2021年5月30日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑳光傅寺の地蔵菩薩

 

山本館長の講演の講演は終盤になるほど盛り上がり、最後の「中世仏の展開」に至った。鎌倉大仏が鋳造され、金沢北条氏により称名寺が創建された鎌倉幕府滅亡、南北朝動乱の時代、中央仏師はすでに鎌倉幕府の庇護を受けた慶派には目立った人物はなく、室町幕府に重用された院派・円派が活躍したとのこと。一方鎌倉では東国運慶派と呼ばれる仏師集団が活躍し東国善派・東国院派と造像を競っていたという。鎌倉地方様式の特徴は中央よりも宋・元風(中国風)への傾斜が顕著で、東慶寺観音菩薩に見られる遊戯座像や建長寺地蔵菩薩に見られる法衣垂下(ほうえすいか)が代表的な形式とのこと。代表的な表面装飾は浄智寺韋駄天に見られる土紋、共通する構造技法は浅い上げ底式内刳りを挙げている。ここで紹介する光傅寺の地蔵菩薩は東国運慶派の作品で大仏師が康増で小仏師に増慶らの名が体部の墨書に書かれている。山本館長の解説では堅実で素朴な造形がこの一派の特徴とのこと。とはいえ円応寺初江王を造った幸有も東国運慶派の一人であるので、落ち着いたら今度鎌倉国宝館に行ったときにそのような見方で初江王を見てみたいと思う。

2021年5月23日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑲永勝寺阿弥陀如来

 

山本館長の講演で太寧寺と同じく善光寺式阿弥陀と清凉寺式釈迦の合体仏として紹介されていたのが、永勝寺の阿弥陀如来だ。この仏像は善光寺阿弥陀を親鸞が感得し作ったという伝承がある。この仏像の特徴は顔を覆う僧形の面があることで、戦国時代お寺の前を馬上で通ったものが落馬し、無礼は振る舞いで本尊に向かえば倒れることがしばしばおこったため面をかぶせたとのこと。みほとけちゃんねるで出演者のイラストレーター田中ひろみ氏が言っていたが千葉の安房の真野寺にも同じような千手観音があると指摘していたが、千葉市美術館で2013年に開催された仏像半島展で私も現物をみたがこちらはお面がかぶったままの展示であったためより印象が強かった。頭髪は螺髪がない平彫りとし、肉髻珠・白毫相をあらわす如来像で、背部から右肩・右腕をおおって袖状に垂れる覆肩衣(ふげんえ)のうえに衲衣を偏段右肩に着け、下半身に裙を着ける鎌倉時代のヒノキの仏像だ。「ミズノ先生の仏像のみかた」によれば覆肩衣はもともと尼が胸を隠すためにきたものという。それが仏像にとりいれられるとは知れば知るほど面白い仏像の世界だ。

2021年5月16日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑱(太寧寺薬師如来)


 仏の瀬谷さんの本で紹介された太寧寺薬師如来にずっと会いたかったがこの「横浜の仏像」展で奇しくも実現した。山本館長の講演では善光寺式阿弥陀如来と清凉寺式釈迦如来の合体応用仏として当時の流行が横浜にも来ていた。ほとけの瀬谷さんの図録解説によると「へそ薬師」と呼ばれ村娘より糸玉の「くりへそ」を購入した僧が薬師如来だったという伝説がある。鎌倉時代中期の仏像で頭部は髪を同心円状に表す清凉寺式で、袈裟を両肩にかけて通肩善光寺式阿弥陀の合体仏だ。いっぽう印相は手を腕前に掲げる薬師如来特有のものとなっている。この仏像製作の意図についても瀬谷さんの解説によると清凉寺式と善光寺式の生身仏思想により生身薬師の造像を意図して造立されたという。山本館長の講演にもどると太寧寺薬師如来のひみつと題し両目の裏にはめ込んだ板の表側に天平写経の「目」字紙片を貼っていることも実物の仏像の裏側の写真のスライドで紹介された。講演後半になっても山本節は勢いをまして圧倒されながら講演を聞き入っていた。

