仏像クラブブログ
2025年9月21日日曜日
佐渡・新潟仏像探訪記②(明静院の大日如来)
9月19日は佐渡を後にしてフェリーで直江津港に向かった。直江津港からタクシーで一路、岩殿山明静院へ。岩殿山は大国主命伝説が残る古くからのお寺で岩殿山の一本道をタクシーで登り、苔むした階段を上ると明静院の大日堂に出た。中にご住職の奥様らしき人が現れ大日堂の中に入れてくれた。拝観料を払い大日如来がおられる収蔵庫の扉を開け拝観した。みうらじゅん氏がへばりついた網戸はなく、奥様によると先代の住職は虫を嫌って網戸を開けなかったが、今は大日堂の入口に網戸をしたため開けて拝観できるようになったとのこと。一安心してて大日如来をみると平安時代後期の寄木造りで宝冠・瓔珞・臂釧・腕釧は江戸時代の後補。大きめな宝冠から垂れる瓔珞は蛇を思わせるように長く膝の上まで達していた。ここに大国主が入ったと感じた。顔は確かに童顔だがいとうせいこう氏が言う眠たげではなく凛として前を向く若々しい青年に見えた。新潟県で初の旧国宝に指定されその後重文となったほど出来映えがよく破綻ない仕上がりは都の仏師の作だろう。見仏記でみうらじゅん氏が「織田無動」言っていた水晶も奉納してあったが、ここから近い糸魚川は昔『越しの国』と言われたことからうなずける。左右の増長・多聞は大日如来の引き立て役に過ぎず明らかに地方仏師の作。御開帳記念に作ったクリアファイルと大日如来の写真を購入してお寺をあとにタクシーに戻った。タクシーの車窓からキバナコスモスを眺めながら秋を感じつつ宿に向かった。
佐渡新潟仏像探訪記③(瑞天寺の聖観音)
9月20日佐渡・新潟仏像探訪旅行で最後に訪れたのが、土居浜から歩いて30分ほどの瑞天寺だ。聖観音は上越市の町村合併記念に開催された「上越の仏像」に出展されており、事前に図録を取り寄せ今回の上越の仏像見たいリストに載っけておいた仏像だった。夜桜で有名な高田から一旦、直江津に出て、信越本線で土居浜へ。瑞天寺の代表の方が、待っていてくれて、早速本堂を横切り観音堂の千手観音と毘沙門天、不動明王に拝観した、事前のネット調査不足で答えられなかったが、逆にお寺の方にいつ頃の仏像聞かれ驚いた。本堂に戻り聖観音を拝観した。こちらは像高151センチでケヤキの寄木造、髻は高く白毫、三道を表す。左手は後補で蓮の蕾のクキを持ち、右手は腕前で指を念じている。行基製作の伝説があるが平安時代後期の作。長らく別の観音堂に安置されていたが、戦国時代に現在地に移され江戸時代に本堂に移されたとのこと。御朱印は頂けませんでしたが、直江津まで車で送って頂き有り難かった。午前中のタクシーの運ちゃんの話では上越市は観光に熱心でないとのこと。観光客誘致に躍起になっている佐渡と大違いだった。今度の旅はほっとけば朽ちてしまいそうな仏像が多かった。全国にはまだまだその様な仏像があるかもしれないのでブログを通じて情報発信したいと決意した旅だった。
2025年9月13日土曜日
特別展「運慶」~祈りの空間興福寺北円堂①
本日、東京国立博物館本館特別5室で開催されている特別展運慶祈りの空間ー興福寺北円堂を鑑賞しに仏像クラブで出かけた。10時過ぎに到着し本館特別5室に入場すると中央前に弥勒如来、後方に無著・世親が控えており周りを四天王(広目天・増長天・持国天・多聞天)が囲む、まさに祈りの空間が東博に出来上がっていた。弥勒如来は光背をつけず360(さぶろくまる)の露出展示でここが博物館とは思わせないしかけとなっている。興福寺北円堂弥勒如来は60年前の昭和41年に東京日本橋高島屋の「興福寺国宝展」で出陳されて以来のこと。東博も本尊の出陳を依頼する東博に祈りの空間を作ることで了解を得たと推測される。なんといっても中央の弥勒如来が素晴らしく、平家の焼き討ちで焼失した北円堂が他の堂宇から遅れて最後に再建されたため、運慶の脂ののりきった晩年期にあたったことが、このような傑作を生み出したのだろう。各像の解説は次回にまわすが、今年の奈良博「超国宝」の百済観音に匹敵する今回の展覧会だった。久しぶりの会でも珍しく弥勒如来について熱く語った仏像クラブの面々だった。
2025年9月5日金曜日
京の夏の旅2025(仁和寺観音堂千手観音)
「 京の冬の旅」はJRディスティネーションキャンペーンなので有名だが、「京の夏の旅」は京都観光協会主催のためさほど有名でないが今回は仁和寺観音堂が公開されているので、清水寺千日詣りまでの空いてる時間訪れた。観音堂の須弥壇正面壁をはじめ、内陣の板壁や柱は極彩色の壁画で彩られていた。2018年の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」では仏像は本物だが壁画は写真パネルだった。正面の三十三応現身は仏像の影で見えなかったが、東面の三十三観音は白い納衣が美しく修復されていた。888年に創建された仁和寺も京都を戦場とした応仁の乱によりことごとく焼失し徳川家光の支援で再建され壁画を担当したのは木村徳応の手によりものだ。仏像に目を移すと、中央に千手観音と矜持。その周りを二十八部衆が囲む。降三世明王は東寺から二十八部衆は三十三間堂からほぼ忠実に再現している。確かに迦楼羅や魔和羅女などは一回り小さいくしまねて作っているが再現には程遠い出来だ。図録には幕府や朝廷の御用を担った七条仏師康音の作風に通じるところがあると解説しているが、古典作品に取材しながら手際よくまとめすぎているのではたしてどうか。猛暑の中たいへんな拝観となったが京都の夏のいい思い出になった。
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