2026年6月30日火曜日
2026年5月22日金曜日
特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」①(長福寺地蔵菩薩)
本日、神奈川県立金沢文庫に特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」を見にいった。福島県いわき市にあるお寺の仏像展をなぜ金沢文庫で開催するのかというとパンフレットによるといわき市の長福寺は奈良・西大寺を総本山とする真言律宗の古刹で薬王寺には称名寺聖教の「宝寿抄」は薬王寺で成立したという関わりからとのこと。図録の表紙の長福寺地蔵菩薩は鎌倉時代に鎌倉中心で活躍した、仏師院誉(いんよ)の作。山本館長の「鎌倉時代仏師列伝」によると着衣の裾が台座の正面をおおう形式は「法衣垂下」といい、衣には、型抜きの土製文様を貼り付ける、いわゆる土紋の技法がみられる。いままで「法衣垂下」は鎌倉時代全国に広まったが、「土紋」は鎌倉地方のみにみられると言われてきた。しかし鎌倉中心に活躍した院誉がみちのくの真言律宗でも活躍したことを如実に表した仏像だ。長福寺を創建した小川義綱は鎌倉御家人佐竹氏嫡流の子でその関係で院誉に地蔵菩薩の製作を依頼したのであろう。ほとけの瀬谷さんの面目躍如の展覧会だった。他にも運慶の大蔵薬師堂像を模刻した薬王寺「厨子入薬師三尊」や仏像クラブで訪問した薬王寺帝釈天も展示され、少ない展示だったが充実した展覧会だった。機会があればまたいわきの寺院を訪問したい。
2024年9月8日日曜日
成島毘沙門天に再会する
岩手仏像探訪の旅2日目最後に訪れたのが、15年前にも訪れた成島毘沙門堂だ。新花巻の駅からタクシーで東和町に向かい入口の女性に拝観料を払い三熊野神社と成島毘沙門堂の共通拝観券を購入しまず三熊野神社から拝観した。ここは坂之上田村麻呂が和歌山の熊野三山からここに移し本殿を建立したとのこと。15年前より神社がこぎれいになり神主らしき人もいるように感じた。以前はこの後ろの廃屋のような建物に毘沙門天を祀っていたが重文指定で収蔵庫に移したとのこと。そちらを目指して、さらに少しばかり山を登ると、寺男のおじいさんがニコニコして拝観券をチェックして収蔵庫に入れてた。なつかしい兜跋毘沙門天が地天女と呼ばれる女性の肩に乗り見下ろしていた。ほぼ五メートルはある一木造りだ。脇をみちのくいとしい仏たち展に出展していた尼藍婆・毘藍婆が癒やし系で固めていた。また東博みちのくの仏像展に出展された伝吉祥天の美仏がひとりたっていた。その空間に酔いしれいつまでもいたかったがタクシーを待たせているので、期間限定のすいかの絵がかわいい夏詣の御朱印をいただき新花巻に戻り新幹線で盛岡に向かった。
2024年8月31日土曜日
天台寺の聖観音
岩手仏像探訪の旅最終日、盛岡から新幹線で二戸に向かい予約したタクシーで初めて天台寺を訪れた。古代最北の寺院天台寺は当時の日本の統治領域から北にはみ出して整備された。タクシーを降りると最果ての寺院と思えないほどの立派な寺院だった。江戸時代盛岡藩主南部氏による再建だった。二つ収蔵庫や仁王門から続く灯篭群は平成の修理で作家で天台寺名誉住職の瀬戸内寂聴氏のご尽力のたまものだろう。収蔵庫には展覧会で何度かみた仏像が拝観できた。やはり魅力的なのは聖観音で116センチの小さい仏像だが鉈彫りと呼ばれる東国でよく見かける仏像様式だ。体にノミによる横縞模様が施された仏像で意図的にノミ痕を残して仕上げとした鉈彫仏は関東や東北を中心に数十体ほど確認されたいるが、ここ天台寺の聖観音が最高傑作であろう。以前は未完成仏とみる説もあったが天台寺像の背面は平彫で前面の端正なノミ痕を残している。霊木カツラに宿る神が、仏の姿を借りて顕われたようだ。あの井上正先生も鉈彫りのご本尊こそ、その化現の瞬間を彫ったものだと唱えられたとのこと。二戸にタクシーで戻りEUのバイヤーの舌をうならせた北三陸洋野町のウニを購入し盛岡に戻った。
