2026年9月5日土曜日

大倉集古館企画展「祈りと救いの美」(国宝 普賢菩薩)


 本日(9月4日)大倉集古館の国宝普賢菩薩が4年ぶりに公開されると知って、虎ノ門の大倉集古館に出かけた。大倉集古館は明治の大実業家大倉喜八郎が廃仏毀釈による仏教美術の海外流出を憂い保護に努めた美術品を展示公開する美術館でその中に国宝の普賢菩薩もあった。2Fの展示室のガラスケースにその普賢菩薩が展示されていた。4年前も偶然大倉集古館を訪れていたが、今回は360度どの方向からも鑑賞でき、しかも写真撮影もOKとのこと。じっくりと鑑賞できたが、説明文ではもの足りなく、国宝なのに製作した仏師がだれか、どこのお寺にあったものかなど疑問がわきでて来た。東博ミュージアムショップで東京国立博物館研究誌「MUSEUM」を購入し、1999年に普賢菩薩が東博に出品されたおりの、山本先生や3人の学芸員(当時)の報告書が掲載されていた。それによると普賢菩薩は宝冠を別材で製作し被っていたことや、天衣や条帛を複雑に表わし、銅版製の腕釧の意匠は青ビーズ珠を載せ、今はない胸飾・瓔珞の痕跡がみられるとのこと。また普賢菩薩を乗せる象はオス象で生殖器を表わしている。衣には緑青・群青・丹などの彩色の上に截金文様をほどこす。驚くべきことに大倉集古館普賢菩薩は仏像はもとより蓮華座・象と象座ともに当初のものとのこと。制作時期はその造法や作風、彩色法、切金文様の趣等から平安時代後期。普賢菩薩は釈迦三尊の脇侍として作られるが、彩色・切金で仕上げる本像は独尊像。肝心の制作者は以前鳥羽離宮の安楽寿院阿弥陀像に似ていることから、長円ないし賢円ら円派仏師を想定する説があるというだけにとどめていた。いずれにしても大量に仏像が製作された院政期に穏和・優美な定朝様の特徴をさらに増幅しかつ洗練させた、「美麗の仏」のひとつであることは間違いないだろう。

2026年8月30日日曜日

弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」④(須磨寺十一面観音立像)


 須磨寺は『源氏物語』などの古典文学や『平家物語』の歴史をいまに伝える名刹だが、訪れたことはなかった。週刊古社名刹巡拝の旅という週刊写真雑誌でこの十一面観音立像の写真が掲載されていたが、こんな素晴らしい仏像だとは思わなかった。本像は高さ54センチの小ぶりな流麗な作りの十一面観音。表面は素地仕上げとするものの、赤褐色を呈するのは希少材である檀木のうち赤栴檀を意識してなんらかの染料を薄く塗っているとみられる。眉ははっきりと刻み、鋭い眼差しをみせながらも目尻の上がり具合は控えめである。下半身にまとう衣の端をにぎやかに表わす造形と合わせて、鎌倉時代中期頃の制作とみられる。なお、光背は頭光の位置が合わず、台座は蓮肉上面に像本体を差し込むための枘穴を改変した痕跡があることから、これらは他像からの転用とみられる。台座には近世の筆で寛元三年(1245年)安阿弥(快慶)の作とする伝承、北条時房の室の持仏であったことが記されている。ここからは私の推測だが、承久の乱のおり後鳥羽上皇を京から追い出し隠岐に配流しそのあと六波羅探題にいすわったのが北条時房。その死を後鳥羽上皇ののろいと京わらべがうわさしたことから、あながち単なる伝承とも捨てがたい。ひとつの仏像にもいろいろな歴史が刻まれていると感じた。

2026年8月27日木曜日

特別展「神仏の山 吉野・大峯」④(勝手神社勝手明神)


