2012年12月29日土曜日
2012年12月22日土曜日
東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選⑤
東博仏像名品選では仏像をより近くに感じられる露出展示と、ガラスの存在を忘れさせるほどきれいなガラスケースに収まった展示方法がある。川端龍子氏寄贈のこの毘沙門天はガラスケースでの展示だった。四天王のうちの多聞天は単独で祀られるときは毘沙門天と呼ばれ、片手に宝塔を捧げ持つ姿につくられており、表面の美しい装飾がみどころだ。緑・青・橙(だいだい)・赤などの彩色の上に金箔を細く切ってさまざまな文様を表しているいわゆる截金技法(きりがねぎほう)だ。このような華麗な装飾は平安時代後期の仏像や仏画でもちいられる。堂々とした造形からも、一流の仏師の作だろう。玉眼の使用からもうなづける。この仏像は奈良県の廃寺中川寺にあったと伝えられる。装飾の細かい技を見るならばやはり東博の展示にかぎると思った。
2012年12月15日土曜日
特別展「古都鎌倉と武家文化」③
特別展「古都鎌倉と武家文化」に仏像クラブで拝観しようと思ったのが、静岡瑞林寺の康慶の地蔵菩薩が展示されるとの情報が入ってきたためであった。康慶は運慶の父で慶派の創始者である。この地蔵菩薩は現存する康慶のもっとも古い仏像として知られており、学芸員によると石橋山の敗戦ののちの頼朝をかくまった箱根山神社別当や頼朝の側近の名が像内奥書に記載されており、南都仏師の東国武士とのかかわりがこの時点までさかのぼれる貴重な資料が隠されていた。上体をやや引く姿勢は円成寺大日如来とも共通しており、めりはりのついた強い顔だちとともに若々しさを感じられた。後に六波羅蜜寺で運慶の地蔵菩薩を拝観することになるが、親子の作品を比べて拝観するのも一興だ。地蔵菩薩のはつらつとした表情を目に焼き付けて、つぎの展示を見に移動した。
2012年12月9日日曜日
東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選④
東博開館140周年記念館蔵仏像名品選は今週の日曜で終わったが、館蔵であるのになかなかお目にかかれない仏像が多数展示されていたので、見ごたえがあった。ここで紹介する京都泉涌寺(せんにゅうじ)の阿弥陀如来もなかなか東博本館でお目にかかれない作品だ。展示では光背がはずされた状態での展示だが、最近東博のサイトをチェクしていたら仏像名品ギャラリーに光背をつけた写真が掲載されているのを発見した。鎌倉時代の作だが、透かし彫りの美しい光背となかに円光背の変形で花のよう光背が合わさったすばらしい写真だ。展示の管理上はずしたのだろうが、見たかった。さすればトウハク仏像選手権で上位を狙えたのではないだろうか。仏像のほうも印相が変わっていて、右手を胸の前にもってくるポーズが珍しい。衣の彩色が蒔絵になっていてすばらしい。またお会いしたい仏像だ。
2012年12月2日日曜日
知恩院三門の釈迦牟尼坐像
京都非公開文化財特別公開で安楽寿院の次に訪れたのが、知恩院の三門だ。高さ24メートルの国宝三門の2階にこの期間だけ登ることができ、中の釈迦牟尼坐像が拝観できる。拝観料を払って、靴をビニールに入れ、三門の右側にある急な段を上がった。薄暗がりに多くの善男善女が座っていた。係りの方が説明をしているのは、檀の上にある半丈六はあろうかという釈迦牟尼坐像(しゃかむにざぞう)について。薄暗がりの中、目をこらしてみると、金の顔に青い髪で、左に善財童子、右に須達長者が控えており、さらに左右には多くの羅漢像があった。天井を見ると狩野派の龍が真ん中におり、左右には迦陵頻伽(かりょうびんが)や飛天や霊獣などが描かれており圧巻だ。釈迦牟尼坐像は宝冠釈迦如来で手は座禅を組むときの法界定印だ。いつまでの見ていたいところだったが、まだ長講堂と六波羅蜜寺が残っているので、急な階段を下りて次のお寺に向かった。
2012年11月25日日曜日
善水寺の兜跋(とばつ)毘沙門天
京都・近江の旅2日目午後、櫟野寺(らくやじ)のあとタクシーを飛ばして善水寺に向かう。ここは「見仏記」のなかで「いい仏、めじろ押し」と書かれていた寺院だ。期待が高まるなか受付に向かうと、東京日本橋で開催中の「近江路の神と仏名宝展」ポスターが貼られていた。展覧会場で善水寺の誕生仏を見かけたのを思い出した。参道を進むとわらぶきの屋根も厳かな立派な本堂があり、中に入るとすごかった。重々しい厨子を中心として、鎌倉時代の十二神将から藤原時代の四天王、また同じく本尊脇侍としての藤原時代の帝釈天・梵天までずらりと並んでいる。外陣の両脇に立つ3メートルの仁王も迫力満点だ。住職に導かれ裏堂に回るとそこにも仏像がずらりと並んでおり、「神仏います近江」のサイトで目にした兜跋(とばつ)毘沙門天が安置されていた。兜跋(とばつ)毘沙門天といえば、東寺の像が有名だが、この毘沙門天はむき出した目以外がどこか優しいつくりだ。その場では気がつかなかったが、金箔がわずかに残っていると見仏記に記載してあった。帰りがけにご住職に「近江若狭の仏像」(JTBパビリッシング)で見かけた光背がきれいなご本尊の次回の御開帳の時期をお伺いすると未定とのこと。しかし最澄関連の展覧会には出展することがあるので、その折に見てくださいとのことであった。ご本尊の絵葉書を購入して次のお寺に向かった。
2012年11月23日金曜日
六波羅蜜寺運慶の地蔵菩薩
京都・近江の旅一日目、最後に向かったのが六波羅蜜寺だ。六波羅蜜寺には京都に珍しい運慶の地蔵菩薩を拝観するためだった。鎌倉の仏像展では運慶の父康慶の地蔵菩薩に出会ったばかりだったので、親子の作風の違いがよくわかるのではないかと期待した。収蔵庫に入ると有名な空也上人を飛ばして真っ先に運慶の地蔵菩薩の前に立った。半目がゆったりとしている。山本勉先生によると、運慶が父康慶の菩提のために造った可能性があるとのこと。穏やかな表情はそこからきているのだろうか。柔らかな力で閉じた口元も、いかにも落ち着いた感じだ。見仏記によると夢見地蔵というニックネームは見事だとのこと。ゆっくり運慶の地蔵菩薩を拝観したあと、思ったより小さな空也上人像や運慶・湛慶(たんけい)像を見た。秘仏の十一面観音は明日御開帳で残念ながら見れなかったが、夕方になりだいぶ冷えてきたのでその日の宿に向かった。
2012年11月17日土曜日
檪野寺の十一面観音
