2020年12月31日木曜日

悲田院の阿弥陀如来

泉涌寺を出て、今回の京都非公開文化財特別公開の目玉である泉涌寺塔頭悲田院の阿弥陀如来を見にいった。快慶作と分かったのが最近のことなので今回初めての特別公開となった。もとは平安期に創建した法性寺を荒廃したため鎌倉期に九条兼実が再興した「後法性寺殿」にあったと伝えられている。悲田院では客仏扱いのため本堂の隅に置かれて展示されていたので、かえってより近く拝観できてよかった。2017年の奈良博快慶展では光背なしの展示のため今回が初めて見る光背付きの阿弥陀如来であった。光背の赤色がみごとで、目を見張った。髻が高く表現されており元は宝冠阿弥陀如来であることがわかる。宝冠阿弥陀如来は3種類あり真言系の紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀如来、天台系の常行三昧の本尊、そのどちらでもない阿弥陀如来である。紅頗梨色は赤色を意味するが日本では赤色の作例はほとんどない。悲田院の阿弥陀如来が後法性寺殿にあったならば天台の寺院のため常行三昧の本尊として祀られていたであろう。快慶が若いころに制作した仏像なのでわざと光背に赤い色を用いて造ったのかもしれない。裏道を通って東福寺に向かうため、悲田院をあとにした。



 

2020年12月28日月曜日

慈眼堂の千手観音

 

清凉寺がコロナ禍の影響で16:00で拝観時間が終了したので近くの慈眼堂へ向かった。雑誌の念持仏特集で藤原定家の念持仏として紹介された仏像だ。官界を離れて嵯峨に隠遁した定家は、千手観音の傍らで「小倉百人一首」を撰したという。現在は中院町文化保存会で保存しており、堂外から常時拝観できる。お賽銭を入れると中の照明がつく鎌倉辻薬師堂方式での拝観となった。のぞき窓からわずかの時間拝観できたのでよかった。帰りの喫茶店の店主に中院観音を見に横浜から来たというと驚かれたぐらい京都にはまだまだ隠れた秘仏があると感じた




2020年12月19日土曜日

清凉寺帝釈天

 

弘源寺の毘沙門天を見てからコロナ禍で16:00閉門の清凉寺にあと30分しかなかったためタクシーを利用して向かった。宝物館が開いていたで訪問し源融の釈迦三尊や毘沙門天展で出会った清凉寺の毘沙門天などを急いで見てまわった。日本美術全集の写真で注目したのがこの帝釈天だ。東博の皿井学芸員の解説によると宝物館の前は清凉寺の三国伝来の釈迦如来の脇侍として文殊菩薩とともに釈迦三尊として本堂に安置されていたとのこと。衲衣の上に鰭袖(ひれそで)を持つ衣をつけ左手は掌を下にして拳をつくり、右手は右わきに構えて持物(亡失)を執り、象の上で左足を踏み下げ半跏趺座する典型的な帝釈天のポーズだという。また東寺の帝釈天が密教像のなかで一番古く造られたものだが、それに匹敵する平安前期にさかのぼる古い作例であるという。運慶の修復した東寺帝釈天に比べると見劣りがするがなかなかの優品だ。通常より1時間早い閉門のため本堂に行くと釈迦如来に焼香できるとのことで三国伝来の釈迦如来を近くで拝観して大門が閉まった清凉寺の勝手口から外へ出た。




2020年12月12日土曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」⑤(相模原普門寺の聖観音)

 

相模川流域のみほとけ展では住職でさえはっきり見たこともない、秘仏が展示されていた。相模原にある普門寺の聖観音もそのひとつで、いかにも秘仏らしい独特な雰囲気をもつ仏像だ。図録によると普門寺は愛甲郡にある古刹で天平年間に開創されたとのこと。本像は髪際高で三尺(104センチ余り)髻を結い、髪束を三段に表す珍しい表現だ。上半身に条帛と天衣、下半身に裙と腰布を着ける。腰をやや右にひねり、台座上に立つ。ヒノキの割矧造りとみられる。耳後ろから足に通じる線で前後に内刳りのうえ割首する。髪の毛筋彫りや薄い衣文線は丁寧に彫られ、顔が小さくプロポーションが整っており、平安時代後期の定朝様式を示すとのこと。数少ない定朝様式の仏像が実家の近くの町にあるとは驚かされる。海老名の龍峰寺を皮切りに相模川流域のみほとけを訪ねてみたいと思った。


2020年12月5日土曜日

蘆山寺の地蔵菩薩


 11月1日京都駅でお昼をいただいてから蘆山寺に向かった。蘆山寺では大河ドラマに合わせて「明智光秀の念持仏と蘆山寺」というイベントをやっていた。蘆山寺には昨年も行っていたので、今回訪れる予定ではなかったが京都出発の直前に購入した雑誌に「念持仏」を知るという特集がくまれており法隆寺の橘夫人念持仏や全国の戦国武将の念持仏が載っており改めて興味がわき蘆山寺を訪れることになった。お寺の説明では信長がで比叡山に関係するという噂で明智光秀に蘆山寺焼き討ちの命がくだったが、朝廷と関係深い蘆山寺は叡山とは関係ないとの正親町天皇の詔により難を逃れたという。光秀はその後本能寺の変の直前に縁のある蘆山寺に地蔵菩薩を預けたという。いつも陣中で礼拝していた念持仏をあえて手放すことで光秀は死を覚悟したとのこと。紅葉が美しい庭を眺めながらしばし休み次のお寺に向かった。

2020年11月28日土曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」④(平塚・宝積院の薬師如来)

 

特別展「相模川流域のみほとけ」も明日で会期終了となるが、今回ご紹介するのは平塚・宝積院の薬師如来像だ。宝積院のご住職がニュースでいっていたが、こんな感染症蔓延の時代だから宝積院の薬師如来の写真を使ってほしいとのことで、博物館側もポスターや図録の表紙に使っている。第二章鎌倉時代の仏像のコーナーに150センチ余りの薬師如来像が展示されていた。図録によると平塚の鎮守梵天社の本地仏で内衣・衲衣・裙をつけ、両手を曲げて左手に薬壺を腕前にかかげ、右手は五指をのばして左手に添える。直立して蓮華座に立つ。寄木造りで頭部と体部ともに四材を田の字型に剥ぎ、内刳りを施し玉眼を嵌入する。表面に漆を施し金箔をはる。一般的な薬師如来は左手に薬壺をもち、右手で施無畏印とするが、本像は左手に薬壺を持ち、左手に添える形は2011年に東博開催「空海と密教美術展」で見た大阪獅子窟寺の薬師如来や滋賀西教寺薬師如来にあり、切れ長の眼は鎌倉浄光明寺の観音・勢至菩薩に通ずるところがある。これらは善派系統の仏師により造られたことが指摘されていることから、本像もその一群に加えられるとの神野学芸員の解説だった。会場では分からなかったが鎌倉や関西で見た仏像と平塚の仏像が一脈通ずることは「目に鱗」だった。明日まで開催中なのでまだの方はぜひ見てほしい。

2020年11月21日土曜日

泉涌寺の楊貴妃観音

 

戒光寺の釈迦如来に感動したあと本日(10月31日)までの公開の仏像を見に泉涌寺に向かう。泉涌寺は2009年に訪れたことがあるが、大門を過ぎてから確かここには楊貴妃観音という中国招来の仏像が祀られていることを思い出し楊貴妃観音堂に向かう。2009年7月奈良博で「特別展聖地寧波(ニンポー)」が開催されそこにこの泉涌寺楊貴妃観音が出展されており間近に拝観する機会をえたが日本の仏像にない不思議な印象だった。雑誌の解説によると泉涌寺の開山僧「俊芿(しゅうんじょう)」の弟子が鎌倉時代に令和2年度京都非公開文化財特別公開で公開されている舎利殿の韋駄天像と月蓋(がつがい)長者とともに南宋から招来した仏像だという。日本人離れした容貌から楊貴妃の冥福を祈って造られたという伝承が生まれ、江戸時代から「楊貴妃観音」と呼ばれた聖観音だ。頭には宝相唐草透かし彫りの宝冠を被り、しなやかな手に宝相華を持ち、耳たぶに花形のイヤリングがあり彩色もまだまだ鮮やかで、その名に恥じないものがある。見仏記によると口もとの曲線は慈悲を説かれる口の動きでおひげではないとのこと。その後舎利殿に向かい韋駄天と月蓋上人像を拝観したが小像であり指して印象に残らなかった。泉涌寺の塔頭の悲田院で快慶仏が公開されているので早々にそちらに向かった

