2020年8月29日土曜日

安国寺の阿弥陀三尊

 2泊目を鞆の浦に決めたのは、やはり「見仏記」の影響だった。お寺が集中してあるところで見仏記のみうらじゅん氏のイラストでは大きな一光三尊像が描かれていた。広島県のガイドブックで調べてみると古くから栄えた潮待ちの港で足利尊氏15代将軍足利義昭や幕末の七卿落ち・坂本龍馬など歴史あるところだった。温泉や魚介類を前日堪能したあと翌朝早朝に福禅寺と安国寺に向かう。安国寺は足利尊氏創建の寺で毛利家の軍師安国寺恵瓊が再興したお寺だ。シュロが高く大きく繁る慎ましやか境内に入り、鎌倉時代の唐様釈迦堂に向かうと解放されており中にお目当ての一光三尊像に出会った。鎌倉時代作で彩色はすでになく黒光りしていた。像高は170センチ舟形光背に至っては313センチの巨像だ。尾道の光明寺で厨子が閉まっていたので見れなかった一光三尊像だが、ここでも脇侍が修復中で縁がなかった。美し顔立ちの仏像で見仏記によると聖林寺十一面観音を思い出させるような遠い哀しみと慈悲を感じさせる、まことにレベルの高い阿弥陀如来だ。これから尾道に向かいしまなみ海道へ向かう予定があったのでホテルで手配してあるシャトルバスに乗るために近くの欧風亭というホテルに向かった。



2020年8月22日土曜日

大聖院の不動明王

タクシーで西広島駅に向かいJRで宮島口に向かった。宮島口桟橋に向かいフェリーで宮島に向かう。残念なのは有名な海上の鳥居は、保存修復中覆いがかかって見れなかったが、宮島桟橋にある観光協会に道順を聞いて大聖院に急いで向かう。大聖院は厳島神社の格式高い別当寺で、平清盛や高倉院ゆかりの寺院だ。お寺で受付で案内をいただくと参道途中にある宝物館に向かう。ガラス越しだが、「仁和寺と御室派のみほとか展」で見た不動明王をはじめとした寺宝が集まっている。不動明王は平安時代の作で、両眼を見開て、上歯をあらわにし、頭の上に蓮華を置き、髪を総髪として弁髪を垂らし七か所でくくる。一木造りならではの重みを保ちつつも、なだらかな体の曲面が風格と気品を表しているとのこと。勅願堂の波切不動も気になるので向かった。

2020年8月15日土曜日

特別展「聖地を訪ねて」③(圓教寺の如意輪観音)

 平成30年8月に草創1300年で沸く西国三十三ケ所のひとつ書写山圓教寺を訪ねたことがあるが、摩尼殿は月巡り開帳が終わっており閉まっていたため、中の如意輪観音を拝観することができなかった。京博開催の特別展「聖地を訪ねて」は西國三十三ケ所創設1300記念事業の総仕上げとして開催された。パンフでこの仏像の姿が写っており、京都行きの動機となった仏像だ。書写山圓教寺は性空上人によって平安時代創設されたが、966年に草庵を結んだことに始まるという。上人が桜の生木に如意輪観音を刻ませその像を祀ったのが摩尼殿であるとのこと。当初の像は室町時代に火災で焼失してしまい、鎌倉時代に制作した御前立の像高30センチあまりの本像を本尊として祀ったとのこと。桜で彫りだしたのは如意輪観音が座す補陀落山に咲く子白花が我が国では桜とみなされる。如意輪観音を写真で見たときは大きさがわからなかった、会場で見てその小ささに驚いた。しかしよく見ると鎌倉時代の仏像らしく壇色を施しただけの素地仕上げに切金が施されている。性空上人の原像に切金が施されており、それにかわる本尊となった以降に切金が施された可能性もあり、一般的でない手のかたちを含め興味がつきない。じっくり鑑賞して次の展示に向かった。

