2026年9月5日土曜日
2026年8月30日日曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」④(須磨寺十一面観音立像)
須磨寺は『源氏物語』などの古典文学や『平家物語』の歴史をいまに伝える名刹だが、訪れたことはなかった。週刊古社名刹巡拝の旅という週刊写真雑誌でこの十一面観音立像の写真が掲載されていたが、こんな素晴らしい仏像だとは思わなかった。本像は高さ54センチの小ぶりな流麗な作りの十一面観音。表面は素地仕上げとするものの、赤褐色を呈するのは希少材である檀木のうち赤栴檀を意識してなんらかの染料を薄く塗っているとみられる。眉ははっきりと刻み、鋭い眼差しをみせながらも目尻の上がり具合は控えめである。下半身にまとう衣の端をにぎやかに表わす造形と合わせて、鎌倉時代中期頃の制作とみられる。なお、光背は頭光の位置が合わず、台座は蓮肉上面に像本体を差し込むための枘穴を改変した痕跡があることから、これらは他像からの転用とみられる。台座には近世の筆で寛元三年(1245年)安阿弥(快慶)の作とする伝承、北条時房の室の持仏であったことが記されている。ここからは私の推測だが、承久の乱のおり後鳥羽上皇を京から追い出し隠岐に配流しそのあと六波羅探題にいすわったのが北条時房。その死を後鳥羽上皇ののろいと京わらべがうわさしたことから、あながち単なる伝承とも捨てがたい。ひとつの仏像にもいろいろな歴史が刻まれていると感じた。
2026年8月27日木曜日
特別展「神仏の山 吉野・大峯」④(勝手神社勝手明神)
2024年5月に吉野を訪ね桜本坊へ行く途中に勝手神社を通ったが、このように素晴らしい神像があるとは知らなかった。今回初公開の勝手神社勝手明神は鎌倉時代の快慶派仏師慶観の作。図録には現存する五体と平成13年の火災で焼失した8体の写真も公開されており悔やまれる。ヒノキとみられる針葉樹の割矧ぎ造りで、両腕や両脚部以下に別材を矧いでおり、兜を別にかぶせる点、両腕を蟻枘で接合する点に特色がある。表面は全身に布貼りした上に、彩色と截金を交えて多様な文様がほどこされる。持物の刀は茎(なかご)「刀身の柄に入った部分」に『備前長船守元』の刻銘があり、同銘の類品から十四世紀末ころの作とみられる。武神にふさわしい精悍な顔だちで、勇壮な姿には神威が感じられる。承久の乱の前を前に後鳥羽上皇が1206年からほぼ毎年武具類を奉納したという記録から山口学芸員は1210年代あたりに造立の契機があったと考えたいとのこと。鎌倉幕府にも知れないで密かに神社に秘されていたことは興味深く、後醍醐天皇が吉野朝を開いた意味も納得できる。秘された歴史を感じながら次の作品に向かった。
2026年8月16日日曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」③(東寺の二間観音)
8月7日(金)に日本橋で「真如堂の名宝」展を見た後、先月にも行った「空海と真言の名宝」展に向かった。前回は予定があったので仏像中心に急いでまわったが、今回は夜間拝観日にあたり午後8時までの入場時間であるため、前回借りなかった音声ガイドを聞きながらの拝観となった。話題になっている高野山深沙大将のドクロが光る演出を確認したり、単眼鏡でより細部まで鑑賞しているうちに、第一章だけで1時間を費やした。急遽購入した単眼鏡の威力が発揮したのが東寺の二間観音だ。空海が進言して始まった秘儀「後七日御修法」のうち観音供の本尊で鎌倉時代に製作された、像高25センチ足らずの聖観音・梵天・帝釈天の三尊が宮中でおこなった場所にちなんで「二間観音」と呼ばれている。製作年代は諸説あるが、建長8年(1256年)に円派仏師・隆円が造立した記録が有力だ。隆円は三十三間堂の千手観音再興像をもっとも多くつくった円派仏師の棟梁的存在。二間観音は白檀製で衣に切金文様を施しており美しい。今回は単眼鏡でその切金文様を余すところなく鑑賞できた。金属製の精緻な光背は当時のもので当代一流の工人たちの技術が結集されている。NHKの番組で話題になった宝冠の後ろに隠れている化仏は単眼鏡をもってしても僅かに確認できる程度の小ささでその超絶技巧に驚かされた。南北朝の動乱のおり後醍醐天皇が吉野に持ち出したが、その後三種の神器とともに返還されたエピソードも興味深い。音声ガイドを聞きながらじっくり鑑賞し次の展示に向かった。