2020年11月14日土曜日

特別展「聖衆来迎寺と盛安寺」②(盛安寺十一面観音)

 


11月1日に訪れた特別展「聖衆来迎寺と盛安寺」に出展された多くの仏像の中で最大の見どころは盛安寺の十一面観音であろう。白洲正子のエッセイで初めて紹介されたが、「先年、近江を廻っていた時、穴太の盛安寺という寺で、美しい十一面観音にお目にかかった」と書かれており、2011年愛媛県美術館開催の生誕百年特別展白洲正子「神と仏、自然への祈り」には出展されたが、私が行った世田谷美術館では出展されなかったので2014年にお寺で窓越しに参拝した。今回の特別展では露出展示で間近に拝観することができその美しさに感動した。四臂の珍しい観音像で上半身に条帛を左斜めにかけ、両肩から天衣をかけその両端は両脇を垂下して腕前で二重にU字に垂れ、合掌する両脇から体側に垂下し、両腕に臂釧を刻んでいる。複雑な着衣でありながら美しくまとめられている平安時代の優作とあらためて思った。白洲正子によると「土地の言い伝えでは崇福寺(天智天皇創建)に祀られていた」古佛と書かれていたが、最近の研究だろうか比叡山延暦寺に近い伊香立の天台寺院にあったという記録があるという。しかし白洲正子のエッセイにあるように崇福寺の唯一の遺品のほうがロマンがあると思う。大津京のあった大津市でそんなことを考え次の展示に向かった。

2020年11月7日土曜日

清水寺の二十八部衆

 


31日の夕方12年ぶりに清水寺に参拝した。前回は夜間桜のライトアップで大勢の善男善女が参拝し、U案内人の手招きで十一面観音お前立を見たが、その両脇におわす二十八部衆を参拝したのを覚えていなかった。感染症流行で人が少なめだったが、世界中に知られる京都の観光地だけあってそれなりに混んでいた。仁王門で写真を撮りながら舞台で有名な本堂に向かう。8月の千日詣りには内々陣の特別拝観があるが、今回は紅葉し始めの木々が映える夕方ねらいでいったため内陣からライトに照らされた十一面観音お前立を拝観。両脇を見ると薄暗い中二十八部衆が居並んでいた。見仏記のみうらじゅん氏のコメントには「薄暗いお堂の中で仏の世界観はまるでパノラマのように・・・清水寺恐るべし」とのこと。私も同感した。メモリ基盤のようにぎっしり並び、濃密な意味を持った仏像が肩を寄せ合っている。その濃さそのものが密教ではないか。売店で清水寺の写真集を購入し御朱印をいただこうと思ったが若い女性ばかりの長蛇の列だったのであきらめた。奥ノ院で改装された本堂の大屋根の写真を撮り、早々下山し、今夜の宿に急いだ。

2020年11月2日月曜日

特別展「聖衆来迎寺と盛安寺」①


京都の宿を8時頃出てまず向かったのが大津歴史博物館だ。現在開催中の『特別展聖衆来迎寺と盛安寺』を鑑賞するためだ。盛安寺にはタクシーで南近江の仏像を巡りしていた頃、観音堂の外から鑑賞したことがあったが、聖衆来迎寺は寺の行事があり拝観を断られたが、今回も露出展示もあり二つのお寺の仏像をじっくりと見れるまたとない機会となった。大津歴史博物館開館30年記念の展覧会とのことで大河ドラマ明智光秀にあやかって博物館側の力の入れようがわかる。最初の展示が盛安寺で間近で露出展示でみる観音堂の十一面観音が素晴らしかった。聖衆来迎寺では大津歴史博物館に預託されている日光月光菩薩がよかった。見所満載でじっくり見て居たかった紫式部の寺や嵐山が待っていたので早々に駅に戻った。

戒光寺の釈迦如来


今年もいつもの通り京都に来ている。今年の非公開文化財特別公開は例年と違って9月から12月までになっており、この戒光寺も明日(11月1日)で公開が終わる予定だ。今年は元気よい学生の解説はなく協会の関係者による解説だった。協会によると戒光寺の釈迦如来は高さ5メートルあまりの鎌倉時代の仏像で運慶・湛慶親子の合作とのこと。截金(きりかね)を多用した湛慶らしい作品となっている。公開時には仏像の近くで拝観できる。朝日新聞の全国版にその戒光寺釈迦如来の写真が掲載され、新聞の切り抜きを握りしめて秋田からお寺を訪問した熱心な仏像ファンをみかけた。今回、仏像の足元で誰でも拝観できるようになっており、10メートルの光背のため屋根が盛り上がったいる様も見ることができ協会によると今回だからこそ体験できたことだとのこと。京都初日にして素晴らしい仏像にあえてよかった。明日は大津歴史博物館の展覧会を見て嵐山に向かう予定だ

2020年10月25日日曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」③(国分寺の不動明王)


 相模川流域のみほとけ展は昭和44年から平成までの長年にわたる仏像調査の結果発見された平安から鎌倉時代の仏像の展覧会で神奈川歴博だから実現できた展覧会だった。ここで紹介する国分寺不動明王も30センチ余りの小像でいかにも寺の厨子に隠されていた仏像という雰囲気だ。ガラスケースに納められて肉眼では分かりにくいが確かに玉眼を嵌入し、図録によると顔の筋肉の凹凸は立体的であり、引き締まった体つきは鎌倉時代の様式が感じられる。構造は割矧ぎ造りで内刳りは丁寧に深く彫られている。別冊太陽運慶に写真が掲載された京都北向山不動院不動明王に作風が似ており、奈良仏師康助が造像し海老名の国分寺に送られたものとも考えれられる。康助と言えば奈良仏師の後継を康慶に指名した話は有名で、このような写実的な表現を定朝風に取り入れたさきがけの仏師だ。運慶の素地はこのようなところから生まれたと考えさせられる不動明王だった。

2020年10月17日土曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」②龍峰寺千手観音

 

海老名市にある龍峰寺は毎年元旦と3月17日に御開帳があるが仏像クラブで日程があわず行けずじまいになっていた。神奈川県立歴史博物館で開催された「相模川流域のみほとけ」展で初めて展示されることとなり、U案内人と出かけた。神野学芸員が言っていた翻羽式衣文が裙(くん)に表されていた。清水式千手観音で像高は頭上の手まで含めると193センチと2メートル近い巨像だ。目には玉眼が嵌入されていてそのことから鎌倉時代に古像を模刻されたと評価されていた。構造はカヤ材を用いた一木造りで、伝説では坂上田村麻呂の協力した清水寺の千手観音と同時につくられ鎌倉時代に源頼朝によって発見されて堂宇に収められたとなっているが、あえて奈良時代と断言した神野学芸員の主張がよく理解できなかった。この件につては「ほとけの瀬谷さん」が「運慶と鎌倉仏像」ですんなり答えてくれた。「本像は国分寺ゆかりの古代の観音像を中世に清水式に改めた可能性がある」とのこと。短い文で端的に説明した瀬谷さんにさすが運慶の第一人者を感じた。県立の金沢文庫と歴博で多くの仏像展が開催されることを期待している。



