2025年4月4日金曜日

京の冬の旅2025③(清水寺随求堂大随求菩薩)

 


寝不足の目をこすりながら、地下鉄で四条駅に降り立ち、清水坂をまったりと登りながら清水寺の門前についた。地蔵院善光寺堂を拝観してから目指す慈心院随求堂に向かった。いつもは閉まっているお堂が今日は開いていた。奥に江戸時代の大随求菩薩が祀られていた。JRディスティネーションキャンペーン対象寺院になっている。京大の根立氏によると大随求菩薩は平安時代以降篤く信仰されていたが彫像で表されることは珍しい。頭上に宝冠と化仏を表し八本の腕には法輪・剣などを持物を執っている。寄木造の金泥塗の仕上げ、着衣部は漆箔仕上げとしている。像内文書から江戸時代享保18年の作とのこと。通りで寛永仏より地味で味気なかったが享保の質素倹約の時代に造られた仏像だった。随求堂では胎内くぐりもやっており、まっくらのなかを出口にむかって進んだ。清水寺境内にはまだまだ仏像が隠されていると感じた。

2025年3月29日土曜日

特別展魂を込めた円空仏

 今週の日曜日に東京日本橋三井記念美術館で開催中の「特別展魂を込めた円空仏」を鑑賞した。私と円空仏との出会いは新宿の小田急美術館で今から約50年前の中学生ころ初めて円空展が開催された。その後の小田急百貨店の展覧会や2013東博特別展「飛騨の円空」2015年横浜そごう美術館での「円空・木喰展」など何度も展覧会に足を運んだり、大学生になり「飛騨高山」を旅行したおりに千光寺を訪問した。今回の展覧会は昨今の漫画呪術廻戦での両面宿儺の活躍を受けて、初めて日本橋で開催された円空展だった。会場に円空の信仰を表す白山神や迦楼羅・愛染明王などの小像が飾られ、いつも印象的な展示室2には歌人として活躍した円空の尊敬する「柿本人麻呂像」が展示されていた。展示室3の狭いスペースには千光寺の護法神が5体が展示され高さ2メートルを超える作品で写真撮影OKとのこと、それぞれの表情を楽しみながら撮影した。展示室4の大きな部屋には両面宿儺や不動三尊。最後の狛犬や弁財天まで久しぶりに円空仏ワールドに酔いしれた。図録と千光寺の両面宿儺の御朱印を購入し会場をあとにした。




2025年3月20日木曜日

特別展「ハッケン!上田の仏像」③(神畑薬師堂の薬師如来)


 特別展「ハッケン!上田の仏像」のポスターやパンフレットに大きく掲載されていたのがこの神畑薬師堂の薬師如来だ。会場で見て驚いた。像高59センチ弱平安時代の小さな仏像だった。小さいながらもとても珍しい薬師如来で吉祥天などの天部の姿をした「吉祥薬師」と呼ばれる特異な姿であらわされた上田市最古の木彫像で平安時代の作だ。唐風の服に絡腋を着け、左手を少し下げて薬壺をとる。ヒノキの一材より掘り出し内刳なし。両手先、両足を矧ぐ神畑薬師の本尊だ。寺の記録によれば、寺より東南にある薬師台の山の中にあり、雨乞いや疱瘡除けの薬師如来として信仰があった。この種の天部形の薬師如来は広隆寺などの例があり、本像の鉢の広がった大きめな頭部、丸い頭頂部と髻や屈曲する幅広な天冠台は特徴的で、類例は少ないが九州や松代の清水寺聖観音などの例があり九世紀の余風を残した十世紀前半ごろの作と考えるのが妥当であろう。ハッケンしてすぐ上田市指定文化財に指定された、展覧会を象徴する仏像だった。






2025年3月15日土曜日

洛陽三十三所観音霊場①(清水寺善光寺堂如意輪観音)


