2025年6月21日土曜日
2025年6月14日土曜日
特別展超国宝②(法隆寺百済観音)
特別展超国宝展の最初に出会えった仏像がこの法隆寺百済観音だ。会場に入ると平日のためすいていたこともあるが、じっくり仏像に対することができた。まずその高さに驚いた。百済観音像の細く天に向かって伸びるような姿は、我が国の仏教美術において極めて特異な存在である。腰高で起伏の少ない身体表現は白鳳美術に影響を与えた中国・北斉時代の石彫にも見られるが、それだけでは説明できないプロポーションである。若い頃中国大同で北魏仏をたくさん見たが、百済観音も日本で制作された木彫仏だがどこか大陸的な雰囲気を持つ仏像だ。仏典に述べられる観音菩薩の姿は「観世音菩薩を観るべし。この菩薩の身の長、八十万億那由他由旬なり」とある。那由他は極めて大きな数量を示し、由旬とは古代インドの尺度で十五キロメートルほどと考えられる。それが八十万億集まった身長というのは想像を絶する。子供のころ夢中でみていた「西遊記」でも悟空がきんとん雲に乗って雲の上の観音様に会いに行くシーンがあったがそのことだったと気づかされた。百済観音像の光背を支える支柱基部に山岳文様があり世界の中心にある補陀落山が小さく画くことによって「那由他」を表現していることがわかったのが今回の収穫だった。この超国宝展で一番印象にのこった仏像はと聞かれれば迷わず百済観音と答えるであろう。
2025年6月7日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅⑤(安楽寿院の阿弥陀如来)
13年ぶりに鳥羽の地に降り立った。13年前の秋に京都非公開文化財特別公開が行われ京都に着き真っ先に向かったのが安楽寿院だった。ここは鳥羽上皇終焉の地で広大な鳥羽離宮があったところだ。その中心がこの安楽寿院だ。13年前の記憶をたどりながら寺院についた。お目当ての阿弥陀如来は外の収蔵庫にあった。記録によると鳥羽上皇が祀られている三重塔で供養当日から法華三昧を行われた。阿弥陀を本尊に据えて、法華三昧を行うという、「法華経」による減罪を経ての極楽往生祈願がみられる。定印を結ぶ等身の座像、檜材製で漆箔を施す。光背の身光圏帯内区や光脚、台座の蓮弁の一部、上敷茄子・華盤・下反花などが当初で、華麗な浮き彫り文様が施されて美しい。仏師は円派の長円・円信・賢円かさだかでないが、当代正系仏師の定朝様踏襲と装飾への意欲を示す典型的作例であり、その由緒とも併せてもっとも院政期的一作と見なされる。外に出たらいい天気で新緑に映える三重塔(今は多宝塔)が美しかった。恋多き鳥羽上皇に思いをはせて北向山不動院に向かった。
2025年6月1日日曜日
北総四都市江戸紀行(荘厳寺十一面観音)
本日、日本遺産北総四都市江戸紀行のひとつ佐原にある荘厳寺に仏像クラブで出かけた。JR東日本「北総春のキャンペーン」の一環で、臨時列車特急あやめ祭りで佐原の駅に降り立つと予想外の強風と大雨に見舞われたが、電話で事前予約していたので、収蔵庫の中に入れてもらえ、威厳ある十一面観音の立像に対面した。中には像高3メートル24センチの十一面観音で、平安時代の制作で香取神宮別当寺金剛寶寺の客仏。重文に指定された。明治の廃仏毀釈のおり横倒しになったため化仏の十一面がない状態で引き渡されたとのこと。台座と光背も後補だと留守番の寺男の案内人が教えてくれた。全体として破損が少なく、抑揚の少ない穏やかな像形は藤原彫刻の様式を伝えている。本堂も案内してもらったが、秘仏の不動明王と現代の「首だけ不動」等を見てお寺をあとにし、地元の酒蔵で角のみでおいしい日本酒を試飲し、駅前の鰻や「山田うなぎ店」でうな丼をいただき嵐の佐原を早々に後にした。
2025年5月25日日曜日
深大寺元三大師大開帳