2020年10月11日日曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」①


本日荒天の中、神奈川県立歴史博物館に特別展「相模川流域のみほとけ」を見にいった。一緒に行ったU案内人のとの事前打ち合わせで学芸員の講演が毎週土曜日にあり、その時間に合せていくこととなった。地下の講堂に行くとU案内人は先に来て展覧会を見てから来たとのこと。学芸員は神野ノートで「浄瑠璃寺十二神将」が運慶作と提唱した神野学芸員だった。U案内人の話では会場に山本勉先生も来ていたとのこと。講演では相模川流域が鎌倉以前は相模国の中心であったことや、今回多くの秘仏をお寺のご厚意でお出ましいただいたこと。また感染症収束祈願として薬師如来を図録表紙やポスターに使用したことなどがスライドで語られていた。神野学芸員らしいと思ったのが海老名の龍峰寺千手観音の製作年代を奈良時代から鎌倉時代と特定されていないのにあえて奈良時代との発言があったところだろうか。講演が終わり会場に入ると真っ先に展示されていたのが龍峰寺の千手観音だった典型的な清水寺式千手観音だ。2メートル近い巨像で見ごたえ十分であった。寒川の大日如来の宝冠が展示されていないことにU案内人がくやしがったり、茅ケ崎の善光寺式阿弥陀三尊で広島でみれなかったチャングムの誓いの梵篋印(ぼんきょういん)に興奮したりと十分に二人とも楽しめた内容だった。帰りに馬車道通りのスタバでこの展覧会の感想や来週U案内人が会津に行くというので会津ころり三観音の話で大いに盛り上がった二人であった。

2020年10月4日日曜日

特別展「聖地を訪ねて」⑤(清水寺の十一面観音)

 

音羽山清水寺は京都を代表する観光地で「清水の舞台」で知られる国宝も本堂は今年2月に檜皮屋根の葺き替え工事が今年2月に完了している。ここも西国三十三所のひとつでこの十一面観音が聖地を訪ね2008年にU案内人と春の桜ライトアップで訪ね、多くの参拝客でごった返している中、U案内人の手招きで本尊お前立を見た覚えがある。ここ清水寺は征夷大将軍坂上田村麻呂が平安時代に自邸を寄進したことにより創建されたが、平安初期の十一面観音菩薩が出展されていた。京博のキャラクタートラりんの「虎ブログ」によれば京博が淺湫研究員によると十一面観音は大きな顔の上に11の小さな顔をのせ正確には12面で東西南北に合せ、北東、北西、南東、南西の八方位と上下を合わせて10とのこと。全身をクスかとみられる一木造りで、当初は彩色があり、比較的穏やかな表情や浅い衣文は平安初期の特徴とのこと。私にはどこかユーモラスな顔つきに思えた。他の興味深い展示もあるので早々に次の展示に向かった。

2020年9月27日日曜日

広隆寺弥勒菩薩に再会する


祇園の親子丼屋を出た後、バスと地下鉄・嵐電を乗り継いで太秦の広隆寺についた。ここ広隆寺は聖徳太子七箇寺のひとつで、創建は600年代と京都で一番古いお寺だ。ここの半跏思惟の弥勒菩薩は有名で同じ半跏思惟の中宮寺如意輪観音より古い仏像だ。ここのお寺は渡来人の秦氏の支配地域にあたり、聖徳太子から下げ渡された仏像を祀るため寺を建立したとか、朝鮮半島新羅からの仏像を祀ったとも伝えられている。まるい台座に腰をおろし、左足を下げ右足をその上に組み、右ひじをつくようなこの形は、ほかの仏像と違って、いかにもゆったりと、リラックスした姿だ。瞑想にふけほそく見開いて、伏し目につくる眼はエラガンスに切れ長く、眉は大きくゆったりとした弧を描き、鼻すじは細く通って高く、唇は小さくまとめられその両端をきゅっと引き締め、頬の肉付きは柔らかくまるく、清楚で、頬に触れる指も細くしなやかなカーブを描き、静かに引き込まれるような神秘的な美しさがある。実は私もこの仏像に恋をした一人だが、今から12年前は霊宝館の窓はすべて閉まっていて照明の効果で魅力を感じたが、今回は感染症対策で入場も制限され、すべて窓が開け放たれた状態での拝観となった。夜に恋した美女が昼間会うとたいしたことなかったに近い状態だった。仏像との距離も以前より遠く感じられた。泣き弥勒やほかの見るべき仏像が多い広隆寺なので足早に見て予定を変更して嵐山に向かった。



 

2020年9月19日土曜日

福禅寺の不動明王

 温泉で朝風呂につかり美味しい朝食を食べたあと、宿からすぐ近くの福禅寺に向かった。ここ福禅寺はかつて朝鮮通信使を迎えていた迎賓館を併設していて、少し高い場所の上に建てられていた。横長の窓から真ん前の百貫島を眺めた。多宝塔が建っているのが見えた。その右が小さな皇后島で、周辺に反射する朝日がきらきらと伸びていた。早朝のことで寺男一人で何も案内がなかったが、部屋にぶら下げている漫画でこの寺の創建伝説を知ることとなった。平安時代に村上天皇の后、明子姫が出身の備後の国に寺を建ててもらうよう天皇にお願いし空也上人に命じて寺院の建立を命じた。空也上人が鞆の浦を訪れここに福禅寺を建立し千手観音を祀ったとのこと。千手観音は秘仏で見れなかったがお前立が建っていた。左右には二体の不動や地蔵半跏像、如意輪に愛染明王、矜羯羅童子と制吨迦童子二体にに役行者、青面金剛と盛りだくさんだ。中でも見ごたえがあったのが不動明王座像で像高50センチの小像だが、頭頂には蓮華を置き、左肩に弁髪を垂らし、両眼を見開き、歯をむき出しにして下唇を噛む。右手に剣を執り、左手で羂索を握り、条帛をつけ裳をつけ右足を上にして結跏趺坐する。寺男から福禅寺秘宝展のパンフレットを購入し、安国寺の阿弥陀三尊も気になるので早々に福禅寺を出て向かった。



2020年9月12日土曜日

迦楼羅様、再び

 京博で特別展を見た後、隣の三十三間堂に向かった。12年ぶりの訪問となったが、御朱印が書置きになったり一部変更はあったが千手千眼観音や二十八部衆は変わらず迎えてくれた。ここ三十三間堂は正式名称を蓮華王院といい、平安時代に後白河法皇の命により、平清盛が創建した。蓮華王とは千手観音の別称で鎌倉時代の火災後湛慶が本尊を製作した。しかし日本美術全集によると、二十八部衆は火災のおり救いだされた平安時代の仏像とのこと。今回も多くの二十八部衆を参拝したが、いずれも檜材の寄木造で玉眼を嵌入し彩色截金文様を施すが、やはり迦楼羅像が造形のインパクトも出来栄えもすばらしい。鳥の顔と羽を持ちながら笛を吹く姿勢に自然な動きが感じられ、人間らしい姿と異形の像を巧みに融合している。その姿が何を意味しているかは前回書いたが、それをしっているからこそ迦楼羅の造形にドラマを感じるのかもしれない。創建当初は蓮華王の千手観音を囲むようなフォーメーションで二十八部衆が置かれたとのこと。三十三間堂はよく仏像の配置を変えるので、今度は創建当初のフォーメーションを見てみたいものだ。その時はまた三十三間堂を訪れたいと思う。祇園のハモ丼を食べに三十三間堂をあとにした。

2020年9月5日土曜日

特別展「聖地を訪ねて」④六角堂如意輪観音

六角堂頂法寺は京都烏丸御池近くの繁華街にあり、昨年の秋に西国三十三ケ所
 草創1300年の月廻り開帳をやっていたので、夕方訪ねていったことがある。近くに華道の家元の会館があり多くの人でごった返しているなか、暗い本堂でこの如意輪観音に出会った。今年の夏改めて、京都博物館開催の特別展「聖地を訪ねて」で再会したが、昨年より厳かな表情をしていた。建礼門院徳子ゆかりの像で、安徳天皇安産祈願の仏像として製作されたとのこと。如意輪観音でよくみられる六躯で右足を立膝とする。表面に檀木に似せた色を施し、切金で斜格子などの文様を表している。厳かに見えたのは平家の最盛期から凋落し西海に沈むまでの哀しみを一新に背負っている仏像だからだろうか。他の展示も気になるので次の展示に向かった。

