2022年12月30日金曜日
2022年12月17日土曜日
大原来迎院の薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来
今年の秋の京都非公開文化財特別公開では、大原来迎院が選ばれていた。以前も大原を訪れた際訪れたが、三千院から離れているせいか拝観する人も少なくひっそりと仏を拝観できるいい寺だった。山道は紅葉に染まりその中を来迎院に向かった。本堂に入ると中央に薬師如来、向かって左に阿弥陀如来、右に釈迦如来が三尊形式で安置されていた。いずれも平安時代後期の寄木造で整った穏やかな作風と評されている。開山は慈覚大師円仁で天台声明の根本道場と伝えられている。光背も修理したばかりか輝いており、以前にはなかったパンフレットを大学生が製作したとのこと。ただし案内する人もいなく少し残念だが、感染症蔓延の時期中止にならなくてよかった。そんなことを考えながら京都の町中に帰っていった。
2022年12月10日土曜日
新薬師寺の薬師如来
11月19日(土)に室生寺から奈良に戻りバスで高畑へ向かった。白毫寺に向かおとしたが時間がないので旧新薬師寺の遺構が埋まっている奈良教育大学前を通って、新薬師寺に向かった。新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を願って創建されたが、その七仏薬師があった新薬師寺は現在とは別の場所にあったとは聞いていたが、では現在の新薬師寺は誰が立てたのだろう。仏の瀬谷さんは芸術新潮で天武系から天智系へ皇統を奪還した光仁天皇だという。光仁天皇勅願の秋篠寺の本尊が新薬師寺と同じ一尊七仏薬師(光背に化仏を配し、本体と合わせて七仏とする)に似ているとのこと。今回は御朱印をいただくため本堂にとどまっていたため、じっくりと本尊や十二神将を参拝する時間があった。光背は二十円光背で頂上に宝珠。外側にはアカンサスという植物の葉モチーフにするシルクロード由来の文様と六体の薬師如来像を光背に配した。ひとつのお寺でも見どころ多い新薬師寺であった。御朱印をいただいてバス亭に戻った。
2022年11月26日土曜日
京都大原三千院の阿弥陀三尊
11月18日(金)の朝、京都駅から京都バスで大原三千院に向かった。最近流行りの瑠璃光院で多くの善男善女が降りたことで紅葉の盛りであることが分かった。大原に着き参道を三千院に向かう。ものすごい真っ赤や黄色の紅葉が映える参道を写真を撮りながら進んだ。三千院は参道より少し高いのでイチョウの葉はすべて落ちていて、黄色の絨毯ができており三尊像がいる往生極楽院をそめていた。小学館の「古寺行こう」というブックによると、三千院は門跡寺院だが寺名、所在地を変更して明治維新後に移転してきたため、もとさんぞんあった往生極楽院の地にたっている。阿弥陀三尊は平安時代後期の定朝様式の仏像で、像高2.3メートルの座像だ。最大の特徴は像がぎりぎり納まるくらいしかない狭いお堂に低い須弥壇をしつらえ、三尊を配置した構造にある。それによって参拝者との距離が非常に近く、臨終者の枕元に来迎する阿弥陀三尊の姿を目の当たりにするかのような迫力がある。勝林院・来迎院を午前中にみる予定なので、そうぞうに御朱印をいただき、三千院を後にした。
2022年11月20日日曜日
清水寺の迦楼羅
今日から京都奈良の今年二回目の旅行に来ている。今日の夜は清水寺秋の紅葉ライトアップがあるので、夕飯のとりすきフルコースを頂き急いで、タクシーで清水寺に向かった。なんとか最終入場に間に合ったが、人が多いのはいつものことだ。本殿の千手観音と28部衆も金網越しにしか見られなかった。お目当ての迦楼羅様もよくわからなかった。江戸時代初期の清水寺再興造仏に活躍した運慶まっしょうを自称する七条仏所で徳川幕府の御用仏師として起用されたと思われる。清水寺の本堂二十八部衆の製作にあたった宮内郷康音である。当時は仏師界を代表する七条仏所の重要人物が幕府との関わりのなかで清水寺再興仏に活躍したのである。康音再興の奥の院から手を伸ばして、写真を撮り清水寺を後にした。
新薬師寺の頞儞羅大将
今日は奈良に朝早く起きて出かけた。室生口大野からバスで到着するとまさに目がつぶれるほど、真っ赤な紅葉に包まれた室生寺が現れた。仏像の詳細はのちほど、書くが室生寺から取って帰して特急券を車内購入して奈良に向かった。昼食を食べ急いで午後の拝観へ。新薬師寺へ13年ぶりに向かった。香薬師堂のおたま観音は事前予約が必要とのことでお堂は固く閉ざされていた。気を取り直して十二神将と薬師如来を観賞する。いつもは伐折羅大将にばかり目が行くが、隣の頞儞羅大将も迫力あるポージンクをしている。奈良旅は移動に時間かかるので、次回からは奈良に一泊するスケジュールで行きたい。また奈良と大阪が近いので、大阪から入ることでもいいだろう。そんなことを考えながら京都を後にした。
2022年11月13日日曜日
大倉集古館普賢菩薩
今月3日の文化の日、初めて大倉集古館に国宝普賢菩薩をみにいった。大倉集古館の普賢菩薩は東博の「名作誕生展」で見ており、スポットライトにあたった截金文様がきれいに残る平安仏だ。前の週に行った神谷町駅から坂をあがると中国風の建物がみえて来た。入場券を購入して上人像などを見てから2Fの展示室に古いエレベーターで向かった。普賢菩薩は東博で見た展示ケースに収まったいたので鑑賞した。ネットに名品図録解説として「普賢菩薩は『法華経』を信仰し受持する者を守護するとされ、その信仰が特に隆盛した平安時代中期から後期にかけて、多くの優れた画像や彫像が製作された。特に女人往生の典拠となった同教は女性貴族の間であつい信仰を集めた。(中略)保存状態は総じて良好で、本体はもちろん、台座の蓮華や象、その下の框にいたるまで造立当初のものである。鮮やかな彩色や着衣の各部にほどこされた細線な截金文様も、この期の華麗な趣をよく残している。頬から顎にかけてふっくらと膨らんだ面貌や、全体が丸みを帯びて小ぶりに造られた体躯の表現などは童子を思わせながら、顔立ちは崇高さえをたたえ、腕前で合掌する姿は敬虔で静謐な趣を際立たせる」山本勉先生は円派と断定しており、平安時代の貴族の女性の思いを一身に受けた菩薩像をいつまでも眺めていた。最近リニューアルされた地下のミュージアムショップで普賢菩薩のクリアファイルを購入し、大倉集古館をあとにした。
2022年11月3日木曜日
増上寺三解脱門