2026年8月9日日曜日
特別展「京都・真如堂の名宝」①(福田寺地蔵菩薩)
今年の春に龍谷ミュージアムで開催された展覧会が三井記念美術館でも開催されていたので、先週の金曜日猛暑の中でかけた。この展覧会では真如堂の檀家である三井家の展示に多くのスペースがさかれ、仏像は真如堂の仏像と同時代の仏像が同じ大きな部屋に展示してあった。改めて見ても福田寺の地蔵菩薩は異彩を放っていた。2019年に福田寺を訪れているが龍神目当てで地蔵菩薩・釈迦如来の拝観は依頼していなかった。解説では左手を屈臂して宝珠を捧げ、右手は屈臂して第一・三・四指を捻ずる。(寺では錫杖を持つ)台座蓮肉も含め全体をヒノキの一材から彫出しており、体躯のみ背面から内繰り、長方形の蓋板を当てている。現状古色に覆われているが、当初は彩色を施さない素地仕上げであったかと思われると記載されている。今回の出展にあたりはじめて調査がはいったと思われる無指定の地蔵菩薩だ。寺の縁起では福田寺創建のおり行基菩薩が彫ったという寺伝が残されている。図録には体躯は腰から脚部にかけて量感に富み、大脚部の衣文を省略して肉付きを強調するところは京都・神護寺薬師如来をはじめとした八世紀から九世紀の立像にしばしば見られる形式を踏襲している。製作は九世紀から十世紀初めと思われるとのこと。やはりこの地蔵菩薩に他にない迫力を感じたのは神護寺薬師如来を初めて拝観した感覚と同じだった。真如堂本尊を遡る古例な仏像であることは間違いないであろう。
2026年8月1日土曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」②(安祥寺の五智如来)
「空海と真言の名宝」展に出展される仏像は88点と多いので順不同で紹介する。最近の仏像展の傾向として最後に写真撮影可能なエリアがありそこに置かれていたのが、京博でおなじみの安祥寺五智如来だ。この五智如来は明治のころから京博に預託されており、もとは現在焼失した多宝塔に祀られていたが、明治の火災のおりには京博に預託され難を逃れたいわくの仏像だ。安祥寺の創建は平安時代前期の848年。安祥寺資財帳にも五智如来がいつ造像されたか記載がないが、多くの研究者が検討を加えており、創健者であり空海の孫弟子である恵運僧都が唐から帰国した嘉承元年(848年)から貞観元年のあたりとみてよいとのこと。大日如来像は目が鋭く、まるく張った頬、単純化した肉取り、大まかにとらえた衣の襞など力強い表現である。肩から肘までを含め体部が一材から彫出する。ネットで騒がれていた大日如来のヘアの質感が押したら戻ってきそうな不思議なムニムニ感の秘密の種明かしをすると、形状は木彫で表わされているが、その上に木屎漆を用いているためとのこと。その技法は奈良時代の造仏工房の流れを汲む官営工房が用いたと考えられ、製作年代は安祥寺発願者が仁明天皇の皇后藤原順子とのこと、仁明天皇崩御の嘉承3年(850年)あたりから造像され五智如来完成が880年頃ではないかと考えられる。金箔は後世の補修だが貞観以前に製作された平安仏の貴重な作品であることは間違いないだろう。
2026年7月25日土曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」②(願興寺の聖観音)