2020年8月29日土曜日

安国寺の阿弥陀三尊

 2泊目を鞆の浦に決めたのは、やはり「見仏記」の影響だった。お寺が集中してあるところで見仏記のみうらじゅん氏のイラストでは大きな一光三尊像が描かれていた。広島県のガイドブックで調べてみると古くから栄えた潮待ちの港で足利尊氏15代将軍足利義昭や幕末の七卿落ち・坂本龍馬など歴史あるところだった。温泉や魚介類を前日堪能したあと翌朝早朝に福禅寺と安国寺に向かう。安国寺は足利尊氏創建の寺で毛利家の軍師安国寺恵瓊が再興したお寺だ。シュロが高く大きく繁る慎ましやか境内に入り、鎌倉時代の唐様釈迦堂に向かうと解放されており中にお目当ての一光三尊像に出会った。鎌倉時代作で彩色はすでになく黒光りしていた。像高は170センチ舟形光背に至っては313センチの巨像だ。尾道の光明寺で厨子が閉まっていたので見れなかった一光三尊像だが、ここでも脇侍が修復中で縁がなかった。美し顔立ちの仏像で見仏記によると聖林寺十一面観音を思い出させるような遠い哀しみと慈悲を感じさせる、まことにレベルの高い阿弥陀如来だ。これから尾道に向かいしまなみ海道へ向かう予定があったのでホテルで手配してあるシャトルバスに乗るために近くの欧風亭というホテルに向かった。



2020年8月22日土曜日

大聖院の不動明王

タクシーで西広島駅に向かいJRで宮島口に向かった。宮島口桟橋に向かいフェリーで宮島に向かう。残念なのは有名な海上の鳥居は、保存修復中覆いがかかって見れなかったが、宮島桟橋にある観光協会に道順を聞いて大聖院に急いで向かう。大聖院は厳島神社の格式高い別当寺で、平清盛や高倉院ゆかりの寺院だ。お寺で受付で案内をいただくと参道途中にある宝物館に向かう。ガラス越しだが、「仁和寺と御室派のみほとか展」で見た不動明王をはじめとした寺宝が集まっている。不動明王は平安時代の作で、両眼を見開て、上歯をあらわにし、頭の上に蓮華を置き、髪を総髪として弁髪を垂らし七か所でくくる。一木造りならではの重みを保ちつつも、なだらかな体の曲面が風格と気品を表しているとのこと。勅願堂の波切不動も気になるので向かった。

2020年8月15日土曜日

特別展「聖地を訪ねて」③(圓教寺の如意輪観音)

 平成30年8月に草創1300年で沸く西国三十三ケ所のひとつ書写山圓教寺を訪ねたことがあるが、摩尼殿は月巡り開帳が終わっており閉まっていたため、中の如意輪観音を拝観することができなかった。京博開催の特別展「聖地を訪ねて」は西國三十三ケ所創設1300記念事業の総仕上げとして開催された。パンフでこの仏像の姿が写っており、京都行きの動機となった仏像だ。書写山圓教寺は性空上人によって平安時代創設されたが、966年に草庵を結んだことに始まるという。上人が桜の生木に如意輪観音を刻ませその像を祀ったのが摩尼殿であるとのこと。当初の像は室町時代に火災で焼失してしまい、鎌倉時代に制作した御前立の像高30センチあまりの本像を本尊として祀ったとのこと。桜で彫りだしたのは如意輪観音が座す補陀落山に咲く子白花が我が国では桜とみなされる。如意輪観音を写真で見たときは大きさがわからなかった、会場で見てその小ささに驚いた。しかしよく見ると鎌倉時代の仏像らしく壇色を施しただけの素地仕上げに切金が施されている。性空上人の原像に切金が施されており、それにかわる本尊となった以降に切金が施された可能性もあり、一般的でない手のかたちを含め興味がつきない。じっくり鑑賞して次の展示に向かった。

2020年8月10日月曜日

村上海賊の浪分観音

8日は宮島から船と電車を乗り継いで尾道に向かった。出発前にメールしてあった光明寺のご住職より拝観可能と返事が来たので坂道が多い道を向かった。本堂につくと法事中だったが電話するとお待ちしていましたと言われ玄関から宝物殿に向かった。中に入ると、千手観音が迎えてくれた。(別名浪分観音)お線香を差し上げてから奥様の説明を聞いた。この千手観音は向島の余崎城主の次男が船中の念持仏とした像高一メートル余りの平安時代の仏像だ。向島は因島村上の一族で奥様によると海賊というより海の治安を司ったとのこと。光背は後補だろうが村上海賊の帰依を受けて立派だった。奥様の話では檀家総代は村上海賊の末裔が勤めているとのこと。見仏記でみうらじゅん氏が「ダブル錫杖か」と叫んでいたが、錫杖と戟を持つスタイルだったが、表情には幼さがあり、その分だけ霊性のようなものを感じさせもした。他にも見仏記でプリティ観音とみうらじゅんが騒いでいた飛鳥時代の小金銅仏や韋駄天があった。奥様のはなしによると黒い聖観音菩薩は尾道で最古の仏像で、たしかに肩から細かいアクセサリーを下げており白鳳仏の特徴を表している。本堂にある善導、法然、西山といった上人像や二十五菩薩など盛りだくさんだった。残念なのがチャングムの誓い出て来ていた梵教印をした一光三尊像が見れなかっが見仏記の世界に十分に堪能して良かった。ひとつひとつ丁寧にご説明いただいた奥様にお礼を言って猛暑の中次のお寺に向かった。

耕三寺博物館の快慶仏

9日は鞆の浦の仏像を見たあとホテルのシャトルバスで福山に戻り、しまなみ海道に向かうため、尾道に向かった。しまなみ海道にある生口島にある耕三寺博物館の快慶仏を見るためだ。尾道に着くと気温40度近い猛暑で急いで高速フェリーに乗り込んで、生口島の瀬戸田港に向かった。瀬戸田港では無料シャトルバスが待っており簡単に耕三寺に着いた。不可思議な仏教建築群を写真に納め、隣の博物館に向かった。快慶の宝冠阿弥陀はもとは頼朝ゆかりの伊豆山神社にあり、阿弥陀三尊の脇持だけ仏像クラブで見に行ったことがある。奈良国博の山口学芸員によると快慶は醍醐寺弥勒菩薩造像時に信西一門とかかわっており信西の息子の弟子筋の依頼により京都でこの仏像を製作し送ったとのこと。本尊は快慶展でも見かけたが少し保存状態が悪いがヒノキ材の割矧造(わりはぎづくり)で彫眼とし、頭髪を除き漆箔を施すしっかりとした快慶を思わせる作風となっている。シャトルバスの時間も迫ってきたので急いで瀬戸田港に戻り尾道行き高速フェリーに乗り込んだ。


古保利薬師堂

8月7日今、広島に来ている。広島の仏像として思い浮かべたのが、古保利薬師堂の仏像群だった。新幹線で広島に着きお好み焼きで腹ごしらえをしてから北広島町の千代田にバスで向かった。古保利薬師堂にはホームページがありタクシーを推奨しているので指示にしたがって向かった。管理人の案内でコンクリートの収蔵庫に向かうと中央に薬師如来左右脇待や千手観音四天王と12体の仏が迎えてくれた。この地の教育委員会の話では、「この地の有力首長となった渡来人の子孫が平安時代に創建された古保利福光寺、つまりこれらの仏像の造像にも関わっている」とのこと。管理人の方の話では以前は光背がありラホツがあった薬師如来は、よく修復され平安時代のままに戻されていた。注目したのが千手観音だが脇手がほとんど取れた状態だが作りがしっかりしているため失われた手の存在が感じられる作りとなっている。急いで宮島まで向かわなければならないので、御朱印と写真集を購入してタクシーに乗り込んだ。