2024年8月25日日曜日
黒石寺の持国天・増長天
予約したタクシーで黒石寺につくと受付に以前案内頂いた女性がいらしたので拝観料を支払い案内をお願いした。15年前の岩手旅行の最後に黒石寺を訪れている。黒石寺は「見仏記」に載っている寺で、持国天のイラストが妙に印象に残っていたための訪問だった。あれから15年の月日が流れ、新幹線もチケットレスに変わり、行きやすくなっていた。今回の岩手探訪はいくつか目的があったが15年前に訪れた寺を再訪することも目的のひとつだ。収蔵庫で本尊アテルイ薬師に対面したあと、本堂に向かった。本尊跡にたくさんの仏像が囲んでいる。日光・月光その周囲に大きな四天王。これが素晴らしく見仏記的に言えば異常なほどパースが狂っている。頭がやたら小さく逆に足ががっちりとしている。2015年に開催された「特別展みちのくの仏像」では出展されていない四天王の目についての考察が解説されていたが私もミウラサン同様四肢に注目した。腰から下の力強い太さ、むっくりと曲線的に掘り出された質感によって強調されている。上半身は突然細くなるものの、肩のごつさによって、全体としては力を失わない。そして、その肩にめりこんでいるのは、小さな顔だ。口をへの字に曲げ、顎を四角くして、見得を切っている。じっくりと拝観して受付で本堂で見かけた蘇民祭のポスターをいただきタクシーで次のお寺に向かった。
2024年8月22日木曜日
東楽寺の十一面観音
北上立花毘沙門堂
本日は一旦新幹線で水沢江刺に戻り毘沙門堂巡りを行った。最初に訪れたのが藤里毘沙門堂で地域に大切に守られた毘沙門天だった。次に訪れたのが、北上市の立花毘沙門堂で、近くの神社で守られた毘沙門天だ。神社の方に収蔵庫を開けてもらうと、中央に小ぶりな毘沙門天と両脇を立派な二天像がいらした。あまりにも不釣り合いだが、確か仏の瀬谷さんが近くの廃寺になった国見山極楽寺は857年に定額寺(=国分寺に次ぐ格の官寺)に列し、僧坊がひしめいていた。その中心が毘沙門堂で、そこには8メートルの兜跋形の毘沙門天があったとのこと。その話を案内の方にすると確かに発掘で相当な寺格を表す発掘品が出たとのこと。ニ天像も南からこの末寺に流れてきたらしいと教えてくれた。最期は花巻の成島毘沙門堂を拝観し今日の毘沙門堂巡りを終えた。
中尊寺金色堂展完結編
今日から岩手の仏像探訪の旅に出ている。東京から満席の新幹線に乗り一関へ。東北本線に乗り換え平泉へ。中尊寺金色堂のチケットは讃衞蔵で売っているのでそちらに向かうと宝物館になっており、境内の塔頭の価値ある仏像が次々と現れたり、東博に預けられている金食堂の長押に飾られた「金銅迦陵頻伽文華鬢」6枚を一同に見れたりと興奮状態だった。展覧会で見た阿弥陀様が遠く見れたが展覧会で間近で見る前と後では断然違っていた。あの素晴らしい阿弥陀様にまた出会えたという印象だ。二天像も本来の武器を手にしてより強そうだ。中尊寺で時間を食ってしまい、昼食の自然薯そばを掻き込み、急いで黒石寺に向かった。
2017年8月5日土曜日
福島いわき仏像巡り:後編
東北出身の会員より何年も前から、白水阿弥陀堂への訪問を提案いただいた が、遠いことなどを理由に実現には至らなかったが、常磐線の品川駅開通や仏像クラブ発足10周年記念など環境が整い、実現の運びとなった。いわきの北部にある薬王寺からいわき市街地を通らないバイパスで一路白水阿弥陀堂に向かう。阿弥陀堂に着くとそこは池に囲まれた公園になっており、東日本大震災をきっかけに原発事故などにより遠のいた観光客をなんとか取り戻そうとしている福島の人々の願いが込められているのを感じた。京都の平等院・浄瑠璃寺・法界寺、大分の富貴寺、平泉の中尊寺や宮城の高蔵寺など多くの国宝阿弥陀堂で定朝風阿弥陀如来見てきたが、ここ白水阿弥陀堂も奥州藤原二代基衡の娘徳姫が亡き夫の冥福を祈って、故郷平泉の金色堂に模して創建したと伝えられている。「白水」は「平泉」の「泉」より取ったと説明の僧侶の話にあった。正面に平安時代後期の定朝風の阿弥陀三尊と前方に二天像を安置している。向かって右側の持国天の鼻筋が通っているのが印象に残った。おりしも浄土庭園の池には、ハスの花が咲き始めており帰り際にそれを鑑賞してからタクシーに戻った。湯本の寿司屋で昼食をとり、本日のいわきの仏像巡りについて熱く語る仏像クラブの面々だった。
