2026年10月24日土曜日
2026年10月18日日曜日
特別展「神仏の山吉野・大峯」⑤(如意輪寺如意輪観音)
吉野を語る上で忘れてはならないのが、後醍醐天皇だろう。足利尊氏と対立し吉野に南朝を樹立した後醍醐天皇が志しなかばで崩御し、葬られた陵墓を守るのが源慶の蔵王権現で有名な如意輪寺だが、本尊秘仏として祀られているのが鎌倉時代の如意輪観音であることをこの展覧会で初めて知った。如意輪寺のHPによると秋の3日間だけ人数制限つきで開帳とのこと。本展での展示が貴重な機会となった。像底の墨書に鎌倉時代末期の絵師の彩色をおこなった記載があり、仏師の製作も同時期であろう。ヒノキの寄木造で、表面の彩色と截金を交えた鮮烈な文様があらわされている。持物は後補で、肉身の金泥塗りの一部に補修があるものの、金銅製の装身具まで当初のものを残しており、保存状態はきわめてよい。像低・台座・光背裏面に修理銘があり安土桃山時代と江戸時代に修理を受けたことが判明する。秀麗な顔だちや太い衣のひだの表現は仏師康俊の作品と似通っており、康俊は「南都大仏師」となのり、十四世紀初めに現れた仏師で作風から善派仏師。康俊と子息康成は後醍醐天皇の護持僧文観の発願で倒幕の企てに関わる般若寺文殊菩薩騎獅像を手掛けるなど、南朝関係の造像で旺盛な活動をみせた。ここからは推測だが後醍醐天皇が倒幕志なかばで配流先で崩御した後鳥羽上皇が勝手明神を発願したことを聞き及び、如意輪寺に文観に命じて如意輪観音をつくらせたのかもしれない。いずれにせよ吉野における康俊の事績ととらえる点で重要だ。
2026年10月9日金曜日
三重の仏像2026⑤(観音寺の阿弥陀如来)
市場寺の総代さんに車で送っていただき、観音寺に着くと代表の奥様らしき方が迎えてくれた。ここ観音寺は伊賀市教育委員会に連絡し、代表の方から折り返し連絡いただいたお寺で、創建年代は不明。「伊賀市の文化財」には重文の阿弥陀如来は像高88センチ余り、寄木造。頭部は螺髪を表わし、肉髻珠と白毫は水晶嵌入。面部は豊顔木眼。袈裟は左肩から右肩に懸けている。両手は臂を曲げ、前面で定印を結び、右足を上にして結跏趺坐している。全体的に黒色を呈しているが、漆箔が残存したことも考えられる。台座、光背は後補のものと思われる。形がよく整って定朝様式を伝えているが、顔や姿に写実的な表現が見られ、鎌倉初期の作とされる。本堂は新調されキレイだったが、仏像の保存状態は決してよくないので、鎌倉時代に見えなかった。しばらく世間話をしてバスの時間を待ち、奥様に車でバス停まで送っていただいた。今年の夏は伊賀の仏像と縁がある。空海と真言の名宝展で観菩提寺の十一面観音立像と再会し、市場寺とここ観音寺。まだ重文の仏像が14組もある。市場寺の総代さんの話では公開していない寺院もあるが、また訪れたいと思った。
2026年9月30日水曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」⑤(覚園寺の地蔵菩薩)
三度目になる「空海と真言の名宝」展にでかけたのが、会期末の9月5日だった。8月18日からの後期展示に2007年12月にU案内人と二人で仏像クラブとして訪れた 鎌倉覚園寺の地蔵菩薩が出品されるからだ。覚園寺の前身は執権北条泰時が創建した大倉薬師堂だが、そこには運慶が製作した今は亡き十二神将についてU案内人と熱く語ったのが懐かしい思い出だ。そのときこの地蔵菩薩を拝観したが印象薄かった。像高170センチの堂々とした地蔵菩薩で張りのある顔つきや意志的な眼差し(玉眼)、大ぶりな衣(截金)の線など、鎌倉時代の特徴を有する。