2026年11月8日日曜日

特別展「足利樺崎寺と運慶」-二体の大日如来-

 


昨日(11月6日)久しぶりに半蔵門ミュージアムを訪れ特別展「足利樺崎寺と運慶」を鑑賞した。何度も見ている運慶の二つの仏像だが、独立したガラスケースに別々に360(さぶろくまる)に鑑賞でき、光得寺像は仏像本体と厨子内の37尊曼荼羅図・台座・獅子が別々に置かれていた。元々本日(7日)の講演のオンライン聴講とセットで鑑賞しようとの試みであったが、たいへん興味深い講演だった。最初に史跡足利学校学芸員大澤氏から、樺崎寺の発掘調査の講演があり二体の大日如来はともに足利義兼の発願で半蔵門ミュージアム像は1193年樺崎寺下御堂に光得寺像は足利義兼病没に1199年前後の制作とのこと。発掘調査から下御堂から青白磁の壺が発掘され中に50代と40代の女性と思われる骨が埋葬されたとのことだった。第二部は山本館長の登場で二つの大日如来の伝来と足利義兼と源頼朝が同じ河内源氏で義兼が頼朝の義弟で妻が姉妹(北条政子と時子姉妹)であること。運慶が京・奈良・鎌倉三都で活躍し半蔵門ミュージアム像と光得寺像が共に建久年間の造像で同時期に荒法師文覚の依頼で東寺講堂修理を行ったことが運慶の大日如来の作風の変化に表れ光得寺像は平安初期承和完成の東寺講堂創建本尊の資料と一致しているとのこと。また運慶は京都蓮華王院(三十三間堂)五重塔に四体の大日如来を作成した記録があり、鶴ヶ丘八幡宮寺塔に金色の大日如来と四智如来六躯の造像の記録があったとのこと。つまり承和の東寺創建の大日如来が蓮華王院塔に鶴ヶ丘八幡宮寺で上げ底四季内刳りと像内納入品が完成し半蔵門ミュージアム像につながった東寺講堂型大日の東国伝播につながっているとのこと。また半蔵門ミュージアム像がだれの供養のためかについても下御堂の発掘された骨が瑠璃王御前と薬寿御前という足利義兼の母の供養だったこと、鶴ヶ丘八幡宮寺が頼朝の母由良御前三十回忌の造像だったことがかたられ、円成寺大日如来から光得寺大日如来まで大日如来は若き日以来運慶が試み続けたテーマであることが熱く語られた。いつものがら山本館長の熱血講義には感服した講演だった。


2026年11月4日水曜日

東京都文化財ウィーク2026(善明寺鉄造阿弥陀如来)


 本日(11月3日)東京都文化財ウィーク特別公開寺院の府中市善明寺に仏像クラブで出かけた。JR南部線府中本町が歩いてすぐ、大國魂神社のすぐ近くに善明寺はあった。入口でパンフレットをもらい、まずは本堂にお参りしてから「金仏堂」の二体の阿弥陀如来座像・立像を入口から拝観した。鎌倉時代に関東で流行った鉄製の仏像で像高178センチの座像で現存する鉄仏のなかで最大。鎌倉時代の仏師藤原助近の作で建長5年(1253年)に製造されたことが左胸の衣部に陽鋳されている。中央が下がった髪際の形や、頬骨の高い顔だちには鎌倉時代の宋風仏像の特徴がよく示されている。四角くて味のあるやや黒い顔をしている。鉄仏の流行は粗放で豪快な作風が東国武士に好まれたためとも想像される。銅より困難な鋳鉄像をあえて生産しようとした当時の鋳物師たちの心意気に感銘した。この銅像阿弥陀如来は当初武蔵国分寺の鉄谷にあったと伝えられ、大國魂神社を経由して明治の神仏分離で善明寺に移された。脇の小さな阿弥陀如来は阿弥陀如来座像の胎内仏で製作時期は同じと考えられる。参拝を終え七五参で賑わう大國魂神社の参拝し、近くの食事処で大いに語り合ったら仏像クラブの面々だった。