今度の京都・近江旅行の目的のひとつが檪野寺の十一面観音の御開帳に合わせて拝観することだった。あらかじめ予約していたタクシーに金勝寺近くの道の駅にきてもらい一路檪野寺を目指した。参道の左にはびっしりと十一面坐像の小型版の石仏が並び、門には二体の仁王があった。珍しくガラス張りの中に鎮座している。白目の部分が赤いのも珍しく迫力がある。案内の方から本堂に入るよう即され、入ってみると御開帳の日らしく大勢の人が中で待機していた。みうらじゅんも見れなかった、十一面観音に出会った。像高3メートル以上十一面観音が厨子に少し窮屈そうにどっしりと鎮座している。如来のような落ち着きと重量感を漂わせて、まさにこの地域の天台文化の繁栄を物語る優品だ。檪野寺には他にも優れた仏像が残されており興味が尽きない。像高170センチの聖観音は桧の一木造りで立ち姿が美しい。薬師如来の像高222センチの大型で藤原期の丈六の如来像だ。白洲正子展に出品された田村毘沙門天や平安期末の味のある地蔵菩薩など見所が多い。名残惜しいが、次の寺に移動するため、檪野寺を後にした。
2012年11月10日土曜日
長講堂の阿弥陀三尊
先日の京都・近江の旅一日目の午後知恩院の後に行ったのが長講堂だ。ここも京都非公開文化財特別公開のひとつで、正式には法華長講弥陀三昧堂といい、後白河法皇木造を初め貴重な文化財が拝めるお寺だ。順路に従って文化財を拝観し、それぞれに若い女性から説明を受けるシステムになっている。本堂に入ると中央に半丈六の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊形式の仏像が祀ってあった。赤銅色で、円光背には雲がたなびく。説明によると定朝の流れをくむ院派の代表仏師「院尊」の作で、脇侍の観音・勢至は半跏の形で、宝冠の模様も細かく華美で、いかにもたおやかな浄土の姿を示している。次に説明をうけたのが像高60センチ法然上人と善導太子だ。実に興味深いことだが、法然・善導両方の腹はくりぬかれ法然には勢至・善導には阿弥陀如来が入っている。 善導太子は衣が金にグラデーションしており、まさに仏になる瞬間を表している。最後に運慶の子孫が彫った江戸期の後白河法皇像を見て、長講堂をあとににした。
2012年11月3日土曜日
金勝寺の軍荼利明王
本日、近江の仏像を巡りをした。まず最初に行ったのが、かの白洲正子をうならせた、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)がある金勝寺だ。京都を朝出て、栗東よりこんぜシャトルバスで金勝寺に向かう。金勝寺につくとあたりは深山幽谷の雰囲気を漂わせ場所で、軍荼利明王がある二月堂に向かう。小さな御堂いっぱいに立つ4メートルぐらいある明王像に恐れおののいた。目を大きく見開き、歯をむき出す。8本の手のうち前二本を交差し、よく見ると手のひらにも目が刻まれていた。本堂の釈迦如来や虚空蔵堂の虚空蔵菩薩も大きく圧倒された。見どころが多い金勝寺をあとに、タクシーが待つ道の駅こんぜの里りっとうに向かった。
2012年11月2日金曜日
安楽寿院の阿弥陀如来
本日から京都近江の仏像めぐりが始まった。京都についてまず最初に向かったのが、伏見の安楽寿院だ。ここは平安時代の鳥羽離宮の跡で、庭の礎石などそこかしこに雅な雰囲気を漂わせたお寺だ。本尊の阿弥陀如来も鳥羽法王の念持仏で長い間秘仏だったため上品な金色に輝いていた。桧の寄木造で、表面だけでなく、くり抜いた内側にも金箔が押されているという。写真の感じとは違い自然な色合いは白熱灯をLED照明に切り替えたからだという。現代の科学と平安仏のコラボに感動して、次のお寺に向かった。
2012年10月27日土曜日
特別展「古都鎌倉と武家文化」②証菩提寺の阿弥陀三尊
先週の鎌倉国宝館の学芸員の列品説明の一番最初がこの証菩提寺の阿弥陀三尊だ。山本勉先生が「日本の美術」東国の鎌倉時代彫刻の中で運慶以前の仏像として紹介し、仏像クラブでも12月にお寺を訪問する予定だった仏像だ。学芸員によると源頼朝が石橋山の合戦のおり、主君の身代わりとなり討死した忠臣「佐奈田余市義忠」の菩提を弔うために建立させたと伝えられている。頼朝はしばしば三嶋大社に参詣したがその際に石橋山を通るたびに死んだ家来を思いおいおい泣いたと伝えられているという逸話が学芸員から語られた。冷徹な印象の頼朝の以外な一面が垣間見られる逸話で説明が解りやすかった。仏像はU案内人も思わず「大きい」と感嘆の声をあげるほどりっぱな仏像だ。像高112センチで脇侍もよく残っている。造像は1175年ごろだと考えられる。学芸員も康慶の師匠康助あたりではないかとのこと。今回は列品解説は仏像のことがより深く理解できてよかった。
2012年10月21日日曜日
特別展「古都鎌倉と武家文化」①
本日(20日)仏像クラブで鎌倉国宝館に特別展「古都鎌倉と武家文化」を見に行った。この展覧会は来年に「武家の古都・鎌倉」で世界遺産登録候補地と名乗りをあげている鎌倉の登録推進を目的に開催された。館内の中央には12月に仏像クラブで訪問する予定だった、證菩提寺(しょうぼだいじ)の阿弥陀三尊があり、「武士の発願像」のコーナーには康慶の地蔵菩薩や常楽寺の阿弥陀三尊・覚園寺の戌神・などから、国宝館でおなじみの建長寺千手観音などが並び圧倒された。「宋風彫刻の諸相」のコーナーには浄光明寺の勢至菩薩から国宝館常設展示の初江王や韋駄天などがあり見ごたえ十分だ。鎌倉の高僧像や国宝の八幡宮の硯箱の展示のさきには、運慶の大威徳明王や運慶作ではないかと山本勉先生が書いていた仏法紹隆寺の不動明王があり飽きさせない構成になっている。11時になり鎌倉国宝館の若い学芸員による列品解説がはじまり約40分ほど展示品を見ながら説明を受けた。この展覧会は見所が多いので学芸員も説明しきれないのでいくつか解説されなかった仏像もあったが、全体的には話が興味深く解りやすかった。行かれるかたは毎週土曜日11時からの列品解説を是非聞かれることをお勧めします。
2012年10月13日土曜日
東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選③