昨日(5月23日)、調布の深大寺に行って元三大師大開帳に参加した。深大寺通りをお目当てのそば屋を探して歩き、5分ほどで山門の近く「蕎麦きよし」で、江戸前天せいろで腹ごしらえをしてから、参拝に向かった。平日にもかかわらず、境内は多くの参拝者で賑わっており元三大師像のチケットを購入するのに1時間もならんだ。やっとチケットとガイドブックを購入し、元三大師の中へ。中は薄暗かったが令和3年東博開催の「最澄と天台宗のすべて展」でみた良源(元三大師)の2メートル近い巨像と対面した。今回は奈良博の展示から帰ってお厨子に入る前の貴重な御開帳とのこと。少人数一列に参拝し、深大寺の僧侶の読経の流れる中願い事をとなえて無事参拝を終えた。後から知ったのだが民放のテレビのニュース番組で深大寺がとりあげられたのでこの混雑となった。ガイドブックによると鎌倉時代後期に鎌倉幕府の関与で日本最大の肖像彫刻が造られたとのこと。鎌倉時代末期は元寇で日本中が元異国調伏を行った時期。そのような目的で造られた像だが、実際の元三大師良源は平安時代の比叡山中興の祖。「最澄と天台宗のすべて展」図録コラムによると元三大師は寺院経営のうえでも豪腕をふるった僧侶であった。没後も比叡山内にあって内外を監視しているとか観音の化身であり不動明王の化身であるという信仰を生み出し、鬼大師、角大師、豆大師という伝説まで生まれた。今回の3年もの修理の中でわかったのが複数のネズミが像の中を住処として、中には聖教や書簡もあった。クリーニング解体剥落止め、材質強化を施したとのこと。2027年には深大寺の釈迦如来像が収まる白鳳堂が完成した暁には、また深大寺を訪れたいと思う。
2025年5月17日土曜日
令和7年新指定国宝・重文展(清涼寺如意輪観音)
京都の旅行の日程に新指定国宝・重文展を組み込むこととなりあらためて出展目録を見ると東博で開催されていたのと同じく一部の写真パネルの仏像を除いて、ほぼ全部の仏像がここ京都文化博物館に集結していた。3月発表の時から注目していたのがこの清涼寺如意輪観音だ。これまで鑑賞者を驚かせるような作風の仏像がかならず混じっているのが国宝・重文展の魅力だが高野山の深沙大将しかり奈良生駒寶山寺の制吒迦童子にもぐっと来た。今年のぐっと来る仏像は清涼寺如意輪観音だ。等身の如意輪観音で清涼寺の前身寺院・棲霞寺の遺構である阿弥陀堂に伝来した。六臂で右膝を立てて座る姿であらわされる。ヒノキの一木造で、奥行きの深い側面観に彫刻としての存在感があり、張りのある肉身部の表現や多臂の複雑な像容を破綻なくまとめあげる点等には仏師の力量がうかがえる。私がこの仏像を初めて見たとき、その特徴的なお顔に圧倒された。目がうつろでこちらを向いているような、なんとも不思議な表情をしている。図録解説では髻を高く結い上げ、その毛筋を細かく刻み柔らかみをもたせてあらわす点や、下膨れの顔の輪郭、大径木を用いて頭体の主要部分を一材から彫出す造法から制作年代は十世紀前半に置かれる。施主博物館醍醐天皇第四皇子・重明親王で、妻の一周忌法要を棲霞寺でおこなわれた記述があり関与した可能性があるとのこと。古寺に残る仏像にスポットライトあたった瞬間を目の当りにし、博物館の図録を購入し会場を後にした。
2025年5月10日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅④(喜光寺の阿弥陀如来)
奈良で大きな展覧会があるときは奈良市周辺のお寺に訪問することが通例となっているが今年は初訪問の喜光寺に決めた。特別展「超国宝」を鑑賞する予定にしていたのでどこのお寺を訪問するか検討していた私に「喜光寺の本尊光背修復が6年ぶりに終わった」とのニュースが舞い込んだ。光背の大部分が破損して痛々しかった阿弥陀如来だが、薬師寺で保管されていた光背の一部と新たに金箔を塗り直して復元した光背で4月に開眼法要が実施された動画も見て実物を見たいと思い急遽訪問することとなった。新幹線・近鉄特急「あをによし」と乗り継ぎローカル駅「尼ヶ辻」に降り立ち15分ほどで喜光寺についた。平日なので参拝客がほとんどいない境内を歩き拝観料を払って本堂に向かった。喜光寺は奈良時代に大仏殿創建に尽力した行基創建で当初のご本尊は阿弥陀如来であったか薬師如来かは不明で今の本尊は平安時代に造像された。本堂に入ると像高230センチの小ぶりだが立派な光背に七仏を拝し、金泥色に金箔された阿弥陀如来が祀られていた。近くには以前の江戸時代中期に制作された光背の六分の一しか残っていない写真も公開された。100年ぶりの光背の修復は美術院国宝修理所が行ったとネットに記載されていたが平安時代の阿弥陀如来の光背として違和感のない、いい仕事していると確認できた。喜光寺は阿弥陀三尊以外はほとんど仏像は残っておらず、平成22年制作のブロンズ製仁王像や平等院をまねた地元有志の制作の雲中供養菩薩など地元愛にあふれた素敵なお寺だった。静謐な境内を後にして奈良の喧噪に向かった。