2014年年末に多摩市の多摩美術大学美術館に「四国遍路と土佐のほとけ」展を見に行って、その主催が出した「いにしえの祈りのかたち四国の仏像」(淡交社刊)という写真集のなかで気になっていたのが、この願興寺聖観音だ。それが今度の空海と真言の名宝展に出展されるという情報を事前に知り、第一会場の空海ゆかりの名宝のコーナーに向かった。聖観音は奈良時代の作で、四国でも最古級の仏像で、地方仏の数少ない脱活乾漆造の名仏だ。髻は高く毛筋は丁寧に表わされ、目や口は写実的で穏やかな表現であり、清純なおとめをおもわせる顔つきでややうつむいている。胸や腹部の起伏はなだらかで均整がとれ、胸の瓔珞や腕の飾りは華やかでこの仏像をひときわ美しいものとしている。背面を含めて衣文は丁寧に表わされ、細く鎬立った衣文など細部は檜材をひいたおがくずを漆で練った木屎をへたで盛り上げたあと磨いて作り上げた木屎漆の技法が使われていることから、この仏像の製作は平城京であっただろう。奈良時代の古代寺院から受け継いだ客仏か不明だが小ぶりの仏像であるが、天平彫刻の優美さを備えた、作例の少ない脱活乾漆造の優品の一つであるとのこと。じっくりと鑑賞していたかったが、快慶の深沙大将も気になるので次の展示に向かった。
2026年7月20日月曜日
弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」①

本日(7月19日)仏像クラブで弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」を見に東博に出かけた。何回か空海の展覧会は開催されたが、今回は真言宗大本山会の協力のもと、本山と関係寺院の彫刻と秘宝・秘仏や御七日御修法(ごひつにちみしほ)の紹介など盛りだくさんの内容とのこと。例によって仏像中心で見ていくと、第一章「空海と真言密教」では金剛峯寺の秘仏弘法大師や空海修業時代の香川・願興寺の聖観音が展示してあった。また密教図像の代表作として高野山霊宝館の快慶深沙大将と執金剛神像や密教図像の展示があり、第二章「御七日御修法の世界」では東寺の二間観音、第三章「真言宗各派の名宝」では真言宗豊山派総本山長谷寺の鎌倉時代の銅像十一面観音や真言律宗総本山西大寺の金銅透彫舎利塔などが展示されてあった。第四章「真言宗各派の彫刻と秘仏」では傑作仏や秘仏がこれでもかと展示されていた。世田谷美術館の白州正子展で見た三重観菩提寺の十一面観音やTV見仏記で放送された高野山金剛三昧院の千手観音。大阪大門寺の秘仏如意輪観音から山梨・放光寺の天弓愛染明王、京博展示の京都安祥寺の五智如来と傑作仏・秘仏の目白押しだった。昼食の関係でゆっくりと観れなかったが、一度では物足りない仏像の数々だった。詳しい仏像の紹介は次回にするが、真言宗各派には展示されていない秘仏がたくさんあり、寶山寺の不動明王や観心寺の如意輪観音など秘仏の名宝がたくさんあるので次回に期待したい。図録グッズを購入して御徒町の天ぷらや天寿々で大いに語り合った仏像クラブの面々だった。
2026年7月14日火曜日
春季特別展「真如堂の名宝」②(真如堂地蔵菩薩)
第一章真如堂の創建と「うなずきの弥陀」で真如堂本尊の模刻像を鑑賞したのち、第二章真如堂に伝わった仏教美術の精華ではこの展覧会の目玉である新出の阿弥陀如来二躯と真如堂創建当時の十世紀からの名宝が展示されていた。この地蔵菩薩は本尊と同じ時期に製作された仏像で、貞観仏に代表される重厚な作風と森厳な表情の一木造から、温和で優美な作風への転換点の仏像だ。寺伝では比叡山より勧請された十禅師社(日吉神社)の旧仏とされている。針葉樹の一木造で内刳りはなく、木心は像前面に外している。目鼻を頭部の下半に集め、幼児に近い表情を作り、Y字形に表された衣文は翻波式を交えつつも浅く控えめに彫られている。像底に丸孔を穿ち、台座から雇枘を挿す技法で、十世紀後半の作風を示している。ただし頭部は体躯に比べて過大で、頭体ともに奥行きを十分にとる。大衣は偏袒右肩で覆い、下半身に裙を巻く。右手は垂下し、左手は腕前に挙げ宝珠を捧げ持つ。重々しい表現が支配的で保守的な作風から製作時期は十世紀後半にさかのぼるとみられ、真如堂創建に先行する古像とのこと。どこかユーモラスで余り見かけない作風から神仏混淆の仏像だと理解した。
2026年7月5日日曜日
特別展「神仏の山 吉野・大峯」③(大峯山寺蔵王権現)
