2025年6月14日土曜日
特別展超国宝②(法隆寺百済観音)
特別展超国宝展の最初に出会えった仏像がこの法隆寺百済観音だ。会場に入ると平日のためすいていたこともあるが、じっくり仏像に対することができた。まずその高さに驚いた。百済観音像の細く天に向かって伸びるような姿は、我が国の仏教美術において極めて特異な存在である。腰高で起伏の少ない身体表現は白鳳美術に影響を与えた中国・北斉時代の石彫にも見られるが、それだけでは説明できないプロポーションである。若い頃中国大同で北魏仏をたくさん見たが、百済観音も日本で制作された木彫仏だがどこか大陸的な雰囲気を持つ仏像だ。仏典に述べられる観音菩薩の姿は「観世音菩薩を観るべし。この菩薩の身の長、八十万億那由他由旬なり」とある。那由他は極めて大きな数量を示し、由旬とは古代インドの尺度で十五キロメートルほどと考えられる。それが八十万億集まった身長というのは想像を絶する。子供のころ夢中でみていた「西遊記」でも悟空がきんとん雲に乗って雲の上の観音様に会いに行くシーンがあったがそのことだったと気づかされた。百済観音像の光背を支える支柱基部に山岳文様があり世界の中心にある補陀落山が小さく画くことによって「那由他」を表現していることがわかったのが今回の収穫だった。この超国宝展で一番印象にのこった仏像はと聞かれれば迷わず百済観音と答えるであろう。
2025年6月7日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅⑤(安楽寿院の阿弥陀如来)
13年ぶりに鳥羽の地に降り立った。13年前の秋に京都非公開文化財特別公開が行われ京都に着き真っ先に向かったのが安楽寿院だった。ここは鳥羽上皇終焉の地で広大な鳥羽離宮があったところだ。その中心がこの安楽寿院だ。13年前の記憶をたどりながら寺院についた。お目当ての阿弥陀如来は外の収蔵庫にあった。記録によると鳥羽上皇が祀られている三重塔で供養当日から法華三昧を行われた。阿弥陀を本尊に据えて、法華三昧を行うという、「法華経」による減罪を経ての極楽往生祈願がみられる。定印を結ぶ等身の座像、檜材製で漆箔を施す。光背の身光圏帯内区や光脚、台座の蓮弁の一部、上敷茄子・華盤・下反花などが当初で、華麗な浮き彫り文様が施されて美しい。仏師は円派の長円・円信・賢円かさだかでないが、当代正系仏師の定朝様踏襲と装飾への意欲を示す典型的作例であり、その由緒とも併せてもっとも院政期的一作と見なされる。外に出たらいい天気で新緑に映える三重塔(今は多宝塔)が美しかった。恋多き鳥羽上皇に思いをはせて北向山不動院に向かった。
2025年6月1日日曜日
北総四都市江戸紀行(荘厳寺十一面観音)
本日、日本遺産北総四都市江戸紀行のひとつ佐原にある荘厳寺に仏像クラブで出かけた。JR東日本「北総春のキャンペーン」の一環で、臨時列車特急あやめ祭りで佐原の駅に降り立つと予想外の強風と大雨に見舞われたが、電話で事前予約していたので、収蔵庫の中に入れてもらえ、威厳ある十一面観音の立像に対面した。中には像高3メートル24センチの十一面観音で、平安時代の制作で香取神宮別当寺金剛寶寺の客仏。重文に指定された。明治の廃仏毀釈のおり横倒しになったため化仏の十一面がない状態で引き渡されたとのこと。台座と光背も後補だと留守番の寺男の案内人が教えてくれた。全体として破損が少なく、抑揚の少ない穏やかな像形は藤原彫刻の様式を伝えている。本堂も案内してもらったが、秘仏の不動明王と現代の「首だけ不動」等を見てお寺をあとにし、地元の酒蔵で角のみでおいしい日本酒を試飲し、駅前の鰻や「山田うなぎ店」でうな丼をいただき嵐の佐原を早々に後にした。