2020年8月2日日曜日

特別展 聖地を訪ねて②(松尾寺馬頭観音)

今回の展覧会で一番期待していたのはパンフレットに写真が載っている西国三十三所の秘仏のコーナーで1Fの奥の部屋に集まっている。そのなかで一番気に入ったのが京都松尾寺馬頭観音だ。パンフでは伝わらないが展示ケース越しに間近に見るとその迫力が伝わってくる。像高95センチだが、七観音のうち唯一忿怒の表情で表されており、こちらを睨み付ける様に一気に心を持ってかれた。京都に行った日にニコ生で聖地を訪ねて展の紹介放送がやっており翌日ア-カイブで見たが、出演した淺湫学芸員によると松尾寺は京都の日本海に面した場所にあり、海難事故から救ってくれる観音様として馬頭観音が信仰されていたとのこと。そういえば仁和寺と御室派の仏像展に出展された馬頭観音も福井の海に面した町の仏像だった。この仏像はお前立で江戸時代の製作だが、もとは本尊頭上に飾られ、それから推測すると本尊は半丈六であっただろうと図録には書かれている。失われた半丈六の馬頭観音を想像しながら次の展示に向かった。



2020年7月24日金曜日

特別展聖地を訪ねて①

本日、京都国立博物館に特別展聖地を訪ねてを見に京都に来ている。この展
覧会は今年4月に開催する予定だったがコロナ禍で7月に延期され開催の運びとなった。会場は新しくできた平成知新館で三階から一階までを展示に使い西国三十三ヵ所の寺院の秘宝秘仏が見れる仕掛けとなっている。三階で出会ったのが、岡寺の菩薩半跏像だ。小さくあどけない雰囲気が人気で、展覧会図録を入れるトートパックにデザインされている。二階は秘宝のコーナーで那智山経塚仏教遺品が興味深かった。仏像は一階に集中している。兵庫園教寺の如意輪観音の小ささに驚いたり建礼門院徳子念持仏の京都六角堂如意輪観音はお寺で見たより厳かな雰囲気だったり、京都松尾寺の馬頭観音の迫力に圧倒されたり西国三十三ヵ所の秘仏ワールドに酔いしれた。詳しくは後日アップするが、思いきって行って良かった。隣の三十三間堂の仏像も気になるのでグッズ購入後向かった。

2020年7月19日日曜日

快慶展⑮金剛峯寺の広目天

高野山金剛峰寺にある四天王は鎌倉時代再興された、四丈(約12メートル)
の東大寺大仏殿四天王像の雛形として披露されたことが藤原定家の「明月記」からわかっている。東大寺大仏殿はその後戦国時代に戦火に会い現存しないが、今回出展の広目天は出来栄えもよく快慶が担当した東大寺広目天を彷彿させる仏像だ。奈良博の岩田学芸員の図録掲載の論文によると「四天王を見ると、四躯ともに顔をかなり極端に下に向け、視線を足もと近くまで落としていることがわかる。これは尋常な表現ではないが、おそらくは四丈に達する巨像であれば、このような顔と視線の向きでなければ、観者からは像の表情をうかがうことができないであろう。」これは目から鱗の話で間接的に東大寺四天王の雛形であることを証明している。快慶展前に奈良博で修理完成しておりピカピカまるで新品のように光輝いていたのが印象的だった。四躯とも修理が完了しているのでいつか機会があれば再度高野山を訪れたいと思った。


2020年7月11日土曜日

特別展「毘沙門天」⑫鞍馬寺の毘沙門天三尊像

今回の毘沙門天展の目玉がこの国宝鞍馬寺の毘沙門天三尊像だ。鞍馬寺から
は約半世紀ぶりの出陳となると岩田研究員のコラムに書いてあったが、博物館側の高揚が伺える。像高175センチの毘沙門天の最大の特徴は普通は宝塔を持つ左手を額にかざし何かを睨み付けるような表情で遠くを眺める姿が実に頼もしい。この姿が製作当初のものではなくのちに後補されたものとのこと。現状の腕を取り付けた時点で平安京の鎮護という護法神として巨大な役割を公言したことになる。脇侍は妻子である吉祥天・善膩師童子でともに平安時代作の国宝で、鞍馬寺像が日本最古の三尊像だ。吉祥天はややふくよかな体つきと穏やかな表情が特徴で、すべてを包み込むような優しさを感じる。善膩師童子はあどけないながら賢げな表情を見せる。義経伝説に彩られた鞍馬の山寺の厳しさ想像しながら、この親子の仏像をみるといいだろう。

2020年7月4日土曜日

快慶展⑭(浄土寺の阿弥陀如来)

この浄土寺の阿弥陀如来は奈良国立博物館「なら仏像館」に寄託されており
一度見たことがあったが、快慶展の劇的な照明に照らされた阿弥陀如来は金色に輝き神々しいと感じられしばらく見入ったことをよく覚えている。重源に「安阿弥陀」の称号を賜った快慶は、播磨別所である浄土寺創建のおり有名な像高5メートルの現存する阿弥陀三尊を作っているがこの阿弥陀如来も製作している。見仏記によると阿弥陀如来は金というより、独特な黄色を感じさせる鎌倉時代作とのこと。それは赤い下地に金箔をはったためだ。快慶マジックにより金の輝きに暖かみを付与する効果をねらったものであろうか。どこか誕生仏を思わせる上半身裸体の仏像である。この裸体の意味は布製の法会を着せていわゆる「お練り供養」を昭和初期まで行っていたためだ。会場にはそのとき使用した快慶作菩薩面も展示されていた。みうらじゅん氏によると「腰があり得ないほど細いね。慶派がわざとプロポーションをリアルじゃなくしている」とのこと。光背や化仏の配置も快慶らしさを感じ私のお気に入りの仏像だ。ずっと見ていたいが、いましか見れない名仏が目白押しなので次の展示に向かった。

2020年6月27日土曜日

覚園寺の薬師三尊

本日は仏像クラブで覚園寺を訪れた。前回下見でU案内人と訪れたときより
蒸し暑かったがあじさいはよく手入れが行き届いているようで、きれいに咲き誇ってていた。茅葺の本堂に向かうと先についたの善男善女に例の年配のお坊さんが説明している最中だった。見上げると薬師如来が穏やかに我々を迎えてくれた。ここ覚園寺は2代執権北条泰時の創建した大倉薬師堂を9代執権北条貞時が二度と元寇なきようとの祈りを込めて寺に改めたとのこと。その際運慶が造った再興像として慶派が製作したが、また被災し尊氏の時代に本堂と薬師如来の修復、十二神将を再興した。本尊は頭部が鎌倉時代、胴体が室町時代と覚園寺の歴史が刻まれた造りとなっている。前回訪れたときはU案内人と話したのが頭部を製作した慶派の仏師についてだった。覚園寺は13世紀創建から、私は近くの金沢街道にある明王院不動明王の作者肥後定慶を押したが確証はない。きりりとしているが優しいまなざしの薬師如来を見つめながら、境内を散策し、小町通の素材屋でアジの御造りをいただきながら大いに語った仏像クラブの面々だった。


2020年6月21日日曜日

覚園寺十二神将

覚園寺十二神将は運慶作十二神将が大倉薬師堂被災し、二代目として院派の
朝祐が室町時代に制作したものだ。茅葺の薬師堂に足利尊氏の銘記が残るように足利将軍家や鎌倉公方と密接な関係があったことが、伺える。像高190センチ余りの仏像が多いなかやや小ぶりな戌神(いぬがみ)は製作時期が違うという説がある。大倉薬師堂の創建者北条義時にまつわる伝説について年配のお坊さんよりより詳しい話を聞くことができた。鎌倉三代将軍実朝が勅使を鶴ヶ岡八幡宮に迎える際、刀持ちの役をする予定だった北条義時が戌神の夢のお告げを見たが、気にせづ八幡社に向かうおり犬が目の前にあらわれずっと見ていたそうだ。その後気分がすぐれず変わってもらい危うく実朝暗殺の難を逃れたとのこと。覚園寺の戌神は髪をまいたヘアースタイルが鎌倉国宝館の十二神将に似ており初代の復興像と考えられる。じっくりと十二神将をU案内人とみて、あじさいを鑑賞しながらお寺をあとにした。

