2022年10月23日日曜日

特別展「最澄と天台宗のすべて」⑫(法用寺の金剛力士)

 

「最澄と天台宗のすべて展」は昨年の10月から今年の5月まで東京・九州・京都で開催されたが、私は東京・京都に参加したため紹介する仏像が多い。こちらの会津、法用寺の金剛力士は会津に行ったとき見そびれた仏像のひとつだ。「最澄と天台宗のすべて展」東京会場の東博第二展示室には像高2メートル以上の巨像が多く、金剛陸士の220センチぐらいの巨像だ。法用寺は奈良時代創建の古刹で天台宗ゆかりの地に立つ。ダイナミックな怒りの表現を伴う金剛力士像の中では威嚇する身振りや顔の表情は控えめで、平安時代後期の作風をよく示している。東北地方で仏像の用材でよく用いられるケヤキの一材から頭体幹部が一木造りで作られている。現在、東博開催中の特別展「東京国立博物館のすべて」に出展されている東博の金剛力士像は木の年代測定によって平安時代後期と作とみられている。地域性と同じ一木造の木像から平安時代後期と推察されるとのこと。会津に出会えなかった仏像に会えた喜びをかみしめ会場をあとにした。

2022年10月15日土曜日

「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」④曹源寺十二神将

 


特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」でも金沢文庫運慶展のときと同じく曹源寺十二神将が展示されていた。運慶は浄楽寺の仏像を造ったあと東大寺造仏までの7年間の足跡が不明であることで知られているが、仏の瀬谷さんの考察では永福寺の薬師如来と十二神将を鎌倉殿の命で造っていたという。曹源寺十二神将はそのコピーだという。当時は彼ひとりの独走の説といわれていたが、東博ミュージアムに奥建夫氏(当時文化庁)の説が出て俄然自信を深めたようだ。十二神将のうち巳神だけが頭ひとつ大きく造られており、出来栄えも突出している。誰か巳年生まれの貴人の守護神的意味があるだろうと思われていたが、奥氏は中世には生まれた年より生まれた時刻の干支が重視されていたこと、その貴人が源実朝に他ならないと指摘した。鎌倉殿源実朝の十二神将だという。調子にのった瀬谷さんは永福寺の出土した鬼瓦から永福寺総合プロデュースは運慶だと断言する始末だ。真偽は別としてもそう考えると楽しい展覧会だった。


2022年9月23日金曜日

東林院の弥勒菩薩

 

8月23日に南淡路からタクシーで徳島に移動し、途中車中から鳴門の渦潮を忙しく観光しながら、徳島駅に向かった。ローカル線なのでタクシーを乗り換え東林院に向かった。このお寺を知ったのはみうらじゅん・いとうせいこう出演の新テレビ見仏記で訪問したからだ。観光のお寺ではないが恰幅のいいご住職が快く迎えてくれた。東林院は四国八十八ケ所第一番札所霊山寺の奥ノ院という位置づけだが訪れる人もなく住職に何で知ったか驚かれた。東林院は天平時代行基により創建されたとういう伝説があるものの、平安時代に空海が訪れ真言密教の寺として再興された寺院とのこと。客仏の弥勒菩薩は平安時代後期の寄木造の像高1メートル足らずの座像だ。印相は手のひらをこちらに向ける説法印の変形か、金箔もよく残っている。絵葉書がないので住職に断って写真撮影させていただいた。ご住職の好意で便がいい駅まで送っていただき、お礼を言ってお寺を後にした。おかげさまで徳島にも早くつき、昼食の徳島ラーメンをいただき、午後の井戸寺に向かった。

2022年9月18日日曜日

特集「チベット仏教の美術」


 9月4日に東博平成館に特集「チベット仏教の美術」を見に行った。東博所蔵のチベット仏教美術を見るのは2017年の東博東洋館依頼となったが、前回は仏像中心であったが今回は仏画・工芸品・書籍の優品と河口慧海の遺族から寄贈されたアジア各地の仏教美術とともに紹介する東博創立150年記念特集となっている。会場に入るとお馴染みのチャクラサンヴァラ父母仏立像の背後にガルバ・ヘーヴァジュラ十七尊曼荼羅が展示されており、インフォメーションでもらったパンフレットの表紙のような心憎い演出がされていたが、前期の曼荼羅と入れ替わっており残念だった。お馴染みの清の乾隆帝が愛した除蓋障菩薩坐像も展示やチベット仏教の胸がふくよかな女神像白色ターラー菩薩坐像に夢中になった。工芸品も見る価値がある展示が多くなかでも盤 白色如意宝珠マハーカーラは延命長寿や繁栄をつかさどるマハーカーラを景徳鎮で焼き上げた逸品となっており思わず引き込まれた。河口慧海請来品のネパールの菩薩立像などもあり小展示室なれど見ごたえ十分な展示となっている。多くの館蔵品を携帯のカメラで撮影して東博をあとにした。

2022年9月3日土曜日

特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」④(満願寺の観音菩薩)

 

運慶 鎌倉幕府と三浦一族展の中ほどに像高224センチ余りの巨大な観音菩薩・地蔵菩薩が見えた。これが満願寺の観音・地蔵菩薩だ。仏像クラブでは何度もお寺の収蔵庫で拝観したが、展覧会で見るのは東博運慶展以来久しぶりだ。満願寺は三浦一族の佐原義連(よしつら)の創建だが金沢文庫の仏の瀬谷さんは義連創建にその大きさから疑問を呈している。満願寺の菩薩像は周八尺像で通常の丈六像の4分3くらいのサイズ。和田義盛が建てた浄楽寺の本尊ですら半丈六であり、北条時政の願成就院の本尊も半丈六。それは丈六仏の造立は幕府=源頼朝が独占しており、造仏においても鎌倉殿を頂点とした序列化が図られていた。このように考えると満願寺の菩薩像を造ったのは頼朝その人であるという答えが自ずと導き出されると断定している。吾妻鏡にも頼朝のが三浦願矢部郷に一堂を建立したという記事から木造のあった三浦義明のために追善像として頼朝が創建したとのこと。また地蔵・観音の脇侍の組み合わせは珍しいが松崎吉田寺の例を挙げている。つまり満願寺にも丈六の巨大な阿弥陀像があったということになり想像が膨らむ。U案内人も一番印象を受けたらしくしばらくたってからも満願寺観音・地蔵菩薩のことを熱く語っていた。