 清水寺は「JRディスティネーションキャンペーン京の冬の旅2025」の随求堂大随求菩薩目当てで訪問する予定だったが、出発前日に「別冊旅の手帳京の冬の旅」を読んで見ると、清水寺善光寺堂・朝倉堂・本堂・奥の院・泰産寺も御開帳が行っているとの情報が記載しており、急遽午前中に予定していた禅寺訪問を取りやめ午前中は清水三昧にコース変更して出かけた。清水道から長い清水坂を登り切ると、清水寺仁王門と三重塔が見えてきた。左に小さなお堂が見えてきたが、いつもは通りすぎるがこれが地蔵院善光寺堂だ。入口にお地蔵さんがあったが、あとで知ったが首振り地蔵といって江戸期の幇間(太鼓持)鳥羽八を写したものとのこと。善光寺堂に入ると像高94センチの木造如意輪観音が鎮座していた。如意宝珠と宝輪の力で、苦を除き、利益を与える玉眼入りの鎌倉時代の仏像だ。私は一目でこの仏像が好きになってしまった。まさにみうらじゅんが言う「法輪ラブ」状態になってしまった。一面六臂のヒノキ材の寄木造で目尻を少し上げた顔立ちや髪の毛筋彫りの装飾的表現などから、鎌倉時代後半に造られたものとみられる。首をわずかに傾げ、右膝を立てて座る六臂の複雑な動作が破綻なくまとめ上げられている。清水寺の奥深さに驚愕し次のお堂に向かった。




2025年3月8日土曜日

京の冬の旅2025②(地蔵院の五劫思惟阿弥陀如来)

祇園で昼食の牛すき焼きをいただき、北野の地蔵院に向かった。ここも「京の冬の旅」非公開文化財特別公開寺院で「世界遺産登録30周年」と「洛陽三十三所観音霊場再興20周年」を記念し、特別公開されている。どうやら午後巡る地蔵院・六角堂・平等寺はテレビで放送されたらしく地蔵院には長蛇の列ができていた。ここ地蔵院は「椿寺」の愛称で親しまれる浄土宗の寺院。なかに入るとこじんまりした境内に本堂と観音堂・地蔵堂が建っている。列を並んでいると窓から元本尊の地蔵菩薩立像があった。地蔵院の名前の由来になる仏像だ。本堂では小人像にわけて参拝となる。五劫思惟阿弥陀如来は江戸時代の作。東大寺から来たとのこと。五劫思惟阿弥陀如来は長い年月の修行の期間を髪の毛長さであらわしたもの。奈良五劫院の鎌倉時代の仏像が有名だがあちらは木造、地蔵院は銅像だ。「おたふく阿弥陀」の愛称で親しまれている。観音堂の説明も本堂で行われ、慈覚大師円仁の作と伝わる一木造の平安時代の観音像が雨宝童子、春日龍神とともに祀られており、洛陽三十三所観音霊場30番札所になっている。帰りに地蔵・観音の絵はがきと京の冬の旅ガイドブックを呼び御朱印をいただき、急いで六角堂に向かった。


 

2025年3月3日月曜日

京の冬の旅2025①



今日(3月2日)、初参戦のJR主催京都 デイティネーションキャンペーン「京の冬の旅2025」において京都非公開文化財特別公開が実施されている清水寺に向かった。観音霊場のひとつである「洛陽三十三観音霊場」再興20周年記念として非公開文化財特別公開をやっており、観音様も公開していた。清水寺善光寺堂・朝倉堂・本堂・奥の院・泰産寺が公開しているという触れ込みだった。普段は見向きもしない善光寺堂を覗いてみると、なんと鎌倉時代の如意輪観音がさりげなく祀られていた。その観音にパンチを食らった私はその後、各お堂を巡るのだが、それは後日。午後は地蔵院、北野天満宮、六角堂、平等寺と駆け足で巡ったが、それぞれ個性豊かなお寺の物語にみるべき価値があった。また、次回も行きたいと思った。


2025年2月23日日曜日

特別展「大覚寺」①

本日は三井記念美術館の円空展に行く予定だったが、休館日のため銀座線で上野に出て特別展「大覚寺」を見にいった。大覚寺は嵯峨に位置する真言宗大覚寺派の大本山で、その歴史は約1200年前、嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院からはじまる。第一章では嵯峨院と空海の交流から始まり、平安時代末に円派の仏師明円作の五大明王が間近で見られた。山本先生の鎌倉時代仏師列伝によると明円は平安時代末に院や平氏、摂関家の造像にあたった仏師で運慶の父康慶と興福寺の再興像を争った仏師だが、現存作はこの五大明王とのこと、その後は展覧会は狩野山楽作の障壁画や人気の刀剣など人気のコーナですでに10万人の来場者が訪問したのもうなずける。帰りに図録やクリアファイルを購入し会場を後にした。




