2011年12月29日木曜日

もうひとつの定朝作阿弥陀如来

今年の秋訪れた平等院の阿弥陀如来は仏師「定朝」の代表作だが、京都伏見にももうひとつの定朝とその弟子たち製作の阿弥陀如来がある。それは泉涌寺塔頭の即成院に祀られている。平成21年の秋に法界寺の阿弥陀様に癒されたあと時間があったので、泉涌寺の楊貴妃観音でも見に行こうかと思い、六地蔵経由で東福寺の駅に降り立った。泉涌寺に向かう参道で何気なく立ち寄ったのが即成院というお寺だ。中には阿弥陀如来の観音・勢至菩薩を含む二十五菩薩が来迎の姿で3Dに表されていた。阿弥陀如来と二十五菩薩は平等院を創建した藤原頼通の子・橘俊綱が宇治川を挟んで平等院の対岸に安置したのが始まりと伝えられている。阿弥陀来迎の様子は絵などではよく見かけるが、実際の仏像で見るのは初めてだった。阿弥陀如来の周りの二十五菩薩はそれぞれ楽器を持って笑顔でお迎えに来てくださる様子が表されている。NHKEテレの「仏像拝観手引」でも薮内教授が言っていたが、形式化された定朝の寄木造りに二十五菩薩は仏師たちの遊びが見られる。そのためこのような楽しい二十五菩薩になったのだろう。塔頭でさえもこのような見所がある寺があるのだから、改めて京都の奥深さを感じながら次の塔頭に向かった。

2011年12月23日金曜日

源智上人造立の阿弥陀如来

法然と親鸞展で最初に展示されていた仏像がこの源智上人造立の阿弥陀如来だ。法然の愛弟子源智が師の一周忌にあわせて建立したと伝えられている。この仏像は昭和49年5月、滋賀県信楽町にある行基開創の古刹・玉桂寺の小堂で手足の指が損じ、台座も光背もはずれ、埃がかぶったまま壁にもたれていたという。調査した結果驚くべき事実が発見されたという。源智上人は平重盛の孫にあたり、源氏の平家落人狩りを逃れてひとり少年のころ法然の庵に出向き弟子入りしたという。この仏像にX線をあて胎内の文書から法然の一周忌供養のために造ったということがわかった。他には夥しい数の人の名前が記載された紙があり平清盛・源頼朝など平氏・源氏の人物の名が記載されており追善供養の意味もあったとのこと。法然の敵も味方も救わなければならないという教えを忠実に守った平氏の子源智の姿が浮かぶようだ。平和の祈りが込められた阿弥陀如来像は、法然八百回忌を迎えた2011年に浄土宗に帰ってきて、今回の展覧会に展示されていた。

2011年12月17日土曜日

寿宝寺の千手千眼観音

この秋の京都旅行では南山城の美仏をめぐると決めていた。京都の雑誌やガイドブックなどを調べていたら「京都ぴあ」で「お顔が変わる仏像」として寿宝寺の千手観音が紹介されていた。調べると予定していた観音寺からすぐ近いとのこと。早速タクシー会社にネットでコースを示して予約した。タクシー会社の運転手から寿宝寺は予約が必要とのことで、お寺に予約をした。観音寺のあと予約の時間には少し早かったが寿宝寺を訪ねた。お寺では若いお嫁さんが応対してくれて、収蔵庫へと案内してくれた。収蔵庫の中には日本で数少ない、実際に千の手を持つ本尊の十一面千手千眼観世音菩薩がいらした。ほどなく先ほどのお嫁さんが赤ン坊を背負って仏像の説明をしてくれた。持物のない手に墨で目が描かれているところを懐中電灯であてながらの説明で親切でわかりやすかった。収蔵庫の扉を閉め仏像のお顔が、昼と夜、明るさの度合いにより全く表情が変わる説明がよかった。特に光りを落とした際の面差しは慈悲深く柔らか。見る人の心を静かな癒しで満たしゆく、素敵な仏像だ。お嫁さんから御朱印をいただいて静かに寺をあとにした。

2011年12月10日土曜日

浄光明寺の阿弥陀三尊(法然と親鸞展)

今週の日曜日、東博に「特別展法然と親鸞ゆかりの名宝」を見に出かけた。最終日のため博物館の中は人でいっぱいだったが、仏像も何点か展示されているとのこと。最初に展示されていたのが浄土宗所有阿弥陀如来立像で法然一周忌に造立された仏像だ。少し小ぶりだがいい顔をした仏だ。会場を進むと京都知恩院のきれいな阿弥陀如来や親鸞が信仰していた聖徳太子像などが展示されていた。今回の訪問の目的はいつも鎌倉の浄光明寺で拝んでいた宝冠阿弥陀がどのように東博で展示されているかを見るためだった。浄光明寺のコーナーにまわったとたん、阿弥陀如来のあまりの神々しさに目を奪われてしまった。いつもの蛍光灯の下の阿弥陀如来と違い、東博のドラマチックな照明に映し出された阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩が光り輝いていた。この仏像の特色である鎌倉時代の関東にしかない装飾方法「土紋」もはっきりと見え、しかも宝冠阿弥陀の「宝冠」がない造像当時の姿が目の前にあった。脇侍の観音・勢至菩薩もどこかよそゆきなお顔をしていらっしゃるように感じた。感動のあまりそこに立ちすくんでしまったが、立ち去りがたい気持ちを抑えて会場をあとにした。

2011年12月3日土曜日

法然院の阿弥陀如来

今回の京都仏像鑑賞旅行の目的のひとつが「京都非公開文化財特別公開」の寺院を回ることだった。日程の都合上一箇所しか行けなかったが、訪れたのが法然院だ。遅い昼ごはんを食べてから大急ぎで東山鹿ケ谷にある法然院に向かった。雨が降りしきる哲学の道を進むと法然院があった。ここは法然が晩年すごした庵があったところで静かな佇まいだ。お堂は雨のせいか暗く仏像のお顔も判別できないような状態だった。あかりひとつない中、係りの人の説明がおこなわれていた。見ると床には菊の花が25おいてあり二十五菩薩を表す荘厳(しょうごん)だという。季節により花は変わり、春は椿、夏はアジサイであったりする。仏像は鎌倉時代の阿弥陀如来で像高141センチ。檜の寄木造りで、「往生要集」をあらわした恵心僧都源信の作と伝えられている。仏像がよく見れなかったのでお寺で小学館「週刊古寺をめぐる」を購入して静かな佇まいの法然院を後にした。

2011年11月27日日曜日

日向薬師

本日(26日)に仏像クラブで日向薬師を訪れた。ここ日向薬師の行基開山の寺で、鎌倉時代には源頼朝・北条政子が参拝したことで知られている。宝物殿に入ると仏像の多さに驚いた。薬師三尊と阿弥陀如来・四天王・十二神将・千手観音まで揃っている。しかも薬師と阿弥陀は丈六。十二神将・四天王は等身大の大きさだ。十二神将や四天王は色がはげて汚れ具合にも貫禄があり、少しだけ金が残っている。薬師如来は切れ長の目で瞳が大きく、鼻筋もしっかり通った美男子だ。ふと、その横を見た。右の日光菩薩の姿に息を呑んだ。とても色気がありうっとりする仏像だ。案内の方が他の会員に説明しているのに申し訳ないが、私は日光菩薩の美しさに見とれていた。日光・月光菩薩は鎌倉時代前期の作品で頼朝夫婦が娘の病気平癒のために祈った際もこの日光菩薩はあったのだろうか。5月の願浄就院・桑原薬師堂、先週の修善寺の大日如来といい鎌倉将軍家・北条家ゆかりの仏像を見る機会が多かった。帰りにそばやにより一年を振り返り今年出会った仏像に思いをはせる仏像クラブ面々であった。