先週の土曜日「増上寺三解脱門公開」にあわせて仏像クラブで港区愛宕の寺社と三解脱門拝観に出かけた。愛宕神社の出世の石段などを巡り増上寺に着くと三解脱門に受付とロッカーが設置されており、U案内人の話ではカメラは持ってきてよいとのことで、身軽になりほぼ垂直な設置された階段を三解脱門にあがった。増上寺三解脱門は東京にありながら、関東大震災にも空襲でも焼けなかった奇跡の門で400年前の江戸が壇上に広がっている。中央に釈迦三尊、周りに十六羅漢が配され壇上にいた説明者によると室町末期から江戸時代にかけての製作とのことだったが、山本勉先生の「仏像」によると宿院仏所の宗院で美術史的には織豊政権から豊臣氏滅亡の慶長20年までの桃山時代、政治的には江戸幕府開設間もない時期につくられたとのこと。宗貞・宗院は奈良金峯山寺の蔵王権現を製作した仏師だが、荒らしい蔵王権現と違い徳川政権誕生で戦国が終了した当時の世相を反映してか穏やかな釈迦如来となっているが、山本先生によると、鎌倉時代初期の快慶作品に学んだ端正なまとまりがあり、奈良の地の長い造像伝統が突然花開いた観があるとのこと。よく見ると肩のあたりに快慶御得意の截金文様がほどこされている。このころは造仏活動も盛んで運慶の末裔七条仏師の東寺での活躍もあり注目すべき仏像は多い。これから東京の仏像も丹念に見ていきたいと思った。
2022年10月23日日曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑫(法用寺の金剛力士)
「最澄と天台宗のすべて展」は昨年の10月から今年の5月まで東京・九州・京都で開催されたが、私は東京・京都に参加したため紹介する仏像が多い。こちらの会津、法用寺の金剛力士は会津に行ったとき見そびれた仏像のひとつだ。「最澄と天台宗のすべて展」東京会場の東博第二展示室には像高2メートル以上の巨像が多く、金剛陸士の220センチぐらいの巨像だ。法用寺は奈良時代創建の古刹で天台宗ゆかりの地に立つ。ダイナミックな怒りの表現を伴う金剛力士像の中では威嚇する身振りや顔の表情は控えめで、平安時代後期の作風をよく示している。東北地方で仏像の用材でよく用いられるケヤキの一材から頭体幹部が一木造りで作られている。現在、東博開催中の特別展「東京国立博物館のすべて」に出展されている東博の金剛力士像は木の年代測定によって平安時代後期と作とみられている。地域性と同じ一木造の木像から平安時代後期と推察されるとのこと。会津に出会えなかった仏像に会えた喜びをかみしめ会場をあとにした。
2022年10月15日土曜日
「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」④曹源寺十二神将
特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」でも金沢文庫運慶展のときと同じく曹源寺十二神将が展示されていた。運慶は浄楽寺の仏像を造ったあと東大寺造仏までの7年間の足跡が不明であることで知られているが、仏の瀬谷さんの考察では永福寺の薬師如来と十二神将を鎌倉殿の命で造っていたという。曹源寺十二神将はそのコピーだという。当時は彼ひとりの独走の説といわれていたが、東博ミュージアムに奥建夫氏(当時文化庁)の説が出て俄然自信を深めたようだ。十二神将のうち巳神だけが頭ひとつ大きく造られており、出来栄えも突出している。誰か巳年生まれの貴人の守護神的意味があるだろうと思われていたが、奥氏は中世には生まれた年より生まれた時刻の干支が重視されていたこと、その貴人が源実朝に他ならないと指摘した。鎌倉殿源実朝の十二神将だという。調子にのった瀬谷さんは永福寺の出土した鬼瓦から永福寺総合プロデュースは運慶だと断言する始末だ。真偽は別としてもそう考えると楽しい展覧会だった。
2022年9月23日金曜日
東林院の弥勒菩薩
8月23日に南淡路からタクシーで徳島に移動し、途中車中から鳴門の渦潮を忙しく観光しながら、徳島駅に向かった。ローカル線なのでタクシーを乗り換え東林院に向かった。このお寺を知ったのはみうらじゅん・いとうせいこう出演の新テレビ見仏記で訪問したからだ。観光のお寺ではないが恰幅のいいご住職が快く迎えてくれた。東林院は四国八十八ケ所第一番札所霊山寺の奥ノ院という位置づけだが訪れる人もなく住職に何で知ったか驚かれた。東林院は天平時代行基により創建されたとういう伝説があるものの、平安時代に空海が訪れ真言密教の寺として再興された寺院とのこと。客仏の弥勒菩薩は平安時代後期の寄木造の像高1メートル足らずの座像だ。印相は手のひらをこちらに向ける説法印の変形か、金箔もよく残っている。絵葉書がないので住職に断って写真撮影させていただいた。ご住職の好意で便がいい駅まで送っていただき、お礼を言ってお寺を後にした。おかげさまで徳島にも早くつき、昼食の徳島ラーメンをいただき、午後の井戸寺に向かった。
2022年9月18日日曜日
特集「チベット仏教の美術」
9月4日に東博平成館に特集「チベット仏教の美術」を見に行った。東博所蔵のチベット仏教美術を見るのは2017年の東博東洋館依頼となったが、前回は仏像中心であったが今回は仏画・工芸品・書籍の優品と河口慧海の遺族から寄贈されたアジア各地の仏教美術とともに紹介する東博創立150年記念特集となっている。会場に入るとお馴染みのチャクラサンヴァラ父母仏立像の背後にガルバ・ヘーヴァジュラ十七尊曼荼羅が展示されており、インフォメーションでもらったパンフレットの表紙のような心憎い演出がされていたが、前期の曼荼羅と入れ替わっており残念だった。お馴染みの清の乾隆帝が愛した除蓋障菩薩坐像も展示やチベット仏教の胸がふくよかな女神像白色ターラー菩薩坐像に夢中になった。工芸品も見る価値がある展示が多くなかでも盤 白色如意宝珠マハーカーラは延命長寿や繁栄をつかさどるマハーカーラを景徳鎮で焼き上げた逸品となっており思わず引き込まれた。河口慧海請来品のネパールの菩薩立像などもあり小展示室なれど見ごたえ十分な展示となっている。多くの館蔵品を携帯のカメラで撮影して東博をあとにした。
2022年9月3日土曜日
特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」④(満願寺の観音菩薩)
運慶 鎌倉幕府と三浦一族展の中ほどに像高224センチ余りの巨大な観音菩薩・地蔵菩薩が見えた。これが満願寺の観音・地蔵菩薩だ。仏像クラブでは何度もお寺の収蔵庫で拝観したが、展覧会で見るのは東博運慶展以来久しぶりだ。満願寺は三浦一族の佐原義連(よしつら)の創建だが金沢文庫の仏の瀬谷さんは義連創建にその大きさから疑問を呈している。満願寺の菩薩像は周八尺像で通常の丈六像の4分3くらいのサイズ。和田義盛が建てた浄楽寺の本尊ですら半丈六であり、北条時政の願成就院の本尊も半丈六。それは丈六仏の造立は幕府=源頼朝が独占しており、造仏においても鎌倉殿を頂点とした序列化が図られていた。このように考えると満願寺の菩薩像を造ったのは頼朝その人であるという答えが自ずと導き出されると断定している。吾妻鏡にも頼朝のが三浦願矢部郷に一堂を建立したという記事から木造のあった三浦義明のために追善像として頼朝が創建したとのこと。また地蔵・観音の脇侍の組み合わせは珍しいが松崎吉田寺の例を挙げている。つまり満願寺にも丈六の巨大な阿弥陀像があったということになり想像が膨らむ。U案内人も一番印象を受けたらしくしばらくたってからも満願寺観音・地蔵菩薩のことを熱く語っていた。