特別展「神仏の山 吉野・大峯」の目玉のひとつが大峯山寺蔵王権現の出展であろう。会場でも運送業者の特別チームが蔵王権現を箱に入れかついで下山する動画が公開されていた。大峯山寺は大峰山山上ケ岳頂上に位置する寺院。役行者が金剛蔵王権現を感得し、像に刻んで山上ケ岳山頂にまつったのが大峯山寺の創始とされる。本堂への道筋および本堂裏には、断崖絶壁の岩場など、複数の行場が存在する。吉野が観光地化されているのと大違いだ。その大峯山寺本堂に秘仏本尊としてまつられる蔵王権現。頭体の比例が整い、片足立ちの像容を安定感ある自然な姿にまとめ、布帛の柔らかな質感を巧みにあらわすなど、洗練された作風がうかがえる。開口にともない頬にくぼみを入れ、脇の付け根を水かき状にあらわすなど細部に及ぶ的確な身体描写も見逃せない。炎髪や正面腰以下に着けた獣皮を銅板切り抜きの別製とするなどの進んだ要素から、製作は平安時代末ないし鎌倉時代初頭と推定される。拳を握る左手は金峯山寺本尊蔵王権現中尊と同じで、銅像の蔵王権現は頭体幹部と両膝以下を別材で鋳造し境目を挿し込み鋲でとめているとのこと。表面は漆下地に漆箔をほどこし、白目に白、目頭と目尻、口中にそれぞれ赤色を塗る。その生気に富んだ姿は、大峰山寺伝来の蔵王権現像のなかでも屈指のものであり、特別な由緒をそなえた像であることを想像させるとの図録解説であった。大峰山寺に長い間伝えるには当時の最先端の銅製の技術が使われたと想像できる。この特別展で善男善女が奈良博で普段人を寄せ付けない山上にある蔵王権現に祈りをささげるだろう。
2026年6月30日火曜日
特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」②(薬王寺文殊菩薩)
2017年に仏像クラブで薬王寺を訪れた際、突然の訪問にもかかわらず快く収蔵庫を開けていただき拝観できた文殊菩薩騎像だ。我々が言ったとき薬王寺を代表する仏像として中央に本尊のように安置されていた。仏の瀬谷さんによると薬王寺はいわき地方随一の古刹として栄えた寺院で、その開基は、奈良時代後期から平安時代初期に活躍した徳一法師とされる。金沢文庫に保管されている「宝寿抄」に薬王寺も記載されており、中世には真言律宗のいわきの中心寺院とのこと。文殊菩薩騎像は東日本では比較的珍しい文殊菩薩の鎌倉時代後期まで遡る名作で、鎌倉時代後期に、忍性を中心とする真言律宗による信仰とともに数多く造立されたことは良く知られている、文殊菩薩騎像が造像当初の台座の獅子像もあわせて伝来するのは貴重。薬王寺は戊辰戦争による火災で丈六仏と伝えられる本尊薬師如来像を失われた。あらためて展覧会に展示された文殊菩薩は現地で観たの印象と違い、晴れ晴れしく感じた。またいわきの仏像探訪に出かけたくなった。
2026年6月20日土曜日
令和8年度春季京都非公開文化財特別公開(放生院地蔵菩薩)
奈良・京都仏像巡り2026年初夏の2日目は京都・宇治の放生院・恵心院・興聖寺の三ケ寺を巡った。新緑が美しい宇治川沿いの道を一番目の橋寺放生院に向かう。橋寺放生院を知ったには、2009年出版の「見仏記ゴールデンガイド篇」でだが、その後新TV見仏記でも放送されたので行った気になっていたが、地蔵菩薩の拝観は今回が初めてだ。見仏記によると創建は7世紀初頭で、渡来人秦河勝によるとされる。十三世紀に行われた放生会から放生院と呼ばれた。入口で「京都古文化保存協会」の係のかたに拝観料を払いこぢんまりした本堂に像高1.9メートルの堂々とした地蔵菩薩が立っておられた。鎌倉時代の重要文化財で赤、青、金の載金文様(きりがねもんよう)の袈裟が前面から背面までびっしりと施されている。2015年の修理を、外に運び出せず、堂内で寝かせて作業したとのことだが、より輝きをましてすばらしいにつきる。そんな拝観者の興奮をよそに静かに半眼でこちらをみている地蔵菩薩。みうらじゅん氏が指摘した「いい飛び出し地蔵だよ」の前傾姿勢も間近で拝観できた特別公開ならではのことだ。かなりの前傾姿勢であたかも飛行中であるかのように見えるという説明も納得できる。あらためて前にまわって翻波式衣文の波が小波から下にさがるにつけ大波になってバランスがよく、それに赤・青・金の載金が施されていることがすばらしい。みうらじゅん氏に言わせると「地蔵界でナンバーワンかもね。」も同感できる。ありがたいことに地蔵菩薩の前面と背面の写真をご住職より購入し、興奮冷めやらぬまま次のお寺に向かった。