仏像の姿は下記URLをご覧ください。
http://hinatayakushi.com/gallery/arts/91-statue.html?sfx=1

2011年11月22日火曜日

修善寺の大日如来


今週の日曜日に再度鎌倉国宝館で開催されている特別展「鎌倉×密教」を見に出かけた。再度の訪問の理由は展覧会後期に「修善寺の大日如来」が展示されるからだ。通常修禅寺では年に10日しか拝めない貴重な仏像が間近に見ることができる絶好の機会だったからだ。会場を入ったすぐの大日如来のコーナーで拝観した。運慶の兄弟子仏師実慶の作品だ。仏像クラブで今年の5月に桑原薬師堂で見た阿弥陀三尊も実慶の作品だが、本作はそれよりやや大きい像高1メートルほどの仏像だ。この仏像は幕府二代将軍源頼家の側室辻殿にかかわる造像と想像され、その契機と造像時期との関係から実慶が東国にいた可能性が指摘されている。桑原薬師堂も北条時政の長男の戦死を弔うために彫られたことを思えば、うなずける。そう思ってみると厳しい顔立ちの大日如来もどこか優しげにみえたり、女性が好みそうな髻正面の花形の結び目など実慶の心憎い演出が随所にみられる味わい深い作品だ。

2011年11月19日土曜日

禅定寺の十一面観音

京都仏像鑑賞会2011秋1日目の午後は南山城の十一面観音めぐりだ。何ヶ月も前から準備しネットでタクシーを予約。いよいよ観音めぐりがはじまるという高揚感の中、車は宇治田原の茶畑のなかを進んだ。山門をくぐるとりっぱな茅葺き屋根の本堂がありまずそちらを拝観した。本堂から見える景色は美しくかの白洲正子が「陰国(こもりく)」と称したのもうなずける。収蔵庫に向かうと正面に十一面観音が居られた。住職の説明があり、仏像のうしろからの拝観も可能とのことでじっくり見た。写真で見るより大きな高さ3メートル、平安時代の観音菩薩で、少年めいた独特な表情ではるかかなたをみつめている。肩や腰の後ろににうっすら金が残るのみで、あとは焦げ茶色に光り、手に水瓶(すいびょう)を持つ。脇侍は日光・月光菩薩で共に藤原期の作。他に象に乗った大威徳明王や広目天・増長天もありじっくり鑑賞した。タクシーの運ちゃんの話では1年に何回かくるだけの穴場だそうだ。心置きなく一人で鑑賞して寺をあとにした。

2011年11月12日土曜日

雲中供養菩薩

今回の京都仏像鑑賞会2011秋で久しぶりに宇治の平等院を訪れた。国宝の定朝作阿弥陀如来も素晴らしかったが、今回のお目当ては平成20年にすべて国宝に指定された雲中供養菩薩だ。現在は鳳翔館というミュージムアムに収められている。鳳翔館ではCGで復元した平等院が見られるが、足早に奥にある雲中供養菩薩のコーナーに向かう。ガラスケースに収まった菩薩たちが所狭しと並んでいる。効果的なライトに照らされた90センチの雲中供養菩薩が間近に見れる。大仏師定朝とその弟子たちの傑作が並んでいる。私が特に注目したのが観音菩薩と言われている、北25号だ。ほぼ平安時代の定朝一門オリジナルな仏だ。他の仏が鎌倉時代以降に補作されているがどれもすばらしい。ショップで雲中菩薩の図録が発売されていたので、購入し鳳翔館をあとにした。

2011年11月5日土曜日

清涼寺の光源氏

今日は京都仏像鑑賞会2011の2日目、嵯峨野の古寺巡りだ。大覚寺のあと釈迦堂清涼寺に向かった。ここ清涼寺は「源氏物語」の光源氏のモデルとなった源融が創建した寺が前身の寺院だ。現在の本尊は三国伝来の生身の釈迦と言われている清涼寺釈迦如来だ。奈良国立博物館で以前みたが、今回は御開帳でみられるとのこと。間近ではないが、充分はきっりと拝めた。霊宝館で特別展が開催されるとのことでそちらに向かった。源融が作らせた阿弥陀如来が安置されていて、人だかりになっていた。一説には源融に似せて作ったのではないかと言われているほど気品が漂う。光源氏もこのような姿だったかなと想像するのも楽しい!今回の京都はその奥深さに触れた。予定以上に見ごたえがありスケジュール通り行かなかった。これからは少しゆっくり目の日程でまた燃えるような秋に巡りたい。

2011年11月4日金曜日

観音寺の十一面観音

今日から京都仏像鑑賞会2011が始まった。まず訪れたのは宇治の平等院と南山城の十一面観音だ。宇治に待たせてあったタクシーに乗りこみ、禅定寺のあと観音寺に向かった。拝観をお願いし、本堂に向かった。まずお焼香を上げ、いよいよ厨子の中におられる観音様とご対面だ。みうらじゅんが日本仏像三大ビューティーと称えた観音菩薩だ。そこには黒びかりした仏像が立っていた。十一面観音のわずかにふくらんだ頬の滑らかな線に見とれ、しばし佇んだ。私が男のせいか女性的な観音菩薩に見えた。腰から足の滑らか曲線が美しい。いつまでも見とれいたかったが、次の観音の拝観を予約していたので、ブロマイドを購入して、観音のもとをあとにした。

2011年11月2日水曜日

来迎寺の如意輪観音(鎌倉国宝館)

昨年の年末に訪れた来迎寺の如意輪観音に特別展「鎌倉×密教」で再会できた。お寺では赤い円光背やりっぱな蓮華坐がついていたが、今回は取り外しての展示のため迫力に欠ける。しかし照明もよく間近に拝めるので、特徴の土を型抜きにして像表面に貼り付ける土紋がはっきりと見えた。土紋は鎌倉地方特有の荘厳技法と考えられ、現在東博で開催されている「特別展法然と親鸞ゆかりの名宝」に展示されている浄光明寺の阿弥陀三尊が代表的な仏像だ。口角の上がった微笑むような顔が印象的だが、深く装飾的な衣文などから、その造像年代は南北朝時代と考えられる。謎めいた微笑みに魅了される、仏像クラブの面々だった。

2011年10月29日土曜日

特別展 「鎌倉×密教」

本日、仏像クラブで鎌倉国宝館に特別展「鎌倉×密教」を見に行った。朝早かったせいですいており、静かな環境でじっくりと仏像が鑑賞できた。中央に展示されているのが、鎌倉市十二所にある明王院の五大明王だ。不動明王だけが鎌倉時代の仏師「肥後定慶」(ひごのじょうけい)の作品でその他は江戸時代に補作されたものだ。鎌倉四代将軍藤原頼経の発願で以前U案内人と明王院で遠目から拝ましてもらった不動明王だ。今回は展覧会のため間近で見られたため、迫力ある造形に圧倒された。像高は84センチだがたくましく雄大な作風を示し、運慶様式を正確に受け継いでいることが窺える。特に注目したのはなまめいた表情やにぎやかに巻き上がる頭髪はさすが運慶次世代の肥後定慶だと思った。他にも覚園寺の阿閦如来(あしゅくにょらい)や来迎寺の如意輪観音などみるべき展示が多かった。鎌倉国宝館を出たあと今回初展示の浄光明寺の愛染明王・不動明王をみて七里ケ浜を散策、腰越の船宿で生シラス丼を食べ、一同大満足の仏像クラブの面々だった。