2020年8月10日月曜日

村上海賊の浪分観音

8日は宮島から船と電車を乗り継いで尾道に向かった。出発前にメールしてあった光明寺のご住職より拝観可能と返事が来たので坂道が多い道を向かった。本堂につくと法事中だったが電話するとお待ちしていましたと言われ玄関から宝物殿に向かった。中に入ると、千手観音が迎えてくれた。(別名浪分観音)お線香を差し上げてから奥様の説明を聞いた。この千手観音は向島の余崎城主の次男が船中の念持仏とした像高一メートル余りの平安時代の仏像だ。向島は因島村上の一族で奥様によると海賊というより海の治安を司ったとのこと。光背は後補だろうが村上海賊の帰依を受けて立派だった。奥様の話では檀家総代は村上海賊の末裔が勤めているとのこと。見仏記でみうらじゅん氏が「ダブル錫杖か」と叫んでいたが、錫杖と戟を持つスタイルだったが、表情には幼さがあり、その分だけ霊性のようなものを感じさせもした。他にも見仏記でプリティ観音とみうらじゅんが騒いでいた飛鳥時代の小金銅仏や韋駄天があった。奥様のはなしによると黒い聖観音菩薩は尾道で最古の仏像で、たしかに肩から細かいアクセサリーを下げており白鳳仏の特徴を表している。本堂にある善導、法然、西山といった上人像や二十五菩薩など盛りだくさんだった。残念なのがチャングムの誓い出て来ていた梵教印をした一光三尊像が見れなかっが見仏記の世界に十分に堪能して良かった。ひとつひとつ丁寧にご説明いただいた奥様にお礼を言って猛暑の中次のお寺に向かった。

耕三寺博物館の快慶仏

9日は鞆の浦の仏像を見たあとホテルのシャトルバスで福山に戻り、しまなみ海道に向かうため、尾道に向かった。しまなみ海道にある生口島にある耕三寺博物館の快慶仏を見るためだ。尾道に着くと気温40度近い猛暑で急いで高速フェリーに乗り込んで、生口島の瀬戸田港に向かった。瀬戸田港では無料シャトルバスが待っており簡単に耕三寺に着いた。不可思議な仏教建築群を写真に納め、隣の博物館に向かった。快慶の宝冠阿弥陀はもとは頼朝ゆかりの伊豆山神社にあり、阿弥陀三尊の脇持だけ仏像クラブで見に行ったことがある。奈良国博の山口学芸員によると快慶は醍醐寺弥勒菩薩造像時に信西一門とかかわっており信西の息子の弟子筋の依頼により京都でこの仏像を製作し送ったとのこと。本尊は快慶展でも見かけたが少し保存状態が悪いがヒノキ材の割矧造(わりはぎづくり)で彫眼とし、頭髪を除き漆箔を施すしっかりとした快慶を思わせる作風となっている。シャトルバスの時間も迫ってきたので急いで瀬戸田港に戻り尾道行き高速フェリーに乗り込んだ。


古保利薬師堂

8月7日今、広島に来ている。広島の仏像として思い浮かべたのが、古保利薬師堂の仏像群だった。新幹線で広島に着きお好み焼きで腹ごしらえをしてから北広島町の千代田にバスで向かった。古保利薬師堂にはホームページがありタクシーを推奨しているので指示にしたがって向かった。管理人の案内でコンクリートの収蔵庫に向かうと中央に薬師如来左右脇待や千手観音四天王と12体の仏が迎えてくれた。この地の教育委員会の話では、「この地の有力首長となった渡来人の子孫が平安時代に創建された古保利福光寺、つまりこれらの仏像の造像にも関わっている」とのこと。管理人の方の話では以前は光背がありラホツがあった薬師如来は、よく修復され平安時代のままに戻されていた。注目したのが千手観音だが脇手がほとんど取れた状態だが作りがしっかりしているため失われた手の存在が感じられる作りとなっている。急いで宮島まで向かわなければならないので、御朱印と写真集を購入してタクシーに乗り込んだ。

2020年8月2日日曜日

特別展 聖地を訪ねて②(松尾寺馬頭観音)

今回の展覧会で一番期待していたのはパンフレットに写真が載っている西国三十三所の秘仏のコーナーで1Fの奥の部屋に集まっている。そのなかで一番気に入ったのが京都松尾寺馬頭観音だ。パンフでは伝わらないが展示ケース越しに間近に見るとその迫力が伝わってくる。像高95センチだが、七観音のうち唯一忿怒の表情で表されており、こちらを睨み付ける様に一気に心を持ってかれた。京都に行った日にニコ生で聖地を訪ねて展の紹介放送がやっており翌日ア-カイブで見たが、出演した淺湫学芸員によると松尾寺は京都の日本海に面した場所にあり、海難事故から救ってくれる観音様として馬頭観音が信仰されていたとのこと。そういえば仁和寺と御室派の仏像展に出展された馬頭観音も福井の海に面した町の仏像だった。この仏像はお前立で江戸時代の製作だが、もとは本尊頭上に飾られ、それから推測すると本尊は半丈六であっただろうと図録には書かれている。失われた半丈六の馬頭観音を想像しながら次の展示に向かった。