2026年9月24日木曜日

三重の仏像2026④(神宮寺多聞天・持国天)


 竹成大日堂のあと、バスでJR四日市へ。そこに乗り入れてる伊勢鉄道で鈴鹿サーキット稲生駅に降り立った。住宅街を抜けると神宮寺についた。予約していたので奥様が快く迎えてくださった。さっそく収蔵庫を開けてもらい仏像を拝観した。こちらには国重文の小ぶりな81センチ余りの薬師如来立像(11世紀~12世紀一木造)と国重文等身大の持国天・多聞天(10世紀一木造)及び三重県指定の淳和天皇と伝わる男神像が祀られていた。こちら神宮寺は聖武天皇の御代光明皇后により全国に作られた施薬院の1寺という古い縁起の寺院だ。持国天・多聞天は、現在二体一具の像として伝来している。寺伝によると行基が伊那富神社内に天平年間に製作し明治の神仏分離で現在の地に移転している。両像とも鎧兜をつけて邪鬼を踏みつける一般的な姿で、動きの少ない落ち着いた姿勢を示す。持国天は顔をやや右下に向け、右手を体側に沿って穏やかに下げ宝剣を持つ。左手は胸前に挙げて掌を上にして第一・二指を捻じる。多聞天は右手を腰、左手は屈臂して胸前で多宝塔を捧げ持つ。材質はクスノキで頭部から邪鬼に至るほとんどを一材でつくり腕・手先は別材。瞳やひげを墨で描く。神宮寺の仏像のなかで一番古いがその出来にぐっときた。本堂に移り、薬師如来と像高1メートルの深沙大将(11世紀~12世紀一木造)を拝観した。神宮寺は見所も多く謎の仏像もありあっという間に電車の時間が近づいていたので、裏道を案内してもらい駅について。三重にはMOOKに紹介されていない公開寺院の素晴らしい仏像があると感じた。

2026年9月15日火曜日

三重の仏像2026③(和具観音堂の十一面観音)


本日は鳥羽から賢島に出て、英虞湾連絡船に乗って和具に着き、世話人の方の車で港に迎えに来てもらい、仏像を拝観した。まず国重文の金堂仏で手が欠けていなければ国宝という平安時代の珍しい金堂仏。像高は16センチ余り。奥にの十一面観音と薬師如来という配置。十一面観音は像高173センチ。頂上に仏面、髻の側面に二面、地髪部に八面の頭上面を配し、化仏は現在失われいる。条帛、天衣をかけ、裳を着し、膝間に渦もんを掘り出す。世話役の方の話では錫杖の持ち方が長谷寺の観音様に習っている。彩色については不明。市場寺のようには残っていないことから、平安初期の貞観仏と私は感じた。世話人のかたが地域にも和具観音堂が知られていないことを嘆き、毎週日曜日の開帳や年1回のお祭りなどを通じて、「地域の宝物」を知ってもらうとともに、漁業関係者ばかりでなく多くの人々に「祈りの場所」を提供しているすばらしい試みをされているのに感動した。すばらしい仏像を拝観しているとあっという間に帰りの連絡船時間が近づき港まで送って頂き英虞湾の島々の風景を見ながら、和具観音堂の今しか見れない仏像の姿に思いを馳せた。


三重仏像の旅2026②(市場寺の四天王)


今日(9月14日)は名張からバスで市場寺の近くの停留所に向かう予定だったが、乗り遅れ急遽タクシー利用した。名張街道から市場寺までけっこう距離があったので、タクシー利用が正解だった。市場地区の総代さんの案内で収蔵庫にある四天王、阿弥陀如来を見せて頂いた。市場寺は真言宗豊山派で頂いた案内によると、創建年代は不確か。少なくとも鎌倉期まで遡れるとのこと。しかし何故か、阿弥陀如来、四天王共に平安時代後期の寄木造で所々に彩色やキリ金が残る。同時期の仏像で四天王は鎧をつけて邪気二体を1つ天部が踏みつけ、それが1体も欠けてない奇跡的な四天王だ。また四天王は左右二体ずつ、足の踏み下げや腰の捻りで相対的に立ち四体の群像としての動きを巧みに表現していることは、現地で見なければわからないことだった。創建時代のズレはここ伊賀は奈良にも京都にも近いことからどちらから流れて来たのではないかという総代さんの説明だった。そんな楽しい話しをしたらあっという間に時間が過ぎ、親切に阿弥陀寺まで送って頂き有り難かった。阿弥陀寺までの車窓から雲が低く垂れ込めて幻想的な風景が拡がっていた。総代さんが伊賀地区ではよく見られる珍しい景色だと説明してくれたが、さすが神々が棲む伊勢に近い地だと感じた。二日目にして素晴らしい仏像に出会い三重の旅が思い出深い旅になった。