2011年10月22日土曜日

みかえり阿弥陀

平成21年の紅葉真っ盛りの秋に京都を訪れた。夕飯を丹波鳥料理の居酒屋で済ませ、紅葉ライトアップが行われている永観堂禅林寺に向かった。「秋は紅葉の永観堂」という言葉があるくらい紅葉の名所になっているところだ。すでに拝観時間が終わっている南禅寺など真っ暗な道を歩きながら、夜でも煌々とライトで明るい永観堂を目指した。ライトアップの明かりに照らされた紅葉を鑑賞しながら、本堂に向かう。永観堂の本堂には有名な「みかえり阿弥陀」が祀られていた。永観が修行をして歩いているとき、前に阿弥陀様が現れた。永観が立ちすくんでしまったとき、阿弥陀様が「永観遅し」といわれたとか。本堂にはその時の来迎印を結び、左斜め後ろを振り返る阿弥陀様が祀られている。阿弥陀様のお顔を拝めないかわりに、わきから拝することが出来る。小ぶりな阿弥陀様だが平安時代後期の浄土信仰を今に伝えるほとけだ。深々と冷える京都の夜なので立ち去りがたい思いを残し永観堂をあとにし宿に向かった。

2011年10月14日金曜日

海龍王寺の十一面観音

2010年の春に佐保・佐紀路の三観音を訪ねるため奈良を訪れた。佐保・佐紀路の三観音とは不退寺の聖観音、海龍王寺の十一面観音、法華寺の十一面観音だ。いずれも静かな佇まいの古刹で奈良中心部の喧騒がうそのようだ。落ち着いた雰囲気の参道を抜けると本堂があり、厨子入りの十一面観音はそこに祀られていた。目の下がぷっくりとふくらんでおり、鎌倉時代の作ながら長いあいだ秘仏であったためよく金が残っている。左手に持っている宝瓶からは蓮が二本でており、衣の柄には金や墨で造った唐草や格子の文様を切金で表したこった細工だ。典型的な美人の観音様だ。キメ細かな素肌を思わせる、キラキラ輝くお顔に真っ赤な紅。なまめかしいウエストラインに色気を感じる。ご住職に御朱印をいただいたが、「妙智力」と記載されていた。解説の紙が添えられており、「観音様のすばらしい智慧の力は普く世間の苦しみを救いたまう」との意。今回は日帰りの奈良であったが、心が浄化され穏やかになっているのをひしひしと感じた。

2011年10月9日日曜日

高野山と紀州の仏像めぐり⑥(浄教寺の大日如来)

今回の夏の旅行を紀州に決めたのは例の見仏記を読んだからだ。お寺に連絡したら親切にも駅まで迎えにきてくださるとのこと。JRの藤波駅でお寺の奥様にお会いし、浄教寺に向かった。車中で見仏記の話題になり、いとうせいこう氏をせいこと言う女性と間違えた本人だった。境内に入るとりっぱな収蔵庫があり中の左手に鎌倉時代作の大日如来坐像がまつられていた。この仏像は快慶流とも言われているが、印はくまずに両手を膝の上に置いている形。しかし、大変残念なことにその手の先は崩れてしまっていた。大日如来は唇を少し突き出したように閉じ、腕は若々しく細いが腹はたっぷりしていた。見仏記では快慶的アニメ風の顔と言っていたが、私のは快慶と少し違うなと感じた。耳たぶがまっすぐ降りる耳の形状は運慶とその周辺の仏師の手によるとの山本勉先生の説を支持する。この仏像はかの白洲正子が好きな「明恵」の寺、旧最勝寺からの客仏とのこと。謎が多い仏像との出会いだった。

2011年10月2日日曜日

埼玉加須の慶派の仏像(保寧寺)

本日(10月1日)に埼玉加須の保寧寺に久しぶりに仏像クラブで行った。加須の稲穂がたれる田園地帯を抜けると保寧寺に到着した。ここには運慶の兄弟子にあたる宗慶の鎌倉時代の阿弥陀三尊像が残されている。寺の一角にある阿弥陀堂という名の収蔵庫に重要文化財の阿弥陀三尊が祀られていた。中は薄暗かったがガラスはなく直接仏像を拝めるよい環境となっている。阿弥陀如来が損傷もなく金色に輝いていた。「写真で見るよりいい」とU案内人も興奮気味だ。山本勉先生の「日本の美術」によるとやや無骨な作風が運慶の父康慶ゆずりだという。脇侍の観音と勢至菩薩もすばらし出来栄えだ。五月の桑原薬師堂の「実慶」の阿弥陀様と甲乙つけがたいすばらしい作品だ。今年は運慶とその周辺の仏師の作品を目にすることが多い仏像クラブの活動となった。山本勉先生によると宗慶は不動明王と二童子の作品もあり個人蔵で見られないのが残念だ。まだ見ぬ不動明王に思いをはせて、保寧寺を後にした仏像クラブの面々だった。

2011年9月22日木曜日

空海のみほとけたち⑨(高野山の大日如来)

今回の空海展では、東寺の大日如来は出展されていない。仏像曼荼羅と称しているが、中心になる大日如来がないのである。そのかわり高野山霊宝館から平安時代の大日如来が出展されている。高野山の西塔に祀られていたもので、金剛界の大日如来のため智拳印(ちけんいん)の印相を結んでいる。智拳印では人差し指が人を表し、それを仏が包み込む仏の智慧を表している。この大日如来は空海の死後作成され青い髻が東寺の五菩薩像と似ている。おそらく宝冠があったと思われる痕跡があり、力強い眼差しが印象的だ。高野山の大塔・西塔に安置されていた五仏のうち唯一現存している貴重な仏だ。第二会場の入口にありとても印象に残った仏像だった。

2011年9月17日土曜日

高野山と紀州の仏像めぐり⑤(金剛三昧院の愛染明王)

この夏の旅行で泊まった高野山の宿坊は金剛三昧院だ。ここは北条政子の創建で境内には国宝の多宝塔がある立派な寺院だ。宿泊の決め手となったのが伝運慶作の「愛染明王」があるという事だ。着いた早々お寺の方より説明があり朝6時半から「朝のお勤め」があるので参加するようにとのこと。その際仏像に参拝できるとの説明だった。朝、講堂に集まり僧侶の読経と声明が静かな寺に響き渡った。しばらくすると宿泊客は本堂に招かれ、「愛染明王」とご対面できた。政子が頼朝の死後等身大の愛染明王を彫らせたと伝えらえる。写真で想像していたより大きくりっぱな仏像だ。愛欲の煩悩を悟りに変え、人との縁を結ぶ。手元から五色の紐が本堂の外まで伸びているのが象徴的だ。朝食後、境内を僧侶が案内してくれて、多宝塔のなかには大日如来が祀られているとの説明だった。北条政子・大日如来・愛染明王と聞いて私は春先に見た「運慶展」の「大威徳明王」を思い出した。運慶の最晩年の作と言われるこの像は大日如来・愛染明王と三体セットで実朝の乳母の自念仏となったとの記録がある。実朝の乳母に渡したのは、この愛染明王の試作品いわゆる試みの仏像で、完成品はここ金剛三昧院に実朝の母政子に運慶が造ったと考えられないだろうか。まだ見ぬ金剛三昧院の運慶作大日如来・大威徳明王に思いをはせながら高野山を後にした。