2025年5月4日日曜日
奈良大阪京都仏像の旅③(北向山不動院の不動明王)
本日最終日竹田から安楽寿院に12年ぶりに参拝し、初公開の鳥羽天皇勅願所北向山不動院に向かった。12世紀このあたりに東西約1.7km、南北約1.1kmの、わが国最大規模の広大な鳥羽離宮があり梅の名所城南宮もその敷地で鳥羽天皇稜南端に北向山不動院があったとのこと。奈良仏師康助の現存する唯一の不動明王が公開されるので期待していた。そこには明らかに玉眼の不動明王が祀られていたのには驚いた。鳥羽上皇の命でわざと北向きに祀られていたが、平安時代の後期、玉眼の初期の例としては特筆に値する仏像だろう。山本館長も「12世紀半ばの作だというのに、鎌倉彫刻を先取りしたような斬新な作風が見られる」と紹介している。康助は孫ではなく弟子の康慶を後継者に指名し慶派創設の立役者となったことで知られいる。玉眼は運慶だけの専売特許のように思われがちだが、康助、康慶と引き継がれたものということがわかる不動明王だった。次の非公開文化財特別公開場所の中書島に向かった。
令和7年新指定国宝重文展①
文化庁が京都に移転して今年から国宝重文展は京都で開催されることとなった。たまたま、奈良大阪京都を旅行していたので、本日京都府京都文化博物館に行って来た。京都文化博物館はレンガ造りの旧館と立派な四階建ての本館に分かれおり、開催されているのは本館の二階だった。いつもと勝手が違うが落ち着いて鑑賞出来る空間だ。初めに考古資料と工芸品をみたが、中でも興味を引かれたのが刺繍聖母子像花鳥文様壁掛で中国からの舶来品を高台寺で使用していたがそこにキリストとマリアが織り込まれていた。お目当ての彫刻コーナーでは国宝法隆寺伎楽面や熊本の釈迦三尊など展示していたが、中でも興味を引かれたのが、清凉寺の如意輪観音だ。その虚ろな瞳を今でも思い出す。詳しくは次回以降に紹介する。図録を購入して京都の宿に向かった。
2025年5月3日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅①(特別展超国宝~祈りのかがやき)
今日から関西三都市の仏像の旅に出ている。1日目は奈良。最近光背が修復され話題となった喜光寺によってから、奈良国立博物館に奈良国立博物館開館130年記念特別展「超国宝~祈りのかがやき」を見に行った。入場に長蛇の列を覚悟してきたが、今日は平日なので並ばず入場できた。入るとすぐに法隆寺の百済観音と向き合えるコーナーになっていた。像高約2メートルは多くの日本人が仰ぎ見る高さだ。高さの秘密については次回にまわすが、感動した。次に印象に残ったやはり運慶の円成寺大日如来だ。この仏像は何回か関東の展覧会でみたが、露出展示でここまで上手く展示しているのは奈良博だけと感じた。最終章の未来への祈りにはピンチヒッッターとして法菩提願徳寺の菩薩半跏像と向き合えるコーナーになっている。平日ながら見所も多く混んで来たので二時間はかかった。博物館側の配慮たが、文化の灯を次の時代につなぐ思いを込めた展示となっている。思いは充分伝わったと思う。グッズ販売で百済観音Tシャツと図録を購入して会場をあとにした。
2025年4月29日火曜日
東京国立博物館本館11室(彫刻)リニューアル