2026年6月13日土曜日
特別展「神仏の山吉野・大峯」②(世尊寺十一面観音)
今回の展覧会は吉野・大峯にある神社仏閣から多くの貴重な神・仏が展示されているが吉野の古刹世尊寺からはこの十一面観音が出展されていた。世尊寺は2014年に放映された新TV見仏記で知ったが、この十一面観音は2020年に東博で開催された特別展「出雲と大和」で初めて出会った。とても迫力がある奈良時代の像高220センチ余りの大きめな仏像だったがこのブログで紹介するのは今回がはじめてになる。井上正氏「古佛」でもとりあげられた仏像で、世尊寺の前身寺院は「比蘇寺」といい飛鳥時代創建とのこと。大安寺展の時には奈良時代多くの留学僧や日本人僧が修行したアカデミーとして紹介されていたが、比蘇寺は学問山寺であった。この十一面観音はそのころ製作された。等身よりひとまわり大きく、半丈六に近い。頭部が後補で首以下はいかにも古式であり、大きな内刳があり、以外に軽いとのこと。首から上の頭部の製作年代は不明だが、井上氏によると鎌倉時代後半期頃の様式をしめしているとの説もあり同感できる。納入物の経典にも鎌倉時代の年号が記載されている。全体にフラットな顔面と低い鼻、つぶれ気味に膨らむ毛筋の揃いきった髪の表現など十三世紀末あたりの特色と考えてよいだろう。左手は屈臂して蓮華を挿した宝瓶を執る形をなし、右手は垂下して、掌を前にして五指を伸ばす。裳をつけ、帯をまき、条帛・天衣をかけ、腕釧・臂釧をつけて、蓮華上に直立する。作風が同じ奈良時代の興福寺東金堂薬師三尊矜持や薬師寺講堂日光月光菩薩に作風が似ていることから首より下は奈良時代に造立年代を置くことができる。以前、私が訪れた、霊山寺もインドバラモン僧菩提僊那終焉の地であったように、ここ世尊寺も二人の唐僧がすごした古刹であるということに思いが走る。
2026年6月7日日曜日
令和八年新指定国宝・重要文化財展
令和8年初夏の京都旅行で最後に訪れたのが「令和八年新指定国宝・重要文化財」展だ。帰りの時間まで余りないので、第1室絵画/工芸品で国宝に指定された明兆作東福寺五百羅漢図の一部を見てから、第3室考古資料/彫刻を時間をかけて観覧した。今回展示されなかった山梨・恵林寺の不動明王・制吨迦童子・矜羯羅童子以外の重要文化財が展示されてあった。他の仏像については後日報告するが、なんと言っても注目するのはポスターにも掲載されている兵庫県姫路市の如意輪寺如意輪観音だ。如意輪寺は姫路市HPによるとかつて書写山円教寺の女人堂であった寺で本尊がこの如意輪観音とのこと。像底の朱書銘から南北朝時代の運慶につらなる七条仏所の大仏師康俊の代表作とわかる。端正な面貌を始めとする美しく整えられた造形は康俊の仏菩薩像の特徴を示し、思惟する物憂げな表情や六臂の複雑な像容を堅実にまとめ上げている。表面は金泥彩とし、着衣部には切金と盛上彩色(文様の輪郭を白や緑の顔料で盛り上げて描いておいて、その上に彩色する)を交えた文様が施される。姫路市指定文化財から国重文になったことは喜ばしいことで、こうして拝観できて奈良・京都旅行の最後に出会えてよかったと思う。拝観時間は19:30までだが帰りの新幹線の時間もあるので、急ぎ京都駅に向かった。
2026年5月30日土曜日
特別展「北野天神」(興喜天満神社天神像)