2017年7月24日月曜日
福島いわき仏像巡り:前編
先週の土曜日仏像クラブで福島県いわきの仏像鑑賞会を行った。仏像クラブが創立10年を迎えて、初めて東北地方へ遠征をおこなった。メンバーのアドバイスでジャンボタクシーを手配して、長隆寺・薬王寺・白水阿弥陀堂と巡った。最初に訪れた長隆寺はSNSで初めて知ったのだが、鎌倉時代の快慶風の地蔵菩薩がまつられている。野趣溢れる参道をあがりご住職に連絡し地蔵堂を開けていただいた。中央の厨子には像高177センチの立派な地蔵菩薩が祀られていた。縁起によると鎌倉円覚寺の長老より南北朝時代に贈られたもので、鎌倉時代の快慶の作と伝えられているとのこと。秘仏になっていたのか衣の色が良く残っており、袖を装飾的に波立たせるなど快慶的な特徴も見いだせるが、解体修理を行ってみないと断定はできないと感じた。仏像クラブの面々はいわきにこのような素晴らしい地蔵菩薩があることに感動したらしく熱心に写真に収めていた。その次に向かったのが薬王寺で、鎌倉時代の文殊菩薩をはじめ重要文化財の寺宝を持つ寺だ。別冊太陽「みちのくの仏像」にも掲載されている仏像で慶派の作とのこと。左手に経巻、右手に剣をとっていたものと思われるが、持物は失われている。増高42センチだが迫力のある獅子に乗っており、慶派の作とみて間違いないだろう。突然の訪問にもこころよく応じていただいた次世住にお礼を申し上げ、白水阿弥陀堂に向かう仏像クラブの面々であった。
2014年2月16日日曜日
成島毘沙門堂の兜跋(とばつ)毘沙門天
平成21年夏に岩手県を訪れた。当初は毘沙門天めぐりをしようと思ってい たが、お寺の都合その他で拝観がかなわずこの成島毘沙門天のみの拝観となった。ツアーの参加者は私一人だったので、宮沢賢治ゆかりの地は、早めに周り成島毘沙門堂に時間をかけてもらうようガイドに頼んだ。成島毘沙門天は重要文化財に指定されているので山の上の収蔵庫に向う。拝観券を売ってくれたおじいさんと一緒に中に入る。目の前にほぼ五メートルはある毘沙門天が現れた。兜跋(とばつ)毘沙門天といわれる、その珍しい仏像は一木造で、地天女と呼ばれる女性の肩に載り、私をしっかりと見下ろしていた。別冊太陽「みちのくの仏像」によると当初の彩色が残り、頭部、体部、地天のそれぞれの背面に内刳り(うちぐり)が施され軽量化が図られているという。とわいえ圧倒的な重量感でせまってくる。その毘沙門天を苦しげに地天女が支えているように見えた。一木からこれだけの巨像を破綻なく彫り出す仏師の技量は並大抵ではない。坂上田村麻呂の化身と言われるのもうなずける。圧倒されながら成島毘沙門堂をあとにし、今夜の宿鉛温泉まで送ってもらった。
2014年2月8日土曜日
天上の舞・飛天の美展③松川二十五菩薩
先月行ったサントリー美術館の「天上の舞・飛天の美」展で期待していた のが、岩手県から来た松川二十五菩薩だ。二十五菩薩は阿弥陀如来に随って、音楽を奏で散華しつつ往生者を極楽に導くために来迎する観音・勢至以下の菩薩のことで、以前京都の即成院で平安時代の菩薩様たちを拝観した。この松川二十五菩薩は頭部や上半身を失っているが、優美なフォルムはそれを感じさせない。どのような朗らかな、お顔でいただろうか。楽器はどのようなものを持っていただろうか。想像するのも、楽しい。現地には江戸時代に頭部を復元した阿弥陀如来も残るとのこと。今度また岩手に行く機会があれば是非たずねてみたい松川二十五菩薩であった。
2013年8月31日土曜日
慈光明院の阿弥陀如来
