2023年11月25日土曜日

特別展「国府津山 寶金剛院)①

11月19日(日)のことになるが、U案内人と男性会員1名の3人で久しぶりに鎌倉国宝館に向かった。U案内人が北鎌倉から歩いて来るとのことで、駅前で昼食のアジフライ定食をいただいてから特別展「国府津山寶金剛院」のチケット購入して入場した。併設して開催されている「鎌倉の仏像」から見ていった。中心に展示されている旧大倉薬師堂模刻像の薬師三尊と十二神将は変わらず素晴らしかったが、四方のすみに石仏等が置かれていた。特別展の方は中央のガラスケースに仏像があり、周りを絵画が囲む構成となっていた。平安時代の本尊大日如来は像高38センチ余りで小さく焼けたため一部溶けたあとも見られる関東最古の銅造の仏像だった。他の展示品も5センチ以下の肉眼では見えずらい仏像となっており、展示品と図録見本を見比べての鑑賞となった。よくもこのような小さい仏像が残されたと感心した。絵画で面白かったのは江戸時代の作で南蛮の子供を描いた作品でセミナリオにいそうな赤い修道服を着た子供で法金剛院では童子は文殊菩薩と同体とみなされていたとうかがわれたとのこと西洋画と仏教寺院がここに伝来するゆえんをうかがわせると図録は解説していた。全体的に地味だが、生真面目な山本館長の影響がうかがわせるしっとりした展覧会だった。帰りに鎌倉のコーヒー店でコーヒーをのみ紅葉の見ごろがまだ早い鎌倉をあとにした。


 

2023年11月18日土曜日

特別展『聖地南山城』⑥(浄瑠璃寺九体阿弥陀)

 

今年も多くの博物館の特別展に出かけた。正月2日から東博で「大安寺の仏像」の写真を撮りまくり、3月には東福寺展で仏手や二天像の大きさに驚かされ、7月に奈良で「聖地南山城」の懐かしい仏像に再会し、9月に東京で南山城の仏像の展示パネルに酔いしれ、10月に神奈川歴博で足柄の仏像の魅力にはまった。来週今年最後になるであろう鎌倉の展覧会に行くが、質・仏像の充実さでピカイチなのが7月に行った奈良博特別展「聖地南山城」であろう。この展覧会は副題に「浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展」とあるように2018年より5ケ年計画で実施された九体阿弥陀の保存修理で前回の修理から110年ぶりの大事業であった。その最終年度にあたる今年に九体阿弥陀その1とその8が寺外初公開されるとのこと。展覧会場に2体の阿弥陀如来が並んで出展されておりわたしにはベテランの阿弥陀と若者の阿弥陀如来に見えた。解説によるとその8は、はっきりした顔立ちと充実した体つきが特色。九体阿弥陀にはそれぞれ特色があり一統率下における分担製作とは考えにくい。像高が一定だから統一した規格のようなものがあったのではないか。あらためて浄瑠璃寺を訪れ、修理完成した阿弥陀如来を見てみたいと思った。



2023年11月6日月曜日

大阪奈良仏像の旅①(河内・金剛寺の大日如来)


今日(11月3日)から大阪奈良仏像の旅に出ている。今回の旅の日程をきめた、天野山金剛寺の御開帳に来ている。バス停を降りてすぐ金堂に向かう。格子ごしかと心配したが、遠くからだが、仏に向き合えるのはありがたかった。仏像は中尊が大日如来脇侍が不動明王と降三世明王の三尊形式でどうやら円珍が請来したお経に書いてあるとのこと。中央の大日が定朝様式の優美なお姿、脇侍が慶派の行快作と五十年かけて完成した三尊形式だった。大日の光背には曼陀羅の37尊が、蓮華座の下には七体の獅子が置かれている。明日は奈良で、玉眼が初めて使われた仏像を拝観する予定だ。

2023年11月4日土曜日

大阪奈良仏像の旅②(福智院のプリズム地蔵)


奈良最後のお寺は御開帳をしている福智院にきめた。奈良バスナビの窓口で時刻を教えてもらいバスで福智院町に向かった。窓口にテレビ見仏記御出演の奥様がいて日本最大のお地蔵さまの説明をしてくれた。慶派の康慶が主導して作らせた像高272センチ木造截金文様の鎌倉時代の仏像。光背に地蔵菩薩坐像6体と十王像2体。周縁部に地蔵菩薩立像(後補)560体で567体の5憶7千万年後にやってくる弥勒秘数そのものであった。さらにいえば光背の両脇の最も下には閻魔大王、太山王という死者の国の王たちがいた。お昼すぎに伺ったので、お地蔵様の光背に日の光が当たり、プリズムが虹色に輝いていること(学者先生が3年前に指摘)を一生懸命説明してくれた。福智院は二回目だが、訪れる時間帯により表情を変える仏像に驚かされ、お寺を後にした。

2023年10月29日日曜日

特別展「足柄の仏像」②(大磯六所神社の男神立像)


 箱根神社の素晴らしい神像群を見たあと第3章「足柄の山々に抱かれた仏たち」で足柄地方の人々により守り伝えられた仏像のコーナーに大磯六所神社の男神像が立っていた。像高は74センチと小さめで片腕がなく、腕先・足先もない姿だがなんとも雰囲気がある神像に惹きつけられた。神野ノートの神野学芸員の解説によると発見当初は両腕ともに失われていたが、右手の材と背板の下方が社殿より見つかった。右手は垂下することから、右手の持物(宝棒や戟)を執る姿であったと考えられる。眉根を寄せ瞋目(いかりめ)とする。わずかに三道相をあらわす。着甲し、背面に獣皮をあらわし、天衣・袴・短裙を着ける。前楯の帯喰は眉根を寄せ開口し帯を上下の歯で噛む。朝日観音堂の毘沙門天と製作技法が似通っており相模国で仏像・神像を造っていた仏師工房のような存在を想定してもよいかもしれない。とのこと。はかなげに見えたのは壊れていたためだと思うが、「憂愁に満ちた」青年というか眉根を寄せて苦悶する立ち姿に見えた。ネット情報によると神社ではスサノオノミコト、女神像をクシナダヒメにあてているとのこと。神奈川にも魅力的な神像が近くにあるものだと気づかせる展示だった。