2025年10月2日木曜日

佐渡・新潟仏像探訪記④(山寺薬師)


 佐渡・新潟仏像探訪最終日の20日はお彼岸の中日で上越市清里区にある無人の山寺薬師を訪ねた。上越妙高駅からタクシーに乗り、地元のタクシードライバーも行ったことない山寺薬師に向かった。ここら辺は地滑りが多く災害の人柱供養堂もある悲しい歴史があった村のようだ。タクシーは急な参道の下で停まり、参道脇の道祖神に励まされながら、山寺薬師本堂が建っている中腹の広場に出た。本堂らしき建物は中に入れるようになっており、ガラス越しながら、なかの仏像を拝観できた。像高140センチの室町時代の3体の座像を拝観した。入ると流れるアナウンスやパンフレットによると室町時代に地元の三善氏の寄進により再興され、檜の寄木作り京仏師筑後法眼の作とのこと中央が薬師如来、左に阿弥陀、右に釈迦如来を安置されている。写真を撮影しお寺をあとにした。新潟にはまだまだあまり知られていない仏像が多くあるようだ。直江津の図書館に旅の帰りに寄ったが、「にいがた秋の文化財一斉公開」(2025年10月開催)中越の小地谷にある妙高寺愛染明王など魅力的な仏像に出会いにまた訪れたいと思った。

2025年9月26日金曜日

佐渡・新潟仏像探訪記④(長谷寺の五智如来)


 佐渡に来て最初に訪れたのが長谷寺だった。佐渡は運転手の話によると大佐渡・小佐渡にそれぞれ山があり真ん中に国中平野が通っておりお寺は山側の麓に建っているとのこと。長谷寺は小佐渡の麓に立つお寺で、事前に電話連絡し五智堂の五智如来を拝観したい旨伝えてあったが、つくなりご高齢の住職から再度五智堂も拝観したいか確認があり,「ぜひ拝観したい」と申し上げる一幕もあった。国指定重文の十一面観音立像3体は秘仏のため見られないので写真で拝観した。次の部屋には1メートルに満たない素朴な十一面観音立像があり、上唇がふくれ、首がこころもち前に出したユーモラスな風貌だった。横には矜羯羅童子。平安初期の作という童子は、頭に頭巾をかぶり、崩れたバランスをかろうじて保ちながら立っていた。表情はほとんど消えかかっているが、優しい女性的な印象だ。住職も制多迦がないことをしきりに残念がったが、見仏記には「制多迦も出れば、即国宝だと言うんですが」と誰かが過大な期待をもたせたみたいだ。事前に住職から五智堂の階段は200段と聞いていたが、建物内部からあがると石段はたいしたことなかったが履き物を借りる段でどれもまともでなくスリッパで石段を上がるはめとなった。住職に扉を開けてもらうと中に金ピカの五智如来が安置されていた。五智如来は江戸時代の制作だがお堂は全国でも数少ない大塔形式の内陣で貴重だ。大日、薬師、宝生、阿弥陀、釈迦。オールスターはどれも平たい顔をし、一方向を向いている。見仏記に書いてあった大日の倒れた光輪はかたづけられたらしくなかった。長谷寺は全体を通してさびれた感じだった。後を継ぐ人もなく自費で修繕しているという涙ぐましいお話を聞くと今見といてよかったと思う。ご朱印をいただきお寺をあとにした。佐渡最初の寺からアドベンチャーな体験ができたが今のお寺がかかえる問題を考えさせられる訪問だった。


2025年9月21日日曜日

佐渡・新潟仏像探訪記①(佐渡国分寺の薬師如来)