今回の東博の展示で一番楽しみにしていたのが、浄瑠璃寺の十二神将だ。山本勉先生が運慶作品ではないかと指摘した仏像だ。昨年はガラスケースの中での展示だったが、今回はスポットライトにあたっての露出展示だ。東博には十二神将のうち5躯が展示されており、前に「博物館ニュース」の表紙を飾った「戌神」や「巳神」が後ろに「辰神」「未神」「申神」が展示してあった。この像のみどころは、力強い動きを誇張することなく的確にとらえていることと甲や衣に繊細な彩色を施している点だ。華麗な彩色や金箔を細く切って表した載金文様はこの像の発願者が相当な財力を持っていたことが伺える。いままで戌神にしか注目していなっかたが辰神についても目をひかれた。あらためて運慶作品としてみると見ないのでは印象が違っていた。今回一番印象に残った展示だった。
2012年10月7日日曜日
東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選②
今回の東博140周年館蔵仏像名品選で初めて出会ったのがこの日光菩薩坐像だ。奈良時代の木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)の仏像で、当初は京都亀岡の金輪寺の本尊薬師如来の脇侍でのちに京都高山寺に移ったとのこと。現在も本尊は高山寺に月光菩薩は東京芸大の所蔵になっている。切れ長の目をした豊満な顔立ち、弾力のある引き締まった肉体表現がすばらしい。髪の毛の筋をていねいに表し、体を覆う衣の柔らかな質感も自然で、木屎漆(こくそうるし)の技法がすばらしい。木屎漆とは漆に小麦粉を混ぜて練った麦漆に木の粉や植物繊維を混ぜたペースト状のもので、頭髪や衣の質感を表すのに効果的だ。この仏像はその技法を遺憾なく発揮した名品だが、わずかに手の一部が破損しているのがおしい。そうでなければ国宝級の仏像で天平時代を代表する名品である。いつか薬師三尊が揃って展示されれば是非見に行きたい仏像だ。
2012年10月6日土曜日
東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選①
先週の土曜日に東博に「東京国立博物館140周年特集陳列館蔵仏像名品選」を見に行った。今回は東博館蔵の優れた名品13件だけで構成された展覧会だ。いままで、東博本館11室で何度もお目にかかった仏像や今回初めて見る仏像に、特に照明などの展示方法を工夫して今までよく見えなかった表情を出すことに努めたという。確かにスポットライトにあたった仏像はどれもすばらしく魅力的だ。入り口に展示されているのがこの菩薩立像だ。鎌倉時代の作で、上下の唇に彩色し薄い水晶板をあてる玉唇とでもいうべき技法が施されている。魅力的な顔の秘密はそんなところにあったとは驚きだ。善派の善円の作ではないかとのことだ。他にもすばらしい仏像が並び、大満足な展覧会であった。立ち去りがたいが東博を後にした。
2012年9月29日土曜日
近江路の神と仏名宝展③(永昌寺の地蔵菩薩)
「近江路の神と仏名宝展」では以前滋賀県の「神仏います近江」で見かけずっと会いたかった永昌寺の地蔵菩薩が出展されていた。近江若狭の仏像の著者吉田さらさ氏が「形の美しさだけでなく像に込められた精神性に心打たれる」と大絶賛した仏像だ。平安時代の立像の地蔵菩薩で像高は154センチ。剃髪し、衲衣(のうえ)を着けた僧形像で左手を曲げ宝珠を捧げ、右手を下げて与願印を結んでいる。実に美しい地蔵菩薩だ。永昌寺のある甲賀は忍者の里として有名で、今年の秋訪れようと思っていた地方だ。くの一もこの地蔵様に手を合わせたのだろうか。想像するのも楽しい。お寺では光背がついた状態で拝観できたが、今回ははずしての展示だった。この秋はお寺では出会えないがまたいつかお寺で再開したい地蔵菩薩だ。
2012年9月21日金曜日
興福寺中金堂の四天王
平成21年春に上野の東博で「国宝阿修羅展」が開催されたが、目的は消失した中金堂の再建事業の一貫としての特別展であった。この四天王も現在は普段拝観できない仮金堂に安置されているが今回の展覧会に出展される運びとなった。阿修羅ファンクラブのピンバッチを入り口でもらい、ファンクラブ会員だけの夜間特別拝観で会場に入った。阿修羅に圧倒された第一会場のあと第二会場の入り口に展示されたのが、この四天王だ。2m以上ある大きさに圧倒された。運慶の父康慶の作で南円堂に以前はあったのではないかとの説もうなずける。でかいばかりでなく、完成度も高く迫力があった。U案内人はその中でも、増長天がお気に入りのようだ。前年に興福寺を訪れた際拝観した、南円堂の不空羂索観音と一緒に安置されていたとの説が有力だ。来月から興福寺仮金堂で特別公開があるという。今回行く機会はないが、中金堂が再建される2018年には機会があれば是非訪れたいと思う。
2012年9月15日土曜日
近江路の神と仏名宝展②西教寺の薬師如来
近江路の神と仏名宝展で大日如来の次に注目なのが西教寺の秘仏薬師如来だ。その作風から彫刻史の研究者の間で運慶作としてよいという意見がある仏像だ。U案内人もその完成度の高さには驚いたらしくしきりに「美しい」と言っていた。西教寺の薬師如来はポーズにおいても興味深い点がある。本来薬師如来は薬壺を持った姿で造られることが多いが、通常は膝の上に手を置く。しかしこの像は腕の前に差し出されている。運慶お得意の胸の前に空間をつくる作風だ。仏の瀬谷さんも「空間の取り方を独自に消化したところに、運慶の卓抜な技量が見て取れる」と言っている願成就院の諸像に通じる作風からも運慶とみて間違いないだろう。本像は10月28日までの限定公開のためまだ見ていない方は是非足を運ぶことをお勧めする。
2012年9月8日土曜日
近江路の神と仏名宝展
残暑きびしい本日、東京日本橋の三井記念美術館で開催された「近江路神と仏名宝展」に仏像クラブで出かけた。まず最初の部屋は小金銅仏と工芸品のコーナーで善水寺の誕生釈迦仏などがドラマチックな演出の照明に照らし出されていた。圧巻だったのが仏像の部屋で、快慶の大日如来を初めとする仏像がまとまって20体ほど展示されていた。写真で見るよりもどれもすばらしく仏像ファンにはたまらない展示だ。部屋の中央に長いすがあり、部屋全体を見渡せるのがうれしい。快慶の大日如来は漆が写真で見るより落ち着いた色に見え、宝髻の正面の花飾りが美しいく快慶独特の美仏となっている。宝冠や光背を取り外しての展示なので、U案内人はしきりに残念がっていた。次の部屋の神像や仏画に見るべきものがあり、小規模ながらよくまとまった展覧会であった。一階では写真パネル展「水と神と仏の近江」も開催されており、近江路への思いがつのる展覧会だった。