 

2025年2月15日土曜日

特別展「ハッケン!上田の仏像」②(清水寺聖観音)


 特別展「ハッケン!上田の仏像」では白鳳時代から江戸時代の円空仏まで出展されているが白鳳時代の出展仏像は小布施のものであり、平安時代前期の仏像はどれも小さく魅力ある仏像だが、迫力に欠けるところがあるのなのか仏像クラブで以前訪問した長野市松代清水寺の薬師如来と聖観音が出展されていた。清水寺聖観音は本尊千手菩薩,右矜持地蔵菩薩の三尊型式で信濃国の平安時代前期を代表する一木彫像を代表する優品として著名だ。単髻を結い丈の高い列弁をめぐらせた天冠台をいただき、条帛・天衣を懸け、腰以下に折り返し付きの裙、腰布をまとう菩薩形像で、左手を屈璧して腕前で第一・三・四指を曲げ、右手は垂下して掌を前に向けて全指を伸ばし、腰を左にひねり、右足をやや前に出して立つ。頭体幹部を一木で彫り内刳りを施さない造法は古様であり、奥行きをたっぷりととった重量感あふれる体躯、腰高で躍動感のあるプロポーション、深く鋭く刻まれた翻波式衣文の表現などに、平安時代前期一木彫像の特色が顕著である。本像は九世紀後半から末に在地の仏師によって造像されたものと考えるのが妥当であろうと学芸員のお国自慢が出たが、私は逆に中央仏師が都では制約があり作れない仏像を地方でのびのび自由に作った印象だ。今回はお寺の須弥壇に乗っていた仏像が間近でみれたのは何よりの収穫だった。



2025年2月10日月曜日

特別展ハッケン!上田の仏像




本日、長野県上田市に特別展ハッケン!上田の仏像を見に行っている。お昼前に上田に着き、信州そばの有名店刀屋でかけそばを頂き、展覧会場があるサントミューぜに向かった。大雪を心配したが、残雪もなくほどなく上田市美術館に着いた。解説によると上田市は、奈良時代に信濃国分寺が置かれ塩田平中心に華やかに仏教文化が展開した。上田市教育委員会が平成28年に実施した仏教美術悉楷調査で、多数の仏像が発見され本展では1500点の名宝のなかから選りすぐり仏像を展示とのこと。展示品の内容について後日詳細を報告するが、U案内人と一緒にみた、清水寺の聖観音や前山寺の大日如来など印象に残る仏像が多数あった。特に前山寺大日如来は私の目からしても慶派の大日如来であることは明らかで、髻の毛筋彫などから確信した。このような素晴らしい仏像に出会えるならわざわざ上田まで足を運ぶ価値はあったと思う。上田の町で焼き鳥を頂き、上田を後にした。

2025年2月4日火曜日

特別展「運慶」女人の作善と鎌倉幕府



 今週の日曜日に県立金沢文庫に特別展「運慶」女人の作善と鎌倉幕府を見にいった。県立金沢文庫の「運慶展」はこれで4回目になるが、今回は運慶に関わった鎌倉幕府の女性の依頼で制作された仏像を中心の展示との「ほとけの瀬谷さん」の触れ込みだったが、運慶作は源実朝の乳母「大弐局」依頼の大威徳明王。北条政子が実朝の安産祈願で制作したという説がある曹源寺十二神将巳神。瀬谷さんの新説で北条政子発願の寿福寺薬師如来、政子寄進の瀬戸神社舞楽面などかなり無理はあるが瀬谷さんの独断で集められた仏像群の展示となっている。なんといっても本展目玉は清水寺の観音勢至菩薩であろう。確かに浄楽寺阿弥陀三尊に作風が似ていると感じた。出展してほしかったのは政子寺ともいわれる願成就院の諸像や源頼家婦人が菩提を弔うために制作した実慶制作の大日如来。実朝夫人坊門清信の娘、西八条禅尼発願の京都大通寺(今は愛知県専長寺にある)阿弥陀如来も出展してほしかった。またの機会の楽しみとして期待したい。









