仏像クラブブログ
2025年11月6日木曜日
2025年11月3日月曜日
特別展「運慶」~興福寺北円堂祈りの⑤(弥勒如来その二)
前回の半蔵門ミュージアム山本館長の講演の続きだが、弥勒仏像(弥勒如来)の体躯について、運慶作品の壮年期の願成就院像・浄楽寺像が豊満で量感あふれる姿であるのに対し、北円堂が痩せ身であることにふれ、定朝が確立した和様以前の豊満な体躯から定朝様への回帰を果たしているとの解説だった。顔つきについても滝山寺まであった甘さが影をひそめたのは、宋風をふまえて独自の境地にいき、人間ならざるものとなったとの説明だった。浄楽寺像に見える玉眼を多用した表情がくずれ、人間味がなくなったのは、そのころ日本に入った宋風が影響したのかと納得した。弥勒仏像の胎内仏についても「弥勒仏像の納入品」の章で触れ、昭和9年の解体修理時に内部の厨子に弥勒如来と厨子絵に不動明王・薬師如来・地蔵菩薩と弘法大師空海・鑑真和上があり、奉籠願文は北円堂の勧進上人で正暦寺の僧専心の名前があり白檀の弥勒菩薩を持っており納入したと書かれており、正暦寺の弥勒菩薩を運慶がつくった記録から36体の運慶仏であるという大胆な説が発表された。その後、飛鳥仏との類似性や東大寺中性院・東博菩薩像などに展開されたとのこと。その後心月輪の話、そして衲衣のおなかのでっぱりは心月輪の蓮華を暗示しているとの説を披露した。弥勒仏だけでも、こいだけの刺激的な講演がなされ、聞き応えがあった。次回は四天王について触れる。
2025年10月31日金曜日
龍見寺大日如来
本日仏像クラブ初の平日開催で八王子市の龍見寺の東京都文化財ウィーク1日だけの御開帳にでかけた。10時前にお寺についたが、すでに住職からの説明が始まっており、普段閉じられている扉が明け放れた厨子の中、大日如来・文殊菩薩・普賢菩薩を拝観できた。大日如来は平安時代末の作で像高88センチあまりの寄木造。漆箔、玉眼で条帛を懸け、裳をつけている。宝冠が当初のものか説明はなかったが、凝ったつくりで恐らく都の仏師の作であろう。作者は不明で「新編武蔵風土記」によると奥州湯殿山にあったが、住職の説明によると源頼朝奥州征伐に従軍した在地の豪族横山党が戦利品として持ち帰ったもので、もとは奥州藤原氏による制作のもの。またもう一説は横山党が鎌倉時代に土地の仏師に作らせたとのこと。また金箔は他の仏像より厚めに造られているとのこと。あとでご住職と話す機会があったので岐阜県の石徹白大師堂の例をあげ藤原三代秀衡の寄進が有力だと申し上げた。矜持は珍しく文殊・普賢で大日三尊とでもいうのだろうか。他には例がないとのこと。堂山という近く野山のほこらに祀られていたが里の曹洞宗の龍見寺の客仏として祀られていた。素晴らしい大日如来でお寺のHPにはかの有名な西村公朝氏によると銘があれば国宝指定されてもおかしくない作。奈良円成寺の大日如来より優れていると大絶賛だとか。仏像クラブの面々からも感嘆の声があがり、昼食でよった八王子の居酒屋でおおいに語り合った。
2025年10月26日日曜日
特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂④(弥勒如来その一)
今週の日曜日(10月26日)半蔵門ミュージアムの講演会を聴講した。テーマは「興福寺北円堂諸像と運慶の時空」講師は山本館長だ。東博の北円堂展覧会にあわせて行ったもので、運慶研究の第一人者である山本館長が1時間半にわたって興福寺北円堂の創建と鎌倉再興、運慶の作品と北円堂諸仏作成時の運慶工房について事前に配布された講演資料をスライドの画面に写しながら語れた。特に興味をそそられたのが昭和9年の弥勒仏修理時に発見された運慶制作当初の「興福寺北円堂弥勒仏像台座反花内部墨書」に書かれた担当仏師のこと。また施主の近衛家実の「猪熊関白記」に北円堂諸仏を担当したのが運慶だと書かれているというくだりだ。いよいよ弥勒仏像(弥勒如来)に話が及んだ。弥勒仏像の光背は後補で当初は背板と円光背をあわせたインドマトゥーラでつくられた仏像に見られる「グプタ式光背」であり、その光背なら後ろに控えている仏弟子2名が隠れないとのこと。「運慶講義」で語られた「グプタ式光背」にはその様な意味があったと理解した。弥勒仏の内衣は薬師寺薬師如来や室生寺釈迦如来に見られる古くからの形式で定朝で簡略された仏像形式の復古を運慶が果たして「猪熊関白記」に書かれた「旧のごとく北円堂を建立」というう施主の要望の上をいく運慶のうまさについて語られた。次回は弥勒仏像内納入品からの話について報告する。
2025年10月20日月曜日
特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂③(北円堂持国天)
先週の木曜日ニコニコ美術館で特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂が取り上げられ、東博学芸員児島氏の解説で1時間半展覧会を鑑賞できた。番組では,無著の玉眼のドアップ等の映像が流れ、弥勒如来の納入品が弥勒菩薩であることや運慶銘では無著・世親とあるのに、願主近衛家実の「猪熊関白日記」には世親・玄奘と書かれている件や、無著の持つ包みは世親が明治期一時持っていたことなどが語られ、後半は四天王の話題となり、運慶の子息四人が担当し、北円堂が藤原不比等の菩提を弔うための創建であるため、再興した四天王は天平彫刻の模刻像であり、彫眼の瞳の部分を立体的に作られたりそれぞれ子息四人の個性が出ていることなどが語られた。会場内の解説のため各像の配置へのこだわりも語られ、ここに挙げる持国天は長男湛慶の制作と断定し湛慶の生真面目さが出ているなどマスコミうけするトークも絶妙だった。今は中金堂に祀られる四天王は元々北円堂にあることを裏付ける実験としての意味合いを持つ今回の展示だが、児島氏は湛慶の持国天を配置した際、正面を向く弥勒・無著・世親とぴったしで確信したなど、1時間半飽きさせない番組となった。確かにそれぞれの違いに興味がそそられたがたくましい骨格や表情には統一感が認められ運慶指導のもとに造像されたことは間違いないと思った。いろいろ深く知れたのでまた会場に行きたいと感じた。
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