2022年8月30日火曜日
淡路徳島仏像巡礼③(丈六寺の聖観音)
若い時分,四国の香川・徳島・高知と巡り徳島の丈六寺にも行ったことがある。(たぶん見仏記の影響だが)淡路徳島仏像巡礼3日目(8月24日)徳島駅からバスに乗り丈六北で降りた。しばらく歩くとやすらぎの小路という町の住民が整備し、鯉を放し飼いにしている気持ちいい道をいくと丈六寺に着いた。重文の三門の横をくぐると境内に着いた。案内する人もいない境内をまずは観音堂へと進む。木の格子から薄暗い観音堂内部を見ると奥に座っいるのは懐かしい4メートル弱の聖観音だった。灰色にすすけた観音は見仏記によるとOKサインを出し左手を股の間に置いて握っていた。観音の驚くほど大きな左手の甲から蓮が飛び出している様は私には自然に見えたが、見仏記ではそそり立ったぺニスを誇示するかのようだとのこと。案外的を得た答えかもしれない。薄暗いので、よく見えなかったが、横の立て看板には光背には飛天もついており、全体が燃え上がる怪しい炎になっている。素晴らしい観音に再会し感動し、くりで御朱印を頂きこの旅の最後の巡礼を締めくくった。徳島に戻りスダチサワーと新鮮な刺身、美味しい煮魚で旅を満喫し帰路に着いた。
2022年8月27日土曜日
淡路徳島仏像巡礼②(井戸寺の十一面観音)
淡路徳島仏像巡礼の2日目(8月23日)、四国八十八ヶ所札所17番札所井戸寺に向かった。徳島駅で次の電車の時間を聞こうとしたら、府中(コウ)駅行きはあと1分で出ますという回答でいそいで電車に乗り込んだ。府中駅を携帯で調べる間もなく到着し、親切なご婦人の誘導で50分かけ井戸寺に到着。この井戸寺には見仏記でみうらじゅんいとうせいこうも訪れており、みうらさんにいたっては女性的を通りこし女性としか見ておらす、当時はグラビアアイドルや往年は洋画スターに例えている、見仏記を頼り仏像を説明すると像髙は二メートル弱の大きさの十一面観音、そして日光月光菩薩だった。平安時代の作といわれる、少々寸詰まりではあるものの存在感を豊かにあらわしていた。特徴的なのはなんといっても唇で、鼻と同じくらいの高さまで上唇を突きだしているのだ。つまり地方仏の特徴を女性的表現とらえ表している。いまでは明石海峡も鳴門海峡もクルマでさっと渡れる時代だがむかしは舟でしか渡れなかった仏師が想像で都の仏を作るのは致し方ないと思った。仏像の彩色は井上正先生によると鼠色の地粉地に丹が置かれ赤白檀を意識した彩色になっている。タクシーと電車を乗り継ぎ今夜の宿に猛暑の中向かった。
2022年8月24日水曜日
淡路徳島仏像巡礼①(淡路国分寺の釈迦如来)
今日(8月22日)から淡路徳島仏像巡礼に出ている。新見仏記でみうらじゅんいとうせいこうが淡路島の仏像を見ているので、いつかは行こうと思っていたが、今年の夏実現した。まず最初に向かったのが、天平時代?の釈迦如来が祀られている淡路国分寺だ、ここはホームページも開設しており、事前に拝観の申し込みをすると、若い声の住職が、拝観を快諾いただいた。タクシーで到着し案内をこうと予想通り若い住職が、応対してくれた。彼が力説していたのが現在の国分寺で釈迦如来を祀っているのは、当寺だけ。学者に南北朝時代の再建だというが土地の人たちは天平仏だと固く信じており、一つだけ残された飛天像からもかつて栄えた国分寺をしのぶことができる貴重な遺品だという。私も天平仏と信じたいが、飛鳥寺の例もあり、ひょっとしたらと思って、お寺をあとにした。
2022年8月21日日曜日
特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」③(岡崎義実毘沙門天)
「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」展で随所に金沢文庫の「仏の瀬谷さん」らしい展示品であふれているが、最も瀬谷さんらしい展示品がこの個人蔵の毘沙門天だ。岡崎義実の念持仏として伝わるこの毘沙門天は九州の家来筋の家で運慶作として伝わっている作品だ。左手で宝塔を腕前で捧げ、邪鬼の頭上で屈する浄楽寺スタイルだ。明らかに模刻像であることに間違いないがここからが瀬谷さんの独自解釈だが頼朝のために運慶が造った勝長寿院の毘沙門天を浄楽寺像も岡崎義実毘沙門天も模刻したものだろうとのこと。岡崎氏も和田氏も三浦一族だが、岡崎氏の領地は証菩提寺あたりにあったので、三浦半島より鎌倉にある仏像の模刻像と考えられるの妥当だろう。いろいろ興味がつきない作品だが、満願寺の地蔵・観音が気になるので次の展示品に向かった。
2022年8月14日日曜日
特別展「大安寺のすべて」⑪(行教律師像)
大安寺釈迦如来像をめぐる世界のあと、大安寺をめぐる人々と信仰と題し大安寺に関わった菩提僊那や空海などのお坊さんの展示のコーナーにこの行教律師像があった。行教律師は宇佐神宮から八幡神を招いて京都に石清水八幡宮を立てた坊さんでこの像は石清水八幡宮の麓にある神応寺に祀られている。奈良博研究員N藤氏はきわめて個性的と解説しているが、古佛の井上氏にかかると抜きんでて尋常でない表現を感じさせる像だという。井上氏によると「歪みの造形が目に付く。座形は左へ大きく傾き、肩は右上がりで、腰の重心と頭頂とが大幅にずれている。頭部、体部および足膝の向きが少しづつ異なり、この部分どうしがぎこちなく一種武骨な感じで全体をなす様子は苦悶に近い感じがする。」N籐研究員も目や鼻・唇の異常さには気づいていたが「独特の迫力があり」という記述にとどまっていた。井上氏は男山地主神の像で行基製作という結論に達したようだが、N籐研究員は僧形八幡神として祀られた像という可能性を指摘するにとどめている。実際の仏像も隣の絵画と見比べると行教のものとは思えない不思議な仏像だった。
2022年8月6日土曜日
特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」②(浄楽寺不動明王)
この展覧会は横須賀美術館と県立金沢文庫の共同開催となっている。ニコニコ美術館で横須賀美術館の学芸員が「中世にお詳しい金沢文庫さんからの声掛けで開催の運びとなりました。」と言っていたので、当然図録の総論は「仏の瀬谷さん」こと県立金沢文庫の瀬谷学芸員であった。地方美術館の展覧会であるが、芸術新潮で特集がくまれ瀬谷節がさく裂していた。願成就院と浄楽寺ほぼ同時期に同じタイプの仏像のセットを造立したのは共通の何らかしらのプロトタイプがあった。それが頼朝創建の勝長寿院の仏像ではなかったか。一方、横須賀美術館の学芸員は不動明王肉体表現、力を入れた握り拳に運慶のうまさを説明していたのがおもしろかった。広い展示会場思う存分運慶作を堪能できてよかった。次の部屋の満願寺地蔵・観音が気になったので次の展示に向かった。
2022年7月30日土曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑪(長源寺薬師如来)