すすけて黒色化した風貌から「黒地蔵」として親しまれている。これは、地獄の業火に焼かれる罪人の代わりに火を焚いてみずから受けるために何度彩色しても一夜で黒くなってしまうという説話に基づく。たしかU案内人は8月10日夜間の0時から正午まで行われる黒地蔵縁日に参加したことがあると言っていた。今回の出展に合わせてすすを取り除いたらしく面目躍如というところだ。右手に錫杖、左手に宝珠をとり、像容は男性的で力強く、張りのある頬や厚い唇や側面感のボリュームなど、多分に慶派の特徴を備えている。多数の地蔵菩薩のある鎌倉地方にあっても屈指の優品として評価される。肝心の製作仏師だが、東博では図録に解説では何も触れていない。2005年に鎌倉国宝館で開催された特別展「覚園寺」には鎌倉末期の仏師慶禅に作風が似ているとのこと。そのへんについては鎌倉国宝館で再度特別展覚園寺が開催されればわかるであろうが、再度「覚園寺展」開催を希望してやまない。
2026年9月24日木曜日
三重の仏像2026④(神宮寺多聞天・持国天)
竹成大日堂のあと、バスでJR四日市へ。そこに乗り入れてる伊勢鉄道で鈴鹿サーキット稲生駅に降り立った。住宅街を抜けると神宮寺についた。予約していたので奥様が快く迎えてくださった。さっそく収蔵庫を開けてもらい仏像を拝観した。こちらには国重文の小ぶりな81センチ余りの薬師如来立像(11世紀~12世紀一木造)と国重文等身大の持国天・多聞天(10世紀一木造)及び三重県指定の淳和天皇と伝わる男神像が祀られていた。こちら神宮寺は聖武天皇の御代光明皇后により全国に作られた施薬院の1寺という古い縁起の寺院だ。持国天・多聞天は、現在二体一具の像として伝来している。寺伝によると行基が伊那富神社内に天平年間に製作し明治の神仏分離で現在の地に移転している。両像とも鎧兜をつけて邪鬼を踏みつける一般的な姿で、動きの少ない落ち着いた姿勢を示す。持国天は顔をやや右下に向け、右手を体側に沿って穏やかに下げ宝剣を持つ。左手は胸前に挙げて掌を上にして第一・二指を捻じる。多聞天は右手を腰、左手は屈臂して胸前で多宝塔を捧げ持つ。材質はクスノキで頭部から邪鬼に至るほとんどを一材でつくり腕・手先は別材。瞳やひげを墨で描く。神宮寺の仏像のなかで一番古いがその出来にぐっときた。本堂に移り、薬師如来と像高1メートルの深沙大将(11世紀~12世紀一木造)を拝観した。神宮寺は見所も多く謎の仏像もありあっという間に電車の時間が近づいていたので、裏道を案内してもらい駅について。三重にはMOOKに紹介されていない公開寺院の素晴らしい仏像があると感じた。
2026年9月15日火曜日
三重の仏像2026③(和具観音堂の十一面観音)
本日は鳥羽から賢島に出て、英虞湾連絡船に乗って和具に着き、世話人の方の車で港に迎えに来てもらい、仏像を拝観した。まず国重文の金堂仏で手が欠けていなければ国宝という平安時代の珍しい金堂仏。像高は16センチ余り。奥にの十一面観音と薬師如来という配置。十一面観音は像高173センチ。頂上に仏面、髻の側面に二面、地髪部に八面の頭上面を配し、化仏は現在失われいる。条帛、天衣をかけ、裳を着し、膝間に渦もんを掘り出す。世話役の方の話では錫杖の持ち方が長谷寺の観音様に習っている。彩色については不明。市場寺のようには残っていないことから、平安初期の貞観仏と私は感じた。世話人のかたが地域にも和具観音堂が知られていないことを嘆き、毎週日曜日の開帳や年1回のお祭りなどを通じて、「地域の宝物」を知ってもらうとともに、漁業関係者ばかりでなく多くの人々に「祈りの場所」を提供しているすばらしい試みをされているのに感動した。すばらしい仏像を拝観しているとあっという間に帰りの連絡船時間が近づき港まで送って頂き英虞湾の島々の風景を見ながら、和具観音堂の今しか見れない仏像の姿に思いを馳せた。
