2024年3月30日土曜日
2024年3月23日土曜日
祝国宝 「大報恩寺六観音・地蔵菩薩」
今年の国宝彫刻の部は京都・大報恩寺の六観音・地蔵菩薩が指定された。この六観音と快慶の十大弟子、行快の釈迦如来を何度も京都や上野の展覧会でも出会った。見るたびに感動した仏像群だが、六観音がまだ国宝になっていないのは驚きだった。文化庁の解説によると「准胝観音像の銘文に名が記される肥後定慶を統率者として六人の仏師により造られたとみられる六観音で、像内銘や納入品から貞応3年(1224年)に制作されたことが判明する。克明な写実を踏まえて情感に富んだ菩薩像の様式を造りだし、鎌倉時代彫刻の一つの到達点を示した仏師として、運慶次世代の中で最も注目されている定慶の代表作であり、当代の壇像彫刻の代表的な遺品である」と肥後定慶をほめちぎっている。山本先生の「鎌倉時代仏師列伝」によると私は各地で肥後定慶作品に出逢っていることがわかった。京都では大報恩寺像と鞍馬寺の聖観音、岐阜県では横倉寺の金剛力士像、鎌倉で明王院不動明王と展覧会で鎌倉常楽寺阿弥陀三尊と多い。山本先生によると大報恩寺准胝観音は「運慶が完成した興福寺北円堂弥勒仏に通ずる。しかし、髪筋の一部を天冠台に配した花形飾りの中心の孔に通すなどの細工をした髪型や、やや複雑で変化にとんだ衣文の形は古代の壇像彫刻の一部をとりこんだと思われるが、独特のはなやぎがある。」それから肥後定慶はよく言われる運慶の息子ではなく、運慶風を基本としたが古代壇像彫刻も作風に取り入れられた独立した仏師だと結論ずけている。とにかく国宝指定はめでたいことだ。まだ文化庁より令和六年度国宝・重文展の発表はないが、大報恩寺の出展があるかどうかが注目されるだろう。
2024年3月16日土曜日
特別展「中尊寺金色堂」⑤(二天像)
特別展「中尊寺金色堂」の仏像展示の最後を飾るのが、二天像だ。持国天は目を瞋らして口を結び、左手を高く上げて右手を強く振り下ろし、これに呼応するように袖が大きく翻る。増長天は口を開き、増長天とは逆に右手を高く上げて左手を振り下ろし、袖を大きく翻す。激しい造形は左右対称形に破綻なく造形する。口の開閉、身体の色から判断すると本来像名が逆で、安置位置も現在と左右逆であった可能性が指摘されている。前回の地蔵菩薩のブログで書いたようにもとは当初基衡壇にあったものと推定される。白水阿弥陀堂や鎌倉大善寺の二天像のように本像を模したと思われる仏像も安置され規範性のある著名な像であったと推察される。おそらく源頼朝も目にしており、鎌倉永福寺に同じ像を運慶に造らせたであろう。台座は後補でユーモラスな邪鬼があてられているが荒々しい奥州にある中尊寺にふさわしいのは岩座であろう。そのような想像をめぐらしながら会場をあとにした。
2024年3月10日日曜日
特別展「中尊寺金色堂」⓸(六地蔵)
阿弥陀三尊の次は左右に分かれている六地蔵を見た。お寺では阿弥陀三尊の方を向いているので奥の地蔵菩薩が見えにくいが会場ではガラスケース越しだがしっかりと鑑賞できた。最初の印象ではどれも同じように見えたが、自宅に帰って図録をみるとそれぞれ個性があるつくりとなっている。1089ブログでもあごの向きに注目し「左列内側に展示している前方の像はグッと顎を引き、中央の像はスーッと正面を見据え、外側に展示する後方の像はクィッと上げます」またこの六地蔵と二天像は阿弥陀三尊のころより頭部小さくつくられており、阿弥陀三尊とはあきらかに時代がことなり木の材質も違うものでつくられており、いつの時代に移動したかはわからないが地蔵菩薩に袈裟の内側に内衣と腹帯をのぞかせるのもあたらしい感覚で阿弥陀三尊より一世代あとの時代の製作を想像させることから、西北檀と入れ替わったという説がある。いずれにしても世界遺産であり国宝だと強く感じた地蔵菩薩であった。
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