2025年5月25日日曜日
深大寺元三大師大開帳
昨日(5月23日)、調布の深大寺に行って元三大師大開帳に参加した。深大寺通りをお目当てのそば屋を探して歩き、5分ほどで山門の近く「蕎麦きよし」で、江戸前天せいろで腹ごしらえをしてから、参拝に向かった。平日にもかかわらず、境内は多くの参拝者で賑わっており元三大師像のチケットを購入するのに1時間もならんだ。やっとチケットとガイドブックを購入し、元三大師の中へ。中は薄暗かったが令和3年東博開催の「最澄と天台宗のすべて展」でみた良源(元三大師)の2メートル近い巨像と対面した。今回は奈良博の展示から帰ってお厨子に入る前の貴重な御開帳とのこと。少人数一列に参拝し、深大寺の僧侶の読経の流れる中願い事をとなえて無事参拝を終えた。後から知ったのだが民放のテレビのニュース番組で深大寺がとりあげられたのでこの混雑となった。ガイドブックによると鎌倉時代後期に鎌倉幕府の関与で日本最大の肖像彫刻が造られたとのこと。鎌倉時代末期は元寇で日本中が元異国調伏を行った時期。そのような目的で造られた像だが、実際の元三大師良源は平安時代の比叡山中興の祖。「最澄と天台宗のすべて展」図録コラムによると元三大師は寺院経営のうえでも豪腕をふるった僧侶であった。没後も比叡山内にあって内外を監視しているとか観音の化身であり不動明王の化身であるという信仰を生み出し、鬼大師、角大師、豆大師という伝説まで生まれた。今回の3年もの修理の中でわかったのが複数のネズミが像の中を住処として、中には聖教や書簡もあった。クリーニング解体剥落止め、材質強化を施したとのこと。2027年には深大寺の釈迦如来像が収まる白鳳堂が完成した暁には、また深大寺を訪れたいと思う。
2025年5月17日土曜日
令和7年新指定国宝・重文展(清涼寺如意輪観音)
京都の旅行の日程に新指定国宝・重文展を組み込むこととなりあらためて出展目録を見ると東博で開催されていたのと同じく一部の写真パネルの仏像を除いて、ほぼ全部の仏像がここ京都文化博物館に集結していた。3月発表の時から注目していたのがこの清涼寺如意輪観音だ。これまで鑑賞者を驚かせるような作風の仏像がかならず混じっているのが国宝・重文展の魅力だが高野山の深沙大将しかり奈良生駒寶山寺の制吒迦童子にもぐっと来た。今年のぐっと来る仏像は清涼寺如意輪観音だ。等身の如意輪観音で清涼寺の前身寺院・棲霞寺の遺構である阿弥陀堂に伝来した。六臂で右膝を立てて座る姿であらわされる。ヒノキの一木造で、奥行きの深い側面観に彫刻としての存在感があり、張りのある肉身部の表現や多臂の複雑な像容を破綻なくまとめあげる点等には仏師の力量がうかがえる。私がこの仏像を初めて見たとき、その特徴的なお顔に圧倒された。目がうつろでこちらを向いているような、なんとも不思議な表情をしている。図録解説では髻を高く結い上げ、その毛筋を細かく刻み柔らかみをもたせてあらわす点や、下膨れの顔の輪郭、大径木を用いて頭体の主要部分を一材から彫出す造法から制作年代は十世紀前半に置かれる。施主博物館醍醐天皇第四皇子・重明親王で、妻の一周忌法要を棲霞寺でおこなわれた記述があり関与した可能性があるとのこと。古寺に残る仏像にスポットライトあたった瞬間を目の当りにし、博物館の図録を購入し会場を後にした。
2025年5月10日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅④(喜光寺の阿弥陀如来)