山形最終日温泉宿から山形に戻り、まず向かったのが山形市内の慈光明院だ 。仏壇屋の前に、ご年配のご婦人が待ったいてくださり、庭を過ぎてお堂に入った。そこは土蔵造りの本堂で、聞けば明治のころ先代のご主人が慈恩寺別院より仏像を譲り受け、寺を作ったとのこと。ご婦人も比叡山大学で仏教を学ばれたそうだ。仏像の螺髪(らほつ)は旋毛形(せんもうけい)で、肉髻相(にっけいそう)・白毫相を表し、肉髻珠・白毫は水晶がはめ込まれている。印相は説法印で、カツラまたはホウノキの寄木造だ。脇侍の観音と勢至菩薩もあり、その他の仏像は雑然と並んでいた。じっくりと仏像を拝観しご婦人のお話を聞いた。聞けば後継者問題で悩まれているご様子だった。この仏像もいずれ博物館行きかなどを思いながら、お茶とお菓子を用意していただいたのでいただき、丁重にお礼を言って寺を後にした。
2013年8月24日土曜日
大蔵寺の千手観音
みちのく仏像めぐり最初に訪れたのが、福島市近郊にある大蔵寺にある千手観 音だ。お寺のご住職らしき人が案内してくれており、むかしは観音堂にあった仏像は今、収蔵庫に納められている。像高は4メートルぐらいあり、大きな体に不釣合いな細い腕は江戸時代の後補で、よく残っている。ご案内の男性のお経のような説明が終わり、千手観音をじっくり鑑賞する。頭上に十一の化仏をいただき、多くの破損した仏像に囲まれてたっている。聞けば重要文化財指定のおり京都にてかの「西村公朝」が修理に携わったとのこと。どうりで何の違和感なく綺麗に仕上がっていた。古色の出し方も絶妙だ。まわりの仏像についてもじっくり拝観した。破損仏の中でも帝釈天がよかった。福島には他にも見るべき仏像が多く、さすが徳一僧正が足跡を残した地だなと感心した。次回機会があればゆっくり仏像めぐりをしたいと感じた。
2013年8月21日水曜日
慈恩寺の十二神将
みちのく仏像めぐりのラストを飾るのは寒河江の慈恩寺だ。慈恩寺口のバス 停からかなりの距離を歩き、やっとの思いで慈恩寺山門に着く。本堂の中に入ると参拝客は私一人で係りの女性が案内してくれた。本堂には御前立ちの虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)と左右に二天像・聖徳太子像などがあり、秘仏の弥勒菩薩(みろくぼさつ)はパネルでの展示がなされていた。聞けば来年ご開帳とのこと。私の目的は薬師堂の十二神将なので本堂の拝観を早々に切り上げ薬師堂に向かった。中央に薬師如来。左右に日光月光がならび、本尊の薬師は院派の作。脇侍は山形の素朴な顔つきをした仏像なので土地の仏師の作か。奥に入ってよいとのことで、十二神将を間近に鑑賞した。像高90センチ足らずの仏像だが、それぞれ迫力がある。十二支の順番にコの字型に並んでおり、鎌倉時代のヒノキ寄木造だ。いずれの像も玉眼で、甲冑や衣の表現が興福寺の十二神将と似ているので慶派仏師の作だといわれている。頭にウサギを乗せた摩虎羅(まこら)大将がとくに気に入った。左手を高く上げ右手を下に下ろし拳を力強く力む様がすばらしい。満足するまでゆっく鑑賞し、外へ出た。お寺の方の御好意で7月までやっていた秘仏展のポスターを譲り受け寺を後にした。
2013年8月19日月曜日
吉祥院の千手観音
本日二日目は山形の仏像をめぐった。温泉宿にタクシーを呼んで、一路山形 へ。向かったのは山形市の北のはずれの漆山だ。ここにある吉祥院は出羽一佛と呼ばれる千手観音が祀られている。地方のお寺にしては立派なかまえで池の蓮の花もよく手入れされている。住職に収蔵庫を開けてもらい中に入った。そこにはなんと平安仏7体が祀られいた。狭い厨子の中に手がまったくない千手観音、手がない薬師如来と阿弥陀如来が向かい合った状態で祀られていた。いずれも170センチ以上で、双眼鏡で覗くとふくよかな丸いお顔にホット癒やされた。その他の4体も損傷が激しいが、よく残っている勢至菩薩から名作であったことがうかがえる。仏たちの苦難の歴史を思いながら今一度合掌した。
高蔵寺の阿弥陀如来