26日に東京国立博物館本館11室(彫刻)がリニューアルしたので、U案内人と友人3人で行ったきた。お目当ては最近東博の館蔵品になった金剛力士阿形・吽形だ。令和4年の特別展「国宝東京国立博物館のすべて」で公開されたのだが、参加しなかったので、U案内人も私も初見になる。東博入口の自動販売機で東博コレクション展(旧総合文化展)のチケットを購入し東博本館に向かった。11室の入口にはいつものガラスケースはなく、像高3メートル近い平安時代の金剛力士が展示されていた。東博が配っている冊子によれば滋賀県栗東市蓮台寺の門に安置されていたもの。室戸台風で門とともに倒壊し部材だけが残されていたものを、彫刻の修理を手掛ける美術院が研究資料として購入し本格的修理をへて東博が令和4年に所蔵し、公開したとのこと。この仏像を見て感じたのが見る方向によって印象が違うことだ。阿形は私が撮った写真では前に踏み出した足が強調され力強いが、横から見ると、振り上げた左腕から外側に張り出した腰を経て、力を抜いて遊ばせた右脚にいたる各部のつながりがスムーズで、しなやかな身のこなしが優雅な印象を与えた。U案内人は強烈なまでのダイナミックな筋肉美で運慶につながりを感じたようだが、冊子によると背中は思いのほか肉付きがよく柔らかみが感じられると紹介している。いずれにしても興味深い仏像だった。
2025年4月26日土曜日
京の冬の旅2025⑤(平等寺の薬師如来)
4時ギリギリ10分前に平等寺についた。ちょうど案内人が本日最後の説明が始まるところだった。まず皆さんを本尊薬師如来のある収蔵庫に招いた。以前も平等寺には京都非公開文化財特別公開のおりに拝観しているので今回二回目の訪問となった。案内人はお寺の創建に関わる橘行平について語り始めた。村上天皇の命で因幡の国(現在の鳥取県)に赴いた橘行平が、夢告により海中から薬師如来を引き上げ、草堂を建てて供養したが、行平が京都へ戻るとその薬師如来が行平のもとに飛来。行平はこの像を安置するため自邸を改造して「因幡堂」とした。その後歴代天皇が「薬師詣で」に参じ高倉天皇から「平等寺」の名前を下賜されたとのこと。案内人は行平とお薬師さんとのやりとりをコミカルに語る名調子で参拝者を喜ばせた。案内人が質問形式で厨子の火災から逃れる滑車を説明し場を大いに盛り上げた。別のお堂には都の東西南北の神社仏閣を経て、ここ因幡堂に祀られた二体の十一面観音や如意輪観音、清凉寺式釈迦如来などみどころが多い。「因幡堂縁起」絵巻の展示を見て戻ると丁度時間になりお開きとなっていた。今回の京の冬の旅2025で最後に訪れたのが平等寺でよかった。ひとつひとつのお寺にストーリーがあるのだなと感じながら四条のお菓子や「鼓月」におみやげを買いに向かった。
2025年4月19日土曜日
京の冬の旅2025④(六角堂の毘沙門天)
地蔵院は参拝客が多く予定より時間がかかったので、六角堂と平等寺を急いで見ることになった。阪急電車で烏丸駅につき阪急電車のお兄ちゃんに道を聞き六角堂に向かった。洛陽三十三所観音霊場でもある六角堂は正式名称は紫雲山頂法寺といい、飛鳥時代の用明天皇2年四天王寺建立資材を探しに京都を訪れた聖徳太子が夢告によって堂を建て念持仏を安置したのが始まりと伝わる、京都屈指の古刹。JR京都ディスティネーションキャンペーンおなじみ案内人はお堂の中には入らず、外で公開場所だけ案内してくれた。なかに本尊前立伝弘法大師作如意輪観音鞘仏・毘沙門天・地蔵菩薩は拝観できたが、建礼門院徳子念持仏如意輪観音は見逃した。毘沙門天については2020年京都国立博物館で開催された特別展「聖地巡礼」で拝観しておりその図録の解説によると、「現状では香煙によるものか、表面が黒ずんだ古色を呈しているが、もとは彩色が施されていた。また、よろいの端正な彫りもみどころである。太造りながらも穏やかな作風からみて、制作年代は十一世紀のおわりから十二世紀のはじめころにかけてかと考えられる。腰高なプロポーションで、わずかに腰を左に入れる。(中略)個人的には円派仏師の作、それも円勢周辺の仏師によるものとみたい」本尊を池坊ビルで見てから六角堂を出たのが3時半を過ぎており、急いで平等寺に向かった。
2025年4月13日日曜日
特別展「ハッケン!上田の仏像」④(前山寺大日如来)
