2025年1月19日日曜日

浄瑠璃寺の不動三尊

昨年の秋になるが、9年ぶりに浄瑠璃寺を訪問した。修復完成した九体阿弥陀は確かに綺麗になったが、やはり私を引きつけたのはこの不動三尊だ。今は、九体阿弥陀如来座像がずらりと並ぶ本堂の脇壇に置かれているが、寺の古い記録が鎌倉時代建立と伝える護摩堂の本尊だったと見られる。迦楼羅が口から吐く炎を表現した火炎光背を背に、二童子を従えて立つ不動明王は威厳たっぷりだ。三尊全体が黒っぽいのは護摩堂で炊く護摩の煤に覆われているからであろう。特に火炎光背は本来紅蓮の炎を表す朱で表現されるが真っ黒だ。二童子に注目すると、合掌する矜羯羅童子はおとなしい雰囲気だ。杖とする木の枝に上体をあずけ、横目遣いの制吨迦童子はいたずらでもたくらんでいそうな感じで、三者三様絶妙の均衡がこの群像の見所であろう。当初の彩色と載金がよく残っている名作だと改めて思い、大判の写真を購入し浄瑠璃寺を後にした。


 

2025年1月11日土曜日

特別展「眷属」②(興福寺東金堂の安低羅大将)




2013年の芸大美術館開催の「興福寺仏頭展」から10年をへて今回の安低羅大将との再開である。芸大美術館では多くの十二神将と一緒に展示されていたが、改めて単独でみてもすばらしい仏像だと感じた。甲を着け、兜の頂に十二支の猿の頭部(後補)を表す。眉を寄せてにらみ、力を込めた顔面には筋肉や血管が浮き上がる。左足に重心を乗せて立ち、右手は肩の前に挙げて宝棒を執り、左手は第二指を伸ばして腰の横で軽く握る。他の十二神将の墨書より年号が発見され、抑揚に富んだ力強い造形や動的な姿勢などから、この頃の慶派の作と考えられる。安低羅大将は他の十二神将に比べ静的な印象だがかえってそれがうちに込めた力強さを表し、一緒にいった友人が惚れてしまったほどだ。鎌倉時代の「北斗の拳のケンシロウ」を思わせる十二神将だった。



2025年1月4日土曜日

影向寺に初詣


 今年の3ケ日は仏像巡りの3日間だった。除夜の鐘を鎌倉浄光明寺で白不動を拝観し、2日目は上野寛永寺で薬師如来と十二神将(?)を格子越しに初詣をし、今日( 1月3日)は川崎の影向寺に初詣特別公開に行ってきた。影向寺には2015年に実施された川崎市指定文化財等現地特別公開事業で近くの能満寺とともに予約して拝観したが、今は旅行会社の企画するツアーのみの予約で一般の善男善女は大晦日・正月3が日と秋の縁日のみ公開とのこと。影向寺バス停から歩いて10分ほどして影向寺の仁王門の前についた。以前収蔵庫で仏像群を見たので絵はがきを売っている男性に聞いて3が日はあいているといわれたので、収蔵庫にむかった。ここ10年であらたに発見された仏像があったのか収蔵庫にところ狭しと仏像が並んでいた。中央に平安前期と思われる薬師三尊その周りを十二神将が囲むのは前に通りだが、破損仏や神像と思われる像も並んでいた。郷土史家の三輪氏によれば聖武天皇が光明皇后の病気平癒を願い行基が建立というお決まりの伝承があるが、考古学の見地からも影向寺の前身寺院があり、旧本尊の破損仏と思われる像高80センチの首がなく胸部から腹部にかけて豊かな量感を持つ破損仏があり創建が奈良時代に遡るのではないかとの見解だ。また収蔵庫で見た女神と男性神はタウンニュースによれば、本尊の薬師如来から戦後発見され代々の住職が保管していたとのこと。男性神は如来像で像高8.2センチ、損傷が激しいが金箔が残る。女神像は俗体で15.5センチ、柔和な笑みを浮かべ、平安後期につくられたものと推定されるとのこと。影向寺では3が日に写真も配布されると記事にあったが、購入した書き置きの御朱印と一緒に女神像の絵はがきが添えられていた。解説付き写真集も購入しお寺をあとにした。