2012年9月1日土曜日
仁和寺の増長天
8月の東博訪問の際、彫刻のコーナーに仁和寺の増長天が展示されていた。昨年の「空海と密教美術」展でも展示されていたが、本尊阿弥陀如来の印象が強く、あまり覚えていなかった。今回改めて展示作品としてみると、小ぶりだが、袖の鋭い衣文(えもん)、甲冑の縁が反る表現、腹部と太もものふくらみ、腰を左に捻(ひね)って立つ姿に力がみなぎる優品である。邪鬼の踏まれっぷりもよく、宇多天皇創建当時に本尊と一緒に造られた仏像だ。創建当初は阿弥陀三尊・梵天・帝釈天・四天王の各像が安置されていたという。ありがたい仏像だが、頭部に対して体が短く、ずんぐりとした体型がどこかおかしく親しみがわく。彩色もよく残り、造像当時の鮮やかな色が、「御室御所」と言われる仁和寺の雰囲気を今に伝える優品だ。特別展とは違いゆっくり拝観できたのがよかった。
2012年8月25日土曜日
劇画調な普門寺の仏像郡
8月19日に三河・尾張の仏像鑑賞旅行をした際、運慶仏のある瀧山寺の次に訪れたのが普門寺だ。このお寺にはいとうせいこう氏が「見仏記~ぶらり旅篇」で紹介した劇画調な四天王があるという。通常は春・秋の公開の時期のみ拝観できるとのことだが、「東海の古寺と仏像100選」によると予約すれば拝観可能との記載があり早速「普門寺」に連絡をして2時で約束した。駅に予約したタクシーがなかなかこなかったが、どうにか約束の時間に間に合った。御住職の案内で収蔵庫をあけてもらう。まず写真で見たあずき色の釈迦如来が中央に控えていた。その横が阿弥陀如来。阿弥陀の顔が独特で実に魅力的だ。脇には藤原期の四天王が二体ずつ左右に分かれていた。説明がなにもないので、「見仏記」のコピーを持参したのでそれを読みながらの拝観となった。みうらじゅん氏が「ナタ彫り!」と歓喜の声をあげた邪鬼を踏みつけ力強くたって収蔵庫狭しと荒ぶる。みうらじゅん氏によれば、平安期の様式を基調としているが鎌倉期の写実的劇画調が残る四天王像であるとのこと。じっくりと収蔵庫の仏像を見ながら、コピーに目をやると本堂にも不動明王と二天像があると書いていたので、早速御住職にお願いして本堂に移動した。不動と童子二体があった。怒り肩で右の腰を張り、左足を出して見得を切っている。童子二体から新しいものではとの疑問に御住職は平安時代の仏像と確認とれていると説明いただいた。その他に阿弥陀如来・大黒天・ヤングエンノなどがあり、ご案内をお願いしてよかった。出口の扉の裏にみうらじゅん氏の例のカエルの絵の色紙も貼っており、大満足な仏像拝観が出来た。御住職より御朱印をいただき、その日の宿に向かった。
2012年8月21日火曜日
戦災で焼け残った観音勢至菩薩
尾張三河仏像旅行の最終日は名古屋市内の七寺に向かった。ここには、先の太平洋戦争の空襲から救い出された平安後期の観音菩薩と勢至菩薩が祀られており、一度ぜひお会いしたいと思っていた仏像だ。予約してお寺に向かうと、ご住職が出迎えていただき、じっくりお話しが聞けた。七寺は奈良時代からの古刹で本尊は平安後期の慶派の作である。また焼失前の写真が残っており、丈六の阿弥陀如来の姿がはっきりと見えた。ランプで照らしながら30分熱く語っていただきありがたかった。観音菩薩が特に素晴らしく、旧国宝というのも頷ける。終戦の月にふさわしい仏像巡りであった。
2012年8月20日月曜日
渡海した阿弥陀如来
今日は碧南市の海徳寺に向かった。NHKの番組でいとうせいこう氏が紹介した阿弥陀如来だ。明治の廃仏毀釈の折、伊勢大神宮寺から渡海した。大浜大仏として親しまれた阿弥陀如来は平成14年の文化庁の調査で胎内銘文から平安後期の作と判明した。本堂の前ではちょうど、法要の真っ最中で、少し待ったが、係の女性から本堂にどうぞと言われ中に入って合掌した。金色の丈六阿弥陀が威厳を漂わせた視線をこちらに向けていた。定朝風な素晴らしい大きな仏像は国宝級だ。読経が流れる境内を一人静かにあとにした。
2012年8月19日日曜日
運慶作瀧山寺の聖観音
今日やっと瀧山寺の聖観音に会うことが出来た。二年前に金沢文庫で開催された運慶展で瀧山寺の帝釈天と衝撃的な出会いをして、憧れていた、あの聖観音と梵天だ。源頼朝の母方の従弟の僧の寺から来た客仏だ。聖観音像の頭部には頼朝の遺髪と歯が納められX線撮影でも確認がとれた仏像だ。瀧山寺に着くと収蔵庫の扉が開いており、上品なご婦人が迎えてくれた。中に入って真っ先に聖観音の前に行く。腰のひねりや指の動きのしなやかさが運慶的だ。体躯から離れて自由にうねる天衣(てんね)がすばらしい。梵天も素晴らしい。多面多臂像は運慶作品にはあまりないので、この梵天像は貴重だ。しばらく佇んでいたいが瀧山寺は不便な場所にあり、バスの本数が少ない。後ろ髪を引かれる想いで寺を後にした。
2012年8月18日土曜日
東博の菩薩坐像
特別展示「運慶周辺と康円の仏像」を見た後、東博で必ず訪れる第11室の彫刻のコーナーに向かう。ここは東博の所蔵している仏像や、預託されている仏像、奈良や京都の寺から出展した仏像が季節ごとに展示替えする仏像ファンにはたまらないコーナーだ。今回も秋篠寺の十一面観音や浄瑠璃時の四天王が所狭しと並んでいた。私は携帯のカメラや一眼レフで撮影可能な仏像を撮るのに大忙しだった。東博の展示品の説明の横には「カメラ」のマークがあり、撮影禁止の仏像には「カメラ」に×が表示されているが、何もない展示品は撮影可能だ。このなかで私が一番気になったのは、彫刻のコーナーの入り口に展示されている菩薩坐像だ。上瞼(うわまぶた)がふくらみ、やや沈んだ表情、厚い胸、ところどころしのぎ立つ衣の襞など平安時代前期の特色を示す仏像だ。私にはなんだかはれぼったい目つきの仏がなんともいい表情だ。日本画家下村観山の旧蔵の仏像だ。朝な夕なにこの仏像を眺めていたい衝動にかられた。
2012年8月12日日曜日
運慶の大日如来に再会する