特別展「ハッケン!上田の仏像」のパンフレットを手に取ったのが、昨年東京国立博物館のことであった。そのパンフレットで気になった仏像がこの前山寺大日如来だ。人目見て慶派の仏像ではないかと思ったが、まさか信州上田まで確かめに行くとはその当時は思わなかった。2017年に信州の仏像を見る旅をした際、別所温泉の近くの前山寺を訪れ、立派な五重塔が印象的なお寺だった。前山寺本堂に本尊として安置される金剛界の大日如来。前山寺は弘法大師空海の創建と伝わる信州の古刹。高髻を結い、腕前で智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で条帛を懸け、折り返し付きの裙・腰布を着け、右足を上にして結跏趺坐する。高髻を結い、毛筋を細かく刻んだ頭髪、やや胸を引いて両腕前に空間をとった姿勢、両腕前に深く刻んだ円弧状の衣紋など本像の形式や表現は、鎌倉時代前期の慶派の大日如来の系譜を引くものといえる。現地でこの仏像を見て初めて運慶の大日如来を見た感動がよみがえった。両大腿部脇に腰布のたわみをつくる表現は石山寺大日如来像など快慶作品に特徴的にみられるものであり、耳の形状は快慶の弟子行快のそれに近い。表面を金泥塗り切金文様仕上げとし、像内は黒漆塗りとするなど、きわめて入念に仕上がられた本像は、上田の地に伝わる鎌倉時代の優品のひとつとして評価すべきものなのだろう。上田市仏像悉皆調査に立ち会った萩原玉川大学教育博物館准教授ならではの図録解説であった。玉川大学教育博物館でも上田の仏像を紹介する展覧会開催があったら行きたいと思った。
2025年4月4日金曜日
京の冬の旅2025③(清水寺随求堂大随求菩薩)
寝不足の目をこすりながら、地下鉄で四条駅に降り立ち、清水坂をまったりと登りながら清水寺の門前についた。地蔵院善光寺堂を拝観してから目指す慈心院随求堂に向かった。いつもは閉まっているお堂が今日は開いていた。奥に江戸時代の大随求菩薩が祀られていた。JRディスティネーションキャンペーン対象寺院になっている。京大の根立氏によると大随求菩薩は平安時代以降篤く信仰されていたが彫像で表されることは珍しい。頭上に宝冠と化仏を表し八本の腕には法輪・剣などを持物を執っている。寄木造の金泥塗の仕上げ、着衣部は漆箔仕上げとしている。像内文書から江戸時代享保18年の作とのこと。通りで寛永仏より地味で味気なかったが享保の質素倹約の時代に造られた仏像だった。随求堂では胎内くぐりもやっており、まっくらのなかを出口にむかって進んだ。清水寺境内にはまだまだ仏像が隠されていると感じた。
2025年3月29日土曜日
特別展魂を込めた円空仏
今週の日曜日に東京日本橋三井記念美術館で開催中の「特別展魂を込めた円空仏」を鑑賞した。私と円空仏との出会いは新宿の小田急美術館で今から約50年前の中学生ころ初めて円空展が開催された。その後の小田急百貨店の展覧会や2013東博特別展「飛騨の円空」2015年横浜そごう美術館での「円空・木喰展」など何度も展覧会に足を運んだり、大学生になり「飛騨高山」を旅行したおりに千光寺を訪問した。今回の展覧会は昨今の漫画呪術廻戦での両面宿儺の活躍を受けて、初めて日本橋で開催された円空展だった。会場に円空の信仰を表す白山神や迦楼羅・愛染明王などの小像が飾られ、いつも印象的な展示室2には歌人として活躍した円空の尊敬する「柿本人麻呂像」が展示されていた。展示室3の狭いスペースには千光寺の護法神が5体が展示され高さ2メートルを超える作品で写真撮影OKとのこと、それぞれの表情を楽しみながら撮影した。展示室4の大きな部屋には両面宿儺や不動三尊。最後の狛犬や弁財天まで久しぶりに円空仏ワールドに酔いしれた。図録と千光寺の両面宿儺の御朱印を購入し会場をあとにした。
2025年3月20日木曜日
特別展「ハッケン!上田の仏像」③(神畑薬師堂の薬師如来)