当初、京都国立博物館開催の特別展「北野天神」はスケジュールに入れてなかったが、神像・仏像が12点も出展されることをネットで知りきゅうきょ龍谷ミュージアムの後に、京博に向かった。菅原道真の生涯を追った第一章天神信仰1.菅原道真のあとに2.神になった道真のコーナーに興喜天満神社天神像が展示されていた。奈良県桜井市にある長谷寺の鎮守であった興喜天満神社に主神として祀られた像で、鎌倉時代中期の作。平安後期から本地垂迹説の盛行に伴い天神の本地は十一面観音であると信じられ、当時の北野天神への信仰の隆盛にともない、もともと雷神との関わりが深かった初瀬の地に勧請するにいたったと考えられる。忿怒の相をあらわす束帯姿の男神像で、腕前で笏を執り、太刀を佩いて安座する。像内墨書の正元元年(1259)から現存する最古の天神像と位置づけられる。仏の瀬谷さんはその著書で「相貌が同じ年に造立した白毫寺の太山王像に似ていることから同じ工房慶派の仏師が作か」とのことでだがいずれにしても迫力のある天神像であった。
2026年5月22日金曜日
特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」①(長福寺地蔵菩薩)
本日、神奈川県立金沢文庫に特別展「いわきの古刹長福寺と薬王寺」を見にいった。福島県いわき市にあるお寺の仏像展をなぜ金沢文庫で開催するのかというとパンフレットによるといわき市の長福寺は奈良・西大寺を総本山とする真言律宗の古刹で薬王寺には称名寺聖教の「宝寿抄」は薬王寺で成立したという関わりからとのこと。図録の表紙の長福寺地蔵菩薩は鎌倉時代に鎌倉中心で活躍した、仏師院誉(いんよ)の作。山本館長の「鎌倉時代仏師列伝」によると着衣の裾が台座の正面をおおう形式は「法衣垂下」といい、衣には、型抜きの土製文様を貼り付ける、いわゆる土紋の技法がみられる。いままで「法衣垂下」は鎌倉時代全国に広まったが、「土紋」は鎌倉地方のみにみられると言われてきた。しかし鎌倉中心に活躍した院誉がみちのくの真言律宗でも活躍したことを如実に表した仏像だ。長福寺を創建した小川義綱は鎌倉御家人佐竹氏嫡流の子でその関係で院誉に地蔵菩薩の製作を依頼したのであろう。ほとけの瀬谷さんの面目躍如の展覧会だった。他にも運慶の大蔵薬師堂像を模刻した薬王寺「厨子入薬師三尊」や仏像クラブで訪問した薬王寺帝釈天も展示され、少ない展示だったが充実した展覧会だった。機会があればまたいわきの寺院を訪問したい。
2026年5月15日金曜日
特別展「神仏の山吉野・大峯」①
5月7日弥勒寺拝観後奈良に戻り、奈良博で特別展「神仏の山吉野・大峯」を鑑賞した。藤原道長自筆の国宝・紺紙金字経修理後初公開に合わせて山岳修行の祖役行者像や蔵王権現蔵など人々が祈りを捧げた神像や仏像など、自然と神仏への信仰が一体となって生み出されたこの地域ならではの宝物を一堂に展観する展覧会だ。第1章「伝説の地吉野」では金峯山寺とその周辺の役行者や蔵王権現の紹介のコーナで冒頭には初めて見る吉水神社の役行者・前鬼・後鬼や特別展「出雲と大和」で見た世尊寺の神像を思わせる十一面観音をじっくりと拝観した。またNHK Eテレで放送された新日曜美術館で実写が許されなかった大峯山寺蔵王権現(本尊)も間近で拝観できた。第2章「金峰山をめざして」では藤原道長が金峯山寺に埋納した紺紙金字経と黄金の経筒や蔵王権現が刻まれた蔵王権現鏡像を拝観した。第3章「ひろがる信仰世界」金峰山寺以外の仏像・神像の世界で如意輪寺の源慶作蔵王権現や勝手神社の勝手明神など見応えがあり第4章「後醍醐天皇吉野へ」では後醍醐天皇陵を守る如意輪寺の如意輪観音や天皇ゆかりの宝物が展示してあった。第5章「豊臣秀吉華の宴」吉見花観図屏風などが展示され第6章「近世・近代の吉野と奈良」明治の人物分離を守られた仏像・神像やロサンゼルスから里帰りした蔵王権現が展示されてあった。奈良博の山口学芸員の概説を読むと今回出展かなわなかった吉野訪問時に見た大日寺「五智如来」や写真展示のみの個人蔵の阿弥陀三尊などまだまだ展示したかった仏像・神像があったようだ。また機会があれば吉野に行き拝観するか、次回の修験道の展覧会での出展を期待してやまない。
2026年5月8日金曜日
春期特別展「真如堂の名宝」①