2011年9月10日土曜日

空海のみほとけたち⑧(仁和寺の阿弥陀三尊)

空海と密教美術展の第二展示会場の中ほどに仁和寺の阿弥陀三尊がある。像高90センチの仏像だが、U案内人が仁和寺の霊宝館で見るよりも大きく見えると言っていた。中ほどの好位置にあり、ライティングがみごとなのは、東博ならではのことだろう。この仏像は定印の阿弥陀如来に立像の観音と勢至の両菩薩が侍立する最古の作例だとのこと。仁和寺の金堂に祭られていた本尊で当初の本尊は丈六像すなわち3メートルほどの像高との説もあり製作年代が特定されていない。丈六の阿弥陀三尊が残っていればさぞかしすばらしい仏像であったと平安時代の京に思いをはせた。

2011年9月2日金曜日

高野山と紀州の仏像めぐり④(霊宝館の深沙大将)

高野山霊宝館でめずらしい仏像にであった。首の周りに骸骨の首輪をしてたたず深沙大将(じんじゃたいしょう)。どこかでみたような気がしたが、調べたら西遊記の沙悟浄(さごじょう)のモデルだという。快慶の作で、同じ霊宝館にある執金剛神像とついでつくられたとのこと。東大寺復興に尽力した「俊乗坊重源」に深く帰依した快慶が、師が大好きな玄奘三蔵のインド求法に際し出現した怪異な姿の護法神を製作したといわれている。手のひらを大きく広げ力んでいる姿は、快慶作東大寺南大門金剛力士像を彷彿(ほうふつ)とさせると感じた。

2011年8月26日金曜日

空海のみほとけたち⑦(醍醐寺の薬師如来)

空海と密教美術展でおなじみの醍醐寺薬師如来に出会った。この仏像を最初にみたのは2001年に東博で開催された「醍醐寺展」でのこと。ワイルドな雰囲気の仏像に心ひかれ思わず写真を買い、今でも私の部屋に飾ってある。一昨年の秋京都を訪れたときも再会し、今度また再会することができた。この仏像は創建当初は醍醐寺の上醍醐薬師堂の本尊としてまつられていたものだ。濃い茶色に染まった体、野武士のような面構え、頭部が非常に大きいのが印象的だ。肉付きがよく、迫力がある造形は10世紀初頭の最高水準に属する仏像だ。光背、化仏は当初のもので、本尊によく似た顔をしている6体と合わせて七仏薬師を表している。何度も出会う薬師様に浅からぬ、えにしを感じた。

2011年8月19日金曜日

高野山と紀州仏像めぐり③(道成寺の千手観音)

紀州仏像めぐりで最後に訪れたのは、安珍清姫で有名な道成寺だ。この寺にはもうひとつの物語も伝承していて、それはかみながひめの伝説で文武天皇の后、藤原宮子のこと。正に梅原猛氏のあまと天皇の世界だ。暑い境内を抜け冷房がきいた大宝殿に向かった。大宝殿の奥に入り込んだ私は、その暗く広い部屋にたどり着いて、思わず声にならない声を上げた。国宝の千手観音を初めたくさんの仏像がところ狭しと展示してあった。千手観音は平安時代の作で、脇侍に日光・月光を配した珍しい三尊形式だ。千手観音は八頭身で、顔は他のどこでも見たことない男性的なエネルギーと静けさに満ちていた。特に斜め横顔が良い。ゆっくりといつまでも眺めたいが、安珍清姫の絵解きが始まるので、部屋をあとにした。絵解きを聞き終わったあと見仏記でも紹介された江戸期の五劫思惟阿弥陀如来を探す。聞けば念仏堂に安置されているとのこと。気の遠くなるような年月思惟を続けたため、髪がアフロ化した阿弥陀。五劫院・東大寺に続きこれで3体目という珍しい仏像が道成寺にあった。今回の紀州仏像めぐりは地方仏の魅力を発見する旅だった。人知れず、観光寺院でないところに隠れた名仏があったり、宿坊に泊まると拝める仏像に出会うなど、ますます仏像の魅力にはまる旅だった。

2011年8月18日木曜日

高野山と紀州仏像めぐり②(根来寺の大日如来)

今日は、高野山金剛三昧院の運慶作の愛染明王を拝んでから、根来寺に向かった。根来寺はとんでもなく大きく、往年の威容を想像させる国宝の多宝塔や大伝法堂など立派な堂宇が立ち並ぶ。根来衆は雑賀孫市率いる雑賀衆と共に鉄砲を使いこなし、織田信長や秀吉に脅威を感じさせた僧兵集団だが、根来寺の大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂座像はその兵火から逃れて今に伝わる、室町時代の仏像だ。金色に光輝く仏像は巨大な蓮弁の上に座っているので、あたかも蓮ごと宙に浮いているかのようである。体も腑太く、顔も大きく、とにかく力強い。背後の光背は丸でなく、金の延べ棒に似た光の線がにょきにょき飛び出す形で、なんだか宇宙からのメッセンジャーが今も浮いたままそこに存在している気がする。根来衆の心意気が伝わって、迫力に圧倒された。

2011年8月17日水曜日

高野山と紀州仏像めぐり①(快慶の広目天)

今日から二泊3日で高野山と紀州の仏像をめぐっいる。まず最初に訪れたのは、高野山だ。高野山霊宝館には運慶の八大童子や快慶の四天王や孔雀明王等を所蔵しているが、今回は八大童子のうち恵喜童子だけで、快慶も孔雀明王は展示されていない。しかし快慶の四天王はすべて展示されていた。中でも広目天は顔の筋肉の動きや安定した立ち姿など写実的な表現が四体の中でも最も優れている。快慶自身の作品だと確信した。残りの三体は弟子筋の製作のためやや手が落ちる。運慶工房の八大童子に比べ弟子の未熟さがわかる。この四天王は東大寺大仏殿の消失した像を今に伝えるものだ。明日は金剛三昧院の愛染明王をみてから、根来寺や紀三井寺をめぐる予定だ。

2011年8月13日土曜日

空海のみほとけたち⑥(東寺の持国天)

東寺講堂に入ると真っ先に睨みつけるのがこの「持国天」だ。ド迫力で仏敵を押さえ込む武将の姿をし、東の方角を守る。日本でもっとも猛々しい表情を持ち、足元に邪鬼を踏みつけている。邪鬼の筋肉やこぶの描写まで写実的。頭から足元の邪鬼までをすべて一本の木で作られている。持国とは「国を支える者」という意味。もとの肌色は青。左手に片刃の剣、右手に三鈷戟を持つ。とくに四天王のなかでも、彫刻的表現が優れている。われわれ仏像オタクとしては二匹の邪鬼の踏まれっぷりにも注目だ。

2011年8月5日金曜日

空海のみほとけたち⑤(神護寺の五大虚空蔵菩薩)