この展覧会通じてのテーマとして「最澄自刻の薬師如来はどのよな姿だったか」というのがある。根本中堂に今も祀られていると伝えられるが絶対秘仏のため誰も見たことない。のちの時代の天台寺院で多くの模刻像が造られたが、それぞれ個性が出ており見ごたえがあった。ニコニコ美術館で淺湫学芸員が説明していたが、仏像の螺髪は通常互い違いに彫られるがこの仏像は一直線に彫られており、そこが自刻の薬師如来らしいいとの説明だった。実際の仏像は150センチ余りの堂々とした体躯の仏像だった。最澄自刻の薬師如来は朱衣金体だったと伝えられるが、この仏像は漆箔で覆われている。長源寺は京都府岩倉のお寺なので京博ならではの仏像だろう。今後も京博の展覧会は注目していきたい。
2022年7月23日土曜日
特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」①
今週の日曜日、4月の浅草以来久々の開催になるが、仏像クラブで三浦観音崎にある横須賀美術館に出かけた。京急の浦賀から観音崎に向かい雨のなか横須賀美術館に向かうと風光明媚は海岸沿いに横須賀美術館が建っていた。入口に向かうと今回の800年遠忌記念特別展で見れる仏像のパネルが迎えてくれた。品のいいご婦人がこの特別展の見どころが書かれた小冊子を配っていたが、後でニコニコ美術館でこの展覧会の解説をした富田学芸員だとわかった。展示室1では運慶以前の三浦半島の文化の紹介で飛鳥時代・奈良時代の瓦が展示されており、三浦地方がその時代できわめて先進的な文化があったことや三浦義明の像などが展示されていた。展示室2では運慶の浄楽寺毘沙門天や不動明王、以前、金沢文庫運慶展に出品された清運寺毘沙門天が展示されており、県立金沢文庫と共同開催するこの特別展も仏の瀬谷さん色が強い構成となっている。圧巻は何度もお寺に足を運んだ満願寺の観音菩薩・地蔵菩薩で広々とした展示室でより大きく見えた。他にもここ三浦だから見られる仏像が多く展示されており見どころが多かった。大雨の中、浦賀に戻り有名な中華料理広香居で餃子や炒飯をいただきながら大いに語る仏像クラブの面々だった。
2022年7月16日土曜日
特別展「大安寺のすべて」⑩(四天王のうち持国天)
大安寺に伝わる四天王は作風の相違から当初の組み合わせとはみなしがたいものの、いずれもカヤとみられる針葉樹の一材から彫りだす構造で、重厚な体つきや各所に文様を彫りだす点も共通性がある。大安寺の菩薩像と同じく後補部が多く伝持国天・伝増長天は肩より先、他の四天王も後補であるため手の構えが当初とは異なり、現在の名称も入れ替わっている可能性が考えられる。ニコニコ美術館でN藤研究員もっともすぐれた出来栄えが多聞天と言っていたが、確かにそうだと感じた。だがそこが写真家のみせどころで、あえて駄作という印象の持国天をすばらしくみせている。持国天は四天王のうち最も像高が高く頭髪の毛筋彫りや腰にベルト状の帯を回すなど他の四天王との差異が目立つ。伝広目天のポーヅから東大寺戒壇院厨子の神将像と同じ鞘裁きから早良親王のもと大安寺の復興がなされた8世紀までさかのぼる説がある。謎に満ちた四天王だった。
2022年7月8日金曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑩(横川中堂の聖観音)
初めて比叡山を訪れたのは2014年の秋だった。その際、比叡山山内を走るバスで横川中堂に向かい、目に鮮やかな紅葉の中、お堂の奥のガラスケースに安置している聖観音に参拝した。京博開催の「最澄と天台宗のすべて」展に行こうと思ったきっかけは東京で出展されないこの聖観音を間近に鑑賞できるまたとない機会だったからだ。京博1Fの仏像コーナー多くの仏像とともにガラスケースに入った聖観音を拝した。以前は間近に拝めなかった仏像の愛らしい表情に魅了された。左手で未敷蓮華を執り、その蓮華に指を捻じた右手をそえて、花弁を開こうとする姿の観音像は全国天台寺院で見られるがその根本像である。脇侍に毘沙門天を付けたのが円仁、不動明王を鬼大師こと良源が付け加えて三尊形式にしたとのこと。円仁安置の当初像とも伝えられるが定朝風の彫りの浅い穏やかな作風は平安時代後期のものと考えられる。帰りに聖観音の絵葉書と京博お馴染みの聖観音全身像の「手拭い」を購入して大満足して会場をあとにした。
2022年7月2日土曜日
東大寺戒壇院千手堂の千手観音
奈良で展覧会を見に行く予定だったGWの旅行で余った時間で見たい仏像を探していたが、小学館から「古寺行こう」と隔週ブックが発刊され、修理のため拝観停止した戒壇堂に代わり、東大寺戒壇院千手堂が2023年まで公開されている情報が載っていた。東大寺は秘仏が多く12月の法華堂執金剛神立像や10月の快慶作僧形八幡神などがある。いくつかは展覧会で見たがこの千手観音は初めて見る。千手堂に入ると中央の鎌倉時代の黒漆塗厨子の中に像高74センチの全身が金色に荘厳された千手観音像を装飾性に富む四天王像が取り囲む。千手観音はヒノキの寄木造で金泥を塗り、華麗な装飾を施されている。その像容から鎌倉時代後期の作と認められている。鎌倉時代後嵯峨院が東大寺僧に宮中の二間観音を下賜したと記録にありそれがあたるのか。京都から奈良に下賜されたならば院派仏師の製作かもしれない。円成寺のバスの時間も気になるので三好和義氏撮影の千手観音のクリアファイルと御朱印をいただき東大寺をあとにした。
2022年6月25日土曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑨(大山寺観音菩薩)
京都国立博物館平成知新館の2F菩薩遊戯座像以外にもまだまだみるべき仏像が展示されていた。この大山寺観音菩薩もそのひとつで、飛鳥時代から霊峰伯耆大山の中腹に位置する天台宗別格本山大山寺に伝わる名品だ。U案内人も中国製だと断定したほど、優れた技術力に裏打ちされた仏像だ。この中国・北宋時代の仏像は化仏を配した大型宝冠を戴き、両肘を屈して手を前方に差し出し、左手に水瓶を、右手に宝珠を執る。精緻な造りの胸飾や瓔珞で全身を飾る。類似の作例は中国上海博物館にあり背筋を伸ばして両肘を張る姿勢や鋳造方法が似ているとのこと。伝来は北宋・大理国・遼とあり最近では明州で盛んに造像された普陀山観音像として造立された観音像として伝来した可能性が指摘される。他にも気になる仏像があるので先を進んだ。
2022年6月18日土曜日
特別展「大安寺のすべて」④伝不空羂索観音
ニコニコ美術館でN藤研究員が言っていたが、この伝不空羂索観音も8本の腕が後補で東大寺の不空羂索観音のようにひたいに第三の目がないことから尊名が変わった可能性があるとのこと。図録によるとまぶたのうねりが強く、面幅の広い顔立ちは大安寺の木彫群の中でも異色であり、太づくりの体つきも一連の木彫群にみる胴を絞って腹部の張りを強調した表現と趣を異にしている。太ももに別の衣をつけているように見えるのは大安寺の一連の仏像群に見られる裙を帯で締めて折り返す形式が崩れたものだとのこと。髻は荒彫した上に木屎漆を盛りつけて髪筋を刻むが、同様な手法は伝馬頭観音・十一面観音にも見られる。彩色は剥落が著しいが、着衣部に草花で埋めた丸文や小花文が見られる。さすが快慶でお馴染みの山口学芸員の解説だ。細かな描写によるこの仏像の全体像を説明する手法に舌をまいた。