三重仏像の旅2026②(市場寺の四天王)
今日(9月14日)は名張からバスで市場寺の近くの停留所に向かう予定だったが、乗り遅れ急遽タクシー利用した。名張街道から市場寺までけっこう距離があったので、タクシー利用が正解だった。市場地区の総代さんの案内で収蔵庫にある四天王、阿弥陀如来を見せて頂いた。市場寺は真言宗豊山派で頂いた案内によると、創建年代は不確か。少なくとも鎌倉期まで遡れるとのこと。しかし何故か、阿弥陀如来、四天王共に平安時代後期の寄木造で所々に彩色やキリ金が残る。同時期の仏像で四天王は鎧をつけて邪気二体を1つ天部が踏みつけ、それが1体も欠けてない奇跡的な四天王だ。また四天王は左右二体ずつ、足の踏み下げや腰の捻りで相対的に立ち四体の群像としての動きを巧みに表現していることは、現地で見なければわからないことだった。創建時代のズレはここ伊賀は奈良にも京都にも近いことからどちらから流れて来たのではないかという総代さんの説明だった。そんな楽しい話しをしたらあっという間に時間が過ぎ、親切に阿弥陀寺まで送って頂き有り難かった。阿弥陀寺までの車窓から雲が低く垂れ込めて幻想的な風景が拡がっていた。総代さんが伊賀地区ではよく見られる珍しい景色だと説明してくれたが、さすが神々が棲む伊勢に近い地だと感じた。二日目にして素晴らしい仏像に出会い三重の旅が思い出深い旅になった。
2026年9月13日日曜日
三重仏像の旅2026①(竹成大日堂の大日如来)
十年前にいとうせいこう、みうらじゅんの東海地方の仏像の本をきっかけに愛知・岐阜・三重の仏像巡りを行ったが、今回またMOOKと再編集され「ときめく仏像めぐり」となって装いも新たに出版されたことがきっかけで三重仏像の旅に出掛けた。本日まず向かったのは、菰野町(こものちょう)にある竹成大日堂の金剛界退蔵界の二体の大日如来だ。大日如来の印相は智賢印と定印。室町時代の木造で像高1メートル。檜の寄木造り、宝鬢を結い天冠台を彫出、地発は畝分け、毛筋を刻む。白毫を表し、耳朶は長く環状をなし、三道彫出する。竹成地区の世話役の方の話しではもとは奈良の朝護孫子寺の近くにあった神社の仏像が廃仏毀釈の折投棄されるのを菰野町松樹院の和尚が貰い受け、今は竹成地区で管理しているとのこと。作者は湛慶という言い伝えだとの説明だったが天板裏側の写真を見せてもらったが、運慶の大日如来と同じように墨書がありいかにも慶派の仕事に見え湛慶派の作は間違いないと感じた。あっという間にバスの時間となったので御朱印を貰い、慌てて五百羅漢石仏の写真を撮り、四日市の町にトンテキを食べに戻った。三重に来ていきなり楽しい時間を過ごせた。明日の伊賀松阪の仏像も楽しみだ。
2026年9月5日土曜日
大倉集古館企画展「祈りと救いの美」(国宝 普賢菩薩)
