2025年8月21日木曜日

五智山蓮華寺(五智如来)


 京の夏の旅公開寺院仁和寺に行く前に京都の「癒やされる石仏鑑賞の楽しみ方」として月刊京都に掲載された五智山蓮華寺に向かった。嵐電の御室仁和寺駅で降り、仁和寺の仁王門を右手に行くと五智山蓮華寺がある。入口に入る前に愛らしい石仏が見えてきた。五智山蓮華寺は真言宗御室派別格本山という仰々しい名前がついた由緒正しい寺院だった。実際には平安時代に冷泉天皇勅願の寺で冷泉天皇から五智山蓮華寺とうい名前を下賜されたとのこと。ご本尊は阿弥陀如来で不動堂には弘法大師が作成したとの伝説が残る石仏の五智不動明王が祀られていた。前庭の植え込みの間に5つの約2メートルの大きな石仏と後方にこぢんまりした「十一座像」が並ぶ。左から釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来と並んでいる。江戸時代の木喰僧の坦称上人が信州、浅間、紀州那智三山で、各百日の荒行を遂げて掘ったと伝わる石仏だ。どの像も愛らしくかわいらしい圧巻の石仏だ。寺には弘法大師ゆかりの秘宝「きゅうり封じ」でも知られている。京都で新発見の石仏に癒やされて仁和寺に向かった。

2025年8月17日日曜日

清水寺千日詣り


本日(8月15日)から夏の京都旅が始まった。一日目のフィナーレを飾るのが、清水寺千日詣りだ。今年の千日詣りは八月十四日からの三日間。中日の15日にお詣りしたが、金曜日のためそれほど混んでいなかった。今年の初めから、洛陽三十三所観音霊場を巡っている私としては清水寺本堂の拝観はなんとしても廻りたいと思っていた。念願かなって内々陣の拝観となった。清水寺に入ると以前堅く閉ざされていたお堂も何ヵ所か開いており、内々陣の参拝の列を進むと願いごとを書く蝋燭を納めてから裏陣から回るように行くと観音お前立ちと二十八部衆が間近に迫って迫力があった。清水式千手観音像の真下の内々陣から見上げるように参拝した。薄暗がりで頭上高くに挙げて組んだ形式の小化仏は確認できなかったが、腕が四十二臂で、左右の脇手ははっきり見えた。京大根立氏によると、この形式は敦煌莫高窟及び近隣地域の石窟に頂上二手で頂上化仏を執るものが8件確認され、最も早い例は莫高窟113屈の千手観音図(盛唐・8世紀)であるという。清水寺創世記少し前にあたり興味がつきない。迦楼羅は見つからなかったが、奥に摩和羅女らしき像が薄暗がりに立っていた。御朱印をもらい心地よい疲れを感じ清水寺を後にした。


正寿院十一面観音


清水寺千日詣りの翌日(8月16日)は宇治に向かい宇治田原にある正寿院に向かった。宇治茶バスという京阪バスの路線バスで、50年に一度の秘仏開帳の正寿院へ猛暑の舗装道路を向かった。宇治観光協会の言っていた田んぼ道はこのことらしい。30分ほど登り道を歩くと正寿院についた。風鈴祭りが行われており、風鈴をくぐると本堂で、中に小さな十一面観音が祀られており、あまりの小ささに拍子抜けした。しかしその後新幹線の中で宇治田原町観光サイトの記事を見て印象が変わった。鎌倉時代の仏像にしては恐ろしく保存状態がよく確かに膝のあたりに快慶が得意とする截金がはっきりと確認でき、水瓶も左手で持っており右手の羂索も確認できた。記事によると江戸中期に落雷で全焼した際、足下から下の蓮華や象はその際焼失して作り直されたとのこと。もしかして残っていれば「安阿弥陀」などの快慶作の確証が焼けてしまったかもしれない。隣に快慶の不動明王があることから一概に否定できないが。御朱印と観音の写真を購入して、帰り道で見つけたお茶屋の美味しい抹茶ラテを頂き、バスで宇治に戻った。

2025年8月14日木曜日

特別展「江戸大奥」(祐天寺阿弥陀如来)


 本日(8月13日)上野の東博に特別展「江戸大奥」を見に行った。行こうと思った切っ掛けは昨年の春に訪れた奈良興福院の「掛袱紗(かけふくさ)」がすべて展示されているとパンフレットに記載されていたからである。興福院には天平仏目当てにいったのだが、そこで購入したクリアファイルの柄が、今回展示の五代将軍徳川綱吉が側室お伝の方に贈り物を贈るのに包んだ袱紗だった。平日だがお盆休みで多くの女性客がつめかけていたが、春日局から天璋院篤姫や皇女和宮までの多くの女性の暮らし向きや調度品が展示されていた。その中には徳川綱吉の養女竹姫が祐天寺に寄進した江戸時代享保年間の阿弥陀如来も展示されていた。像高104センチの寄木造で腹前で両手を重ねた阿弥陀定印を結ぶ。仏師は小堀浄運で慶派仏師浄慶の子とされる。江戸時代の慶派の作品を見ることができた貴重な機会となった。天璋院篤姫の雀が画かれたみごとな小袿などを見て会場をあとにした。仏像の展覧会ではないが豪華絢爛な着物や調度品の数々に圧倒され飽きることなく鑑賞して閉館の時間になり会場をあとにした。


2025年8月9日土曜日

令和7年新指定国宝・重文展(延暦寺護法童子)


初めて延暦寺護法童子に出会ったのは延暦寺にある「比叡山国宝殿」でのこと。その大人とも子供ともつかぬ容貌に心引かれた。その後、2022年5月日帰りで京都を訪れ特別展「最澄と天台宗のすべて」で再会したときは2018年に解体修理した際発見された不動明王(9.5センチ)と六角五輪塔形の水晶製舎利容器も展示されていた。護法童子とは高僧を護る「乙護法」という童子形善神で、赤色肉身の童子形で、肩に天衣を掛け、両手で杖をつき左手の甲に載せて立つ。この姿勢は浄瑠璃寺不動明王の眷属制吨迦童子に図像的には似ており、作風は同展で展示されていた、無動寺不動三尊制吨迦童子に酷似していると言われる。無動寺制吨迦童子が京博学芸員の私見として湛慶より一世代後の慶派仏師による造像との説もあり本像もそのあたりの仏師かもしれない。いずれにさいても童子の豊かな肉取りの造形や的確な写実表現は鎌倉彫刻の特徴をよく示しており、人気の高い仏像の一つだ。元々は比叡山東塔南谷の西尊院に祀られており、東叡山寛永寺で配られた新聞に子供ころから毎日礼拝した信者の記事が載っていたので、重要文化財指定は至当だと思う。