今回の「空海と密教美術展」でぜひ会いたかった仏像が神護寺の五大虚空蔵菩薩だ。あの「TV新見仏記」でも紹介され、みうらじゅん氏が「ブラックマンとレッドマン」と呼んでいた、「蓮華虚空蔵菩薩」と「業用虚空蔵菩薩」が出展される。京都愛宕山中腹にある神護寺の五大虚空蔵菩薩は平安初期の作で、密教金剛界の如来がそれぞれが変化したもの。虚空蔵菩薩とは、非常に大きな功徳を持ち、人々に利益を与える菩薩である。左手に仏敵を追い払う三鈷鉱を持ち右手にそれぞれ法具を持つ。空海は習得した虚空蔵菩薩求聞持法は、真言を百万回となえる修法で、暗記することをそらんじるというのはここからきている。虚空蔵菩薩は五色に塗りわけらえている。蓮華虚空蔵菩薩は赤く塗られていた。阿弥陀如来が変化したもので法力は与願。願い事をかなえる。右手には蓮華を持つ。後でみた立体曼荼羅の仏は躍動感あふれる仏像だが、この五大虚空蔵菩薩はあくまでもおだやかで静的である。大阪南河内の観心寺の如意輪観音に似ているところがあると思っていたらどうやら同じ仏師によるものらしい。今度は五大虚空蔵がすべて揃っているところを見たいと感じた。

2011年7月30日土曜日

空海のみほとけたち④(獅子窟寺の薬師如来)

今回の「空海と密教美術展」で急遽出展が決まったのが大阪河内の獅子窟寺・薬師如来だ。大阪夏の陣であやうく戦火で消失するところを僧侶が背負ってあやうく難を逃れた平安時代の仏像だ。獅子窟とは寺院の裏山にある獅子の口に似た岩山のことでかの弘法大師空海もそこで修行をしたといういわれがある。すこし面長であるが頬はふくよかで、端正な顔つき。目尻が長く、眉は太く盛り上がっている。目鼻たちがよく上唇の曲線や口元を深めに窪ませる表現が美しい。端正な顔とともに本像の特徴は流れるように表現される翻波式衣文(ほんぱしきえもん)だ。まるい襞(ひだ)と稜のある襞を交互に刻んでいる。どっしりとした安定感のある薬師如来は右手を施無畏印(せむいいん)、腕前で宝珠をとる。獅子窟寺では光背があり化仏がついた豪勢な仏像だが、本展では光背なしの展示のため魅力が半減すると感じた。改めて獅子窟寺を訪ねたいと感じた。

2011年7月23日土曜日

空海と密教美術展

本日、上野の東博に「空海と密教美術展」を見に行った。先週までの猛暑がうそのように涼しかったので仏像鑑賞にはもってこいな一日だった。空海の書が展示されているコナーを進むとまず最初に目に飛び込んでくるのは京都東寺の兜跋(とばつ)毘沙門天だ。東寺の宝物館でみるよりも素晴らしく劇的な展示だ。第二室に入ると密教仏のオンパレードだ。さりげなく秘仏の京都神護寺・五大虚空蔵菩薩や醍醐寺の如意輪観音などが展示されている。期待していた獅子窟寺の薬師如来は光背・台座なしの展示のためがっかりした。仁和寺の阿弥陀如来は三尊とも光背・台座がありよかった。最後のコーナーはいよいよ東寺の立体曼荼羅だ。持国天がたいへんな迫力でせまったきたり、梵天の背中も見ることできまさに立体曼荼羅を感じさせるコーナーだった。久しぶりに見た帝釈天は女子が騒ぐほどイケ仏と感じなかった。何度でも足をはこびたくなる展覧会だった。

2011年7月15日金曜日

空海のみほとけたち③(兜跋(とばつ)毘沙門天)

京都東寺の兜跋毘沙門天を初めて知ったのは「見仏記」だった。単行本の表紙にみうらじゅん氏のイラストで兜跋毘沙門天が描かれており、調べてみると東寺の宝物館に展示されており、春・秋の特別展に訪れればみられるとのこと。20年に週刊「日本の仏像」でも紹介されすぐさま京都仏像旅行を企画したきっかけとなった仏像だ。兜跋(とばつ)とはトルファン・突厥(とっけつ)の音写で今の中央アジアをさす。異国の民が西域を攻めたときこの毘沙門天が現れ敵を撃退した故事にちなんで、平安京の羅生門に祭られていたという。大きな宝冠をかぶり異国風の鎧を身にまとう武装した守護神だ。面長な顔に黒い石がはめ込まれている目がりりしく、ベルトには獅子噛(ししがみ)というライオンの顔の飾りがあり当初は緑に彩色されていたという。このように立派な毘沙門天が地天女に支えられているのが面白く注目ポイントだ。東寺宝物館では、照明が悪くあまり感動しなかったが、来週からいよいよ始まる「空海と密教美術展」に展示されドラマチックの照明に浮かび上がる兜跋毘沙門天が今から楽しみだ。

2011年7月9日土曜日

空海のみほとけたち②(東寺 降三世明王)

東寺の立体曼荼羅では中央に五智如来、右に五菩薩、左に五大明王が配され
る。五大明王は中央に不動明王それを囲んで四体の明王が東西南北を守っている。東を守る阿閦如来(あしゅくにょらい)の化身が降三世明王は平安時代の国宝だ。手を前で交差させ指をからめる印相を結んでいて、変わっているので「空海と密教美術展」では多くの人が真似をするのではないか。正面・左右・後ろと四つの顔をもちそれぞれ眼が3つあり、腕が8本の異形な仏像で、さすがみうらじゅん氏が推薦する五大明王に数えられる仏像だ。手に剣・矢・三鈷杵などの武器を持ち、貪欲、怒り、迷いの三毒から救ってくれる。すべて思い通りになる、という高慢な考え方を持った大自在天(シヴァ神)とその妻の烏魔妃を踏みつけているところが注目ポイント。お寺でよく見れなかった大自在天の苦しそうな表情も今度の展覧会ではじっくりみたいと思う。

2011年7月1日金曜日

高幡不動

先週の土曜日に日野の高幡不動を訪れた。本堂の仮本尊を拝観する。中では護摩祈祷が流れていて、厳かな雰囲気だ。ふと見ると、U案内人が一心に何かを祈っているようだった。一人ずつ本尊の前で手をあわせて、本堂をでた。あじさいが咲き乱れる庭を進んで、いよいよ平安時代作の重要文化財の不動明王がある奥殿に向かう。像高は2メートル85.8センチ。その存在感は目の当たりに拝した者しかわからない。燃え上がる炎のなか、眉間に深くしわを寄せ、歯をグット食いしばるこの巨像はまことに力強く、頼もしい守護仏である。左脇侍は矜羯羅(こんがら)童子、右脇侍は制托迦(せいたか)童子。こちらも2メートルある堂々とした仏像だ。あいにくガラス越しでの参拝となったが外からも迫力は十分感じられた。成田・大山と並んで関東三不動のひとつとして数えられる。U案内人も千年近いときをへて今に伝わる不動尊にしきりに感心していた。近くの百草園でもアジサイを見て、昼食を食べてから家路についた。

2011年6月18日土曜日

空海のみほとけたち①(東寺 梵天)