奈良で大きな展覧会があるときは奈良市周辺のお寺に訪問することが通例となっているが今年は初訪問の喜光寺に決めた。特別展「超国宝」を鑑賞する予定にしていたのでどこのお寺を訪問するか検討していた私に「喜光寺の本尊光背修復が6年ぶりに終わった」とのニュースが舞い込んだ。光背の大部分が破損して痛々しかった阿弥陀如来だが、薬師寺で保管されていた光背の一部と新たに金箔を塗り直して復元した光背で4月に開眼法要が実施された動画も見て実物を見たいと思い急遽訪問することとなった。新幹線・近鉄特急「あをによし」と乗り継ぎローカル駅「尼ヶ辻」に降り立ち15分ほどで喜光寺についた。平日なので参拝客がほとんどいない境内を歩き拝観料を払って本堂に向かった。喜光寺は奈良時代に大仏殿創建に尽力した行基創建で当初のご本尊は阿弥陀如来であったか薬師如来かは不明で今の本尊は平安時代に造像された。本堂に入ると像高230センチの小ぶりだが立派な光背に七仏を拝し、金泥色に金箔された阿弥陀如来が祀られていた。近くには以前の江戸時代中期に制作された光背の六分の一しか残っていない写真も公開された。100年ぶりの光背の修復は美術院国宝修理所が行ったとネットに記載されていたが平安時代の阿弥陀如来の光背として違和感のない、いい仕事していると確認できた。喜光寺は阿弥陀三尊以外はほとんど仏像は残っておらず、平成22年制作のブロンズ製仁王像や平等院をまねた地元有志の制作の雲中供養菩薩など地元愛にあふれた素敵なお寺だった。静謐な境内を後にして奈良の喧噪に向かった。
2025年5月4日日曜日
奈良大阪京都仏像の旅③(北向山不動院の不動明王)
本日最終日竹田から安楽寿院に12年ぶりに参拝し、初公開の鳥羽天皇勅願所北向山不動院に向かった。12世紀このあたりに東西約1.7km、南北約1.1kmの、わが国最大規模の広大な鳥羽離宮があり梅の名所城南宮もその敷地で鳥羽天皇稜南端に北向山不動院があったとのこと。奈良仏師康助の現存する唯一の不動明王が公開されるので期待していた。そこには明らかに玉眼の不動明王が祀られていたのには驚いた。鳥羽上皇の命でわざと北向きに祀られていたが、平安時代の後期、玉眼の初期の例としては特筆に値する仏像だろう。山本館長も「12世紀半ばの作だというのに、鎌倉彫刻を先取りしたような斬新な作風が見られる」と紹介している。康助は孫ではなく弟子の康慶を後継者に指名し慶派創設の立役者となったことで知られいる。玉眼は運慶だけの専売特許のように思われがちだが、康助、康慶と引き継がれたものということがわかる不動明王だった。次の非公開文化財特別公開場所の中書島に向かった。
令和7年新指定国宝重文展①
文化庁が京都に移転して今年から国宝重文展は京都で開催されることとなった。たまたま、奈良大阪京都を旅行していたので、本日京都府京都文化博物館に行って来た。京都文化博物館はレンガ造りの旧館と立派な四階建ての本館に分かれおり、開催されているのは本館の二階だった。いつもと勝手が違うが落ち着いて鑑賞出来る空間だ。初めに考古資料と工芸品をみたが、中でも興味を引かれたのが刺繍聖母子像花鳥文様壁掛で中国からの舶来品を高台寺で使用していたがそこにキリストとマリアが織り込まれていた。お目当ての彫刻コーナーでは国宝法隆寺伎楽面や熊本の釈迦三尊など展示していたが、中でも興味を引かれたのが、清凉寺の如意輪観音だ。その虚ろな瞳を今でも思い出す。詳しくは次回以降に紹介する。図録を購入して京都の宿に向かった。
2025年5月3日土曜日