 2024年5月に吉野を訪ね桜本坊へ行く途中に勝手神社を通ったが、このように素晴らしい神像があるとは知らなかった。今回初公開の勝手神社勝手明神は鎌倉時代の快慶派仏師慶観の作。図録には現存する五体と平成13年の火災で焼失した8体の写真も公開されており悔やまれる。ヒノキとみられる針葉樹の割矧ぎ造りで、両腕や両脚部以下に別材を矧いでおり、兜を別にかぶせる点、両腕を蟻枘で接合する点に特色がある。表面は全身に布貼りした上に、彩色と截金を交えて多様な文様がほどこされる。持物の刀は茎(なかご)「刀身の柄に入った部分」に『備前長船守元』の刻銘があり、同銘の類品から十四世紀末ころの作とみられる。武神にふさわしい精悍な顔だちで、勇壮な姿には神威が感じられる。承久の乱の前を前に後鳥羽上皇が1206年からほぼ毎年武具類を奉納したという記録から山口学芸員は1210年代あたりに造立の契機があったと考えたいとのこと。鎌倉幕府にも知れないで密かに神社に秘されていたことは興味深く、後醍醐天皇が吉野朝を開いた意味も納得できる。秘された歴史を感じながら次の作品に向かった。


2026年8月16日日曜日

弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」③(東寺の二間観音)


 8月7日(金)に日本橋で「真如堂の名宝」展を見た後、先月にも行った「空海と真言の名宝」展に向かった。前回は予定があったので仏像中心に急いでまわったが、今回は夜間拝観日にあたり午後8時までの入場時間であるため、前回借りなかった音声ガイドを聞きながらの拝観となった。話題になっている高野山深沙大将のドクロが光る演出を確認したり、単眼鏡でより細部まで鑑賞しているうちに、第一章だけで1時間を費やした。急遽購入した単眼鏡の威力が発揮したのが東寺の二間観音だ。空海が進言して始まった秘儀「後七日御修法」のうち観音供の本尊で鎌倉時代に製作された、像高25センチ足らずの聖観音・梵天・帝釈天の三尊が宮中でおこなった場所にちなんで「二間観音」と呼ばれている。製作年代は諸説あるが、建長8年(1256年)に円派仏師・隆円が造立した記録が有力だ。隆円は三十三間堂の千手観音再興像をもっとも多くつくった円派仏師の棟梁的存在。二間観音は白檀製で衣に切金文様を施しており美しい。今回は単眼鏡でその切金文様を余すところなく鑑賞できた。金属製の精緻な光背は当時のもので当代一流の工人たちの技術が結集されている。NHKの番組で話題になった宝冠の後ろに隠れている化仏は単眼鏡をもってしても僅かに確認できる程度の小ささでその超絶技巧に驚かされた。南北朝の動乱のおり後醍醐天皇が吉野に持ち出したが、その後三種の神器とともに返還されたエピソードも興味深い。音声ガイドを聞きながらじっくり鑑賞し次の展示に向かった。

2026年8月9日日曜日

特別展「京都・真如堂の名宝」①(福田寺地蔵菩薩)


 今年の春に龍谷ミュージアムで開催された展覧会が三井記念美術館でも開催されていたので、先週の金曜日猛暑の中でかけた。この展覧会では真如堂の檀家である三井家の展示に多くのスペースがさかれ、仏像は真如堂の仏像と同時代の仏像が同じ大きな部屋に展示してあった。改めて見ても福田寺の地蔵菩薩は異彩を放っていた。2019年に福田寺を訪れているが龍神目当てで地蔵菩薩・釈迦如来の拝観は依頼していなかった。解説では左手を屈臂して宝珠を捧げ、右手は屈臂して第一・三・四指を捻ずる。(寺では錫杖を持つ)台座蓮肉も含め全体をヒノキの一材から彫出しており、体躯のみ背面から内繰り、長方形の蓋板を当てている。現状古色に覆われているが、当初は彩色を施さない素地仕上げであったかと思われると記載されている。今回の出展にあたりはじめて調査がはいったと思われる無指定の地蔵菩薩だ。寺の縁起では福田寺創建のおり行基菩薩が彫ったという寺伝が残されている。図録には体躯は腰から脚部にかけて量感に富み、大脚部の衣文を省略して肉付きを強調するところは京都・神護寺薬師如来をはじめとした八世紀から九世紀の立像にしばしば見られる形式を踏襲している。製作は九世紀から十世紀初めと思われるとのこと。やはりこの地蔵菩薩に他にない迫力を感じたのは神護寺薬師如来を初めて拝観した感覚と同じだった。真如堂本尊を遡る古例な仏像であることは間違いないであろう。