2026年9月30日水曜日

弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」⑤(覚園寺の地蔵菩薩)


三度目になる「空海と真言の名宝」展にでかけたのが、会期末の9月5日だった。8月18日からの後期展示に2007年12月にU案内人と二人で仏像クラブとして訪れた 鎌倉覚園寺の地蔵菩薩が出品されるからだ。覚園寺の前身は執権北条泰時が創建した大倉薬師堂だが、そこには運慶が製作した今は亡き十二神将についてU案内人と熱く語ったのが懐かしい思い出だ。そのときこの地蔵菩薩を拝観したが印象薄かった。像高170センチの堂々とした地蔵菩薩で張りのある顔つきや意志的な眼差し(玉眼)、大ぶりな衣(截金)の線など、鎌倉時代の特徴を有する。すすけて黒色化した風貌から「黒地蔵」として親しまれている。これは、地獄の業火に焼かれる罪人の代わりに火を焚いてみずから受けるために何度彩色しても一夜で黒くなってしまうという説話に基づく。たしかU案内人は8月10日夜間の0時から正午まで行われる黒地蔵縁日に参加したことがあると言っていた。今回の出展に合わせてすすを取り除いたらしく面目躍如というところだ。右手に錫杖、左手に宝珠をとり、像容は男性的で力強く、張りのある頬や厚い唇や側面感のボリュームなど、多分に慶派の特徴を備えている。多数の地蔵菩薩のある鎌倉地方にあっても屈指の優品として評価される。肝心の製作仏師だが、東博では図録に解説では何も触れていない。2005年に鎌倉国宝館で開催された特別展「覚園寺」には鎌倉末期の仏師慶禅に作風が似ているとのこと。そのへんについては鎌倉国宝館で再度特別展覚園寺が開催されればわかるであろうが、再度「覚園寺展」開催を希望してやまない。


2026年9月24日木曜日

三重の仏像2026④(神宮寺多聞天・持国天)


 竹成大日堂のあと、バスでJR四日市へ。そこに乗り入れてる伊勢鉄道で鈴鹿サーキット稲生駅に降り立った。住宅街を抜けると神宮寺についた。予約していたので奥様が快く迎えてくださった。さっそく収蔵庫を開けてもらい仏像を拝観した。こちらには国重文の小ぶりな81センチ余りの薬師如来立像(11世紀~12世紀一木造)と国重文等身大の持国天・多聞天(10世紀一木造)及び三重県指定の淳和天皇と伝わる男神像が祀られていた。こちら神宮寺は聖武天皇の御代光明皇后により全国に作られた施薬院の1寺という古い縁起の寺院だ。持国天・多聞天は、現在二体一具の像として伝来している。寺伝によると行基が伊那富神社内に天平年間に製作し明治の神仏分離で現在の地に移転している。両像とも鎧兜をつけて邪鬼を踏みつける一般的な姿で、動きの少ない落ち着いた姿勢を示す。持国天は顔をやや右下に向け、右手を体側に沿って穏やかに下げ宝剣を持つ。左手は胸前に挙げて掌を上にして第一・二指を捻じる。多聞天は右手を腰、左手は屈臂して胸前で多宝塔を捧げ持つ。材質はクスノキで頭部から邪鬼に至るほとんどを一材でつくり腕・手先は別材。瞳やひげを墨で描く。神宮寺の仏像のなかで一番古いがその出来にぐっときた。本堂に移り、薬師如来と像高1メートルの深沙大将(11世紀~12世紀一木造)を拝観した。神宮寺は見所も多く謎の仏像もありあっという間に電車の時間が近づいていたので、裏道を案内してもらい駅について。三重にはMOOKに紹介されていない公開寺院の素晴らしい仏像があると感じた。

2026年9月15日火曜日

三重の仏像2026③(和具観音堂の十一面観音)