2025年1月19日日曜日

浄瑠璃寺の不動三尊

昨年の秋になるが、9年ぶりに浄瑠璃寺を訪問した。修復完成した九体阿弥陀は確かに綺麗になったが、やはり私を引きつけたのはこの不動三尊だ。今は、九体阿弥陀如来座像がずらりと並ぶ本堂の脇壇に置かれているが、寺の古い記録が鎌倉時代建立と伝える護摩堂の本尊だったと見られる。迦楼羅が口から吐く炎を表現した火炎光背を背に、二童子を従えて立つ不動明王は威厳たっぷりだ。三尊全体が黒っぽいのは護摩堂で炊く護摩の煤に覆われているからであろう。特に火炎光背は本来紅蓮の炎を表す朱で表現されるが真っ黒だ。二童子に注目すると、合掌する矜羯羅童子はおとなしい雰囲気だ。杖とする木の枝に上体をあずけ、横目遣いの制吨迦童子はいたずらでもたくらんでいそうな感じで、三者三様絶妙の均衡がこの群像の見所であろう。当初の彩色と載金がよく残っている名作だと改めて思い、大判の写真を購入し浄瑠璃寺を後にした。


 

2025年1月11日土曜日

特別展「眷属」②(興福寺東金堂の安低羅大将)




2013年の芸大美術館開催の「興福寺仏頭展」から10年をへて今回の安低羅大将との再開である。芸大美術館では多くの十二神将と一緒に展示されていたが、改めて単独でみてもすばらしい仏像だと感じた。甲を着け、兜の頂に十二支の猿の頭部(後補)を表す。眉を寄せてにらみ、力を込めた顔面には筋肉や血管が浮き上がる。左足に重心を乗せて立ち、右手は肩の前に挙げて宝棒を執り、左手は第二指を伸ばして腰の横で軽く握る。他の十二神将の墨書より年号が発見され、抑揚に富んだ力強い造形や動的な姿勢などから、この頃の慶派の作と考えられる。安低羅大将は他の十二神将に比べ静的な印象だがかえってそれがうちに込めた力強さを表し、一緒にいった友人が惚れてしまったほどだ。鎌倉時代の「北斗の拳のケンシロウ」を思わせる十二神将だった。



2025年1月4日土曜日

影向寺に初詣


 今年の3ケ日は仏像巡りの3日間だった。除夜の鐘を鎌倉浄光明寺で白不動を拝観し、2日目は上野寛永寺で薬師如来と十二神将(?)を格子越しに初詣をし、今日( 1月3日)は川崎の影向寺に初詣特別公開に行ってきた。影向寺には2015年に実施された川崎市指定文化財等現地特別公開事業で近くの能満寺とともに予約して拝観したが、今は旅行会社の企画するツアーのみの予約で一般の善男善女は大晦日・正月3が日と秋の縁日のみ公開とのこと。影向寺バス停から歩いて10分ほどして影向寺の仁王門の前についた。以前収蔵庫で仏像群を見たので絵はがきを売っている男性に聞いて3が日はあいているといわれたので、収蔵庫にむかった。ここ10年であらたに発見された仏像があったのか収蔵庫にところ狭しと仏像が並んでいた。中央に平安前期と思われる薬師三尊その周りを十二神将が囲むのは前に通りだが、破損仏や神像と思われる像も並んでいた。郷土史家の三輪氏によれば聖武天皇が光明皇后の病気平癒を願い行基が建立というお決まりの伝承があるが、考古学の見地からも影向寺の前身寺院があり、旧本尊の破損仏と思われる像高80センチの首がなく胸部から腹部にかけて豊かな量感を持つ破損仏があり創建が奈良時代に遡るのではないかとの見解だ。また収蔵庫で見た女神と男性神はタウンニュースによれば、本尊の薬師如来から戦後発見され代々の住職が保管していたとのこと。男性神は如来像で像高8.2センチ、損傷が激しいが金箔が残る。女神像は俗体で15.5センチ、柔和な笑みを浮かべ、平安後期につくられたものと推定されるとのこと。影向寺では3が日に写真も配布されると記事にあったが、購入した書き置きの御朱印と一緒に女神像の絵はがきが添えられていた。解説付き写真集も購入しお寺をあとにした。