京都宇治の非公開文化財特別公開に感動した後、春期特別展「真如堂の名宝」を見に龍谷ミュージアムに向かった。受付をすませてから三階の会場に行くと多くの仏像が展示してあった。第1章は真如堂本尊うなずきの阿弥陀の模刻像が展示してあった。私は昨年のお十夜に真如堂本尊を目の前で参拝する機会に恵まれた為、どれもうなずきの阿弥陀には到底及ばない出来だった。次は真如堂の本尊意外の仏像のコーナーだったが、一部を除いてみな小さい阿弥陀如来が多かった。メインの真如堂法輪院喜蓮院の阿弥陀は大きさ三尺ほどの小ささであった。二階には真如堂本尊と同時期の都の平安物で以前行ったとき見逃した福田寺の地蔵菩薩や法然展京博でみた長源寺阿弥陀如来が堂々として異彩を放っていた。総合的にはここまでよく仏像を揃えたなという感じだ。個別の仏像の紹介は後日にするが、願わくば真如堂のお十夜の時期に開催されれば、「本尊は真如堂で」が唄い文句になってよかったと惜しまれる。またよい企画を龍谷ミュージアムに期待したい。
2026年5月7日木曜日
奈良京都2026初夏(再会した弥勒仏)
今年のゴールデンウィークが終了した翌日(5月7日)に、いつもの通り奈良京都へ出かけた。今年は奈良で「特別展神仏の山吉野・大峯」が開催され、京都では非公開文化財特別公開と龍谷ミュージアム「真如堂の名宝」京博「特別展北野天神」京都文化博物館「令和8年新指定国宝重文展」を見る為のスケジュールを組んだ。奈良博に行く前にお寺へ寄ることが、例年行っており、今年は大和高田の弥勒寺に予約して出かけた。以前奈良博に短期展示した弥勒寺の弥勒仏を偶然拝観したが、たまたま弥勒寺のHPを見つ再会に出かけた。タクシーでお寺に着くとご住職と奥様がお待ちのようで、再会に駆けつけたことをいたく感動されたご様子だった。半丈六の弥勒仏は背無為与願印で広葉樹の一木造。住職の説明だとかなり大きな御神木ではなかったかとのこと。背板や内ぐりから平安中期の作風が顕著。珍しいのは耳タブが網目状に表されている点だ。住職によると中村元氏が兜率天の住む山を表しているとのこと。住職の説明が長くなりそうなので、御朱印の話をし、書置きを頂きお寺を後にした。急ぎ奈良に戻り昼食後特別展神仏の山吉野大峯に向かった。
2026年4月29日水曜日
准秩父三十四札所観音霊場(清林寺聖観音)
2026年午年、今年は御開帳が多い。3月に板東三十三所観音霊場の一番札所杉本寺に仏像クラブで参拝したが秩父三十四札所観音霊場や先週の準西国稲毛三十三所観音霊場。本日は准秩父三十四札所観音霊場の内32大善寺33龍福寺34清林寺を巡った。今月30日で終了してしまう御開帳期間であったため、計画していたとき、2021年に横浜歴博で開催された清林寺聖観音が御開帳されていることがわかり、本日(28日)に横浜地下鉄センター南駅から清林寺を目指していったがかなり距離があり、札所の紅い旗がたっていた大善寺にお参りしてから清林寺に向かった。若い僧と案内のご婦人がいらしたので書き置きの御朱印を戴き本尊聖観音に参拝した。『横浜の仏像』図録解説の山本勉先生によると菩薩立像(伝聖観音)は像高98センチ平安時代末期の仏像で伝恵心僧都の作で元禄時代の創建の清林寺の以前の伝来は不明。垂髪を結い、上半身に条帛・天衣を懸け、下半身は裙・腰布を着ける菩薩形像である。左手は屈臂し、右手は垂下して、腰をわずかに左にひねって立っている。内刳を施すが、左側頭部、左腕、右手先、両足首先などは後補である。平明な表情の面相や、ゆったりした肉どりの体躯、また静謐な立ち姿などに、いわゆる定朝様の特色を示し、平安時代後期、十二世紀の製作と考えられる。(中略)いま独尊の聖観音とされているが本来は三尊像の脇侍像の一つとして製作されたものであったかと思われる。平安時代に三尊像を安置する寺院があったことを推察される貴重な遺品であるとのこと。龍福寺の古そうな十一面観音立像を参拝して東急バスで綱島に出て帰路についた。
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