2022年6月11日土曜日
雙林寺の薬師如来
京都国立博物館を出て以前から気になっていた円山公園にある雙林寺(そうりんじ)に向かった。京都非公開文化財特別公開をやっておりコロナで中断していた檀家のお嬢さんによる説明がやっていた。雙林寺は桓武天皇勅願で最澄創建の京都で最古級の天台宗寺院だ。日本で最初の護摩祈祷道場といわれている。拝観料を払って絵葉書を求めたが、この額絵のみとのことせっかくのご縁で購入して、お嬢さんの説明を聞いた。仏像はカヤの木の一木造りで像高85センチ、体格はがっしりとしているが、とても優しいお顔をされていた。お嬢さんがとくに強調していたのが翻羽式衣文で9世紀の仏像の特徴を備えている。歴史のある寺なのに境内が狭いのは隣に太閤秀吉の妻ねねの高山寺ができるにあたり広大な境内を献上したとのこと。京都人のしたたかさを感じ、お寺を後にし、ぎおん十二段屋の大えび天丼を食べに祇園に向かった。
2022年6月3日金曜日
特別展「大安寺のすべて」③(伝楊柳観音)
ニコニコ美術館でN籐研究員が言っていたが、頭に伝がつくのはのちの時代の後補で尊格変わった可能性があったためとのこと。忿怒の表情からとても観音様に見えないが、彫られた首飾りからキラキラした宝石がまるでちりばめているようだった。髻が後補のため、以前は馬頭観音の馬が表されたという説もある。またN籐研究員がへそが彫られいないことから薄布まとっている可能性が指摘されたいへん興味深かった。そのほか足元に板状のものは東博で見た踏み割り蓮華座だといわれるが、どうみてもサンダルのようで、横に切り込みが入っていることから、阿修羅のはいいていた草履のようにも思われたが鼻緒の痕跡はないとのこと。なかなか謎が深まった楊龍観音であった。
2022年5月21日土曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑨(等妙寺菩薩遊戯座像)
最澄と天台宗のすべて展は東京・九州・京都と巡回展示するが、昨年の秋東京に来なかった仏像の一つが愛媛等妙寺の菩薩遊戯座像だ。京博平成館3Fから2Fに降りると菩薩遊戯座像に出会えた。展覧会チラシには60年に一度の秘仏と書かれており一生に一度のチャンスだった。像高90センチ足らずのカヤの木造玉眼の仏像だ。本像は寺で如意輪観音として信仰されており、立てた左膝に左手を置き、右脚を踏む下げて右手をついて岩上にくつろぐ姿がよい。このような座り方を遊戯座といい、観音の遊戯座像は中国では宋から元時代にかけて流行し、日本では鎌倉時代の鎌倉禅宗寺院を中心に木彫作品が造られたが、左足を立て膝とするのは本像が初めてとのこと。確かに東慶寺の水月観音もここまでくつろいだ座り方はしていない。端正な顔立ち、自然な身のこなし、写実的な着衣の表現など優れており、肥後定慶の作風に近いとのこと。魅力的な仏像に出会えて京都まで思い切って来てよかった。もうひとつ見たい仏像が待つ1Fへ向かった。
2022年5月14日土曜日
特別展「大安寺のすべて」②(秘仏十一面観音)
大安寺のすべて展は「ニコニコ美術館」の放送が5月8日のため事前情報なしで拝観した。それをサポートしたのが、以前も書いた鑑賞ガイドだった。十一面観音は頭部・左腕・右腕が後補だが、奈良時代木彫像の質の高さを伺い知ることができる貴重な遺例だ。本体から彫りだされた胸飾りがすばらしくガイドには「素敵なデザインとってもリアル!」と書かれており、台座の彫刻は「蓮の花びらだ!」と解説されていた。またN籐研究員によると裙の折り返しの上にベルト状の帯を付け、そこからはみ出した裙の衣の縁を波立たされるのは中国人工人が製作した唐招提寺の木彫群に影響を得ているが、唐招提寺の堂々した体躯とは異なり、肩を張らずに力の抜けた感覚があり、全体に誇張の少ないゆるやかな肉どりで構成され、均整のとれたプロポーションを有する。本像の造形には伝統の保守性と新様式の受容が同時に認められると図録の解説にある。確かに日本人に受け入れやすい十一面観音だった。
2022年5月7日土曜日
正法寺の三面千手観音に出会う
祇園で大海老天丼をいただいて、大原野に向かった。宝菩提院願徳寺を参拝してから初めて行く正法寺に向かった。大原野のいい仏を探していたところ近くの正法寺に三面千手観音があるとネットで紹介されていたので向かった。確かに地図では近くだが高低差まで記載していなかったので慌てた。花の寺勝持寺の参道ではあるが高低差がある急坂を下ると店がある民家の近くに出てホットした。正法寺は鑑真の高弟が開祖の由緒あるお寺で本尊の三面千手は小浜の妙法寺でしか見たことない珍しい千手観音だ。お寺の案内では鎌倉時代初期の製作で像高181センチの寄木造りの仏像だ。ネット情報によると元は丹波の九品寺の本尊だったとのこと。張りのある顔、堂々とした体躯、左右のバランスが絶妙な手の配置がすばらしい。運慶のお株をとる高い髻や条帛・天衣・裳の表現も素晴らしく、近くの法菩提院の菩薩半跏像に影響されたのだろうか。京都に何度も通っていながらこの仏像を見落としていたと満足して素晴らしい庭園を時間の許す限り眺めていた。
2022年5月3日火曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑧
今日(5月1日)、京都国立博物館で開催の最澄と天台宗のすべて展を見に行った。京都国立博物館は三階建てで三階にエレベーターで上がり下に降りてくる展示となっている。ニコニコ美術館で3時間半放送を事前に見て予習してきたが、二階にも、本展の目玉である愛媛等妙寺の菩薩遊戯座像が展示してあるのがわかり慌てた。仏像の展示が少ないとは言え法界寺薬師如来のすげ替えらた胎内仏の3Dプリンターの再現展示や、横川の聖観音をガラスケースで間近に見えたなど時間オーバーして午後のバスに乗り遅れたが、結果よかったので、満足して京都国立博物館をあとにして、祇園にあるお寺に向かった
2022年5月2日月曜日
特別展「大安寺のすべて展」①
京都から奈良に移動して午前中のお寺巡りのあと奈良国立博物館で大安寺すべて展を見に行った。わが国初の天皇発願寺院の寺を原点とし、平城京に広大な寺地と伽藍を構えた大安寺の歴史をたどる展示だった。会場でわ「大安寺のひみつ」と題した鑑賞ガイドが配布されていて展示品の見所が分かりやすくまとめてあった。大安寺は1400年前の飛鳥時代に百済大寺として建てられ引っ越しと改名を繰り返し、最終的に平城京で大安寺となった。「第1章大安寺のはじまり」では飛鳥の大官大寺跡出土の隅木先金具が展示されており、ガイドに隅木の場所が図解されたり当時は金ビカだったことが、解説されていた。「第二章華やかなる大寺」では大きく力を持った大安寺の仏像や出土品の陶枕が展示され、作品保護のため照明を暗くした館内のため気がつかなかった、十一面観音の台座の蓮の花びらの彫刻などが解説してあった。あとはそれぞれの仏像の際のべるがドップリと大安寺の歴史を堪能できよかった。図録とクリアファイルを購入し、天平庵でお土産を購入し、奈良を跡にした。