本日(9月4日)大倉集古館の国宝普賢菩薩が4年ぶりに公開されると知って、虎ノ門の大倉集古館に出かけた。大倉集古館は明治の大実業家大倉喜八郎が廃仏毀釈による仏教美術の海外流出を憂い保護に努めた美術品を展示公開する美術館でその中に国宝の普賢菩薩もあった。2Fの展示室のガラスケースにその普賢菩薩が展示されていた。4年前も偶然大倉集古館を訪れていたが、今回は360度どの方向からも鑑賞でき、しかも写真撮影もOKとのこと。じっくりと鑑賞できたが、説明文ではもの足りなく、国宝なのに製作した仏師がだれか、どこのお寺にあったものかなど疑問がわきでて来た。東博ミュージアムショップで東京国立博物館研究誌「MUSEUM」を購入し、1999年に普賢菩薩が東博に出品されたおりの、山本先生や3人の学芸員(当時)の報告書が掲載されていた。それによると普賢菩薩は宝冠を別材で製作し被っていたことや、天衣や条帛を複雑に表わし、銅版製の腕釧の意匠は青ビーズ珠を載せ、今はない胸飾・瓔珞の痕跡がみられるとのこと。また普賢菩薩を乗せる象はオス象で生殖器を表わしている。衣には緑青・群青・丹などの彩色の上に截金文様をほどこす。驚くべきことに大倉集古館普賢菩薩は仏像はもとより蓮華座・象と象座ともに当初のものとのこと。制作時期はその造法や作風、彩色法、切金文様の趣等から平安時代後期。普賢菩薩は釈迦三尊の脇侍として作られるが、彩色・切金で仕上げる本像は独尊像。肝心の制作者は以前鳥羽離宮の安楽寿院阿弥陀像に似ていることから、長円ないし賢円ら円派仏師を想定する説があるというだけにとどめていた。いずれにしても大量に仏像が製作された院政期に穏和・優美な定朝様の特徴をさらに増幅しかつ洗練させた、「美麗の仏」のひとつであることは間違いないだろう。
2026年8月30日日曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」④(須磨寺十一面観音立像)
須磨寺は『源氏物語』などの古典文学や『平家物語』の歴史をいまに伝える名刹だが、訪れたことはなかった。週刊古社名刹巡拝の旅という週刊写真雑誌でこの十一面観音立像の写真が掲載されていたが、こんな素晴らしい仏像だとは思わなかった。本像は高さ54センチの小ぶりな流麗な作りの十一面観音。表面は素地仕上げとするものの、赤褐色を呈するのは希少材である檀木のうち赤栴檀を意識してなんらかの染料を薄く塗っているとみられる。眉ははっきりと刻み、鋭い眼差しをみせながらも目尻の上がり具合は控えめである。下半身にまとう衣の端をにぎやかに表わす造形と合わせて、鎌倉時代中期頃の制作とみられる。なお、光背は頭光の位置が合わず、台座は蓮肉上面に像本体を差し込むための枘穴を改変した痕跡があることから、これらは他像からの転用とみられる。台座には近世の筆で寛元三年(1245年)安阿弥(快慶)の作とする伝承、北条時房の室の持仏であったことが記されている。ここからは私の推測だが、承久の乱のおり後鳥羽上皇を京から追い出し隠岐に配流しそのあと六波羅探題にいすわったのが北条時房。その死を後鳥羽上皇ののろいと京わらべがうわさしたことから、あながち単なる伝承とも捨てがたい。ひとつの仏像にもいろいろな歴史が刻まれていると感じた。
2026年8月27日木曜日
特別展「神仏の山 吉野・大峯」④(勝手神社勝手明神)
2024年5月に吉野を訪ね桜本坊へ行く途中に勝手神社を通ったが、このように素晴らしい神像があるとは知らなかった。今回初公開の勝手神社勝手明神は鎌倉時代の快慶派仏師慶観の作。図録には現存する五体と平成13年の火災で焼失した8体の写真も公開されており悔やまれる。ヒノキとみられる針葉樹の割矧ぎ造りで、両腕や両脚部以下に別材を矧いでおり、兜を別にかぶせる点、両腕を蟻枘で接合する点に特色がある。表面は全身に布貼りした上に、彩色と截金を交えて多様な文様がほどこされる。持物の刀は茎(なかご)「刀身の柄に入った部分」に『備前長船守元』の刻銘があり、同銘の類品から十四世紀末ころの作とみられる。武神にふさわしい精悍な顔だちで、勇壮な姿には神威が感じられる。承久の乱の前を前に後鳥羽上皇が1206年からほぼ毎年武具類を奉納したという記録から山口学芸員は1210年代あたりに造立の契機があったと考えたいとのこと。鎌倉幕府にも知れないで密かに神社に秘されていたことは興味深く、後醍醐天皇が吉野朝を開いた意味も納得できる。秘された歴史を感じながら次の作品に向かった。