2026年11月1日日曜日

みほとけのキセキⅢ


本日、浜松市美術館で開催中のみほとけのキセキⅢという三遠駿の仏像オールスターが集めた展覧会に出かけた。このテーマの展覧会は2021年から開催され三回目の仏像展で毎回メインの仏像が変わるユニークな展覧会だ。浜松駅からバスで浜松城がある公園に向かうと瀟洒な建物が現れそこが、浜松市美術館だ。一階の展示室は浜松周辺の仏像で、2019年の夏に訪れた千手観音の美術院で綺麗に修復された姿に感動したり、浜松陽向院のお腹が出た十一面観音に癒されたり、定光寺の千手観音の持物の多さ多彩さに驚かされた。二階は東三河の格好よい仏像のオンパレードだ、やはり静岡新光明寺の阿弥陀如来は素晴らしい。詳しくは次回にするが、充分楽しめた展覧会だった。担当学芸員とも話が出来、大満足な展覧会だった。


2026年10月28日水曜日

三重の仏像2026⑥(松阪薬師寺薬師如来)


 三重の仏像で最後にご紹介するのが、松阪薬師寺の薬師如来だ。近鉄松阪駅からタクシーで薬師寺に向かうと現場は修復中で電話で住職の許可を得てお堂のなかに入った。中には薬師三尊や四天王・十二神将と多くの仏がおられた。薄暗がりの中、目が慣れてくると、図録「三重の仏像」で掲載された三重県指定文化財の平安時代後期の薬師如来に出会うことができた。薬師寺の本尊で右手は施無畏印を結び、左手は膝上において薬壺を執る像高83センチの一木造。衲衣を偏袒右肩に着し、左右を上に結跏趺坐する通有の姿につくる。体幹部他はヒノキの一材から彫り出し、これに右肘先、膝前材、その他若干の材を矧ぎ寄せる。後頭部と背部の二カ所から内矧を施すが、内矧は相通じず、また背面の内矧は地付に達する。後頭部は一材、背部は上下二材からなる背板を当てる。右耳、両手、薬壺、両足一部に彫り直しが認められる。全体に量感に満ちた、重厚な印象が感じられ、圧倒的な迫力を持って迫ってくるような、実際の大きさ以上の印象を与える仏像だ。衣文も太く粘りのある線で構成され、特に左半身の脇から上膊にかけて見られるロープを二つ折りにしたような衣文表現は本像の造形的な特徴となっている。製作時期は10世紀前半としたが、やや遡る可能性も考えられる。伝来については不明だが松阪で見るべき仏だと思う。

2026年10月24日土曜日

弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」⑤(高野山金剛三昧院千手観音)

 


2011年に高野山を訪れた際、宿坊は金剛三昧院と決めていた。高野山の宿坊を紹介した本に運慶(?)作愛染明王が宿泊者のみ拝観できるとのことが決め手だった。その後新TV見仏記高野山編でも愛染明王が紹介されたが、衝立の裏のガラスケースに安置されていたのがこの千手観音とは知らなかった。高野山訪問から15年がたち「空海と真言の名宝」展で念願の拝観ができた。頭上に十一面を戴く鎌倉時代の千手観音像。カヤとみられる針葉樹材による一木造で、内刳りをほどこさない。板状の材一枚に浮彫風に刻む小脇手は右のみ残るが、後補とみられる。表面は素地仕上げとし、衣には截金による装飾をほどこす、いわゆる代用檀像である。金剛三昧院は源頼朝追善供養のために1211年北条政子によって高野山に創建された禅定院を前身とし、1219年源実朝の菩提を弔うために改築し寺号を金剛三昧院と改めた。本像の伝来はあきらかではないが、その製作年代は同寺創建期にさかのぼるものとみられる。また、本像には抑揚をつけない上瞼の表現、弧を描く天冠台、翻波式の衣文表現などの復古的要素が認められる。即断はできないが、なにがしかの由緒をもった古仏の模刻像である可能性を想定する必要があるかもしれない。これからも見仏記の二人しか見たことがないほとけを求めて機会があれば展覧会を訪れたいと思う。