2022年4月24日日曜日
特別展「空也上人と六波羅蜜寺」⑤(康勝の空也上人像)
空也上人像が東京に出開帳するのは半世紀ぶりだそうだ。以前も書いたが小学生のころ新宿小田急デパートで見て、大人になって六波羅蜜寺を訪れてみてこれが三度目の再会となった。運慶の四男康勝のデビュー作だが、根拠となる墨書が内繰りに書かれていることが、奈良国立博物館の写真資料でも明らかになった。平安時代に多くの人々に救いの手を差し伸べた空也上人そのものを鎌倉時代に制作された。貧しい衣を着てやせ細りながらもまるで生きている人を写生しているような康勝の写実性がすぐれた彫刻作品となっている。クリアなガラスケースに収まっているとはいえ羽織った鹿衣の質感まで表現されているのは驚いた。今週アップされた109ブログによると空也上人の口から出現する小さなほとけさまは南無阿弥陀仏の6文字を指すのではなく、1体が一度の念仏と考えるべきとの意見をいただいたとのこと。同じく口から小さな仏が出現する中国浄土教の祖師善導の肖像では、口から十体の小さな仏が現れていて、念仏を十回となえた「十念」を表している。本像の小さな仏は後補で、空也上人の口の中を見ると穴が三つある。仏師康勝は3ケ所の穴を使って10体像を出現させていたかもしれませんとのこと。109ブログには書いていなかったが日本の他の寺院の空也上人像にも3本の仏を表現している例があり、小さなほとけの宗教的意味がすとんと腑に落ちたと感じた。知れば知るほど魅力的な空也上人像を時間の許す限りこの上人像を眺めていたくなった。
2022年4月16日土曜日
特別展「空也上人と六波羅蜜寺」④(六波羅蜜寺薬師如来)
会場の空也上人と反対側に展示されているのが、薬師如来と四天王だ。まるで一具のように祀られているが、四天王が秘仏本尊十一面観音の眷属である六波羅蜜寺はじまりのほとけに対し、薬師如来は客仏で創建時より少し時代が下り10世紀後半の作でかつてどこかのお寺の本尊として祀られていた仏像だ。西木学芸員によると製作技法からも違いがわかり四天王は一木造り、薬師如来は寄木造りだという。仏師定朝により完成した寄木造りだが、この薬師如来は寄木造りの初期の製作で定朝の阿弥陀如来が前後左右に分かれた財を寄せているのに対し、解体修理時の図録の写真でもわかるように、上半身は左右の二材に脚部は別の材でつくられていた。立像と異なり座像は前方に脚部がはみ出るので別の材で彫ることは珍しくないようです。このような技法が生み出された背景には末法思想が流行した10世紀後半から仏像の需要が高まったという要因もある。限られた時間に多量の仕事に迫られた仏師たちの工夫から寄木が生まれた。細かな表現や技法に注目するとより一層展覧会が楽しめるとの西木学芸員の文章に同感した。これからも仏像見るときその点についても心掛けていきたい。
2022年4月10日日曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑦深大寺の慈恵大師像
深大寺には仏像クラブで今回出展の国宝釈迦如来像を拝観に行った。その際HPで秘仏があることを知った。本展のパンフレットをみると「日本最大の肖像彫刻、205年ぶりの出開帳」とあるので興味津々で会場に出かけた。鎌倉時代に制作されたこの肖像彫刻は像高2メータル足らずだが、大きさに圧倒された。皿井学芸員によると高僧は没後遺影がつくられることが多いが、この慈恵大師(元三大師)良源像は作例の数でも他の天台僧を圧倒しており、「鬼大師」「角大師」というバリエーションが生み出され、庶民に親しまれ点もあらゆる宗派の祖師信仰のなかでも特徴的であるとのこと。良源は教学的にも寺院経営でも剛腕ふるった僧侶で没後も比叡山山内にあって不動明王の化身という信仰が生まれた。その大きさに驚かされて会場をあとにした。
2022年4月3日日曜日
入谷浅草大仏巡り(西徳寺阿弥陀如来)
先週の土曜日U案内人の企画で入谷浅草大仏巡りに仏像クラブで出かけた。生誕150年の樋口一葉記念館によってから、以前よりFaceboookで拝観を申し込んだ西徳寺に向かった。お寺の担当者が事務所に待っていてくださり本堂で仏像を拝観させていただいた。西徳寺は京都にある仏光寺の末寺が関東に江戸時代に移転した浄土真宗のお寺で本尊の阿弥陀如来は像高99センチで肉髻珠・白毫に水晶がはめ込まれている鎌倉時代の仏像とのこと。。台東区教員委員会によると典型的に鎌倉初期に活躍した快慶の阿弥陀如来の形だが、本像は基本的にその形に従いながら、着衣の形に変化がつけられている。衣文線の型式化あわせて考えると鎌倉時代後期の製作と思われるとのこと。私は顔の形から京都国立博物館でみた南河内金剛寺の大日如来を思い出した。平安時代の作だが脇侍の不動明王を快慶弟子行快が製作したことから東寺の帝釈天のように行快も平安時代の大日如来を補修したかもしれない。そうなると京都由来の阿弥陀如来の製作が行快かもしれないと思った。お寺の方に御朱印をお願いすると西徳寺の伝来と寺宝の写真が載っている「西徳寺物語」を用意いただいており一同感激してお寺をあとにした、その後浅草に満開の桜を見ながら、金銅製の地蔵や釈迦如来などの大仏巡りをし浅草寺近くのそば処「十和田」にて大いに盛り上がった仏像クラブの面々だった。
2022年3月27日日曜日
特別展「空也上人と六波羅蜜寺」③(四天王)
会場の一番奥にはのっぺりした顔の薬師如来と六波羅蜜寺創建当初像といわれる四天王が鎮座していた。空也上人の事績をまとめた古文書で確認されている。増長天は後世の補作で残りの三体は彩色もほとんどなく奈良時代の様式を今にとどめている。当初は4体とも赤色で覆われていたという。見た目にも古色蒼然とした仏像で六波羅蜜寺の歴史の古さを感じさせる。同時代の東寺の四天王の模刻像といわれてきたが、細部において相違があり同じ図を基に彫られたものであろう。この仏像も当時流行した疫病のパンデミックを見てきたのだろうか。空也上人1050年の御遠忌を記念して開催された本展だがパンデミック現在進行中の東京で開催されることに大きな意味を感じた。
2022年3月20日日曜日
特別展「空也上人と六波羅蜜寺」②(定朝の地蔵菩薩)