2026年8月16日日曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」③(東寺の二間観音)
8月7日(金)に日本橋で「真如堂の名宝」展を見た後、先月にも行った「空海と真言の名宝」展に向かった。前回は予定があったので仏像中心に急いでまわったが、今回は夜間拝観日にあたり午後8時までの入場時間であるため、前回借りなかった音声ガイドを聞きながらの拝観となった。話題になっている高野山深沙大将のドクロが光る演出を確認したり、単眼鏡でより細部まで鑑賞しているうちに、第一章だけで1時間を費やした。急遽購入した単眼鏡の威力が発揮したのが東寺の二間観音だ。空海が進言して始まった秘儀「後七日御修法」のうち観音供の本尊で鎌倉時代に製作された、像高25センチ足らずの聖観音・梵天・帝釈天の三尊が宮中でおこなった場所にちなんで「二間観音」と呼ばれている。製作年代は諸説あるが、建長8年(1256年)に円派仏師・隆円が造立した記録が有力だ。隆円は三十三間堂の千手観音再興像をもっとも多くつくった円派仏師の棟梁的存在。二間観音は白檀製で衣に切金文様を施しており美しい。今回は単眼鏡でその切金文様を余すところなく鑑賞できた。金属製の精緻な光背は当時のもので当代一流の工人たちの技術が結集されている。NHKの番組で話題になった宝冠の後ろに隠れている化仏は単眼鏡をもってしても僅かに確認できる程度の小ささでその超絶技巧に驚かされた。南北朝の動乱のおり後醍醐天皇が吉野に持ち出したが、その後三種の神器とともに返還されたエピソードも興味深い。音声ガイドを聞きながらじっくり鑑賞し次の展示に向かった。
2026年8月9日日曜日
特別展「京都・真如堂の名宝」①(福田寺地蔵菩薩)
今年の春に龍谷ミュージアムで開催された展覧会が三井記念美術館でも開催されていたので、先週の金曜日猛暑の中でかけた。この展覧会では真如堂の檀家である三井家の展示に多くのスペースがさかれ、仏像は真如堂の仏像と同時代の仏像が同じ大きな部屋に展示してあった。改めて見ても福田寺の地蔵菩薩は異彩を放っていた。2019年に福田寺を訪れているが龍神目当てで地蔵菩薩・釈迦如来の拝観は依頼していなかった。解説では左手を屈臂して宝珠を捧げ、右手は屈臂して第一・三・四指を捻ずる。(寺では錫杖を持つ)台座蓮肉も含め全体をヒノキの一材から彫出しており、体躯のみ背面から内繰り、長方形の蓋板を当てている。現状古色に覆われているが、当初は彩色を施さない素地仕上げであったかと思われると記載されている。今回の出展にあたりはじめて調査がはいったと思われる無指定の地蔵菩薩だ。寺の縁起では福田寺創建のおり行基菩薩が彫ったという寺伝が残されている。図録には体躯は腰から脚部にかけて量感に富み、大脚部の衣文を省略して肉付きを強調するところは京都・神護寺薬師如来をはじめとした八世紀から九世紀の立像にしばしば見られる形式を踏襲している。製作は九世紀から十世紀初めと思われるとのこと。やはりこの地蔵菩薩に他にない迫力を感じたのは神護寺薬師如来を初めて拝観した感覚と同じだった。真如堂本尊を遡る古例な仏像であることは間違いないであろう。
