2021年4月29日木曜日

特別展「横浜の仏像」⑭(龍華寺の大日如来)

 

講演の中で山本館長も述べていたがまだまだ紹介したい仏像が目白押しなのが横浜の仏像展だ。ここで紹介するのは何度か訪れた金沢区の龍華寺にある鎌倉時代の大日如来だ。県立金沢文庫の「仏の瀬谷さん」の解説によると伝承では光背・台座は快慶、本体は運慶が手掛けたとあるが怪しいものだ。運慶作円成寺大日如来の系譜を引くもので、鎌倉時代前期に慶派仏師により制作されたことは確からしい。浄楽寺阿弥陀如来の上げ底式にして像内を密閉するところが、本像ありまず間違いないだろう。髻を高く結い上げ、左肩に条帛をかけ、下半身に裙をつけ、腰布を巻き、腕前で智拳印を結ぶ。細かい髪筋を刻む立体的な髻、玉眼を嵌入した意志的な面貌、胸をやや引き両腕前に空間をとった姿勢、両膝前に円弧を描く深く刻まれた衣文などが特徴とのこと。瀬谷さんの解説には触れていないが、モデルとなった円成寺大日如来は条帛を別材で製作しているが、この像では装飾として彫っているだけだろう。顔立ちが童形なところなど願主が女性であったのではないか。横浜の仏像を通じて日本の仏像史に思いをはせる時間だった。


2021年4月24日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑬(保木薬師堂薬師如来)

 

運慶仏の時代で山本館長が最後に紹介したのが、青葉区保木薬師堂の薬師如来だ。以前から私も注目していた仏像で普段は神奈川歴史博物館に寄託されており年1回保木薬師堂に里帰りする仏像だ。一目みて鎌倉仏のいい顔をしており、慶派の影響を受けた仏師が製作したことがわかる。山本館長の講演によると玉眼がとれた穴からのぞくと仏師尊永作で承久3年(1221年)製作とわかる貴重な仏像だ。承久3年は後鳥羽上皇が鎌倉と争った承久の変まっただ中であり、運慶最晩年のころだ。神奈川歴博の神野氏によると構造は寄木造とし頭と体幹部は前後二つに分け前半部分を中心で左右にわけており、螺髪は別材で貼り付けている。表面の古色塗りは後補とのこと。以前は玉眼を内側からあてていたが、今は脱落しているとのこと。世の中が落ち着いたら里帰りの日にお寺を訪ねたいと思う。

2021年4月17日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑫(東漸寺薬師如来)

 

山本館長の講演も佳境でいよいよ「運慶仏の時代」に入った。「横浜の仏像」展では運慶の作品である金沢文庫所蔵の光明院大威徳明王は出展されず、運慶周辺の仏師の作が並んでいた。山本館長が最初に紹介したのが磯子区杉田の東漸寺薬師如来で像高85センチ余りの堂々した体躯、鎌倉時代寄木造り玉眼の仏像だ。とても穏やかな顔立ちで像内銘記から仏師は特定できないが山本館長によるとそこかしこに運慶に影響された痕跡を持つ薬師如来だ。まず注目したのが後頭部の螺髪で運慶の彫り方として逆V字型をあげ、願成就院阿弥陀如来と比較した平安時代の仏像と明らかに違う特徴をあげた。みほとけチャンネルで山本館長があげたのが衣文の折り返しで浄楽寺阿弥陀如来で運慶が始めた特徴だという。運慶仏のもうひとつの特徴が浄楽寺像に見られる「上げ底式内刳り」だがこの像では採用されず古風なままだ。運慶に極めて近いながら古風な仏像をつくる仏師から関東で活躍した宗慶や実慶が想起されるが山本館長は仏師を特定していなかった。いっきに運慶仏の時代に引き込まれる仏像だった。




2021年4月10日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑪(證菩提寺阿弥陀如来)

 

最近、山本勉氏のツィターを見ていると鎌倉国宝館館長を拝命したとのこと。この證菩提寺阿弥陀如来を初めて見たのが鎌倉国宝館で「古都鎌倉と武家文化」展での展示だった。その時は頼朝の忠臣の菩提を弔う仏像とされていたが、山本館長お得意の阿弥陀三尊左脇侍台座銘文に江戸時代寛永から460年前との記述がされたことで、以前は他のお寺にあった仏像を證菩提寺に移したとのこと。講演ではわかりにくかったが、山本館長執筆のコラムによると證菩提寺阿弥陀如来はもとは鎌倉寿福寺の境内に三浦一族の岡崎義実が平治の乱で死んだ源義朝の菩提を弔う仏像であった。頼朝が源義朝供養のため勝長寿院を建立したため、岡崎義実が息子義忠の菩提を弔う證菩提寺を作り、そこに移り転用され義忠供養の阿弥陀三尊となった。本展では阿弥陀如来のみ出展されガラス越しだがすぐ近くで拝観することができた。運慶以前の慶派仏師によるものだろうが山本館長も仏師特定に至っていない。また古文書の発見により明らかになることを期待する。

2021年4月3日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑩(西方寺の十一面観音)


 西方寺十一面観音を初めて見たのが2017年の特別公開のおりで、東日本大震災で足ほぞを損傷し自立できなかった像を横浜市文化財保護審議委員の山本勉先生の監修のもと再建された仏像だ。講演ではコラムを書いた萩原氏に遠慮してスライド紹介のみで多くを語らなかった。コラムでは西方寺がもと極楽寺の境内にあったが、鎌倉幕府の滅亡で寺勢を失い新しい地を求めて鶴見川上流の新羽の地に室町時代に移ってきたとのこと。ここには平安時代後期からあった観音院と称するお寺にあったため、制作年代は平安後期とされている。像高は1メートル余りでヒノキ材の割剥造り、素朴で穏やかな表情や控えめな肉どり、浅く柔らかい衣文表現が平安時代の仏像の特徴をよく表している。西方寺は桜や彼岸花が美し花の寺として有名でこのお寺にふさわしい花のような観音様であった。