奈良・大阪・京都仏像の旅①(特別展超国宝~祈りのかがやき)
今日から関西三都市の仏像の旅に出ている。1日目は奈良。最近光背が修復され話題となった喜光寺によってから、奈良国立博物館に奈良国立博物館開館130年記念特別展「超国宝~祈りのかがやき」を見に行った。入場に長蛇の列を覚悟してきたが、今日は平日なので並ばず入場できた。入るとすぐに法隆寺の百済観音と向き合えるコーナーになっていた。像高約2メートルは多くの日本人が仰ぎ見る高さだ。高さの秘密については次回にまわすが、感動した。次に印象に残ったやはり運慶の円成寺大日如来だ。この仏像は何回か関東の展覧会でみたが、露出展示でここまで上手く展示しているのは奈良博だけと感じた。最終章の未来への祈りにはピンチヒッッターとして法菩提願徳寺の菩薩半跏像と向き合えるコーナーになっている。平日ながら見所も多く混んで来たので二時間はかかった。博物館側の配慮たが、文化の灯を次の時代につなぐ思いを込めた展示となっている。思いは充分伝わったと思う。グッズ販売で百済観音Tシャツと図録を購入して会場をあとにした。
2025年4月29日火曜日
東京国立博物館本館11室(彫刻)リニューアル
26日に東京国立博物館本館11室(彫刻)がリニューアルしたので、U案内人と友人3人で行ったきた。お目当ては最近東博の館蔵品になった金剛力士阿形・吽形だ。令和4年の特別展「国宝東京国立博物館のすべて」で公開されたのだが、参加しなかったので、U案内人も私も初見になる。東博入口の自動販売機で東博コレクション展(旧総合文化展)のチケットを購入し東博本館に向かった。11室の入口にはいつものガラスケースはなく、像高3メートル近い平安時代の金剛力士が展示されていた。東博が配っている冊子によれば滋賀県栗東市蓮台寺の門に安置されていたもの。室戸台風で門とともに倒壊し部材だけが残されていたものを、彫刻の修理を手掛ける美術院が研究資料として購入し本格的修理をへて東博が令和4年に所蔵し、公開したとのこと。この仏像を見て感じたのが見る方向によって印象が違うことだ。阿形は私が撮った写真では前に踏み出した足が強調され力強いが、横から見ると、振り上げた左腕から外側に張り出した腰を経て、力を抜いて遊ばせた右脚にいたる各部のつながりがスムーズで、しなやかな身のこなしが優雅な印象を与えた。U案内人は強烈なまでのダイナミックな筋肉美で運慶につながりを感じたようだが、冊子によると背中は思いのほか肉付きがよく柔らかみが感じられると紹介している。いずれにしても興味深い仏像だった。
2025年4月26日土曜日
京の冬の旅2025⑤(平等寺の薬師如来)
4時ギリギリ10分前に平等寺についた。ちょうど案内人が本日最後の説明が始まるところだった。まず皆さんを本尊薬師如来のある収蔵庫に招いた。以前も平等寺には京都非公開文化財特別公開のおりに拝観しているので今回二回目の訪問となった。案内人はお寺の創建に関わる橘行平について語り始めた。村上天皇の命で因幡の国(現在の鳥取県)に赴いた橘行平が、夢告により海中から薬師如来を引き上げ、草堂を建てて供養したが、行平が京都へ戻るとその薬師如来が行平のもとに飛来。行平はこの像を安置するため自邸を改造して「因幡堂」とした。その後歴代天皇が「薬師詣で」に参じ高倉天皇から「平等寺」の名前を下賜されたとのこと。案内人は行平とお薬師さんとのやりとりをコミカルに語る名調子で参拝者を喜ばせた。案内人が質問形式で厨子の火災から逃れる滑車を説明し場を大いに盛り上げた。別のお堂には都の東西南北の神社仏閣を経て、ここ因幡堂に祀られた二体の十一面観音や如意輪観音、清凉寺式釈迦如来などみどころが多い。「因幡堂縁起」絵巻の展示を見て戻ると丁度時間になりお開きとなっていた。今回の京の冬の旅2025で最後に訪れたのが平等寺でよかった。ひとつひとつのお寺にストーリーがあるのだなと感じながら四条のお菓子や「鼓月」におみやげを買いに向かった。