2026年8月1日土曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」②(安祥寺の五智如来)
「空海と真言の名宝」展に出展される仏像は88点と多いので順不同で紹介する。最近の仏像展の傾向として最後に写真撮影可能なエリアがありそこに置かれていたのが、京博でおなじみの安祥寺五智如来だ。この五智如来は明治のころから京博に預託されており、もとは現在焼失した多宝塔に祀られていたが、明治の火災のおりには京博に預託され難を逃れたいわくの仏像だ。安祥寺の創建は平安時代前期の848年。安祥寺資財帳にも五智如来がいつ造像されたか記載がないが、多くの研究者が検討を加えており、創健者であり空海の孫弟子である恵運僧都が唐から帰国した嘉承元年(848年)から貞観元年のあたりとみてよいとのこと。大日如来像は目が鋭く、まるく張った頬、単純化した肉取り、大まかにとらえた衣の襞など力強い表現である。肩から肘までを含め体部が一材から彫出する。ネットで騒がれていた大日如来のヘアの質感が押したら戻ってきそうな不思議なムニムニ感の秘密の種明かしをすると、形状は木彫で表わされているが、その上に木屎漆を用いているためとのこと。その技法は奈良時代の造仏工房の流れを汲む官営工房が用いたと考えられ、製作年代は安祥寺発願者が仁明天皇の皇后藤原順子とのこと、仁明天皇崩御の嘉承3年(850年)あたりから造像され五智如来完成が880年頃ではないかと考えられる。金箔は後世の補修だが貞観以前に製作された平安仏の貴重な作品であることは間違いないだろう。
2026年7月25日土曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」②(願興寺の聖観音)
2014年年末に多摩市の多摩美術大学美術館に「四国遍路と土佐のほとけ」展を見に行って、その主催が出した「いにしえの祈りのかたち四国の仏像」(淡交社刊)という写真集のなかで気になっていたのが、この願興寺聖観音だ。それが今度の空海と真言の名宝展に出展されるという情報を事前に知り、第一会場の空海ゆかりの名宝のコーナーに向かった。聖観音は奈良時代の作で、四国でも最古級の仏像で、地方仏の数少ない脱活乾漆造の名仏だ。髻は高く毛筋は丁寧に表わされ、目や口は写実的で穏やかな表現であり、清純なおとめをおもわせる顔つきでややうつむいている。胸や腹部の起伏はなだらかで均整がとれ、胸の瓔珞や腕の飾りは華やかでこの仏像をひときわ美しいものとしている。背面を含めて衣文は丁寧に表わされ、細く鎬立った衣文など細部は檜材をひいたおがくずを漆で練った木屎をへたで盛り上げたあと磨いて作り上げた木屎漆の技法が使われていることから、この仏像の製作は平城京であっただろう。奈良時代の古代寺院から受け継いだ客仏か不明だが小ぶりの仏像であるが、天平彫刻の優美さを備えた、作例の少ない脱活乾漆造の優品の一つであるとのこと。じっくりと鑑賞していたかったが、快慶の深沙大将も気になるので次の展示に向かった。
2026年7月20日月曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」①