「空海と密教美術展」が来月東博で開催される。本展覧会は弘法大師空海ゆかり密教美術が一同に会する夢のような展覧会だ。出展作品の中には以前訪れた京都東寺・醍醐寺・仁和寺の仏像のほか、まだ見ぬ神護寺五大虚空菩薩や高野山の仏像も出展される。今日から順に空海のみほとけたちを紹介する。平成20年に京都東寺を訪れた際まず最初に向かったのが講堂だ。ここには有名な空海の「立体曼荼羅」と称される仏像郡がある。入口を入ってすぐ出会うのがこの「梵天」である。「梵天」とは宇宙を創造した神で、もとはインドの神様。ブラフマンと呼ばれ手塚治虫の「ブッダ」でも登場しブッダに白毫(びゃくごう)を授けた神として描かれている。本像は本面の中央に第三の「目」をもち両脇面、それと髻の上に1面の四つの顔がある。四本の腕を持ち四羽のガチョウの蓮華座右足を前にして座っている。圧倒的に女性に人気なのが帝釈天だが、梵天もいい味出している。展覧会の劇的な照明に浮かび上がる「梵天」が今から楽しみだ。

2011年6月11日土曜日

三千院の阿弥陀三尊

平成21年の秋に京都を訪ねたとき、まず最初に向かったのが大原の三千院だ。紅葉真っ盛りのため多くの人手が見込まれるため、早朝に京都につき朝一番のバスで大原についた。大原は洛北にあり紅葉がぎりぎり間に合った感じだった。苔むした庭のの中央に阿弥陀三尊がまつられている「往生極楽院」がある。ここでは中に上がって拝観できるようになっており、来迎印を結んだ阿弥陀如来を間近に拝める。優しくふくよかな顔、特に丸みのあるアゴが福々しい。脇侍は日本的な大和座りという正座を思わせる跪座(きざ)という座り方をしている。前かがみで「あなたを迎えにいきますよ」と語っているようだ。平安時代の国宝で優しくふくよかな面相と豊かな肉付きの阿弥陀三尊は、狭い堂内においては殊に大きく感じられ、脇侍の跪座によっても三尊が迫ってくる思いがした。立ち去りがたい気持ちをあとに次の勝林院へと向かった。

2011年6月4日土曜日

醍醐寺の如意輪観音

平成21年の秋に京都山科の醍醐寺を訪れた。1日目に行った大原は紅葉が終わりのほうだったが、ここ山科は今まさに紅葉の盛りで境内の楓が真っ赤に染まっていた。三宝院の快慶の弥勒菩薩を見た後、霊宝館へと向かった。まず最初に迎えてくれるのがガラスケースに入った如意輪観音だ。あごを上げ、首をかしげてまどろむ六臂(ろっぴ)の如意輪観音は息をのむほど美しく、「生きているかのよう」という陳腐な表現もやむなしと思われる姿である。言葉が届かない美術の最高領域に、この座像は入っているのだ。実は私の自宅の壁にはこの仏像の写真をずっと飾ってある。2001年に東博で行われた「国宝 醍醐寺展」で購入したものだ。醍醐寺展以来の久方ぶりの再会を果たしたのだ。また今年の夏に東博で「空海と密教美術展」が開催されこの仏像も出展される。東博の効果的な照明の演出による展示を今から楽しみにしている。醍醐寺の霊宝館を満喫して次の目的地「法界寺」へ向かった。

2011年5月28日土曜日

薬師堂だより

今日、仏像クラブで函南の桑原薬師堂を訪れた。函南駅から急な坂道を登り、のんびりとした集落にあるお寺の裏に桑原薬師堂はある。中には実に24躯の仏像が安置されており、結界の外側から拝観した。慶派「実慶」の製作した阿弥陀三尊が左手に祀られていた。黒漆が塗られており、来迎印を結んで右に観音菩薩、左に勢至菩薩を従えた秀作だった。右手の仏像を見て私はグットきた。右手には平安時代の薬師如来と十二神将が祀られていたがそのお薬師様のお顔がとてもおだやかで、函南原生林に囲まれた薬師堂の環境とあいまって心おだやかになった。薬師如来は堂々とした体躯の一木造で木目が見えている。顔面の彫りは鋭く、衣文は簡略ながらよくまとまり、胸・腹部の厚さにより迫力がある。参加しているメンバーの一人がここをえらく気に入り映画化された「阿弥陀堂だより」のようなお堂だと言っていた。この桑原薬師堂は来年1月で閉まり、新設した博物館に展示されるとのこと。地元の人によって大切に守られた仏像が保存・修復のためとは言え博物館入りするのは寂しい話だがいたしかたない。ぜひ今の雰囲気の薬師堂を多くの人に見てもらいたいものだ。

2011年5月21日土曜日

運慶の観音菩薩・地蔵菩薩

今週ネットをチェクしていたら、「三浦三十八地蔵尊卯年御開帳」のポスターを見つけたのでさっそく本日三浦にでかけた。まず向かったのが昨年の3月に訪れている「満願寺」だ。ここには運慶作の観音菩薩と地蔵菩薩があり、「春の文化会」のみに御開帳される。今度の御開帳では4月24日から5月24日まで一ヶ月間収蔵庫が開かれていた。私が訪れてたときは参拝客がほとんどなく、収蔵庫の中で運慶の観音・地蔵を独り占めできた。堂々たる体つきは同じ三浦の「浄楽寺」にある阿弥陀三尊に通じるところがあり、先行して造られたと考えられている。今回じっくり拝観できたので、いろいろな発見があった。観音像のおなかはでっぷりとふくれていること、観音像の腕につけてある臂釧(ひせん)が今年の冬に見た「運慶展」に展示されていた「滝山寺装身具」に通じるところなのだ。研究者によると、もともとは丈六の本尊がありその脇侍だったとか、初めから2体で地蔵と観音をセットにした航海の安全や安産にご利益がある、放光菩薩思想からきているといわれている。海の安全を祈った三浦氏の一族佐原氏の菩提寺である満願寺からすると後者のほうがうなずける。うららかな初夏の日差しに恵まれ満願寺で鎌倉のもののふたちの思いを感じた一日だった。

2011年5月14日土曜日

上宇内薬師堂

平成20年夏会津を訪れた。会津への旅を思い立ったのはひとつにはJR東日本の夏のキャンペーンで会津が「仏都」と呼ばれるほど仏像が多いことを知ったからである。タクシーで坂下にある上宇内薬師堂へ向かう。タクシーに乗り込み車は一路、会津若松の西北に向かった。上宇内薬師堂の薬師如来は2007年のキャンペーンの表紙になっておりボランティアガイドの説明があるとのこと。ボランティアガイドの方は感じのよい男性で奥に導かれ、薬師如来に対面した。丈六の薬師。補修箇所以外は平安期の作だという、真っ黒な顔で唇の小さな坐像。なんといっても胸の張り方がすさまじく、胴体が短めなのも手伝って、パワーの濃縮感がびんびんと伝わってくる。ボランティアガイドのぼくとつとした会津弁の説明によると、どちらかと言えば定朝風だという。この薬師を会津の人々がどんなに大切にしていたか熱弁をふるった。雨によって足が腐り、のちにそこだけ補修されたらしい。上宇内薬師は様々な障害と戦いながら今に至っていたのである。それを思うとなおさら薬師が愛おしくなりその場を立ち去りがたくなった。十分説明も聞き満足して今日の宿、「東山温泉」に向かった。

2011年5月8日日曜日

白洲正子神と仏、自然への祈り展④(正子が出会えなかった十一面観音)