2020年6月13日土曜日

覚園寺のエンジェル

緊急事態も解除され同じ県内の鎌倉覚園寺にU案内人と出かけた。覚園寺は
仏像クラブの原点でU案内人と初めて訪れたお寺だ。普段は団体行動で拝観だが、コロナ禍のこの時期は10時から16時まで本堂の拝観を自分のペースでできることをフェースブックで掲載されたのでU案内人と相談して訪問した。茅葺の本堂に入ると薬師三尊と十二神将が迎えてくれた。U案内人は何か霊的なものを感じたらしく感じ入った雰囲気であった。しばらくするとお寺の年配のお坊さんが我々を気遣ってきていただき、我々の質問に答える形式で説明をしていただいた。私が質問したのは月光菩薩についている迦陵頻伽(かりょうびんが)が日光菩薩についていない点だった。迦陵頻伽は極楽浄土に棲む鳥で、顔は美女のよう、美しい声で鳴くといわれている。お坊さんによるとはめ込み式になっており、関東大震災のおりにはずれ紛失したとのこと。平成30年三井記念美術館でアメリカ人所蔵の迦陵頻伽をお坊さんも拝観されたそうで、覚園寺の迦陵頻伽ではないと感じたと話しておられた。私も仏の瀬谷さんのいう説には疑問があり今回よく見ると顔が違うと感じた。この覚園寺は知る人ぞ知るお寺だが2022年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」と決定し覚園寺の前の大倉薬師堂を創建した北条義時が主人公で覚園寺もロケ地に決定したことで日本全国から多くの人が参拝にくることになるだろう。U案内人と二人で思い切って鎌倉に来てよかったと思った。昼食のレストランで海鮮丼をほおばりながら鎌倉について大いに語った。

2020年6月7日日曜日

大智寺の文殊菩薩

平成28年の秋に京都を訪れた際、木津川市秘宝・秘仏特別開帳を見に南山城
に出かけた。JR木津駅から徒歩10分で大智寺につき係の女性に案内を頼み、文殊菩薩を拝観した。像高66センチの小さな鎌倉の文殊菩薩を拝観したが、快慶の文殊菩薩に比べて見劣りがしてさほど印象が残らなかった。最近になって再開した奈良国立博物館で特別展示が行われるとのニュースが入ってきた。また奈良国博の山口氏お得意のCTスキャン調査により胎内には厨子入り文殊菩薩像や巻物状の品などの胎内納入品が見つかったとのこと。令和元年に本堂改修に伴い、木津川市に近い奈良国立博物館に預けていたため発見されたようだ。奈良国立博物館の冊子の写真を見ると、重文の仏像のため面目躍如されており、見違えるようだ。奈良国博によると鎌倉時代に木津川にかかった橋の御衣木(みそぎ)で製作し大智寺に供養された。左手に蓮花を持ち、右手に宝剣を執り、左足を垂下する姿や外套衣は安部文殊院文殊菩薩に近いとのこと。いつか奈良に行けるようになったらなら仏像館で見てみたいと思った。

2020年5月31日日曜日

元興寺の南無太子像

元興寺にはみるべき仏像が多い。元興寺の南無太子像もそのひとつだ。見仏
記によると「きりりと利発な表情」をしているとのこと。誕生仏好きなみうらじゅん氏に「太子像は飢えた虎に餌をやるようなもの」と書かれていたがなぜこの仏像と誕生仏が結びつくのだろうか。単にベイビーを思い起こさせるだけではなくちゃんと意味がある。そこを仏の瀬谷さんは聖徳太子信仰展で解説してくれる。「二歳像は南無太子像とも呼ばれ、東に向かって南無仏と唱えたところ、手に仏舎利が顕れた様子を造形化しています。仏教の原点回帰において釈迦の誕生仏とともに、仏舎利も重要視され、舎利信仰が生まれました。二歳像はそれを取り込んだもので、鎌倉後期に数多く造られています。」とのこと。一度衰退しかかった元興寺を復興させたのが西大寺の叡尊が開いた真言律宗でここに南無太子像があるのは当然といえる。そんなことを考えながら元興寺をあとにした。

2020年5月27日水曜日

特別展「毘沙門天」⑪(観世音寺兜跋毘沙門天)

奈良博特別展「毘沙門天」の最後のコーナーは「兜跋毘沙門天」だ。東寺の
兜跋毘沙門天から東北岩手の三熊野神社の尼藍婆・毘藍婆まで一同に会して拝観することができた。中でも造形的に優れているのが九州大宰府観世音寺の兜跋毘沙門天だ。この仏像に会うのは3度目で過去、観世音寺には2回訪れたことがあり、九州仏のコーナーで一度紹介している。今回は展覧会場で間近に鑑賞できた。奈良博の図録によると東寺像が西域風なのに対し唐風とのこと。クスの一材から右腕を除く全身と地天・二鬼を彫りだす一木造りで、頭部は小さく作り、胸の下で胴を絞る独特のプロポーションを持ち、下半身の重量感が特に強調されている。これは聖林寺十一面観音にみられる釈迦のヨガと呼ばれるアナバーナ・サチを表すのだろう。頭には二重連珠文帯の天冠台を着けているいるのが注目される。地天女は大宰府の鬼門に位置する竃門山の祭神、玉依姫(たまよりひめ)か神功皇后を表している。中世以前にこの仏像がどこにあったか不明だがU案内人に買ってきてもらった「九州仏展」図録には最澄も訪れた竃門山が最も相応しいと書かれている。私もそう思う。素晴らしい造形に見ほれながら会場を後にした。


2020年5月23日土曜日

タイ・スコータイのアチャナ仏

平成10年5月の猛暑の中、タイ・スコータイを訪問した。「見仏記」海外篇
で紹介されたワット・シーチュムに向かった。ここには高さ15メートルの巨大な壁に囲まれたアチャナ仏が有名だ。ツアー一行が向かうと人がすれ違えるくらいの幅の切れ目があり、そこから巨大な仏像が垣間見える。アチャナ仏と呼ばれ尊者という意味で仏陀ではないらしい。仏像は降魔印で、なんと周囲の壁から頭頂部がはみ出している。「見仏記」では顔が黒かった写真があったが、私が見たときは白く塗られていた。この仏像は何回か塗り替えられるみたいで、平成29年7月開催の「タイ展」では東博平成館の階段に大きなアチャナ仏の写真があり、螺髪と降魔印の手の色が金に塗り替えられていた。仏像の顔は東洋的顔に西洋的鼻がついていた。これは「ミズノ先生の仏像のみかた」によるとコーカソイドとモンゴロイドがごちゃ混ぜになった顔とのこと。この仏像がより大きく感じるのは、下半身が大きくつくられており、足もでかければ膝に下した右手もでかい。それがみごとな曲線をえがかれて作られており、信じられないくらい滑らかな形をしている。今回のタイ旅行で一番に印象に残った仏像だった。

2020年5月16日土曜日

特別展「毘沙門天」⑩(清凉寺の毘沙門天座像)

平成23年に清凉寺の兜跋毘沙門天を拝観したが、これは珍しい座像の毘沙門
天だ。「月刊大和路ならら」によると体を上下に一度材を切り離す胴切りという技法を採用し、かつ体の部分は基本的に前後2材ながら間に補材を挟んで胴部の奥行きを増すなどの複雑な工程を経ているそうだ。平成24年に訪れた京都長講堂の院派院尊作脇侍の天冠台に似ており、院派作とも考えられる。また仁和寺に残された図像には兜跋毘沙門天のように地天女と尼藍婆・毘藍婆が描かれており現在の岩座に座っていない説もある。また海老籠手は西域風だが唐風の鎧をつける点など本像と図像が一致するとのこと。また両胸に雄しべを伴う丸い花飾りをつけるのも珍しい。顔は赤く鎧と宝棒・宝珠は金色に塗られているが、中世における後補だ。私は顔つきや花飾りから奈良仏師ではなく院尊ではないかと推測するが、制作仏師や地天女など謎多き平安仏だった。