本日は鳥羽から賢島に出て、英虞湾連絡船に乗って和具に着き、世話人の方の車で港に迎えに来てもらい、仏像を拝観した。まず国重文の金堂仏で手が欠けていなければ国宝という平安時代の珍しい金堂仏。像高は16センチ余り。奥にの十一面観音と薬師如来という配置。十一面観音は像高173センチ。頂上に仏面、髻の側面に二面、地髪部に八面の頭上面を配し、化仏は現在失われいる。条帛、天衣をかけ、裳を着し、膝間に渦もんを掘り出す。世話役の方の話では錫杖の持ち方が長谷寺の観音様に習っている。彩色については不明。市場寺のようには残っていないことから、平安初期の貞観仏と私は感じた。世話人のかたが地域にも和具観音堂が知られていないことを嘆き、毎週日曜日の開帳や年1回のお祭りなどを通じて、「地域の宝物」を知ってもらうとともに、漁業関係者ばかりでなく多くの人々に「祈りの場所」を提供しているすばらしい試みをされているのに感動した。すばらしい仏像を拝観しているとあっという間に帰りの連絡船時間が近づき港まで送って頂き英虞湾の島々の風景を見ながら、和具観音堂の今しか見れない仏像の姿に思いを馳せた。


三重仏像の旅2026②(市場寺の四天王)


今日(9月14日)は名張からバスで市場寺の近くの停留所に向かう予定だったが、乗り遅れ急遽タクシー利用した。名張街道から市場寺までけっこう距離があったので、タクシー利用が正解だった。市場地区の総代さんの案内で収蔵庫にある四天王、阿弥陀如来を見せて頂いた。市場寺は真言宗豊山派で頂いた案内によると、創建年代は不確か。少なくとも鎌倉期まで遡れるとのこと。しかし何故か、阿弥陀如来、四天王共に平安時代後期の寄木造で所々に彩色やキリ金が残る。同時期の仏像で四天王は鎧をつけて邪気二体を1つ天部が踏みつけ、それが1体も欠けてない奇跡的な四天王だ。また四天王は左右二体ずつ、足の踏み下げや腰の捻りで相対的に立ち四体の群像としての動きを巧みに表現していることは、現地で見なければわからないことだった。創建時代のズレはここ伊賀は奈良にも京都にも近いことからどちらから流れて来たのではないかという総代さんの説明だった。そんな楽しい話しをしたらあっという間に時間が過ぎ、親切に阿弥陀寺まで送って頂き有り難かった。阿弥陀寺までの車窓から雲が低く垂れ込めて幻想的な風景が拡がっていた。総代さんが伊賀地区ではよく見られる珍しい景色だと説明してくれたが、さすが神々が棲む伊勢に近い地だと感じた。二日目にして素晴らしい仏像に出会い三重の旅が思い出深い旅になった。


2026年9月13日日曜日

三重仏像の旅2026①(竹成大日堂の大日如来)


十年前にいとうせいこう、みうらじゅんの東海地方の仏像の本をきっかけに愛知・岐阜・三重の仏像巡りを行ったが、今回またMOOKと再編集され「ときめく仏像めぐり」となって装いも新たに出版されたことがきっかけで三重仏像の旅に出掛けた。本日まず向かったのは、菰野町(こものちょう)にある竹成大日堂の金剛界退蔵界の二体の大日如来だ。大日如来の印相は智賢印と定印。室町時代の木造で像高1メートル。檜の寄木造り、宝鬢を結い天冠台を彫出、地発は畝分け、毛筋を刻む。白毫を表し、耳朶は長く環状をなし、三道彫出する。竹成地区の世話役の方の話しではもとは奈良の朝護孫子寺の近くにあった神社の仏像が廃仏毀釈の折投棄されるのを菰野町松樹院の和尚が貰い受け、今は竹成地区で管理しているとのこと。作者は湛慶という言い伝えだとの説明だったが天板裏側の写真を見せてもらったが、運慶の大日如来と同じように墨書がありいかにも慶派の仕事に見え湛慶派の作は間違いないと感じた。あっという間にバスの時間となったので御朱印を貰い、慌てて五百羅漢石仏の写真を撮り、四日市の町にトンテキを食べに戻った。三重に来ていきなり楽しい時間を過ごせた。明日の伊賀松阪の仏像も楽しみだ。