展覧会場入り口で音声ガイドを聞きながら鑑賞したが、最初に参拝したのが、定朝の地蔵菩薩だ。皿井学芸員お得意のガラスケースで間近に鑑賞した。光背の透かし彫りも美しかった。今昔物語には閻魔庁に召されたた中級貴族、源国挙が自分が生き返ることができれば地蔵菩薩に帰依すると誓ったところ、生き返ることができたため、出家して大仏師定朝に依頼して等身大の地蔵菩薩を造り、六波羅蜜寺に安置したという。像高152センチ余りと小柄な男性の背の高さの仏像だ。この仏像は別の説話もあり「鬘掛地蔵」とも称される。皿井学芸員も均整の取れた体のバランス、手足の長いプロポーション、なだらかな曲面による立体構成は、平等院鳳凰堂阿弥陀如来に通じるところがあると言っている。源国挙の死んだ日から定朝の若いころの作品である可能性は十分にある。冒頭から素晴らしい作品に出会えたことに感謝し、次の作品に向かった。
2022年3月12日土曜日
特別展「空也上人と六波羅蜜寺」①
今週の日曜日、東博に空也上人と六波羅蜜寺展を仏像クラブ5人で見に行った。半世紀ぶりに東京で開催した空也上人展は小学生の頃、小田急百貨店にあった小田急博物館に見に行った。口から仏を出す空也上人像を不思議そうに眺めていたことを覚えている。会場は聖林寺展と同じ本館特別5室でなかに入ると平安時代伝定朝作地蔵菩薩が皿井学芸員お得意の展示ケースに展示されており、光背の透かし彫りが見事だった。奥には四天王と薬師如来が勢ぞろいしておりそれぞれ露出展示で間近に見れて迫力で迫ってきた。会場には運慶作地蔵菩薩や伝清盛像いずれも鎌倉時代の名作ぞろいだ。夜叉人像などを見てから最後に運慶の五男康勝遺作の空也上人像をみうらじゅんの言う360(さぶろくまる)に鑑賞した。音声ガイドを借りていたので、担当学芸員の皿井舞氏の解説を聞きながら鑑賞した。皿井氏によると空也上人がまとった皮衣の質感まで木彫で表しており、運慶の才能はたしかに息子たちに受け継がれてと感じた。展示会場を出て、海洋堂の空也上人フィギュアを購入し、なじみの和楽庵で久しぶりに食事をしたが運慶地蔵菩薩の造形にいたく感動したらしく天ぷらとそばをいただきながら、仏像の話でおおいに盛り上がった仏像クラブの面々であった。
2022年3月5日土曜日
特集「浅草寺のみほとけ」③伝法院の不動明王
特集「浅草寺のみほとけ」で一番古い仏像が伝法院の不動明王だ。平安時代の作で巻き髪で、左目をすがめで睨み、牙を互い違いに生やすといった特徴は平安時代前期以降に不動明王図像の典型となる「不動十九観」にのっとたものと思われる。丸みのある穏やかな肉取り、浅く整えられた衣の襞などから平安時代後期に制作されたとみられる。いままで京都・小浜・大分など各地で不動明王の名仏を見てきたため物足りなさを感じたが、東京大空襲にあった浅草寺で災禍を免れた数少ない建築のひとつである伝法院の護摩堂に前回紹介した大威徳明王とともに祀られていた。近頃浅草寺のHPで小堀遠州の回遊式庭園に囲まれた伝法院の瀟洒な建築がただずむ写真を見たが、普段は非公開だという。仲見世の喧騒をよそに桜が咲きみだれる庭園は不定期に公開されるとのこといつかはいってみたいと思った。
2022年2月26日土曜日
京都・奈良2021⑦(長楽寺の一遍上人像)
京都の長楽寺に行こうと思ったのが、みうらじゅんが出した仏像の写真集にやたら長楽寺の上人像や仏像が載っていたからだ。見仏記にもかかれておりデフォルメした一遍上人像に興味がわいたからだ。醍醐寺から東山に出て知恩院界隈の京都らしい道をくだり、円山公園を抜けて人の背丈ほどの看板を見ながらどんつきに向かった。やがて石段があり本堂に向かうと何やら小さな観音像があったそれが写真集に載っていた准胝観音お前立だった。気を取り直して収蔵庫に向かった。そこには上人像や仏像が展示されていた。上人像を彫ったのは慶派仏師の流れをくむ康秀であった。中央に時宗の祖である一遍上人像がたっていた。見仏記によると「これがまた、すさまじい像であった。リアルなのだが、細さにおいては現代美術のような印象を与えるのだ。顎はあり得ないほど尖り、目はぎょろついている。(中略)合わせた手から、いまだに法力が出そうな迫力である。」私は彼らのように上人ブームが来ていないのでそれほどの像だとは感じなかったがよくできた上人像だった。帰りに秘仏の准胝観音の話を寺男として令和元年が始まった5月にご開帳があったそうだ。残念に思いながら石段を下り見おぼえのある道を八坂神社の前を通り、清水道より京都駅ゆきのバスに乗り込んだ。
2022年2月19日土曜日
特別展[「最澄と天台宗のすべて」⑥(瀧山寺の十二神将)
2012年夏愛知県にある瀧山寺を拝観したが運慶の三観音ばかりに目がいったがまさかこんな素晴らしく愉快な十二神将があるとは知らなかった。最澄と天台宗のすべて展では秘仏ばかりが展示されたが、これも秘仏(?)だったのか。みうらじゅん・いとうせいこうの見仏記にもこの十二神将には一言もふれられていないので、当時は修理中だったのか。寺伝によると鎌倉時代の作で運慶の三観音が頼朝追悼のため製作された時期と重なる。写真の2号像は夜叉を意識して作られたと図録に書いてあったがどこかユーモラスだ。お寺に安置されているらしいので、また瀧山寺を訪ねていきたいと思った。
2022年2月11日金曜日
特別展「聖徳太子日出づる処の天子」③(茨城善重寺聖徳太子孝養像)
私の太子像マイブームが始まったきっかけが令和元年秋に県立金沢文庫で開催された「聖徳太子信仰展」がきっかけだった。その後令和2年コロナ禍の中、尾道旅行を断行し、尾道の名刹を周り、いよいよ太子1400年御遠忌にあたる令和三年に東博の「聖徳太子と法隆寺」展を見てその年の11月から開催されたサントリー美術館の本展を今年の年末年始休み見に行った。茨城県善重寺の聖徳太子孝養像は令和元年「聖徳太子信仰展」で見たが本展でも展示されていた。截金が美しく胸の鴛鴦(おしどり)の丸文が印象的だった。善重寺は親鸞門下の寺であることから親鸞の太子信仰に関連した作と思われがちだが、鎌倉時代佐竹氏が中興した慈願寺より江戸時代徳川光圀にが移座したとのこと。そのため真言律宗の叡尊の弟子忍性が拠点とした常陸で製作された太子像であると仏の瀬谷さんが雑誌で答えていた。本展ではコラムも担当して叡尊・忍性の四天王寺別当就任なども紹介され叡尊の太子信仰活動が解りやすく解説され興味がもてた。太子イヤーは終わったが引き続き太子像は追いかけていきたいと思った。
2022年2月6日日曜日
京都・奈良2021⑥(金峯山寺金剛力士)
薬師寺のある西ノ京から奈良中心部に戻りU案内人一押しの興福寺五重塔初層開闢を見たが拝観料1000円にしては大したことなかった。急ぎ隣の紅葉まっさりの奈良国立博物館なら仏像館に向かった。お目当ては吉野金峯山寺金剛力士だ。この金剛力士像は金峯山寺の仁王門に安置されていたが、修復のため昨年の2月から令和10年まで奈良国立博物館に展示されている。まず見てその大きさに驚かされた。像高5メートル余りの仏像で近くの東大寺運慶作金剛力士像に匹敵する高さだ。山口学芸員によるとこの金剛力士像も寄木造で南北朝時代の作。角材を縦に並べ、貫を用いて箱組式に組み上げ、さらに多くの材を矧ぎ寄せている。像内墨書から大仏師康成の名がかかれており1338年の製作とのこと。金峯山寺には高さ7メートルの江戸時代の蔵王権現がありこの金剛力士より巨像文化が引き継がれていたのだろう。二軀の金剛力士像は鎌倉時代後期の颯爽とした姿を基本とし、まとまりがよい作風を示している。丈六の仏像を破綻なくまとめあげた康成のすぐれた技量をみることができるであろう。運慶快慶らが造立した奈良東大寺南大門像に次ぐ大作として、また当代を代表する金剛力士像としてきわめて高い価値を有していると山口学芸員も絶賛している。金峯山寺に帰るまえにもう一度見ておきたい仏像であった。