2025年4月19日土曜日
京の冬の旅2025④(六角堂の毘沙門天)
地蔵院は参拝客が多く予定より時間がかかったので、六角堂と平等寺を急いで見ることになった。阪急電車で烏丸駅につき阪急電車のお兄ちゃんに道を聞き六角堂に向かった。洛陽三十三所観音霊場でもある六角堂は正式名称は紫雲山頂法寺といい、飛鳥時代の用明天皇2年四天王寺建立資材を探しに京都を訪れた聖徳太子が夢告によって堂を建て念持仏を安置したのが始まりと伝わる、京都屈指の古刹。JR京都ディスティネーションキャンペーンおなじみ案内人はお堂の中には入らず、外で公開場所だけ案内してくれた。なかに本尊前立伝弘法大師作如意輪観音鞘仏・毘沙門天・地蔵菩薩は拝観できたが、建礼門院徳子念持仏如意輪観音は見逃した。毘沙門天については2020年京都国立博物館で開催された特別展「聖地巡礼」で拝観しておりその図録の解説によると、「現状では香煙によるものか、表面が黒ずんだ古色を呈しているが、もとは彩色が施されていた。また、よろいの端正な彫りもみどころである。太造りながらも穏やかな作風からみて、制作年代は十一世紀のおわりから十二世紀のはじめころにかけてかと考えられる。腰高なプロポーションで、わずかに腰を左に入れる。(中略)個人的には円派仏師の作、それも円勢周辺の仏師によるものとみたい」本尊を池坊ビルで見てから六角堂を出たのが3時半を過ぎており、急いで平等寺に向かった。
2025年4月13日日曜日
特別展「ハッケン!上田の仏像」④(前山寺大日如来)
特別展「ハッケン!上田の仏像」のパンフレットを手に取ったのが、昨年東京国立博物館のことであった。そのパンフレットで気になった仏像がこの前山寺大日如来だ。人目見て慶派の仏像ではないかと思ったが、まさか信州上田まで確かめに行くとはその当時は思わなかった。2017年に信州の仏像を見る旅をした際、別所温泉の近くの前山寺を訪れ、立派な五重塔が印象的なお寺だった。前山寺本堂に本尊として安置される金剛界の大日如来。前山寺は弘法大師空海の創建と伝わる信州の古刹。高髻を結い、腕前で智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で条帛を懸け、折り返し付きの裙・腰布を着け、右足を上にして結跏趺坐する。高髻を結い、毛筋を細かく刻んだ頭髪、やや胸を引いて両腕前に空間をとった姿勢、両腕前に深く刻んだ円弧状の衣紋など本像の形式や表現は、鎌倉時代前期の慶派の大日如来の系譜を引くものといえる。現地でこの仏像を見て初めて運慶の大日如来を見た感動がよみがえった。両大腿部脇に腰布のたわみをつくる表現は石山寺大日如来像など快慶作品に特徴的にみられるものであり、耳の形状は快慶の弟子行快のそれに近い。表面を金泥塗り切金文様仕上げとし、像内は黒漆塗りとするなど、きわめて入念に仕上がられた本像は、上田の地に伝わる鎌倉時代の優品のひとつとして評価すべきものなのだろう。上田市仏像悉皆調査に立ち会った萩原玉川大学教育博物館准教授ならではの図録解説であった。玉川大学教育博物館でも上田の仏像を紹介する展覧会開催があったら行きたいと思った。
2025年4月4日金曜日
京の冬の旅2025③(清水寺随求堂大随求菩薩)