特別展「ハッケン!上田の仏像」のポスターやパンフレットに大きく掲載されていたのがこの神畑薬師堂の薬師如来だ。会場で見て驚いた。像高59センチ弱平安時代の小さな仏像だった。小さいながらもとても珍しい薬師如来で吉祥天などの天部の姿をした「吉祥薬師」と呼ばれる特異な姿であらわされた上田市最古の木彫像で平安時代の作だ。唐風の服に絡腋を着け、左手を少し下げて薬壺をとる。ヒノキの一材より掘り出し内刳なし。両手先、両足を矧ぐ神畑薬師の本尊だ。寺の記録によれば、寺より東南にある薬師台の山の中にあり、雨乞いや疱瘡除けの薬師如来として信仰があった。この種の天部形の薬師如来は広隆寺などの例があり、本像の鉢の広がった大きめな頭部、丸い頭頂部と髻や屈曲する幅広な天冠台は特徴的で、類例は少ないが九州や松代の清水寺聖観音などの例があり九世紀の余風を残した十世紀前半ごろの作と考えるのが妥当であろう。ハッケンしてすぐ上田市指定文化財に指定された、展覧会を象徴する仏像だった。
2025年3月15日土曜日
洛陽三十三所観音霊場①(清水寺善光寺堂如意輪観音)
清水寺は「JRディスティネーションキャンペーン京の冬の旅2025」の随求堂大随求菩薩目当てで訪問する予定だったが、出発前日に「別冊旅の手帳京の冬の旅」を読んで見ると、清水寺善光寺堂・朝倉堂・本堂・奥の院・泰産寺も御開帳が行っているとの情報が記載しており、急遽午前中に予定していた禅寺訪問を取りやめ午前中は清水三昧にコース変更して出かけた。清水道から長い清水坂を登り切ると、清水寺仁王門と三重塔が見えてきた。左に小さなお堂が見えてきたが、いつもは通りすぎるがこれが地蔵院善光寺堂だ。入口にお地蔵さんがあったが、あとで知ったが首振り地蔵といって江戸期の幇間(太鼓持)鳥羽八を写したものとのこと。善光寺堂に入ると像高94センチの木造如意輪観音が鎮座していた。如意宝珠と宝輪の力で、苦を除き、利益を与える玉眼入りの鎌倉時代の仏像だ。私は一目でこの仏像が好きになってしまった。まさにみうらじゅんが言う「法輪ラブ」状態になってしまった。一面六臂のヒノキ材の寄木造で目尻を少し上げた顔立ちや髪の毛筋彫りの装飾的表現などから、鎌倉時代後半に造られたものとみられる。首をわずかに傾げ、右膝を立てて座る六臂の複雑な動作が破綻なくまとめ上げられている。清水寺の奥深さに驚愕し次のお堂に向かった。
2025年3月8日土曜日
京の冬の旅2025②(地蔵院の五劫思惟阿弥陀如来)
祇園で昼食の牛すき焼きをいただき、北野の地蔵院に向かった。ここも「京の冬の旅」非公開文化財特別公開寺院で「世界遺産登録30周年」と「洛陽三十三所観音霊場再興20周年」を記念し、特別公開されている。どうやら午後巡る地蔵院・六角堂・平等寺はテレビで放送されたらしく地蔵院には長蛇の列ができていた。ここ地蔵院は「椿寺」の愛称で親しまれる浄土宗の寺院。なかに入るとこじんまりした境内に本堂と観音堂・地蔵堂が建っている。列を並んでいると窓から元本尊の地蔵菩薩立像があった。地蔵院の名前の由来になる仏像だ。本堂では小人像にわけて参拝となる。五劫思惟阿弥陀如来は江戸時代の作。東大寺から来たとのこと。五劫思惟阿弥陀如来は長い年月の修行の期間を髪の毛長さであらわしたもの。奈良五劫院の鎌倉時代の仏像が有名だがあちらは木造、地蔵院は銅像だ。「おたふく阿弥陀」の愛称で親しまれている。観音堂の説明も本堂で行われ、慈覚大師円仁の作と伝わる一木造の平安時代の観音像が雨宝童子、春日龍神とともに祀られており、洛陽三十三所観音霊場30番札所になっている。帰りに地蔵・観音の絵はがきと京の冬の旅ガイドブックを呼び御朱印をいただき、急いで六角堂に向かった。
2025年3月3日月曜日
京の冬の旅2025①
今日(3月2日)、初参戦のJR主催京都 デイティネーションキャンペーン「京の冬の旅2025」において京都非公開文化財特別公開が実施されている清水寺に向かった。観音霊場のひとつである「洛陽三十三観音霊場」再興20周年記念として非公開文化財特別公開をやっており、観音様も公開していた。清水寺善光寺堂・朝倉堂・本堂・奥の院・泰産寺が公開しているという触れ込みだった。普段は見向きもしない善光寺堂を覗いてみると、なんと鎌倉時代の如意輪観音がさりげなく祀られていた。その観音にパンチを食らった私はその後、各お堂を巡るのだが、それは後日。午後は地蔵院、北野天満宮、六角堂、平等寺と駆け足で巡ったが、それぞれ個性豊かなお寺の物語にみるべき価値があった。また、次回も行きたいと思った。
2025年2月23日日曜日