2022年1月29日土曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」⑤(真正極楽寺の阿弥陀如来)
2019年秋の京都紅葉ライトアップの時、金戒光明寺の隣の真如堂(真正極楽寺)の近くの道を通ってバス停に向かった。真如堂は大きなお寺でライトアップを行っていなかったので暗くて寒い夜道を向かったことをよく覚えているが、まさかこのような素晴らしい仏像があるお寺だと思わなかった。最澄と天台宗のすべて展ではネット情報によると、9体の秘仏が展示されており、真正極楽寺の阿弥陀如来は年一度11月15日開帳の寺外初公開秘仏だとのこと。992年に真如堂の戒算上人が本堂を創建したころの製作とみられ、10世紀末の穏やかな顔つきの仏像だ。京都因幡堂・薬師像の姿とよく似ているといわれるが、その造形力ははるかにしのぐすばらしい仏像だ。シンプルながら面貌や肉付けなどの抑揚を抑えた表現がみごとだ。さきの法界寺薬師如来と同じ皿井学芸員考案の展示ケースに収まっており、近くですみずみまで鑑賞できた。こちらも同じく延暦寺根本中堂最澄自刻薬師如来像の一世紀前、平安前期の着衣表現が採用されているとのこと。展示期間も14日間と短かったため見逃したかたも多かったかもしれない。めったに見れない秘仏をみれて大満足な仏像クラブの面々であった。
2022年1月22日土曜日
特別展「聖徳太子日出づる処の天子」②(四天王寺聖徳太子童形半跏像)
「聖徳太子日出づる処の天子」展ではさまざまの時代のさまざまなお寺の太子像が見られるとのことで、サントリー美術館のFaceboookにアップされた写真をみて期待していた。入ってすぐに太子像が並んでおり太子像を通じて太子の一生をたどることができる。聖徳太子が二歳にして初めて合掌した南無太子像や病気の父用明天皇を気遣い孝養像、推古天皇のもと摂政として活躍したころの摂政像、聖徳太子が推古天皇や后たちに女性も成仏出来る事を説いた勝曼経講義像と初めて見る像が多く一気に引き込まれた。四天王寺聖徳太子童形半跏像は南北朝時代の作品で珍しい牀座に左足を踏み下げて座る半跏像だ。ヒノキの寄木造で厳しい表情の太子像の中で丸顔の愛らしい像だ。藤原頼長の書いた文献によると四天王寺には十六歳尊像があり童形であったことから、本像とみてよいだろう。在りし日の四天王寺には太子の本持仏である如意輪観音の横にこの童形の像があったとのこと。如意輪観音の姿は法隆寺如意輪観音でしのぶことができ、聖徳太子信仰の熱心な信者である皇族女性をうっとりさせるような空間だったと想像できる。下の聖徳太子本持仏の如意輪観音のコーナーも気になるので次の展示に向かった。
2022年1月15日土曜日
特別展「最澄と天台宗のすべて」④(寛永寺の薬師三尊)
年末年始の私の過ごし方は除夜の鐘を宝冠阿弥陀で有名な鎌倉浄光明寺でつき、長谷寺に参拝して境内で甘酒をのむのが例年となっている。東博も2日から「博物館に初もうで」というイベントを行っていてその年の干支にちなんだ美術品が展示されている。参加した会社の後輩によると関連イベントとして東博の半券で普段入れない寛永寺根本中堂に入ったそうだ。大きな厨子と二十八部衆を見てきたようだが、その厨子に入っていたのが10月の「最澄と天台宗のすべて」展で展示された寛永寺の薬師三尊だろう。寛永寺は「東の比叡山」東叡山と呼ばれ江戸天台宗の中心だったが、本尊の薬師如来は滋賀石津寺から日光・月光菩薩は山寺として著名な立石寺からお出ましになったという。平安時代初期の一木造の薬師如来は比叡山根本中堂にある最澄自ら彫った薬師如来と同じ木で彫ったとの伝来があり、彩色を施さない素木像という雰囲気だ。日光月光はいかにも東北仏らしく吊り上がった目が特長だ。来年からは例年の行事に東博で初もうでを加えたいと思った。
2022年1月8日土曜日
特別展「聖徳太子日出づる処の天子」①
1月3日の三箇日最終日に六本木のサントリー美術館に特別展「聖徳太子日出づる処の天子」を見に行った。千四百年御聖忌を飾る最後の展覧会で大阪からの巡回展示となる。会場に入るといきなり二歳像から摂政像までのさまざまな太子像が展示されていた。法隆寺にこだわった東博の太子像に比べ、大阪四天王寺、奈良、兵庫と鎌倉時代から桃山時代までの太子像が一同に見れる、太子像ファンにとってまたとない機会となった。太子伝来七種の宝物のひとつ「七星剣」は古代の刀を思わせる直刀だった。南無仏太子像に続き展覧会のメインビジュアルとなった太子の絵巻や金沢文庫でも出展された水戸の彩色文様が美しい孝養像が展示されていた。下のフロアに行くと聖徳太子の本持仏である如意輪観音がずらりと並び、最後に鎌倉殿の十三人安達一族をテーマにし金沢文庫で開催された展覧会に出展された宮城天王寺の1メートルの如意輪観音と四天王像は圧巻だった。年明け寒波の中、暖かい展覧会場で過ごす至福のひとときであった。大阪会場のみの展示品ものった図録とクリアファイルを購入し会場を後にした。
2022年1月3日月曜日
京都・奈良2021⑤(薬師寺東塔の水煙)
「すいえんのあまつおとめがころもでのひまにもすめるあきのそらかな」と会津八一が歌った薬師寺東塔の水煙が役割を終え塔からから降ろされ一般公開されているので、薬師寺に向かった。薬師寺で「東塔水煙降臨展」のチッケットを買って展示している食堂に向かった。切手にもなった横笛を吹く奏楽天人像はあまりにも有名だが、中央の飛天は腰を「く」の字に折り曲げた格好で、頭を下にして舞い降りてくる姿を表している。片手で両端を尖った船形の物を持っているが、この持物が散華するため花びらを盛るための皿(華籠)だという。両端がとがっていて皿に見えないが、この船形の華籠こそ、水煙が白鳳美術であることを雄弁に物語っている。華籠は飛天に広く見られる持物で法隆寺金堂の壁画にも見られる。金堂壁画が完成した時期が七世紀末から八世紀初頭と考えられるが水煙飛天の華籠はそれより古様な表現であると考えられる。その後の奈良正倉院が御物に見られる飛天は皿の上に花を盛っており、船形に表現され華籠は白鳳時代に流行した形式である。天平時代に建立された東塔に白鳳時代の水煙が掲げられているのは、藤原京の本薬師寺から移築されたか、藤原京時代の形式を踏襲したかはわからないが、きわめて興味深い事実だ。水煙飛天の華籠から薬師寺薬師三尊の鋳造時期にまで影響することの歴史の面白みを感じながら興福寺に向かった。
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