのが最終日に出会った向源寺の十一面観音だ。JR高月駅から歩いて10分ほどすると、「向源寺」につく。寺には多くの善男善女が観音様を拝みにつめかけていた。小さな収蔵庫のなかに官能的なお姿でたっておられたのが印象的だった。平安時代初期いわゆる貞観仏のひとつで、おおぶりな頭上面が特徴的だ。あとで知ることになるが、後ろには「暴悪大笑面」がついておられるが当時は気がつかなかった。かの白洲正子も「信仰のある村では、とかく本尊を飾り立てたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎた。」と絶賛している。私はいつまでも飽くことなく観音を眺めていた。

2011年1月9日日曜日

谷中七福神めぐり

本日はじめて七福神めぐりを仏像クラブで企画した。朝九時にJR田端に集合し一番の「東覚寺」に向かった。赤札仁王などを見ながら、「福禄寿」を参拝。
ここで七福神めぐり専用の御朱印色紙を購入。東京スカイツリーを横目に見ながら、谷中の下町風情がある街をめぐった。高さ2メートル体重200キログラムの布袋像や平安時代の毘沙門天などをめぐった。途中正岡子規ゆかりの団子やで休憩して、護国院の大黒天で結願だ。近くの串揚げ「はん亭」でお昼を食べた。登録有形文化財に指定されている木造3階建てのいい雰囲気の店で、串揚げをつまみながら今年の仏像クラブスケジュールを決定して解散した。七福神めぐりはお年寄りの趣味と思っていたが、結構歩くので体力がいるなと感じた。

2011年1月8日土曜日

神護寺の薬師如来

平成20年春にU案内人と京都を旅したときまず最初に向かったのは神護寺だった。バスの車内からは桜がちらほら見え、いやがおうでも期待が高まる。神護寺の山門までのきつい階段を登りようやく境内へ。神護寺のある高雄は京都市内より標高が高いため桜はまだだったがとりあえず、平安時代前期に造られた国宝薬師如来のある金堂へ急いだ。早朝のため参拝客もまばらで、じっくりと薬師如来と対面した。この薬師如来はきびしいお顔をしているとの評判だったが、双眼鏡で覗いても私には特にそう見えなかった。しかし存在感は抜群で脇侍の日光・月光がかすんで見えるほどだった。目は吊りあがり、唇はへの字に結ばれ、深いしわが刻まれたあごはぷっくりと飛び出している。後で雑誌やテレビ番組で知ったのだが、多宝塔には国宝五大虚空蔵菩薩が安置され往復はがきで事前に拝観を予約するとのこと。残念だったが、また再訪したいお寺だった。

2011年1月3日月曜日

浄楽寺の阿弥陀如来

平成20年秋に横須賀の浄楽寺を訪れた。今回の仏像は「運慶仏」との出会い第二段となる。鎌倉の御家人和田義盛の依頼で造像された名品だという。秘仏御開帳の日に企画したが、今回から仏像好きのY氏も参加し3人での会となった。御開帳日とあって善男善女が多く拝観にきており、あらためて仏像ブームだと感じた。奥の収蔵庫に入ると中はいっぱいの人であったが、お寺の僧侶による説明が行われていた。本尊は阿弥陀如来。仏像クラブで春に訪れた願成就院の阿弥陀如来より極めて保存状態がよく、その他脇侍・毘沙門天・不動明王の計五体がある。浄楽寺の毘沙門天の体内から銘札が取り出され、昭和34年に運慶作とわかったいわれがある仏像だ。願成就院の阿弥陀如来はめずらしい説法印であったが、浄楽寺のご本尊は来迎印を結んでいる。運慶が施主の意向に沿って旧来の造像形式に回帰している可能性がある。私は願成就院が若く荒削りな運慶仏であるが、浄楽寺はより完成された穏やかな仏像になっていると感じた。ご本尊の写真が販売していたので、すかさず買った。われわれは帰りのバスを待ちながら浄楽寺運慶仏の感動に酔いしれた。

2011年1月2日日曜日

初めての玉眼

昨年の奈良旅行2日目の最後に訪れたのは山之辺の道にある長岳寺だ。はじめて玉眼が使用された仏像があることは知っていたが、「TV見仏記」で紹介され興味を持った。「TV見仏記」によると住職による地獄絵絵解きが行われとのこと。JRの駅から田舎道をかなり歩いて寺につくと、住職の「地獄絵絵解き」が始まっているとのこと。さっそく本堂に向かった。地獄絵はすばらしく特にすばらしいのが獄卒(地獄にいる鬼の番人)だった。仏像に目を移すと中央に平安時代に造られた阿弥陀三尊で、鎌倉時代以後流行する玉眼の最初の例である。脇侍は片脚踏下げの半跏座形式である。増長・多聞の二天は顔立に怒りを表しているが、目が寄っておりどこか滑稽だ。旧地蔵院にも仏像があると「TV見仏記」で言っていたのでそちらの仏像も忘れずに拝観してから寺をあとにした。

2011年1月1日土曜日

興福寺の弥勒如来

平成20年秋に奈良を訪れた。最初に訪れたのは興福寺。大きな寺のため午前・午後とわけて見ることとなった。まずわれわれは北円堂に向かう。U案内人がその精神性まであらわしたと絶賛した運慶作の無著・世親菩薩像を見る。堂内に入ると中央に弥勒・右に無著・左に世親という配置だ。周りに表情豊かに怒りを表す四天王が囲む。写真でみるより小さいがさすが運慶円熟期の作品のため釘付けとなった。後で山本勉先生の文章で知ることになるが、弥勒菩薩には玉眼が使用されていない。「玉眼を使っていないその目は、無著・世親の2像と異なり、何も映さず、何を語ろうともしない。容易に内面をうかがうことなど許さないこのまなざし、この表情こそが、運慶が経験を重ね、理解を深めて、たどりついた仏像の顔なのではないか。U案内人が運慶の仏像の到達点というのもうなずける仏だった。