2025年11月10日月曜日

特別展運慶~祈りの空間ー興福寺北円堂⑥(北円堂増長天)


 引き続き、半蔵門ミュージアム山本館長の講演の報告だが、残り15分になり急いで四天王の話となった。現在中金堂にある四天王(2017年3月まで南円堂)は持国天・増長天は2メートル余り、広目天・多聞天は2メートル足らずのカツラ材寄木造でかつて康慶作不空羂索観音に随侍し、当時の康慶一門の作と見られていた。四天王が北円堂像説の根拠も示され、用材がカツラで弥勒・無著・世親と共通、身色が興福寺曼荼羅図の北円堂四天王との類似、台座の八角框と弥勒三尊台座八角框、八角須弥壇、北円堂の八角円堂との形の符号を挙げている。さらに、せまい須弥壇上に大きな四天王を配置する工夫として、上下への視線を強調する姿勢、邪鬼がいない小さな台座、奈良時代の唐風創建像の再現として大袖をあらわさない、衣の裾をあらわさない、目を彫りあらわした瞳を高くする(異材を嵌め込んだ塑像のイメージ)、おおげさな怒りの表情、大きな動きの割に軽やかな足元の静寂感をあげている。目が高く表現されているのはニコナマ美術館でも確認できたが天平時代の当初像には塑像に黒曜石などの異材が嵌め込まれていることの再現だとわかる。中国宗代図様の意匠をとりいれており、上の写真でもわかるように胸甲の鬼面や広目天冠台の雲文風の唐草文など和風と異なるはなやかさを表している。山本館長の講演では四天王が北円堂にあった説の説明に終始するだけに終わったが、持国天が湛慶・増長天が康運・広目天が康弁・多聞天が康勝とそれぞれ個性がある。山本館長も言い足りなかったのか、Xに増長天のみ月代(さかやき)をつくっているとのコメントあり平安貴族のひたいから江戸時代の侍まで流行った髪型があらわされていることを追記しておこう。次回は無著・世親について。

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