今日この夏の猛暑の中、東博の運慶大日如来に会いに行った。毎年夏に特別展示される大日如来だが、今年は会場の中央の展示ケースの中にあり、360度姿が拝めるのがよかった。ぜひ見たかったのが、大日如来の髻(もとどり)の後ろ姿だ。きれいに結い上げ前方に菊をあしらった華麗な髪飾りにばかり目がいくが、後姿を見て思わずうなった。豊かなボリューム感のうちに、きつく結いあげた髪の毛の質感までが感じられる。毛筋彫りのよどみないノミさばきがみごとだ。他にも光得寺の大日如来が厨司の中に納められて展示されており、ライトの関係でキリット引き締まった仏像に見えた。みうらじゅん氏の言う「カッコよくて、グットとくる。それが運慶」というものを実感させる作品だ。今日の東博本館はこの14室の「特別展示 運慶周辺と康円の仏像」のほか彫刻のコーナーにも見るべき仏像があり大忙しに一日だった。帰りに地下の「ミュージアムショップ」で山本勉先生の「新出の大日如来像と運慶」の論文が掲載されている、「MUSEUM」を購入して国立博物館を後にした。
2012年8月5日日曜日
運慶の十二神将
昨年の「空海と密教美術」展を観覧した後、U案内人の勧めで本館の特集陳列「運慶とその周辺の仏像」を仏像クラブの面々で見に行った。そのときは運慶の二つの大日如来について熱くかたりあったが、そには東博所蔵の「浄瑠璃時の十二神将」も展示されていたが、あまり注目しなかった。当時の「東博ニュース」には「その充実した造形は運慶作の可能性をあらためてかんがえるべきかもしれません」と書かれていたが、私はそこまで踏み込む理由がなぜなのか、長い間解らなかった。しかし先月購入したとんぼの本「運慶」(新潮社)にあの山本勉先生が加筆されている「新発見!運慶仏はまだあらわれる」のコーナーを読んでその意味が解った。山本先生によると、明治39年の毎日新聞に載った「運慶の十二神将」という記事に、京都の浄瑠璃時の十二神将のことが書かれているとのこと。しかも十二神将像の「腹内」に「大仏師運慶」の銘文があったという情報が研究者によって先生のところにもたらされた。またこの問題はこれだけにとどまらず、興福寺南円堂の四天王運慶説にも影響を与えるという。もしかしたら、現在31体が確認されている運慶仏に一挙に、16体もの運慶仏が加わる新発見になるかもとのこと。詳しい調査が待たれる。今年の特集陳列では展示されていないが、また東博で展示があったとき足を運んでみようと思う。
2012年7月29日日曜日
運慶の無著・世親像(解脱上人貞慶展 番外編)
今回の「解脱上人貞慶展」には出展されていないが、貞慶がその製作に指導的な役割を演じたのが、興福寺北円堂の諸像だ。この展覧会をきっかけに貞慶のことを調べていくと、興福寺学僧として活躍しており、特に「唯識」の大家であったという。「唯識」を体系可しまとめたのはインド僧の無著(むじゃく)・世親だといわれているので、北円堂の弥勒如来の脇侍として無著・世親を置いた貞慶の発想もうなずける。平成20年に訪れた北円堂の無著・世親像はどこか不気味で怖い印象を受けた。みうらじゅん氏も「小学生のころからこわかった。生きているみたいで、それくらい、いないものが、さもいるように見える究極のリアリズムです」と言っているのもうなずける。運慶が貞慶の指導をもとに運慶の大胆な表現力を付け加えた北円堂の諸像は、解脱上人貞慶ゆかりの仏像と言っても過言ではないだろう。
2012年7月21日土曜日
現光寺の十一面観音坐像(解脱上人貞慶展④)
解脱上人貞慶展で写真の印象と大きく違っていたのが、この現光寺十一面観音坐像だ。本像の目はあとから補修されていることから、すばらしい仏像なのに惜しまれる。静かで落ち着いた雰囲気の仏像で、衣も流れるような美しい衣文を表している。頭上の化仏も古く、保存状態が良好だ。この写真は写真家小川光三氏の作品で、写真家が撮るとこうもすばらしい仏像になるのは驚きだ。慶派仏師が古典を学びながら製作した仏像で、同じ近くにある観音寺十一面観音に通じるところがある。現在の展覧会場では、普段見えない背中が中央のケースで展示されているとのこと。ぜひ足をはこんでみてはいかがでしょうか。
2012年7月14日土曜日
善円の釈迦如来坐像(解脱上人貞慶展③)
先日行った解脱上人貞慶展で一番見たかった仏像が東大寺指図堂の釈迦如来だ。小川光三氏の今年のカレンダーの表紙を飾り、さぞかし大きな仏像と想像していたが、像高はわずか30センチも満たない小さな像だが、素地の材の美しさを生かした見事な仏像だ。「仏の瀬谷さん」の解説によると、「小さな像ながら細部まで作りこまれている」とのこと。すばらしい仏像だ。光背は失われているが、台座は保存状態がよく蓮弁や華盤の先につけた飾りがすばらしい。この仏像は解脱上人貞慶の没後、海住山寺で製作されたが、貞慶と親しい明恵(みょうえ)が供養を行ったことから、貞慶の影響下で製作された仏像とのこと。また瀬谷学芸員は、貞慶が快慶に命じて製作した笠置寺の「白檀釈迦如来」の摸刻(もこく)を善円が製作した可能性を考えるのも一案だと言っている。何度も仏像を眺めてから会場を後にした。
2012年7月7日土曜日
定覚の弥勒菩薩(解脱上人貞慶展②)
解脱上人貞慶展で私が一番気に行ったのが、東大寺中性院弥勒菩薩だ。この仏像は近世以前は興福寺にあったと伝えられていて、「仏の瀬谷さん」の解説によると有力な慶派仏師の作という。別冊太陽「運慶」でもこの仏像が取り上げられており、運慶・快慶らと一緒に東大寺南大門金剛力士を製作した「定覚」(じょうかく)という仏師の説が取り上げられている。快慶のように宋風様式を取り入れているが、快慶とは別の個性が見られる。瀬谷学芸員の解説を読むと「意思的な表情、張りのある肉身表現、衣縁を細かく波立たせる着衣形式から慶派仏師の製作と考えられる」とのこと。小さな展示品が多い「解脱上人貞慶展」のなかで像高102センチと大きく見ごたえがあった。館内の中央に展示されているため、横からも後姿も拝めるのがうれしい。斜め横からこの弥勒菩薩を見つめながら、いつまでも眺めていた。
2012年7月1日日曜日
解脱上人貞慶展
昨日、仏像クラブで「解脱上人貞慶展」に行った。チケットを買い入り口に入ると県立金沢文庫の学芸員の説明が行われており、大勢の人が集まっていた。説明されているのは、テレビで「仏の瀬谷さん」と紹介された、瀬谷学芸員のようだ。解脱上人貞慶の説明や展示品の説明がユーモアたっぷりに紹介されており解りやすかった。笠置寺の本尊磨崖仏(まがいぶつ)を表した絵など、なかなか説明なしでは解りにくい展示品も丁寧に説明されていた。展示品はどれも小ぶりで小さい印象だ。普段写真家小川光三氏などの写真やカレンダーでは大きく見える仏像だが、「仏の瀬谷さん」によると写真でアップにしても細部までつくりこまれている素晴らしい作品ばかりだとのこと。私が気に入ったのは、東大寺の弥勒菩薩立像だ。瀬谷学芸員によると運慶・快慶に近い慶派仏師の作だという。帰りに金沢文庫のレストランでまぐろ三昧丼を食べながら、仏像談義に花が咲く仏像クラブの面々だった。
