2012年3月31日土曜日

不退寺の聖観音

平成22年の春、遷都1300年で沸く奈良を訪れた。今回の奈良訪問の目的は遷都1300年記念特別開帳で多くの仏像を見ることだったが、午前中忙しかったので午後は佐保路・佐紀路の3観音めぐりをのんびりしようと計画していた。佐保路・佐紀路の三観音とは不退寺・海龍王寺・法華寺にまつられている観音を指し、春爛漫の道を抜けるとせんとくんののぼりが見えてきた。遷都1300年特別開帳を行っている寺には、必ずせんとくんののぼりがありわかりやすい。山門を抜けて右に小さな池を見つつ、花々が咲き乱れる境内を行く。本堂は狭いが菱欄間といわれる格子が美しい。さすが色男、在原業平の創建と言われる寺である。中にはご住職がおられ寺のいわれや仏像を説明をしていただいた。遷都1300年で多くの人が訪れたのか、ご住職の声はいささかかれていたが、ご親切に説明していただいた。中央は聖観音それを護るように五大明王が居並ぶ。左から大威徳、金剛夜叉、不動、降三世、軍荼利。聖観音は在原業平が思いを寄せる女官をモデルにして業平自ら彫ったとの伝説があり、肉感的に白く塗られた体に大きなリボンをつけ、寄り目がちでしごく女性的な仏像だ。聖観音は手の持った蓮のつぼみを誰かに向けて差し出しているように見える。平安のプレイボーイ在原業平好みの聖観音だ。春のうららかな日差しにつつまれた不退寺を後に次の観音の寺に向かった。

2012年3月24日土曜日

羽賀寺の十一面観音

福井県小浜市を訪れたのは今から20年以上前の平成2年の夏のことだった。小浜は「海の奈良」と呼ばれるほど仏像が多い地で、そこかしこの寺に古仏が祀られている。レンタサイクルを借りて回ったのだが、小浜の市内から離れた地点にあるのが羽賀寺だ。美しい十一面観音が祀られているお寺だ。檜皮葺屋根の小ぢんまりした御堂があり、暗い堂内に入ると、中央の厨司に入った十一面観音にまずは目をひきつけれらた。平安時代作の見事な十一面観音だ。かの白洲正子も絶賛した観音様で華奢なお姿に彩色がよく残っている。この世のものとは思われないほど長い右手。安定感がありながら決して太って見えない胴回り。そして、うっすらと微笑みながら威厳を保つ表情に、かの白洲正子も「元正天皇の御影とされたのも、さもあらんと思われる」と礼賛した。元正天皇はあの山田寺を建立した蘇我倉山田石川麻呂の娘で、平城京遷都の時代の帝で、仏教をあつく敬っていたという。そうしてあらためてこの観音像をみると滅んでいった蘇我氏の悲しみやはかなさを一身に背負ってこの人里離れた寺に威厳を保ちながら立っている様から、後世の人が元正天皇の姿に似せて彫ったという伝説が生まれたのではないか。小浜の地から古の奈良の都に思いをはせて、いつまでも観音像の前にたたずんでいた。

2012年3月17日土曜日

大安寺の一木造りの仏たち

平成22年の春、遷都1300年祭で盛り上がる奈良に向かった。五劫院のアフロな仏を見た後、お昼をすませてからバスで大安寺へ向かった。大安寺ではちょうど遷都1300年特別開帳として本尊の十一面観音と馬頭観音が拝めるとのことだった。境内では遷都1300年の記念行事で、人が大勢いたがまず本堂に上がり十一面観音に参拝した。頭部と左手は後補だがまぎれもなく天平の観音様だ。次に嘶堂(いななきどう)の馬頭観音を参拝する。こちらは参拝者がまばらで落ち着いてみられた。頭上に馬頭がないが寺伝によると馬頭観音とのこと。上歯で下唇をかみ、目を吊り上げた顔が印象に残った。最後に宝物館の讃仰殿に向かう。中に入ると観音3体と四天王の計7体の仏像が居並ぶ。それらがすべて重要文化財で一木造りの天平仏だ。目尻をつり上げ、口をカッと開いた観音には珍しい憤怒の表情をした楊柳観音や解剖学的正確さを仏像という虚構のなかに反映させた四天王などすばらしい仏が目白押しだ。後で調べたら唐招提寺の木彫群と同じく中国人の工人による製作だという。大安寺は想像以上に国際的な寺で、大仏開眼をしたインド僧の菩提壱僊那(ぼだいせんな)や中国僧が滞在していたという。青い目の僧たちが闊歩する国際的な大寺院に思いをはせ、大安寺を後にした。

2012年3月10日土曜日

高野山と紀州仏像めぐり⑦(慈光円福院の十一面観音)

昨年の猛暑の中高野山と紀州の仏像めぐりをしたとき、和歌山市の慈光円福院の十一面観音を見にいった。和歌山駅につき昼食をすませてから慈光円福院に向かったが道に迷い散々だったがやっとの思いで寺についた。予約していたので、上品な壮年女性が待っていてくださり、厨子を開けてくださった。材はカヤで一木造だ。エキゾチックできびしい顔立ちや、頭上をめぐる天冠台(冠をのせる台)の特異な形式は中国の檀像を、日本人が消化吸収してゆくさまをありありとしめす像といえる。後で「見仏記」を読んでわかったのだが、十一面観音の中指の先が善男善女に触られて光っていたという。十一面観音は概して手が長くつくられるが、その本当の意味は膝下まだあるその手の先、中指に衝動的に触れたくなり、その指にすがり、救われたいと願い、ひれ伏す者のためにこそ十一面観音の手はいつでも長く垂れているとのこと。実際に観音様の前で親切に冷たい麦茶をいただき、こころ穏やかになった。またどこかの十一面観音を見に行くときは人々の触れられた痕跡が観音の指に残っているか確認したいと思う。

2012年3月4日日曜日

浄楽寺の運慶仏に再会する

本日(3月3日)は横須賀浄楽寺の御開帳の日だった。年に二回の運慶仏の御開帳とあって、仏像クラブの面々で出かけた。平成20年に訪れた際は秋だったが、今回は早春の仏像めぐりとなった。相変わらず御開帳日は込み合う浄楽寺だが、収蔵庫に入ると大きな阿弥陀如来が迎えてくれた。頼朝創建の鎌倉の「勝長寿院」の丈六阿弥陀如来(成長作)を模して、和田義盛夫妻が運慶に作らせたという本像は威厳を満ちた表情をしており、堂々とした体躯、流動する衣文がすばらしい。今回私が注目したのは、阿弥陀三尊の目である。初作から仏像の目に玉眼を使用してきた運慶が如来・菩薩には彫眼(ちょうがん)を使用している点だ。同時に造られた不動明王・毘沙門天には玉眼が使用されており、その違いが見比べることができて興味深い。運慶は如来・菩薩わざと彫眼を使用して人には近寄りがたい威厳を持たせるための効果か。浄楽寺では年々御開帳の参拝客が増えているのか、前にはなかった不動明王・毘沙門天のポスターがあったので購入しお寺をあとにした。逗子に帰ってから喫茶店で熱く運慶について語り合う仏像クラブも面々であった。