特別展「大覚寺」①
本日は三井記念美術館の円空展に行く予定だったが、休館日のため銀座線で上野に出て特別展「大覚寺」を見にいった。大覚寺は嵯峨に位置する真言宗大覚寺派の大本山で、その歴史は約1200年前、嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院からはじまる。第一章では嵯峨院と空海の交流から始まり、平安時代末に円派の仏師明円作の五大明王が間近で見られた。山本先生の鎌倉時代仏師列伝によると明円は平安時代末に院や平氏、摂関家の造像にあたった仏師で運慶の父康慶と興福寺の再興像を争った仏師だが、現存作はこの五大明王とのこと、その後は展覧会は狩野山楽作の障壁画や人気の刀剣など人気のコーナですでに10万人の来場者が訪問したのもうなずける。帰りに図録やクリアファイルを購入し会場を後にした。
2025年2月15日土曜日
特別展「ハッケン!上田の仏像」②(清水寺聖観音)
特別展「ハッケン!上田の仏像」では白鳳時代から江戸時代の円空仏まで出展されているが白鳳時代の出展仏像は小布施のものであり、平安時代前期の仏像はどれも小さく魅力ある仏像だが、迫力に欠けるところがあるのなのか仏像クラブで以前訪問した長野市松代清水寺の薬師如来と聖観音が出展されていた。清水寺聖観音は本尊千手菩薩,右矜持地蔵菩薩の三尊型式で信濃国の平安時代前期を代表する一木彫像を代表する優品として著名だ。単髻を結い丈の高い列弁をめぐらせた天冠台をいただき、条帛・天衣を懸け、腰以下に折り返し付きの裙、腰布をまとう菩薩形像で、左手を屈璧して腕前で第一・三・四指を曲げ、右手は垂下して掌を前に向けて全指を伸ばし、腰を左にひねり、右足をやや前に出して立つ。頭体幹部を一木で彫り内刳りを施さない造法は古様であり、奥行きをたっぷりととった重量感あふれる体躯、腰高で躍動感のあるプロポーション、深く鋭く刻まれた翻波式衣文の表現などに、平安時代前期一木彫像の特色が顕著である。本像は九世紀後半から末に在地の仏師によって造像されたものと考えるのが妥当であろうと学芸員のお国自慢が出たが、私は逆に中央仏師が都では制約があり作れない仏像を地方でのびのび自由に作った印象だ。今回はお寺の須弥壇に乗っていた仏像が間近でみれたのは何よりの収穫だった。
2025年2月10日月曜日
特別展ハッケン!上田の仏像
本日、長野県上田市に特別展ハッケン!上田の仏像を見に行っている。お昼前に上田に着き、信州そばの有名店刀屋でかけそばを頂き、展覧会場があるサントミューぜに向かった。大雪を心配したが、残雪もなくほどなく上田市美術館に着いた。解説によると上田市は、奈良時代に信濃国分寺が置かれ塩田平中心に華やかに仏教文化が展開した。上田市教育委員会が平成28年に実施した仏教美術悉楷調査で、多数の仏像が発見され本展では1500点の名宝のなかから選りすぐり仏像を展示とのこと。展示品の内容について後日詳細を報告するが、U案内人と一緒にみた、清水寺の聖観音や前山寺の大日如来など印象に残る仏像が多数あった。特に前山寺大日如来は私の目からしても慶派の大日如来であることは明らかで、髻の毛筋彫などから確信した。このような素晴らしい仏像に出会えるならわざわざ上田まで足を運ぶ価値はあったと思う。上田の町で焼き鳥を頂き、上田を後にした。
2025年2月4日火曜日
特別展「運慶」女人の作善と鎌倉幕府
今週の日曜日に県立金沢文庫に特別展「運慶」女人の作善と鎌倉幕府を見にいった。県立金沢文庫の「運慶展」はこれで4回目になるが、今回は運慶に関わった鎌倉幕府の女性の依頼で制作された仏像を中心の展示との「ほとけの瀬谷さん」の触れ込みだったが、運慶作は源実朝の乳母「大弐局」依頼の大威徳明王。北条政子が実朝の安産祈願で制作したという説がある曹源寺十二神将巳神。瀬谷さんの新説で北条政子発願の寿福寺薬師如来、政子寄進の瀬戸神社舞楽面などかなり無理はあるが瀬谷さんの独断で集められた仏像群の展示となっている。なんといっても本展目玉は清水寺の観音勢至菩薩であろう。確かに浄楽寺阿弥陀三尊に作風が似ていると感じた。出展してほしかったのは政子寺ともいわれる願成就院の諸像や源頼家婦人が菩提を弔うために制作した実慶制作の大日如来。実朝夫人坊門清信の娘、西八条禅尼発願の京都大通寺(今は愛知県専長寺にある)阿弥陀如来も出展してほしかった。またの機会の楽しみとして期待したい。