2012年6月23日土曜日
勝林院の阿弥陀如来
平成21年の秋に京都大原を訪ねた際、三千院の次に訪れたのはここ勝林院だった。紅葉まっさかりの頃で、観光客の多さに辟易していた三千院とはうって替わって、ここ勝林院は人影もまばらで静かだ。ガイドブックに書いてあったボタンを押して、天台声明(てんだいしょうみょう)を聞きながらお堂に入った。中には平安時代作の大きな阿弥陀様がいらして圧倒された。正面も迫力があるが、横顔もすばらしい。夜行バスで京都に来た疲れた体を癒してくれるお顔だ。ちょうどおあつらえ向きに椅子があり横顔がじっくり拝観できた。あまりの気持ちよさに思わずカメラを置き忘れてしまうぐらいだ。後でガイドブックをみるとその椅子は「美男のあみださんの指定席」と呼ばれており、どおりでいい表情が拝められるわけだ。立ち去りがたい気持ちを抱きながら、次のお寺に向かった。
2012年6月16日土曜日
東大寺の阿弥陀如来(解脱上人貞慶展①)
県立金沢文庫で6月8日(金)から解脱上人貞慶展が始まった。鎌倉前期に奈良で活躍した興福寺の僧で東大寺の重源(ちょうげん)とも親交があり、運慶・快慶とも交流があったという。この展覧会は奈良国立博物館で開催されていたのを、規模を縮小して県立金沢文庫で開催されるため、奈良の名品の数々が出展されるので期待される。最初に紹介するのは2年前に東大寺大仏展でも展示されていた、快慶の阿弥陀如来だ。金泥塗りのすばらし仏像で、衣の部分に切金文様を表す入念な仕上げが採用されている。重源の依頼快慶が製作し供養導師は貞慶が務めた。金泥塗りの仏像としては、先月東博で開催された快慶作弥勒菩薩が有名だが、この仏像もすばらしい出来だ。普段は東大寺で、一年に一回しか見れない仏像にまた会えるのが楽しみだ。
2012年6月9日土曜日
興福寺食堂の千手観音
平成20年に奈良を訪れた際、興福寺を参拝した。特別公開の南円堂・北円堂や東金堂・五重塔を周り最後に国宝館に向かった。国宝館で有名なのは阿修羅だが、同じく国宝の「千手観音立像」もみごたえがある。鎌倉期の初めに成朝によって造像がはじめられたが途中でなぜか中断し、その後40年間も経過して完成した仏像だ。像高が5メートル20センチの巨像で充実した顔の表現や深く粘りのある衣文などから奈良仏師の作であることは間違いない。運慶の父康慶に後継者の地位を追われた成朝に代わり慶派仏師が引き継いで完成させたのだろうか。興福寺国宝館も新しくなってからまだ行っていないが、展示方法や照明も一新させたと聞く。いつか機会があれば訪れたいと思う。
2012年6月2日土曜日
愛嬌のある毘沙門天
東博の「新指定国宝・重要文化財」展で道成寺の愛嬌のある毘沙門天に出会った。この毘沙門天は新指定ではないが重要文化財として、東京国立博物館に預託されている。通常毘沙門天は恐ろしげな顔をして睨みつけているが、この仏像は何とも愛嬌があるどちらかというとかわいらしい印象だ。後補の左手首を除いては、本体から足元の邪鬼まで桧の一木造りだ。昨年の夏訪れた道明寺には平安時代のかわった仏像が多かったがその中の異色作であることはまちがいない。魅力がある仏像のため、今開催の彫刻のコーナーでも展示されているという。また会いに行きたくなる仏像だ。
2012年5月27日日曜日
伊豆河津南禅寺の仏像郡
昨日伊豆河津の南禅寺(なぜんじ)の仏像郡を仏像クラブで拝観した。南禅寺は以前「ふるさとの仏像をみる」(世界文化社)を読んで、ずっと気になっていたお寺だ。函南の桑原薬師堂のように地域の方が護っていた仏像で、平安時代の仏像が20体以上安置されているとのこと。観光協会から管理されているかたの連絡先を教えていただき、事前に拝観の予約をとった。当日は早朝から絶好の天気で初夏のさわやかな風に吹かれながら、お寺に到着した。まずお堂の奥正面のガラスケースの厨子に薬師如来・十一面観音・地蔵菩薩3体の仏像が並んでいた。薬師如来は像高117㎝のカヤの木の一木造り平安時代前期の作という。貞観仏の厳しい親顔たちでないのは後世に堀直していたため。もとは目尻が長く切れ上がり、鼻筋が通って高い神護寺の薬師如来のような表情だったとのこと。地蔵菩薩・十一面観音もすばらしく正面の3体がいちばん保存状態がよい。他にヨーロッパの「日本木彫展」に出展した二天像や梵天などは彩色はないがすばらしい彫刻だ。四天王などは山アラシで土にうまったため痛みが激しいが、じっと見ていると輪郭が浮かび上がる、製作当初名品であったことがわかる。写真OKとのことで、夢中で写真をとった。来年3月には町で収蔵庫をつくるとのこと、今のうちに見ておく仏像郡だ。森から吹く抜けるのさわやかな風にふかれながら、いつまでも仏像をながめている、仏像クラブの面々であった。
2012年5月19日土曜日
ボストン美術館展で謎多き仏師円慶の地蔵菩薩に出会う
ボストン美術館展で初めて円慶という仏師の地蔵菩薩を見た。円慶とは聞きなれない仏師の名だが、図録などをみるとどうやら慶派の仏師で、主に地方で活躍したとのこと。本作品は九州福岡にあったお寺で開眼供養された仏像だという。地蔵菩薩というとこの秋「鎌倉国宝館」の展覧会に出品される静岡瑞林寺の運慶父康慶の手による地蔵菩薩を思い出す。半跏趺坐(はんかふざ)する姿や手の運びなどが似ているとのことだが、全体の印象は康慶の地蔵菩薩ほど明るい雰囲気ではなく、円慶が生きた南北朝時代を反映している。しかしながら優れた作品であることは、その神秘的な雰囲気からもわかる。ボストン美術館展で出会った印象的な作品であることは間違いない。他の作品も見たい衝動にかられて会場をあとにした。
2012年5月12日土曜日
曹源寺の十二神将
このたびの新指定・国宝・重要文化財のなかには、仏像クラブの面々におなじみの横須賀曹源寺の十二神将が含まれている。運慶研究家の山本勉氏も注目しているのが十二神将の中の巳神でひとつだけ他の作品と趣がことなる。頬や下あごの張りを強調した勇ましい顔つきが、静岡願成就院の毘沙門天像に通じるといわれている。今回の展覧会ではその巳神を中心にして回りに他の十二神将を配する展示となっている。U案内人と見るたびに運慶の作品ではないかと熱く語り合った仏像が重要文化財に指定されたのは喜ばしいことだ。曹源寺は三浦氏の伝説が残る「満願寺」にも程近く、運慶及び慶派仏師とそれを庇護した三浦氏との関係が思いおこされる。効果的にライトアップされた十二神将を堪能してから東博本館をあとにした。