先月訪れた「白洲正子神と仏、自然へに祈り展」で私が一番印象に残った仏像が福井・大谷寺の「十一面観音坐像」だ。阿弥陀如来・聖観音と三尊で展示されていたが、中央でひときわ輝いていた。いずれも平安時代の作で秘仏であったため保存状態よく金箔も残っていた。大谷寺は役行者と同時代の高僧泰澄大師が創始者の古刹で、白洲正子も訪れたがこの十一面観音は見れなかったとのこと。本展覧会は正子のお孫さんがプロデューサーとして関わっておられ、祖母の果たせなかったこの仏像への思いを本展覧会で果たされたようだ。頭上面を二段におく十一面観音は歴史を感じさせる優品で、目鼻立ちはいたって穏やかで、頬や胸に適度のふくらみがあり、衣文を浅く刻み、全体的に温和な表情だ。私は何度もその前に立ち、正子がこの仏像に出会っていればどんな文を残したのだろうかと思った。

2011年5月6日金曜日

鎌倉国宝館

昨日新緑が美しい鎌倉を訪ねた。普段中門までしか入れない寿福寺がGW中開放されご本尊が拝めるとのこと。2メートルを越す室町期の脱活乾漆製釈迦如来だという。寿福寺に行ってみると中に入れ、中央に大きな釈迦如来が鎮座していた。本堂の外からの拝観で双眼鏡でのぞきかんだが赤黒い釈迦如来で、運慶の大日如来に似た高い髻(もとどり)が特徴的だ。しかし室町期の仏像のため鎌倉仏のような迫力は感じられなかった。気を取り直して鎌倉国宝館に向かった。「特別展鎌倉の至宝」が開催されており、清雲寺(横須賀)の「観音菩薩」が特別公開されていた。大陸風なくつろいだ姿勢の「遊戯座(ゆげざ」の観音様だが、展示のため華麗な宝冠がはずされておりがっかりした。同時開催している「鎌倉の仏像展」のほうに見るべき仏はあった。鶴岡八幡宮愛染堂にあった愛染明王は有力運慶派仏師の手による迫力ある仏像だ。ほかに寿福寺から預託されている鎌倉期の地蔵菩薩が素晴らしかった。鎌倉国宝館では今年の秋にも「鎌倉と密教美術」という特別展が開催され、明王院の五大明王や慶派仏師作の伊豆修善寺大日如来などが出展される予定だ。足しげく通いたいものだ。

2011年5月5日木曜日

白洲正子神と仏、自然への祈り展③(細面な十一面観音)

今回の展覧会では、ほとんど素朴で味わい深い仏像ばかりであるが、この十一面観音は南山城・海住山寺から来たため、洗練された美しさがある。U案内人はそこが気に入ったのか写真で見るより細面で美しい観音様だと絶賛していた。普段は奈良国立博物館にあり、毎年10月にだけお寺で公開される観音様だ。像高は50センチもみたないかわいらしい仏でカヤの一木作りで壇像彫刻を代表する洗練された十一面観音だ。とてもバランスがとれた体つきで、作者の高度な技量を感じさせる名品だ。とくに衣文が流れるように下にたれておきながら重厚さを併せ持つところなどは小気味いい。すこし腰をひねってたつすがたに魅了された。展覧会場でひときわ異彩を放っていた仏像だった。

2011年5月3日火曜日

手塚治虫のブッダ展

昨日、東京国立博物館に「手塚治虫のブッダ展」を見に行った。漫画の神様手塚治虫が10年以上の歳月をかけて描いた「ブッダ」の原画と仏像で釈迦の生涯をたどる展覧会だ。会場の本館特別5室は本館の中央にある部屋で会場に入ると森をイメージした照明がされており静かにブッダの生涯をたどれるようになっている。若いころ漫画「ブッダ」は夢中に読んだものだが、これを機会に改めて読み直していたので、会場の原画がどこの場面を描かれているかよくわかった。漫画と仏像でたどるブッダの生涯がコンセプトなこの展覧会では今までなにげなく見ていた仏像が釈迦の一生のどの場面を描いているのかがわかり、とても面白かった。パキスタン・ペシャワール周辺で発掘されたこの仏立像は典型的なガンダーラ仏(東京国立博物館蔵)で、漫画ブッダの姿に非常によく似ていた。頭はパーマのように髪の毛があるのも日本の仏像と違うところだ。そのほか深大寺の釈迦如来なども間近に露出展示でみれたのは収穫だった。ショップで絵葉書とクリアファイルを購入して博物館をあとにした。

2011年4月30日土曜日

癒しの仏(法界寺の阿弥陀如来)

平成21年に紅葉に染まる京都を訪れた。1日目は大原、2日目は山科の寺を回り伏見日野の法界寺にむかった。お目当ては平安時代後期の阿弥陀如来だ。定朝様式阿弥陀でしかも丈六だ。「TV見仏記」ではご住職が堂内の壁画を赤外線をあてて説明されていたが、あいにくご不在とのこと一人静かに阿弥陀堂に入った。堂内は暗かったが、しだいに目が慣れてくると、上品上生(じょうぼんじょうしょう)の印を組んだ阿弥陀様の顔がうかんだ。期待通りの名品でふっくらとした頬とかわいらしい口元でまるで赤ちゃんのお顔のようでとても癒された。豪華な天蓋の下、阿弥陀は光背に飛天を配していた。光背は飛天の衣のみで出来ているこったつくりで、印象としてはさわやかな風を背負っているように見えた。全体の雰囲気は定朝様式でまとまっており、若いころ見た平等院の阿弥陀如来より私は好きだ。飛天は壁画や柱にも描かれており、双眼鏡でじっくり堪能した。ここ法界寺は団体で訪れるような観光客もなく静かに阿弥陀と対峙ししばしの極楽浄土を味わった。大きな仏像の写真が売られていたので購入し秋深まる境内をあとにした。

2011年4月29日金曜日

白洲正子神と仏、自然への祈り展②(神像のような十一面観音)

白洲正子神と仏、自然への祈り展で私が期待していた仏像が、神奈川伊勢原宝城坊の薬師三尊、海住山寺の秘仏十一面観音とこの三重観菩提寺の十一面観音だ。残念ながら伊勢原宝城坊の薬師如来は地震の影響か出展されなかったが、この仏像は三十三年に一度の御開帳が昨年にあたり、そのまま展覧会に出展されることになった。思ったより顔が小さかったが、2メートルある堂々とした観音だ。白洲正子も代表作「十一面観音巡礼」のなかで「***神秘的な印象を受けた。仏像というよりも神像に近い感じだ。」とのべている。私が見入っているとU案内人がぽつりと「くちびるに色が残っている」とつぶやいた。平安仏だがいまでも色が残るのは秘仏だからだろう。ふだんは木津川沿いの古刹観菩提寺の厨子の中にあり、展覧会に出展されなければまずおめにかかれない仏像だ。私は飽くことなくこの十一面観音をながめていた。

2011年4月24日日曜日

白洲正子神と仏、自然への祈り展①(ノーブルな十一面観音)