2026年9月13日日曜日

三重仏像の旅2026①(竹成大日堂の大日如来)


十年前にいとうせいこう、みうらじゅんの東海地方の仏像の本をきっかけに愛知・岐阜・三重の仏像巡りを行ったが、今回またMOOKと再編集され「ときめく仏像めぐり」となって装いも新たに出版されたことがきっかけで三重仏像の旅に出掛けた。本日まず向かったのは、菰野町(こものちょう)にある竹成大日堂の金剛界退蔵界の二体の大日如来だ。大日如来の印相は智賢印と定印。室町時代の木造で像高1メートル。檜の寄木造り、宝鬢を結い天冠台を彫出、地発は畝分け、毛筋を刻む。白毫を表し、耳朶は長く環状をなし、三道彫出する。竹成地区の世話役の方の話しではもとは奈良の朝護孫子寺の近くにあった神社の仏像が廃仏毀釈の折投棄されるのを菰野町松樹院の和尚が貰い受け、今は竹成地区で管理しているとのこと。作者は湛慶という言い伝えだとの説明だったが天板裏側の写真を見せてもらったが、運慶の大日如来と同じように墨書がありいかにも慶派の仕事に見え湛慶派の作は間違いないと感じた。あっという間にバスの時間となったので御朱印を貰い、慌てて五百羅漢石仏の写真を撮り、四日市の町にトンテキを食べに戻った。三重に来ていきなり楽しい時間を過ごせた。明日の伊賀松阪の仏像も楽しみだ。


2026年9月5日土曜日

大倉集古館企画展「祈りと救いの美」(国宝 普賢菩薩)


 本日(9月4日)大倉集古館の国宝普賢菩薩が4年ぶりに公開されると知って、虎ノ門の大倉集古館に出かけた。大倉集古館は明治の大実業家大倉喜八郎が廃仏毀釈による仏教美術の海外流出を憂い保護に努めた美術品を展示公開する美術館でその中に国宝の普賢菩薩もあった。2Fの展示室のガラスケースにその普賢菩薩が展示されていた。4年前も偶然大倉集古館を訪れていたが、今回は360度どの方向からも鑑賞でき、しかも写真撮影もOKとのこと。じっくりと鑑賞できたが、説明文ではもの足りなく、国宝なのに製作した仏師がだれか、どこのお寺にあったものかなど疑問がわきでて来た。東博ミュージアムショップで東京国立博物館研究誌「MUSEUM」を購入し、1999年に普賢菩薩が東博に出品されたおりの、山本先生や3人の学芸員(当時)の報告書が掲載されていた。それによると普賢菩薩は宝冠を別材で製作し被っていたことや、天衣や条帛を複雑に表わし、銅版製の腕釧の意匠は青ビーズ珠を載せ、今はない胸飾・瓔珞の痕跡がみられるとのこと。また普賢菩薩を乗せる象はオス象で生殖器を表わしている。衣には緑青・群青・丹などの彩色の上に截金文様をほどこす。驚くべきことに大倉集古館普賢菩薩は仏像はもとより蓮華座・象と象座ともに当初のものとのこと。制作時期はその造法や作風、彩色法、切金文様の趣等から平安時代後期。普賢菩薩は釈迦三尊の脇侍として作られるが、彩色・切金で仕上げる本像は独尊像。肝心の制作者は以前鳥羽離宮の安楽寿院阿弥陀像に似ていることから、長円ないし賢円ら円派仏師を想定する説があるというだけにとどめていた。いずれにしても大量に仏像が製作された院政期に穏和・優美な定朝様の特徴をさらに増幅しかつ洗練させた、「美麗の仏」のひとつであることは間違いないだろう。