2025年1月19日日曜日
浄瑠璃寺の不動三尊
昨年の秋になるが、9年ぶりに浄瑠璃寺を訪問した。修復完成した九体阿弥陀は確かに綺麗になったが、やはり私を引きつけたのはこの不動三尊だ。今は、九体阿弥陀如来座像がずらりと並ぶ本堂の脇壇に置かれているが、寺の古い記録が鎌倉時代建立と伝える護摩堂の本尊だったと見られる。迦楼羅が口から吐く炎を表現した火炎光背を背に、二童子を従えて立つ不動明王は威厳たっぷりだ。三尊全体が黒っぽいのは護摩堂で炊く護摩の煤に覆われているからであろう。特に火炎光背は本来紅蓮の炎を表す朱で表現されるが真っ黒だ。二童子に注目すると、合掌する矜羯羅童子はおとなしい雰囲気だ。杖とする木の枝に上体をあずけ、横目遣いの制吨迦童子はいたずらでもたくらんでいそうな感じで、三者三様絶妙の均衡がこの群像の見所であろう。当初の彩色と載金がよく残っている名作だと改めて思い、大判の写真を購入し浄瑠璃寺を後にした。
2025年1月11日土曜日
特別展「眷属」②(興福寺東金堂の安低羅大将)
2013年の芸大美術館開催の「興福寺仏頭展」から10年をへて今回の安低羅大将との再開である。芸大美術館では多くの十二神将と一緒に展示されていたが、改めて単独でみてもすばらしい仏像だと感じた。甲を着け、兜の頂に十二支の猿の頭部(後補)を表す。眉を寄せてにらみ、力を込めた顔面には筋肉や血管が浮き上がる。左足に重心を乗せて立ち、右手は肩の前に挙げて宝棒を執り、左手は第二指を伸ばして腰の横で軽く握る。他の十二神将の墨書より年号が発見され、抑揚に富んだ力強い造形や動的な姿勢などから、この頃の慶派の作と考えられる。安低羅大将は他の十二神将に比べ静的な印象だがかえってそれがうちに込めた力強さを表し、一緒にいった友人が惚れてしまったほどだ。鎌倉時代の「北斗の拳のケンシロウ」を思わせる十二神将だった。
2025年1月4日土曜日
影向寺に初詣
今年の3ケ日は仏像巡りの3日間だった。除夜の鐘を鎌倉浄光明寺で白不動を拝観し、2日目は上野寛永寺で薬師如来と十二神将(?)を格子越しに初詣をし、今日( 1月3日)は川崎の影向寺に初詣特別公開に行ってきた。影向寺には2015年に実施された川崎市指定文化財等現地特別公開事業で近くの能満寺とともに予約して拝観したが、今は旅行会社の企画するツアーのみの予約で一般の善男善女は大晦日・正月3が日と秋の縁日のみ公開とのこと。影向寺バス停から歩いて10分ほどして影向寺の仁王門の前についた。以前収蔵庫で仏像群を見たので絵はがきを売っている男性に聞いて3が日はあいているといわれたので、収蔵庫にむかった。ここ10年であらたに発見された仏像があったのか収蔵庫にところ狭しと仏像が並んでいた。中央に平安前期と思われる薬師三尊その周りを十二神将が囲むのは前に通りだが、破損仏や神像と思われる像も並んでいた。郷土史家の三輪氏によれば聖武天皇が光明皇后の病気平癒を願い行基が建立というお決まりの伝承があるが、考古学の見地からも影向寺の前身寺院があり、旧本尊の破損仏と思われる像高80センチの首がなく胸部から腹部にかけて豊かな量感を持つ破損仏があり創建が奈良時代に遡るのではないかとの見解だ。また収蔵庫で見た女神と男性神はタウンニュースによれば、本尊の薬師如来から戦後発見され代々の住職が保管していたとのこと。男性神は如来像で像高8.2センチ、損傷が激しいが金箔が残る。女神像は俗体で15.5センチ、柔和な笑みを浮かべ、平安後期につくられたものと推定されるとのこと。影向寺では3が日に写真も配布されると記事にあったが、購入した書き置きの御朱印と一緒に女神像の絵はがきが添えられていた。解説付き写真集も購入しお寺をあとにした。
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