2012年5月6日日曜日
ボストン美術館展で神像のような仏像に出会う
ボストン美術館展で快慶の「弥勒菩薩立像」を見たあとこの仏像に出会った。一見してギリシャ彫刻の神像のように見えた。図録には唐招提寺の八世紀後半に造られた「伝薬師如来立像」や「伝獅子吼菩薩立像」を思いおこされるとある。たしかにほほの下膨れな感じなどが似ておりどこか大陸的な雰囲気を感じさせる仏像なので、ギリシャ彫刻のように見えたのだろう。小さめな頭部、腰高な長身、腰をひねる姿勢、さらに下半身につける裙(くん)のすその短い表現からは軽やかさを感じさせる。衣の表現もたくみで装飾性にとんでいおり、土門拳が絶賛してやまない神護寺の薬師如来に通じる壇像彫刻を取り入れていると思われる。頭部と体は一材から彫りだされている一木造りで、残念なことに足先はきられているが、穏やかな表情が魅力的な仏像だ。仏像の姿を目に焼き付けて会場をあとにした。
2012年5月5日土曜日
快慶作「深沙大将」に東博本館で再会する
ボストン美術館展を見終わったあと、本館の新指定国宝・重要文化財の仏像が展示してある一階彫刻のコーナーに向かった。今年度に新たに指定された重要文化財の中に昨年の夏、高野山霊宝館で見た「深沙大将(じんじゃたいしょう)」がわざわざ高野山より上野の東博にお出ましになっているとのこと。私が見た後、「深沙大将」と同時期に作られた「執金剛神」の足裏より快慶の文字が発見されたことにより、めでたく新指定の運びとなった。改めて東博のガラスケースの中にある「深沙大将」を見たがすばらしいの一言につきる。「深沙大将」は西遊記の沙悟浄(さごじょう)のことで、三蔵法師を六度食らったが、七度目に改心し、弟子になったと伝えられている。本像も首の周りに三蔵法師の髑髏(どくろ)の首飾りをつけ、腹に人面を表した異様な姿がグットくる。脛当には象が二匹おり、見るものを圧倒する。快慶の美しい金泥塗(きんでいぬり)の弥勒菩薩を見たあとなので、同じ作者の仏像なのかと疑ってしまうほどの迫力だった。改めて快慶の力量に圧倒された。
2012年5月3日木曜日
ボストン美術館展で快慶弥勒菩薩に出会う
本日、上野の東博で開催されている特別展ボストン美術館日本美術の至宝を見に行った。目的は京都の醍醐寺や兵庫浄土寺で私に感動を与えた、仏師快慶の処女作「弥勒菩薩立像」に出会うためだ。会場はGWで混雑しているのか心配したがさほどのことはなく余裕を持って鑑賞できた。最初は「仏のかたち神のすがた」のコーナーで平安・鎌倉の仏画を中心とした展示となっている。なかでも馬頭観音図の素晴らしさに圧倒された。後半にお目当ての快慶の弥勒菩薩立像が展示してあった。照明のせいか写真でみるほど派手な金色ではなく落ち着いた快慶らしい作品となっている。目じりの切れ上がった快慶特有の端正な表情がすでに見られる。像内納入品も展示されており奥書に「仏師快慶」の字がはっきり見えた。これ以後快慶は重源の影響もあり「アン阿弥陀仏」と著名することになるのでこの著名は貴重だ。奥書には亡くなった父母たちへの供養でこの弥勒菩薩がつくられたとある。若いはつらつとした快慶の気負いなどが感じさせられる素晴らしい作品だ。普段遠い異国の地にある仏像と東京で出会えたことを感謝しつついつまでも見ていたい衝動にかられた。本館でも新指定国宝・重文の仏像が特別展示されているので足早に会場を後にした。
2012年4月28日土曜日
日向薬師の薬師如来
先週の日曜日に伊勢原の日向薬師(ひなたやくし)を訪問した。年数回しか御開帳されないなた彫りの薬師三尊を見にいくためだ。日向薬師の石段を上がると、いつもは静かな境内に大勢の善男善女が集い住職の講和が始まるところだった。中央にはいつもは閉まっている厨司の扉が開いており、中には桂の木で造られたの薬師三尊が見える。照明が一瞬ついてよく薬師様のお顔が見えたが、厳しい住職の指示で電気は消された。すると写真で見ていたご本尊のやさしいお顔が厳しく見えた。薬師如来を中心に左に月光菩薩、右に日光菩薩が配されている。かの白洲正子も言っていたが、写真でよく知っているつもりだったが、やはり実際に拝むと迫力が違う。その迫力は、荒削りの鉈彫から来るもののようであった。本堂が改築中のため広い収蔵庫での拝観となったが多くの赤ん坊をつれた若い夫婦が目だった。聞けばこのあたりの地域の方々は、お宮参りはこの日向薬師に詣でるとのこと。古くは源頼朝夫婦が娘の大姫の病気平癒のため、参拝したのがここ日向薬師だった。頼朝関連の言い伝えがのこる庭で甘酒を飲みながら、行く春を惜しむ桜が舞い散る境内をながめていた。
2012年4月21日土曜日
かんなみ仏の里美術館
本日4月14日にオープンしたばかりの「かんなみ仏の里美術館」を仏像クラブで訪問した。ここは昨年5月に訪問した「桑原薬師堂」の仏像が修復され新たな仏像美術館として公開されているところだ。「桑原薬師堂」跡地の様子を見てから、美術館へ向かった。外観は薬師堂をイメージしたようなつくりになっており、入場券を購入したあとまずボランティアガイドによる資料室での説明を聞いた。ボランティアガイドの説明はシロートにもわかりやすく、写真と文章による説明を丁寧に受けた。いよいよ仏像展示質へ向かうとすばらしくライトアップされた仏像群がならんでいた。展示室の中心にあるのが平安時代中期の薬師如来坐像だカヤの木の一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)の仏像だ。カヤの木目がよく出ており、素晴らしい照明のおかけでより神秘的に見えた。実慶の「阿弥陀三尊像」もすばらしく見ごたえがあった。今回驚いたのが十二神将がすべて修復されており後世の補色をはがして仏像本来の魅力がでていたことだ。時代は平安・鎌倉・南北朝・室町・江戸までに製作された十二神将で昨年見たときより近くで見れたので、1メートル前後の大きさが体感できてよかった。信仰の対象としての仏像は失われ少し寂しいが、美術品としては一級レベルの仏像なので多くの人が訪れることを期待する。
2012年4月14日土曜日
唐招提寺の伝衆宝王菩薩立像