本日(7月19日)仏像クラブで弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」を見に東博に出かけた。何回か空海の展覧会は開催されたが、今回は真言宗大本山会の協力のもと、本山と関係寺院の彫刻と秘宝・秘仏や御七日御修法(ごひつにちみしほ)の紹介など盛りだくさんの内容とのこと。例によって仏像中心で見ていくと、第一章「空海と真言密教」では金剛峯寺の秘仏弘法大師や空海修業時代の香川・願興寺の聖観音が展示してあった。また密教図像の代表作として高野山霊宝館の快慶深沙大将と執金剛神像や密教図像の展示があり、第二章「御七日御修法の世界」では東寺の二間観音、第三章「真言宗各派の名宝」では真言宗豊山派総本山長谷寺の鎌倉時代の銅像十一面観音や真言律宗総本山西大寺の金銅透彫舎利塔などが展示されてあった。第四章「真言宗各派の彫刻と秘仏」では傑作仏や秘仏がこれでもかと展示されていた。世田谷美術館の白州正子展で見た三重観菩提寺の十一面観音やTV見仏記で放送された高野山金剛三昧院の千手観音。大阪大門寺の秘仏如意輪観音から山梨・放光寺の天弓愛染明王、京博展示の京都安祥寺の五智如来と傑作仏・秘仏の目白押しだった。昼食の関係でゆっくりと観れなかったが、一度では物足りない仏像の数々だった。詳しい仏像の紹介は次回にするが、真言宗各派には展示されていない秘仏がたくさんあり、寶山寺の不動明王や観心寺の如意輪観音など秘仏の名宝がたくさんあるので次回に期待したい。図録グッズを購入して御徒町の天ぷらや天寿々で大いに語り合った仏像クラブの面々だった。
2026年7月14日火曜日
春季特別展「真如堂の名宝」②(真如堂地蔵菩薩)
第一章真如堂の創建と「うなずきの弥陀」で真如堂本尊の模刻像を鑑賞したのち、第二章真如堂に伝わった仏教美術の精華ではこの展覧会の目玉である新出の阿弥陀如来二躯と真如堂創建当時の十世紀からの名宝が展示されていた。この地蔵菩薩は本尊と同じ時期に製作された仏像で、貞観仏に代表される重厚な作風と森厳な表情の一木造から、温和で優美な作風への転換点の仏像だ。寺伝では比叡山より勧請された十禅師社(日吉神社)の旧仏とされている。針葉樹の一木造で内刳りはなく、木心は像前面に外している。目鼻を頭部の下半に集め、幼児に近い表情を作り、Y字形に表された衣文は翻波式を交えつつも浅く控えめに彫られている。像底に丸孔を穿ち、台座から雇枘を挿す技法で、十世紀後半の作風を示している。ただし頭部は体躯に比べて過大で、頭体ともに奥行きを十分にとる。大衣は偏袒右肩で覆い、下半身に裙を巻く。右手は垂下し、左手は腕前に挙げ宝珠を捧げ持つ。重々しい表現が支配的で保守的な作風から製作時期は十世紀後半にさかのぼるとみられ、真如堂創建に先行する古像とのこと。どこかユーモラスで余り見かけない作風から神仏混淆の仏像だと理解した。
2026年7月5日日曜日
特別展「神仏の山 吉野・大峯」③(大峯山寺蔵王権現)
特別展「神仏の山 吉野・大峯」の目玉のひとつが大峯山寺蔵王権現の出展であろう。会場でも運送業者の特別チームが蔵王権現を箱に入れかついで下山する動画が公開されていた。大峯山寺は大峰山山上ケ岳頂上に位置する寺院。役行者が金剛蔵王権現を感得し、像に刻んで山上ケ岳山頂にまつったのが大峯山寺の創始とされる。本堂への道筋および本堂裏には、断崖絶壁の岩場など、複数の行場が存在する。吉野が観光地化されているのと大違いだ。その大峯山寺本堂に秘仏本尊としてまつられる蔵王権現。頭体の比例が整い、片足立ちの像容を安定感ある自然な姿にまとめ、布帛の柔らかな質感を巧みにあらわすなど、洗練された作風がうかがえる。開口にともない頬にくぼみを入れ、脇の付け根を水かき状にあらわすなど細部に及ぶ的確な身体描写も見逃せない。炎髪や正面腰以下に着けた獣皮を銅板切り抜きの別製とするなどの進んだ要素から、製作は平安時代末ないし鎌倉時代初頭と推定される。