本日からみちのくの仏像めぐりをしてる。午前中福島の千手観音を見て、阿武隈急行でのんびり角田に向かう。こちらには奥州藤原氏の三代秀衡夫妻が建てた阿弥陀堂が残る高蔵寺がある。林の中を進むと優美な曲線の屋根の阿弥陀堂が現れた。中に入ってみると丈六の阿弥陀如来がおられた。思った以上に大きい定朝風の阿弥陀如来だ。以前は金色だったようだが、小豆色になり切れ長な目頬の自然な丸み、流麗な衣紋線の流れなどが魅力的だ。わざわざ遠くから見に来て良かった。一人感動しながらもお寺を後にし温泉宿に向かった。
2011年5月14日土曜日
上宇内薬師堂
平成20年夏会津を訪れた。会津への旅を思い立ったのはひとつにはJR東日本の夏のキャンペーンで会津が「仏都」と呼ばれるほど仏像が多いことを知ったからである。タクシーで坂下にある上宇内薬師堂へ向かう。タクシーに乗り込み車は一路、会津若松の西北に向かった。上宇内薬師堂の薬師如来は、2007年のキャンペーンの表紙になっておりボランティアガイドの説明があるとのこと。ボランティアガイドの方は感じのよい男性で奥に導かれ、薬師如来に対面した。丈六の薬師。補修箇所以外は平安期の作だという、真っ黒な顔で唇の小さな坐像。なんといっても胸の張り方がすさまじく、胴体が短めなのも手伝って、パワーの濃縮感がびんびんと伝わってくる。ボランティアガイドのぼくとつとした会津弁の説明によると、どちらかと言えば定朝風だという。この薬師を会津の人々がどんなに大切にしていたか熱弁をふるった。雨によって足が腐り、のちにそこだけ補修されたらしい。上宇内薬師は様々な障害と戦いながら今に至っていたのである。それを思うとなおさら薬師が愛おしくなりその場を立ち去りがたくなった。十分説明も聞き満足して今日の宿、「東山温泉」に向かった。
2011年3月26日土曜日
黒石寺の薬師如来
平成21年の夏岩手を旅した際、黒石寺を訪れた。最近はお寺でもホームページを開設しているところが多く、黒石寺にはHP上で訪問する旨のメールを事前に出しており、お待ちしていますとの返事をもらっていた。お寺についてのが少し早かったので、電話して案内をお願いした。収蔵庫の中に黒々とした薬師如来が居られた。堂内は外の夏の日差しのせいで暗く感じ、目が慣れるにつれて仏像の全体像が浮かび上がった。吊りあがった目、突き出した唇異相の迫力が印象的だった。見仏記には顔が長いと書いてあったがさほど感じなかったが、パンチパーマのようなボコボコと髪が固まった、いわゆる螺髪(らほつ)の粒は大きかった。「九世紀の貞観仏(じょうがんぶつ)の規範となった仏像です。」とお寺の方が誇らしく語っていたのが印象的だった。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時期に作られた。蝦夷の長アテルイなる人物とかかわりがある仏像だという説もある。本堂には日光・月光菩薩と大きな四天王がありこれまた東北的な素朴で力強い作品だ。黒石寺はここには確かにひとつの文化があったと感じさせる寺院だった。
2011年1月29日土曜日
平安のみほとけ国宝勝常寺の薬師如来
平成20年夏に会津を旅した。会津は「仏都会津」と呼ばれるほど仏像が多くある地方で知られている。朝風呂につかり東山温泉駅で乗合タクシー「仏都会津巡り号」に乗り一路、慧日寺跡をめぐり徳一大師廟をお参りし、今回のお目当ての勝常寺へ向かう。住職の案内で本堂にとおされ薬師如来と対面した。平安時代初期の作で京都で出会った神護寺の薬師如来のようにきびしいお顔をしており、目つきがするどい仏像だ。衲衣(のうえ)は衣が両肩を覆う、インド伝来の伝統的な通肩(つうけん)で着用している。会津五薬師のひとつ、中央薬師とも呼ばれる勝常寺は会津盆地のほぼ真ん中に位置する。薬師如来と両脇侍である日光・月光菩薩立像の三尊は会津を代表する御姿である。両脇侍が薬師如来の隣にはなく収蔵庫に収められているのは残念だった。
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