2020年5月8日金曜日

特別展「毘沙門天」⑨(東大寺勝敵毘沙門天)

2月に行った「毘沙門天」展で毘沙門天三尊像の次のコーナーが双身毘沙門天
だ。二体の毘沙門天が背中を合わせて立つ特異な仏像だ。その中で私が興味をひいたのが東大寺に残された「勝敵(しょうじゃく)毘沙門天」だ。鎌倉時代の作で像高37センチの小像ながらその迫力に目をみはった。2体の武装天部形が背を接し、各1体の腹ばいになった邪鬼の上に立つ。一方は宝塔と法棒を、もう一方は羂索と戟を執ったとみられる。注目すべきは口許から長い牙が伸び、2体のそれが連続している。13世紀前半の慶派仏師の作と思われる。銘記がないので断定できないが、記録によると後鳥羽上皇が起こした承久の乱の年(1221年)の五月に清水寺の僧が勝敵毘沙門天を作り供養の法会を行っている。その法会に後鳥羽院の近臣も列席しており、その願意に幕府調伏があったと思われると図録では記載してあった。よく調べてみるとそのような単純なことではなさそうだ。乱がおこる三年前に暗殺された源実朝は早く父頼朝をなくし右大臣の官位を賜った後鳥羽上皇を父のように慕っていたとの学説がある。そのため実朝暗殺まで幕府と朝廷の関係は良好で、北条義時と内裏再建で対立したのち義時を除き幕府を意のままに操ろうとしたのではないか。結果は御家人大江広元の進言で幕府に攻撃され配流の身となったが、そうするとこの仏像は北条義時調伏のため造られたこととなる。歴史の面白さに思いを馳せながら、仏像鑑賞に浸った。


2020年5月1日金曜日

東大寺法華堂の梵天

2月に東大寺戒壇堂に参拝したのち寒風の中、法華堂に向かったがいつのまにか真冬の日差しがあたり暖かく感じ御堂への道を急いだ。中に入ると像高4メートルを超える大きな仏像群が迎えてくれた。私は以前お寺の関係者から説明を聞いたとき腰かけた、奥行き深い畳の敷いた段に腰かけ仏像群を見上げていた。中央に八臂の、いかにも強い法力に満ちて見える不空羂索観音立像。その左右に梵天と帝釈天。目の前には金剛力士が二体と四方に四天王の都合六体が警護をする。見えている像はすべて乾漆、奈良時代の傑作だ。この仏像群の中ではやはり目立つのが4メートルの梵天と帝釈天だ。中でも武装した梵天に目が行った。本尊の不空羂索観音(362センチ)より40センチも背が高くなっている。前から思っていたが、同じ堂内に本尊より大きい仏像があるのは少し不自然だ。不自然さはそれだけでなくこの法華堂のような組み合わせは他にない。梵天が左手に経巻を持ち、大きな中国風の衣の下に甲冑を着ているようにつくられているが、甲冑がないのが梵天という通説に反する。私が思うには遣唐使が盛んなこの時代は中国からダイレクトに新しい仏像の作風が持ち込まれ、その後本場中国では消滅した配置がここ奈良で時が止まったように1300年前の仏像が存在しているからだろう。そんなことを考えながら法華堂をあとにした。

2020年4月27日月曜日

特別展「毘沙門天」⑧(岩滝山毘沙門堂の毘沙門天)

展覧会に行ったときには、必ず展示解説を見ることにしているが、2月に行っ
た毘沙門天展で実際の作品を鑑賞して、展示解説を読むことによってその魅力に気付くことができた作品に出会った。それが岐阜の岩滝山毘沙門堂の毘沙門天で像高150センチ余りの鎌倉時代の作品だ。わざわざ本屋で取り寄せ購入した「月刊大和路ならら」にもパンフにも写真が掲載されておらず、「奈良国立博物館だより」に写真のみ掲載されていたが、会場で展示解説を読むと彩色から奈良仏師ないし慶派系統の仏師の手になることが暗示されていると書かれている。足元の邪鬼は後補だが、三個の火焔光背は当初のものだ。腹帯に雷文繋ぎ文を表すことや、白ではなく赤い腹帯をまくのも例がなくこの像の魅力だ。冑には鋲状の突起を表し、正面に龍の顔を表すが、その頭上の二つの角がさながらクワガタのように見える。快慶得意の截金を採用していないことからも運慶・快慶の影響を受けない兄弟弟子の作品ではないか。随所に個性的な表現を取り入れた魅力的な仏像だった。

2020年4月20日月曜日

東大寺戒壇堂の広目天

2月に元興寺に拝観したあと、少し遠いが歩いて東大寺拝観に向かった。東大寺南大門をくぐり、戒壇堂を11年ぶりに拝観した。入口で拝観料を払うと渡されたパンフの表紙が広目天になっていた。前回訪れたときは入江泰吉記念館で広目天の怖い目をした大きな写真を見たあと向かったため恐れを感じたが、小振りの塑像で頑張って守っている姿に頼もしさを感じた。薄暗くてよく分からなかったが、広目天の肩には獣の口があり、革製を思わせる胸当てもバランスよく配置されていた天平甲制だ。ミズノ先生の「仏像のみかた」に書かれていたが、日本の甲はワンピース型でへそや急所を守る部分を一枚の板にしているためデザインとしては単純でかっこいい。この広目天も帯を締めるだけになっており実戦で暴れれば板が落ちてへそや急所をつかれてやられてしまうとのこと。4体の仏像しかない戒壇堂だがいろいろ見どころが多く長いしたかったが、寒さが身に染みるので法華堂に向かった。


2020年4月17日金曜日

特別展「毘沙門天」⑦石清水八幡宮の毘沙門天

明治の神仏分離・廃仏毀釈以前は普通に神社に五重塔や多宝塔が残されてい
たし、内部には大日如来や四天王が祀られていた。鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮にも五重塔が以前あり仏像があったとの記録がある。この毘沙門天は京都八幡市にある石清水八幡宮の多宝塔にあったということが像とともに伝来した厨子扉に記された墨書により知られる。右ひじを強く張ったポーズに特色があり、静岡願成就院の毘沙門天を思わせる運慶風だ。彩色に金泥塗を多用するところは快慶風だが、截金は補助的使用にとどまる。文様は幾何学文よりも雲龍・鳳凰・花葉などのモチーフが主となる特徴がある。顔は男性的で忿怒の相で玉眼を嵌入しているおり表情に生々しさがあり、金銅製の火焔の光背もすばらしい。運慶・快慶両方に影響を受けながらも個性を持った鎌倉時代半ば頃の慶派仏師の作であろう。クリアファイルを購入して奈良博物館をあとにした。


2020年4月15日水曜日

元興寺の阿弥陀如来

2月に訪問した元興寺の阿弥陀如来は平安時代10世紀の作で室町時代に焼失した多宝塔から本堂に移された記録がある。元興寺の仏像と言えば八世紀の薬師如来が有名だが、こちらは見仏記によると幼い風貌の阿弥陀如来とのこと。本像は半丈六の座像でケヤキ材の一木造りで衣の襞や身体のしわなど、一部に塑土を併用してふくらみをだし、金箔を押されている。堂々として体躯の柔らかい表情を持つ仏像だ。袈裟の着方は変則的な偏袒右肩(へんだんうけん)でミズノ先生によると中国河西回廊で流行った仏像の様式で「涼州式偏袒右肩」といわれている。寒い地域で流行った仏像の着衣形式で肌の露出を避ける点で日本人に受け入れ易かったのだろう。印相はいわゆる来迎印で親指と人差し指を接し、右手を上にあげて、左手を下げている。ゆったりとした時間でゆっくり鑑賞できて満足して元興寺をあとにした。