拳を握る左手は金峯山寺本尊蔵王権現中尊と同じで、銅像の蔵王権現は頭体幹部と両膝以下を別材で鋳造し境目を挿し込み鋲でとめているとのこと。表面は漆下地に漆箔をほどこし、白目に白、目頭と目尻、口中にそれぞれ赤色を塗る。その生気に富んだ姿は、大峰山寺伝来の蔵王権現像のなかでも屈指のものであり、特別な由緒をそなえた像であることを想像させるとの図録解説であった。大峰山寺に長い間伝えるには当時の最先端の銅製の技術が使われたと想像できる。この特別展で善男善女が奈良博で普段人を寄せ付けない山上にある蔵王権現に祈りをささげるだろう。
2026年6月30日火曜日
特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」②(薬王寺文殊菩薩)
2017年に仏像クラブで薬王寺を訪れた際、突然の訪問にもかかわらず快く収蔵庫を開けていただき拝観できた文殊菩薩騎像だ。我々が言ったとき薬王寺を代表する仏像として中央に本尊のように安置されていた。仏の瀬谷さんによると薬王寺はいわき地方随一の古刹として栄えた寺院で、その開基は、奈良時代後期から平安時代初期に活躍した徳一法師とされる。金沢文庫に保管されている「宝寿抄」に薬王寺も記載されており、中世には真言律宗のいわきの中心寺院とのこと。文殊菩薩騎像は東日本では比較的珍しい文殊菩薩の鎌倉時代後期まで遡る名作で、鎌倉時代後期に、忍性を中心とする真言律宗による信仰とともに数多く造立されたことは良く知られている、文殊菩薩騎像が造像当初の台座の獅子像もあわせて伝来するのは貴重。薬王寺は戊辰戦争による火災で丈六仏と伝えられる本尊薬師如来像を失われた。あらためて展覧会に展示された文殊菩薩は現地で観たの印象と違い、晴れ晴れしく感じた。またいわきの仏像探訪に出かけたくなった。
2026年6月20日土曜日
令和8年度春季京都非公開文化財特別公開(放生院地蔵菩薩)
奈良・京都仏像巡り2026年初夏の2日目は京都・宇治の放生院・恵心院・興聖寺の三ケ寺を巡った。新緑が美しい宇治川沿いの道を一番目の橋寺放生院に向かう。橋寺放生院を知ったには、2009年出版の「見仏記ゴールデンガイド篇」でだが、その後新TV見仏記でも放送されたので行った気になっていたが、地蔵菩薩の拝観は今回が初めてだ。見仏記によると創建は7世紀初頭で、渡来人秦河勝によるとされる。十三世紀に行われた放生会から放生院と呼ばれた。入口で「京都古文化保存協会」の係のかたに拝観料を払いこぢんまりした本堂に像高1.9メートルの堂々とした地蔵菩薩が立っておられた。鎌倉時代の重要文化財で赤、青、金の載金文様(きりがねもんよう)の袈裟が前面から背面までびっしりと施されている。2015年の修理を、外に運び出せず、堂内で寝かせて作業したとのことだが、より輝きをましてすばらしいにつきる。そんな拝観者の興奮をよそに静かに半眼でこちらをみている地蔵菩薩。みうらじゅん氏が指摘した「いい飛び出し地蔵だよ」の前傾姿勢も間近で拝観できた特別公開ならではのことだ。かなりの前傾姿勢であたかも飛行中であるかのように見えるという説明も納得できる。あらためて前にまわって翻波式衣文の波が小波から下にさがるにつけ大波になってバランスがよく、それに赤・青・金の載金が施されていることがすばらしい。みうらじゅん氏に言わせると「地蔵界でナンバーワンかもね。」も同感できる。ありがたいことに地蔵菩薩の前面と背面の写真をご住職より購入し、興奮冷めやらぬまま次のお寺に向かった。
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