本日(9月18日)から佐渡・上越の仏像を巡っている。「日本美術全集~密教寺院から平等院へ」はあの編集者泣かせの伊藤史朗氏だが、佐渡国分寺の薬師如来の写真も掲載されていた。どっしりとした体つきもさることながら、豊かな頬と盛り上がった頭が男性的で、一度見て見たいと思っていた。若い頃愛読していた見仏記に誘われて佐渡を訪れたが、国分寺を訪れたのは今回が始めてだった。収蔵庫を若い僧侶に開けてもらうと像高1メートル半弱の薬師如来座像が安置されていた。近くで観るとその保存状態のよさに驚かされた。螺髪はほとんどきれい残っており金箔の残量も多く、手指足指もかけることなく残っている。そのため指の間の水掻きがはっきりわかって平安前期の仏像の特徴をよく示している。衣からはみ出た足も大きく父性を表している。背無為与願印の右手平が力強い。いとうせいこう氏によると額からすっと伸びた鼻筋や、くっきりした眉はまさに薬師で、ハンサムな力士を連想させるとのこと。御朱印を若い僧侶に頼んでいる間しばし収蔵庫で一人で拝観した。この仏像は十四世紀に雷火で七重塔を失い唯一運び出されたのが、薬師如来だった。千年の佐渡の歴史を見ていた薬師如来に感銘を受けお寺をあとに宿に向かった。

佐渡・新潟仏像探訪記②(明静院の大日如来)


9月19日は佐渡を後にしてフェリーで直江津港に向かった。直江津港からタクシーで一路、岩殿山明静院へ。岩殿山は大国主命伝説が残る古くからのお寺で岩殿山の一本道をタクシーで登り、苔むした階段を上ると明静院の大日堂に出た。中にご住職の奥様らしき人が現れ大日堂の中に入れてくれた。拝観料を払い大日如来がおられる収蔵庫の扉を開け拝観した。みうらじゅん氏がへばりついた網戸はなく、奥様によると先代の住職は虫を嫌って網戸を開けなかったが、今は大日堂の入口に網戸をしたため開けて拝観できるようになったとのこと。一安心してて大日如来をみると平安時代後期の寄木造りで宝冠・瓔珞・臂釧・腕釧は江戸時代の後補。大きめな宝冠から垂れる瓔珞は蛇を思わせるように長く膝の上まで達していた。ここに大国主が入ったと感じた。顔は確かに童顔だがいとうせいこう氏が言う眠たげではなく凛として前を向く若々しい青年に見えた。新潟県で初の旧国宝に指定されその後重文となったほど出来映えがよく破綻ない仕上がりは都の仏師の作だろう。見仏記でみうらじゅん氏が「織田無動」言っていた水晶も奉納してあったが、ここから近い糸魚川は昔『越しの国』と言われたことからうなずける。左右の増長・多聞は大日如来の引き立て役に過ぎず明らかに地方仏師の作。御開帳記念に作ったクリアファイルと大日如来の写真を購入してお寺をあとにタクシーに戻った。タクシーの車窓からキバナコスモスを眺めながら秋を感じつつ宿に向かった。



佐渡新潟仏像探訪記③(瑞天寺の聖観音)

9月20日佐渡・新潟仏像探訪旅行で最後に訪れたのが、土居浜から歩いて30分ほどの瑞天寺だ。聖観音は上越市の町村合併記念に開催された「上越の仏像」に出展されており、事前に図録を取り寄せ今回の上越の仏像見たいリストに載っけておいた仏像だった。夜桜で有名な高田から一旦、直江津に出て、信越本線で土居浜へ。瑞天寺の代表の方が、待っていてくれて、早速本堂を横切り観音堂の千手観音と毘沙門天、不動明王に拝観した、事前のネット調査不足で答えられなかったが、逆にお寺の方にいつ頃の仏像聞かれ驚いた。本堂に戻り聖観音を拝観した。こちらは像高151センチでケヤキの寄木造、髻は高く白毫、三道を表す。左手は後補で蓮の蕾のクキを持ち、右手は腕前で指を念じている。行基製作の伝説があるが平安時代後期の作。長らく別の観音堂に安置されていたが、戦国時代に現在地に移され江戸時代に本堂に移されたとのこと。御朱印は頂けませんでしたが、直江津まで車で送って頂き有り難かった。午前中のタクシーの運ちゃんの話では上越市は観光に熱心でないとのこと。観光客誘致に躍起になっている佐渡と大違いだった。今度の旅はほっとけば朽ちてしまいそうな仏像が多かった。全国にはまだまだその様な仏像があるかもしれないのでブログを通じて情報発信したいと決意した旅だった。