2020年4月13日月曜日

特別展「毘沙門天」⑥(高尾地蔵堂毘沙門天)

私が特別展鑑賞前に行っているのだが、博物館発行の「博物館ニュース・博物館だより」などの刊行物をウェブで確認してからでかけている。毘沙門天展では「奈良国立博物館だより112号」に上席研究員の岩田氏のコラムがあり、毘沙門天への思い入れがよくわかって読み応えがあった。それによると毘沙門天像を博物館への収蔵に携わる機会を得たとのこと。奈良博所蔵の毘沙門天像は石清水八幡宮多宝塔にあった毘沙門天が廃仏毀釈で市中に流れたものを奈良博で購入したり、四国愛媛の仏像調査に従事し如法寺の奈良時代にさかのぼる毘沙門天に出会った思い出は鮮烈だと書かれている。中でも思い入れが強いと感じたのが、高尾地蔵堂毘沙門天で岩田氏が「甲賀市史」の執筆に関わったとき鈴鹿山麓の集落に守られていた高尾地蔵堂毘沙門天との出会いがあったとのこと。手先などを失い、後世に施された彩色が浮き上がり、剥落が進むばかりか、足元の邪鬼はバラバラになっていたと書かれている。奈良博に寄託され往時の見事な姿が甦った。院政期に京都で活躍した円派又は院派仏師の作とのこと。忿怒の相が誇張されていない作風のため余り印象が強くなかったが、今この姿でわれわれの目を楽しませてくれることが奇跡だと思った。昨年も奈良博で購入した毘沙門天がありまだまだ名作の毘沙門天が日本中に埋もれていると感じた。

2020年4月11日土曜日

特別展「出雲と大和」⑤(鰐淵寺の観音菩薩)

展覧会に出かける前にその特別展に関する書籍やブログに目を通してから会
場に向かうことにしているが、その際多い役に立つのが東博公式サイトの1089ブログだ。今回の出雲と大和展でも目を通してから出かけたのだが仏像に関するブログは出かけたあとアップされていた。皿井学芸員によると出雲の鰐淵寺の観音菩薩は飛鳥時代後期の作で出雲地方の有力氏族が両親のためにつくったことが銘文からはっきりわかるとのこと。図録にはあっさりと記載された銘文の文字が書かれておりさっぱりわからなかったが、このような心温まる古代の出雲人のメッセージが書かれたいたことを事前に知っておけば仏像のみかたも変わってより深く楽しめたであろう。出雲地方はスサノオノミコトや大国主命の神話からもわかるように大和をしのぐ王権が存在していたことがわかるが、このように両親への愛情を表現する心温まる人もいたのかと深く感銘した。現在開催できない展覧会についてもネットワークを駆使してブログ更新いただきたいものだ。


2020年4月4日土曜日

特別展「毘沙門天」⑤(ロサンゼルスの毘沙門天三尊像)

今度の展覧会で一番楽しみにしていたのがロサンゼルスの美術館から来た毘
沙門天三尊像だ。元出雲の岩屋寺にあった仏像でファイバースコープでの胎内調査によると吉祥天と善膩師童子の梵字があり、文化庁保存の古写真によると確かに三尊だったようだ。毘沙門天はギリシャ神話のヘラクレスのような前面に龍をあわわした冑を被り、肩喰には怪獣の面、オールバックの髪型の帯喰の鬼面などがあり見ていて飽きない。鎧にも唐草風の植物文様や花弁で表され装飾性に優れた仏像だ。口は大きくあけて舌をのぞかせている点は毘沙門天としては珍しいと図録に書いてあった。確かに今までみた毘沙門天は仏頂面をして口を真一文字に結んでいる。鎌倉時代に院派の院快が修理を行い色鮮やかな朱や緑青といういわゆる紺丹緑紫で彩られてとても印象的な仏像だ。この仏像に出会えてわざわざ奈良まで来たかいがあったと思った。

2020年3月28日土曜日

特別展「毘沙門天」④京都弘源寺の毘沙門天

会社の帰りにJR東海の品川駅に隣接するJR東海ツアーズで京都のパンフ
レットをもらうのを日課にしているが、春と秋に必ずあるのが京都嵯峨野天龍寺塔中の弘源寺の毘沙門天御開帳のパンフレットだ。今年の春も予定通り5月17日まで行われるが、そのパンフレットの写真の毘沙門天があまりにも写りが悪いのでお寺に拝観に行ってなかった。今回の毘沙門天展で初めてお会いしたが、その素晴らしい動きの表現に引き込まれた。図録によると腰を思いきり右にひねり、上半身は大きく左に傾き、袖が上に翻る。激しい動きを示すが、左足先を強く左方向へ伸ばし、しっかりと邪鬼を踏みしめるため、下半身に盤石の安定感がある。冑をかぶるが耳前からは焔髪がこれも勢いよく翻る。足ほぞに江戸時代の修理銘が記載されており運慶の多聞天のある東福寺の四天王の一具であると記載されているが多聞天が二つになり、鎌倉時代の四天王の一具が平安時代の毘沙門天というのもおかしくなる。比叡山延暦寺の塔頭寺院にあったという話もあり室町時代創建の弘源寺に来る以前にどこにあったか不明な仏像だ。いつか弘源寺を訪ねて拝観したいと思った。

2020年3月21日土曜日

10年ぶりに再会した元興寺如意輪観音

十輪院拝観後向かったのが南都七大寺の元興寺。元興寺は日本初の本格的
寺院法興寺が起源で平城京に移された寺院だ。曼荼羅が本尊の本堂の拝観をサッと済ませて宝物館に向かった。平安時代の阿弥陀如来を拝観してお目当ての如意輪観音に向かった。実は10年前の三井記念美術館で開催された「奈良の古寺と仏像展」で初めてこの如意輪観音に出会い魅力に引き込まれた。その後数々の如意輪観音と出会うため鎌倉来迎寺・飛鳥橘寺・室生寺と巡ってきた。このブログにもいつか元興寺を訪ねて再会したいと書いていた。如意輪観音は鎌倉時代の作で質の良いヒノキ材を用いた寄木造で玉眼を嵌入(かんにゅう)頭髪や唇に彩色をするほかは素地仕上げの壇像風の仏像だ。髻には丁寧に髪筋を刻み、俯きかげんに少し下を向けた顔には、切れ長の目やくっきりと引き締まった鼻や口元が気品漂う表情を醸し出している。如意宝珠や輪法などのそれぞれ持物をもった複雑な腕の動きと体のバランスも良く、鎌倉仏らしい端正さと調和美をもった秀作だ。10年ぶりの思いとげて満足して奈良をあとにした。

2020年3月20日金曜日

特別展「毘沙門天」③(華厳寺の毘沙門天)

2月中に毘沙門天展に行こうと思ったきっかけはこの毘沙門天が3月1日まで
の展示だったからだ。結果的には臨時休館のあおりで会期を待たずに閉館してしまったので、華厳寺毘沙門天のお導きだったと思う。西国33ケ所巡礼の結願のお寺である華厳寺に参拝したことがあり岐阜県の山の中にあり、みるべき仏像はないのではと思っていたが、会場の参加者の中にはお寺で毘沙門天を拝観した方もいたようだ。華厳寺毘沙門天は像高160センチを超える堂々した体つきで榧と思われる一木造りで平安時代の作。その像高からか会場でいちにを争う強烈な印象の仏像だ。連なった眉の下に睨み付けるような眼を開き、口元をへの字に曲げた意志的な表情を見せる。刀や矢から首筋を守る錣(しろ)のつきかたや鎧の胸当ての表現がしなやかである。鎧の下の衣装はまるで翻羽式衣文を表すようで作者の表現の巧みさに舌をまいた。御線香の煙で黒くなっているが、彩色が塗られていたとのこと。この仏像の素晴らしさに立ちすくんでしまったがもっと多くのひととのご縁ができること祈りつつ会場をあとにした。