2021年5月7日金曜日

特別展「横浜の仏像」⑰(真福寺釈迦如来)

山本館長の講演では清凉寺式釈迦如来の説明から自然に真福寺釈迦如来の解説となった。清凉寺式釈迦如来はインドから中国そして日本に伝わった三国伝来の仏像であること。スライドには清凉寺式釈迦如来のもととなった揚州開元寺の仏像も移しだされ特徴である、縄目・渦巻き状の頭髪、首周りまでおおう通肩の衣など淡々と説明されていた。図録では眼は銅板を貼り付けとしたが、研究者の指摘により本材から彫りだしたものだとわかったとの訂正もあった。お笑い芸人みほとけも衣文の美しさや光背の素晴らしをのべていたが、木目にあった衣文がとてもよく見ごたえがあった。山本館長も謎が多い仏像として紹介しており鎌倉から足利へ運ぶ僧が途中で亡くなり釈迦堂を立てたとも、鎌倉の比企や亀ヶ谷の新清凉寺から移されたとも記載しており一概に鎌倉伝来の可能性を無視できないとしている。興味がつきないみほとけだった。

 

2021年5月5日水曜日

特別展「横浜の仏像」⑯(龍華寺の阿弥陀三尊)


 山本館長の講演に戻ると中世仏の諸相といって運慶後の鎌倉時代後期の仏像について話が及んだ。鎌倉後期は善光寺式阿弥陀三尊・清凉寺式釈迦如来・両者の合体・応用及び聖徳太子などの肖像彫刻が流行したとのこと。特に善光寺式阿弥陀三尊・清凉寺式釈迦如来は霊験像・生身像として敬われた。生身像とは現世に具体的な姿を現した仏の身体を指し、生身の三如来として有名なのが嵯峨の釈迦(清凉寺釈迦如来)因幡堂の薬師(平等寺薬師如来)善光寺の阿弥陀(善光寺阿弥陀三尊)で清凉寺釈迦如来と善光寺阿弥陀三尊は多くの模造が大流行した。善光寺阿弥陀三尊は伝承では天竺で釈迦が門前に現れた姿を金銅で鋳写しそれが百済に伝来し欽明天皇仏教公伝時に伝わり、推古天皇の時代に信濃に移したとの伝承があり模造の大流行により善光寺式阿弥陀如来が各地に残っている。龍華寺阿弥陀三尊も一光三尊像の形式でまぎれもなく善光寺式阿弥陀三尊だが、龍華寺以前に鎌倉公方の祈祷所である光徳寺にありどのような経緯で本尊として龍華寺に安置されたかは金沢文庫の仏の瀬谷さんも不明とのこと。昨年の夏一光三尊像を求めて尾道や鞆の浦を廻ったが関東にもしっかり来ていたことが展覧会で解った。


2021年5月2日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑮(寶蔵院阿弥陀如来)

 

横浜の仏像展を紹介したテレビ番組「ぶらぶら美術館」で吉井大門学芸員がおぎやはぎに説明していたのが、金沢区にある寶蔵院阿弥陀三尊だ。図録では山本館長が解説しており、それによると鎌倉時代の製作で木造金泥塗・漆箔・玉眼の仏像だ。吉井学芸員も説明していたが中尊は衲衣が特徴的で上層の縁に下層部分二か所を引き出してかける形式、衲衣の末端近くに輪を付けて背部から左肩越しに紐で吊る形になっている。山本館長は鎌倉時代の新様式だとのこと。吉井学芸員は両脇侍が両手で蓮台を持ち合掌しているが、腰をかがめず、むしろ左右にひねる形から当初は運慶の浄楽寺のような片手を垂下し長い蓮茎をとる伝統的な平安時代の形式だったものを後補し作り変えたと説明していた。山本館長がまとめると平安後期の伝統的な製作に深くなじんだ作家が、何らかの要請にもとづき、やや未消化ながら新時代の流行に対応した製作を試みた印象があるとのこと。お笑いタレントみほとけも他の仏像の山本館長の説明に感心していたが、山本館長の仏像に対する洞察力に感心する展示だった。