2024年7月17日水曜日

館仏三昧ミュージアム巡り④(静嘉堂@丸の内)

 

本日(7月17日)館佛三昧ミュージアム巡りの第三弾として世田谷から2年前に丸の内に移転してきた静嘉堂文庫美術館に慶派の十二神将を見に行った。展覧会は「超・日本刀入門REVIVE」という展覧会で昨今の日本刀ブームにのって静嘉堂文庫美術館が所蔵する鎌倉時代から江戸時代までの名刀の展覧会となっていて、いつもの仏教・仏像の展覧会より女性客が多くみられた。国宝「曜変天目」以外は写真撮影OKとのことで運慶作かと騒がれた慶派の十二神将7体を撮影した。パンフレット掲載の午神の表情をアップでとらえたり、静嘉堂文庫美術館中央ホールを背景に安貞2年の墨書がある、亥神を撮影したりと十分に楽しめた。交通の便がよくなったのでまた静嘉堂文庫美術館に行きたいと思った。静嘉堂@丸の内を後に、梅雨明け真近の東京駅に向かった。



2024年7月7日日曜日

館佛三昧ミュージアム巡り③(旧足利樺崎寺下御堂大日如来)

 

半蔵門ミュージアムの展示の目玉はニューヨークのオークションにも掛かったこの大日如来だが、この仏像を初めて世間に知らしめたのは現在館長の山本勉氏だ。彼が初めてこの仏像を見た驚き喜びは東博研究誌「MUSEUM」589号を読むとよくわかる。「昨年(2003年)にご所蔵の仏像の像内納入品があるかもしれないのでX線写真を撮れないかという趣旨の書状をいただいた。二葉の写真が同封されていた。(中略)かんたんなスナップ写真だから細部までを確認できたわけではないが、それでもそこに写った像の姿に衝撃をおぼえたのである。(中略)所蔵者のお宅に伺って、大日如来像を調査することができたは想像をはるかに超えた優作であった。」その後東博での出品のおりX線撮影を行い内部の仏像の魂としてあらわされる心月輪が判明したことで運慶工房での作という考えにいたったとのこと。2008年のオークション騒ぎを経て2009年に重文に指定するための文化庁奥建夫しのボアスコープ(棒状の内視鏡)を耳孔より挿入した画像により像内は金箔が押され五輪塔の空輪には薄青、風輪には青、火輪には赤、水輪には白、地輪には黄、それらの各面に四方五大種子、その下には陀羅尼が記載されていることが判明した。運慶の製作当初の仏像の色彩が像内納入品に残っていたのは驚きだ。その辺をコンパクトにまとめた動画が半蔵門ミュージアムで無料で見れるので、ぜひおすすめしたい。

2024年6月22日土曜日

特別展「法然と極楽浄土」②(誕生寺阿弥陀如来)

 

法然が活躍した時代は保元・平治の乱や治承・寿永の乱など騒乱が多い時代だった。源平の一の谷の戦いで平家の公達敦盛を泣く泣く首をはねた熊谷直実の物語は有名だが、その直実が法然の下で出家し、熊谷蓮生法師として岡山の誕生寺や長岡京の光明寺を創建したことはあまり知られていない。誕生寺の創建は幼いころ争いに巻き込まれ父を亡くした法然が美作国稲岡庄に弟子の蓮生を遣わし、法然所持の仏像を持参した熊谷蓮生法師が屋敷跡を寺院に改めたことが始まりとのこと。本像は快慶一派によくみられる三尺阿弥陀で来迎印を結ぶ安阿弥様のヒノキの寄木造。解体修理の際、中から印仏が見つかり「法然上人御生所御本尊」の墨書があり当寺こそ法然の生誕地で、本像は旧本尊である可能性が高まった。製作背景に法然の百回忌を想定する説もありいずれにしても熊谷蓮生法師の活躍で誕生寺にある仏像かその小像を模して作った仏像であろう。歴史の面白みを感じて次の作品に向かった。

2024年6月15日土曜日

令和六年新指定国宝重文展②(大報恩寺の地蔵菩薩)


 話はひと月前に戻るが、令和六年新指定国宝重文展出展の仏像の中でいきなり重文を飛び越して国宝となったのがこの地蔵菩薩だ。大報恩寺(千本釈迦堂)のすぐ近くが北野天満宮でそのほど近くに「北野経王堂」という創建7世紀に遡る古代寺院があった。江戸時代に廃寺になり北野経王堂にあった六観音と一緒に大報恩寺に移されたとのこと。六観音の内の准胝観音が肥後定慶作といわれるが、伊東史朗氏が面貌や耳の表現がこの地蔵菩薩と酷似しているとの指摘もあり私はこれも肥後定慶作と認めてよいであろう。六観音と同じ大きさでこの時代に珍しく一木造の仏像でなにか霊木が使用されていたののだろう。国宝指定とのなりさらに研究が進むことが期待される地蔵菩薩だ。

2024年6月9日日曜日

館佛三昧ミュージアム巡り②(醍醐寺旧蔵の如意輪観音)

 

5月31日館佛三昧ミュージアム巡りの目玉がこの半蔵門ミュージアムの如意輪観音だ。この仏像は京都の醍醐寺から縁あって半蔵門ミュージアムに寄贈された平安時代の仏像だ。半跏思惟半跏踏下坐の仏像で、醍醐寺の開祖聖宝が上醍醐に結んだ草庵に准胝観音と如意輪観音だったと伝えられ、醍醐寺にとって如意輪観音は貴重な尊格。この像は江戸時代初期に修復され快慶の弥勒菩薩で有名な三宝院持仏堂に安置されたことが知られているがそれ以前の伝来は不明とのこと。曼荼羅にも描かれている六臂像だが、右足を左腿の上に跏し、左足を踏み下げて座る半跏の姿はきわめて珍しいものだ。10世紀後半頃の製作とみられるとの説明だったが、金沢文庫に寄託されている龍華寺脱活乾漆菩薩像や奈良興福院で見た阿弥陀三尊の脇侍に通じる仏像とみた私には9世紀はくだらない古仏とみた。今回の修復で顔に木屎漆が盛られていることが分かり、修復の際除去したと半蔵門ミュージアムXに記載されていた。また会いに行きたい仏像だ。