2010年に遷都1300年で盛り上がる奈良を訪れた際、唐招提寺に向かった。唐招提寺の今の本尊である金堂の仏像に圧倒されたあと、新宝蔵が御開帳とのことでそちらにある仏像も見ることとなった。お目当ては鑑真が生きていた時代からあった唐招提寺の仏像だ。脱活乾漆の本尊ができるまではこの木彫仏が本尊だった。鑑真は来日した際「仏像はカヤの木でつくるべき」との言葉によりその後壇像が仏像の主流になったという。新宝蔵内には所狭しと仏像が並ばれており、旧本尊の薬師如来や伝獅子窟菩薩共に私の目を引いたのは「伝衆宝王菩薩立像」だった。残念ながら手は失われているが、寺伝によると三つの目と6本の腕があり東大寺法華堂の本尊と同じく「不空兼羂索観音」ではないかと言われている。背筋をまっすぐに伸ばし、はるか遠くを見やるかのようなまなざしは、堂々として大陸的だ。鑑真は戒律を日本にもたらしたばかりでなく、多くの工人を中国から引き連れたためそのような風貌なのはよくわかる。鑑真やその弟子が朝な夕なに祈る姿が思い浮かべながら、静かに新宝蔵を後にした。
2012年4月7日土曜日
多田寺の十一面観音
平成2年の夏に近江・若狭の仏像を訪ねた。4日目に「海の奈良」といわれるほど多くの仏像がある小浜を巡った。この夏はとにかく暑い夏で、まず最初に訪れた多田(ただ)寺に向かうと外で涼をとらえているご住職とめぐり合い本堂の中に快く入れていただいた。そこには素晴らしい仏像が集っていた。中央に薬師立像、四隅を護るのは四天王で左右に6体ずつの十二神将がある。薬師の左手に十一面があり、右には月光菩薩がある。柔らかな顔の十一面は孝謙天皇の姿を写したと言われる。その孝謙天皇の願いによって日光菩薩の位置に安置されたとのこと。孝謙天皇はかの道鏡を天皇の位につけようとはかり和気清麻呂に阻止された、気の強い女性を思わせるのでこのような伝説が生まれたのではないか。晩年の女帝は、深く仏教に帰依し鑑真に唐招提寺を送ったことでも知られている。この十一面のお顔を見ているとおだやかな晩年をすごされた女帝の姿を写したのではないかと想像され、飽くことなく十一面のお顔をながめ次のお寺にレンタサイクルで向かった。
2012年3月31日土曜日
不退寺の聖観音
平成22年の春、遷都1300年で沸く奈良を訪れた。今回の奈良訪問の目的は遷都1300年記念特別開帳で多くの仏像を見ることだったが、午前中忙しかったので午後は佐保路・佐紀路の3観音めぐりをのんびりしようと計画していた。佐保路・佐紀路の三観音とは不退寺・海龍王寺・法華寺にまつられている観音を指し、春爛漫の道を抜けるとせんとくんののぼりが見えてきた。遷都1300年特別開帳を行っている寺には、必ずせんとくんののぼりがありわかりやすい。山門を抜けて右に小さな池を見つつ、花々が咲き乱れる境内を行く。本堂は狭いが菱欄間といわれる格子が美しい。さすが色男、在原業平の創建と言われる寺である。中にはご住職がおられ寺のいわれや仏像を説明をしていただいた。遷都1300年で多くの人が訪れたのか、ご住職の声はいささかかれていたが、ご親切に説明していただいた。中央は聖観音それを護るように五大明王が居並ぶ。左から大威徳、金剛夜叉、不動、降三世、軍荼利。聖観音は在原業平が思いを寄せる女官をモデルにして業平自ら彫ったとの伝説があり、肉感的に白く塗られた体に大きなリボンをつけ、寄り目がちでしごく女性的な仏像だ。聖観音は手の持った蓮のつぼみを誰かに向けて差し出しているように見える。平安のプレイボーイ在原業平好みの聖観音だ。春のうららかな日差しにつつまれた不退寺を後に次の観音の寺に向かった。
2012年3月24日土曜日
羽賀寺の十一面観音
福井県小浜市を訪れたのは今から20年以上前の平成2年の夏のことだった。小浜は「海の奈良」と呼ばれるほど仏像が多い地で、そこかしこの寺に古仏が祀られている。レンタサイクルを借りて回ったのだが、小浜の市内から離れた地点にあるのが羽賀寺だ。美しい十一面観音が祀られているお寺だ。檜皮葺屋根の小ぢんまりした御堂があり、暗い堂内に入ると、中央の厨司に入った十一面観音にまずは目をひきつけれらた。平安時代作の見事な十一面観音だ。かの白洲正子も絶賛した観音様で華奢なお姿に彩色がよく残っている。この世のものとは思われないほど長い右手。安定感がありながら決して太って見えない胴回り。そして、うっすらと微笑みながら威厳を保つ表情に、かの白洲正子も「元正天皇の御影とされたのも、さもあらんと思われる」と礼賛した。元正天皇はあの山田寺を建立した蘇我倉山田石川麻呂の娘で、平城京遷都の時代の帝で、仏教をあつく敬っていたという。そうしてあらためてこの観音像をみると滅んでいった蘇我氏の悲しみやはかなさを一身に背負ってこの人里離れた寺に威厳を保ちながら立っている様から、後世の人が元正天皇の姿に似せて彫ったという伝説が生まれたのではないか。小浜の地から古の奈良の都に思いをはせて、いつまでも観音像の前にたたずんでいた。
2012年3月17日土曜日
大安寺の一木造りの仏たち
平成22年の春、遷都1300年祭で盛り上がる奈良に向かった。五劫院のアフロな仏を見た後、お昼をすませてからバスで大安寺へ向かった。大安寺ではちょうど遷都1300年特別開帳として本尊の十一面観音と馬頭観音が拝めるとのことだった。境内では遷都1300年の記念行事で、人が大勢いたがまず本堂に上がり十一面観音に参拝した。頭部と左手は後補だがまぎれもなく天平の観音様だ。次に嘶堂(いななきどう)の馬頭観音を参拝する。こちらは参拝者がまばらで落ち着いてみられた。頭上に馬頭がないが寺伝によると馬頭観音とのこと。上歯で下唇をかみ、目を吊り上げた顔が印象に残った。最後に宝物館の讃仰殿に向かう。中に入ると観音3体と四天王の計7体の仏像が居並ぶ。それらがすべて重要文化財で一木造りの天平仏だ。目尻をつり上げ、口をカッと開いた観音には珍しい憤怒の表情をした楊柳観音や解剖学的正確さを仏像という虚構のなかに反映させた四天王などすばらしい仏が目白押しだ。後で調べたら唐招提寺の木彫群と同じく中国人の工人による製作だという。大安寺は想像以上に国際的な寺で、大仏開眼をしたインド僧の菩提壱僊那(ぼだいせんな)や中国僧が滞在していたという。青い目の僧たちが闊歩する国際的な大寺院に思いをはせ、大安寺を後にした。
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