昨日、暴風雨の中世田谷美術館の「白洲正子神と仏、自然への祈り」展に仏像クラブのメンバーで行ってきた。この展覧会は随筆家白洲正子が後半生を通して出会った仏像・神像や面など120点を一堂に会し白洲正子の紀行文とともに見られるユニークな展覧会だった。私はこの展覧会のために白洲正子の「十一面観音巡礼」を読み込んでいたのでゆかりの仏像や神像を目の当たりにできてとてもよかった。展示構成は「自然信仰」「かみさま」「西国巡礼」「近江山河抄」「かくれ里」「十一面観音巡礼」「明恵」「道」「修行の行者たち」「古面」とエッセイの表題ごとになっている。展示品の横には必ず白洲正子のエッセイの一文が添えられており多くの文章と展示品を鑑賞しながらであったためゆっくりと鑑賞できた。NHK「日曜美術館」でも番組をやっていたので展覧会場の様子がわかっていたのでよかった。特に「十一面観音巡礼」のコーナーではいずれも正子独自の美意識に基づいた観音がところせましと並んでいて圧巻だった。中でも正子個人で所蔵していた平安時代の十一面観音はすばらしくテレビで言っていたが、「ノーブル」(気品があり高貴なさま)であるという言葉がぴったりな作品である。化仏が顔も判別できないほどすりへっており、それがこの仏像になんと言えない「気品」を漂わせている。帰りに二子玉川の高島屋のそばやで昼食をとりながら、白洲正子の愛した仏像について熱く語る仏像クラブの面々だった。

2011年4月16日土曜日

光の中の仏たち(奈良 西大寺)

昨年の7月、奈良国立博物館で「聖地寧波(ニンポー)展」を鑑賞したあと西大寺に向かった。本堂に入るとあたり一面、オレンジ色の光に覆われていた。無数の燈籠が壁のように並び、堂内を光で染めていたのだ。その先に仏像郡がたたずみ穏やかな眼差しを向けていた。正面に釈迦如来像があった。先ほど見てきた清涼寺の釈迦如来の摸刻像だ。私はこちらの仏様の方が日本的な穏やかな顔つきをしており、気に入った。右には鎌倉時代の高僧叡尊三十三回忌のためにつくられた大きな弥勒菩薩がありこちらもすばらしい。「見仏記」でいとうせいこう氏が愛してやまない文殊菩薩があったが、さほどのの感動はなかった。獅子に乗り、四人の眷属を従えた坐像である。右下には善財童子があり、灰谷健次郎の「兎の目」において、童子が美しい子供のイメージで描かれている。本堂を出て四王堂を拝観した。こちらには4メートルをこす平安時代の十一面観音が中央にあり、奈良時代創建の四天王がまつられていた。創建当時の四天王は焼け鎌倉から室町に再興され、下の邪鬼だけが奈良時代から残っている。展覧会の帰りに寄った西大寺は見ごたえがある寺だった。

2011年4月9日土曜日

鎌倉極楽寺の二つの釈迦如来


今日は鎌倉の極楽寺で御開帳があるということで仏像クラブで出かけた。小雨が降るあいにくの天気だったが、お寺につくと御開帳のため受付の準備がされているのでひと安心した。転法輪殿(宝物館)に入ると中央に秘仏の釈迦如来立像、右に釈迦如来坐像と十大弟子像がおかれていた。釈迦如来立像はいわゆる清涼寺式釈迦如来で鎌倉時代の作だという。奈良の国立博物館でみた京都清涼寺の釈迦如来に比べて和風な感じがする仏像だ。右におかれた釈迦如来坐像は鎌倉時代善慶の作と伝える名作だ。お寺の方の説明によると極楽寺の十三重塔の二層目に安置されていたという。印相は説法印で転法輪印とも呼ばれていおり、悟りを開いた釈迦が始めて説法をしたときに、心理を説くことを車輪が回ることにたとえたた姿だ。一方の手は弟子たちにもう一つの手は釈迦自身に向けられている特徴のある印相だ。本堂でも不動明王や文殊菩薩像も今日は間近で拝観できてよかった。会員でお昼にちらし寿司を食べながら極楽寺の仏像について熱く語った。

2011年4月2日土曜日

深大寺の釈迦如来

平成21年の盛夏の7月に仏像クラブで深大寺を訪れた。深大寺のお目当ては、「釈迦如来倚像(いぞう)」という像高わずか60センチの白鳳時代の仏像だ。関東最古の仏像といわれるだけのことはあり、白鳳時代の仏の表情をしており、優美に座すお姿を拝するだけで心が洗われる。椅子に座り静かに微笑む表情がとてもよい。大きな眉が円を描き上瞼(うわまぶた)が弧を造り、小さな口が童子のような表情を示す。同じ白鳳仏では興福寺の仏頭が有名だが、興福寺の仏頭は青年のような凛々しいお顔しているのに対し、深大寺の釈迦如来は幼子のようなあどけない表情だ。指はかけているが、他はほぼ完璧に残っており白鳳仏なのにあまり古さを感じなかった。一説には土の中に埋まったものを掘りだしたといわれている。
苦難の末に、悟りを開いた釈迦は清純な微笑をその顔にたたえるという本に解説されていたが、改めて釈迦の一生について知りたくなった。今年の春に「手塚治虫のブッダ」が映画化され、東京国立博物館でも記念の展覧会が開催される。本作も出展され近くで拝する機会に恵まれるらしい。釈迦の一生を知るいい機会なので足を運んでみようと思った。

2011年3月26日土曜日

黒石寺の薬師如来

平成21年の夏岩手を旅した際、黒石寺を訪れた。最近はお寺でもホームページを開設しているところが多く、黒石寺にはHP上で訪問する旨のメールを事前に出しており、お待ちしていますとの返事をもらっていた。お寺についてのが少し早かったので、電話して案内をお願いした。収蔵庫の中に黒々とした薬師如来が居られた。堂内は外の夏の日差しのせいで暗く感じ、目が慣れるにつれて仏像の全体像が浮かび上がった。吊りあがった目、突き出した唇異相の迫力が印象的だった。見仏記には顔が長いと書いてあったがさほど感じなかったが、パンチパーマのようなボコボコと髪が固まった、いわゆる螺髪(らほつ)の粒は大きかった。「九世紀の貞観仏(じょうがんぶつ)の規範となった仏像です。」とお寺の方が誇らしく語っていたのが印象的だった。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時期に作られた。蝦夷の長アテルイなる人物とかかわりがある仏像だという説もある。本堂には日光・月光菩薩と大きな四天王がありこれまた東北的な素朴で力強い作品だ。黒石寺はここには確かにひとつの文化があったと感じさせる寺院だった。

2011年3月19日土曜日

興福寺の金剛力士像

平成20年奈良を訪れた際、興福寺国宝館に向かった。当時は蛍光灯の下ガラス張りで仏像を拝観する方法がとられていて、あの100万人が見た阿修羅像もいまいち迫力がなくあまり印象に残らなかった。しかし鎌倉時代の金剛力士だけは別だった。あうんの金剛力士像に目を奪われた。首すじに血管が表現され慶派のリアリズムを追及した表現がよく現れている。あうん双方の金剛の前では誰もが息を詰めてしまうだろう。仏師定慶の作だといわれている。この
定慶は作品が多く残っているが、運慶の父康慶との師弟関係もはっきりしない謎の仏師だ。東金堂の十二神将など定慶の作だといわれている。運慶に勝るとも劣らない力量がある。興福寺国宝館は昨年リニューアルして露出展示や照明などが変わったため、より迫力が仏像が鑑賞できる。機会があればまた訪れてみたいと感じた。