2025年11月16日日曜日

亀岡・京都仏像巡り2025①(穴太寺の釈迦如来大涅槃像)

今日(11月14日)から京都亀岡の仏像を巡っている。初日の今日は京都から嵯峨野線に乗り換え、初めて亀岡に降りたった。朝霧がたち込む道をバスで穴太寺に向かう。西国三十三所観音霊場の穴太寺は創建1300年以上の歴史を誇る、丹波屈指の古刹で、日本遺産に認定されている。平日なので、空いている境内の庭と多宝塔を見てから本堂に向かった。観音菩薩は秘仏のため拝観できないが、脇侍の釈迦如来大涅槃像がお目当てだ。釈迦には布団がかけられ、参拝者が自分の痛いところを布団を取って撫でることができる,撫でホトケとなっている。私は肩を痛めており、布団を剥がすのが恐れ多いので、かぶせたまま撫でた。境内は紅葉が盛りで京都より標高が高いので、見頃だった。歩いてバス停に戻り京弁当の食べさせる料理店に向かった。亀岡には驚くほど仏像の宝庫でこれからも紅葉と仏像巡りにまた訪れたいと思った。

亀岡・京都仏像巡り2025②(真正極楽寺御開帳)

亀岡京都仏像巡りの最期は真如堂こと真正極楽寺に決めていた。旅行の日程も真如堂の阿弥陀如来の結願日の今月15日に合わせて決めたほど、旅の目的となっていた。本堂に着いて秘仏拝観の列に並ぶと南無阿弥陀仏と書かれた「ちゃんちゃんこ」を寺男に着せられ、その格好で1段高い厨子の目の前に立たせてくれる法然が始めたお十夜の法用に参加した。真如堂は少し小高い神楽丘に位置し、平安時代初期に藤原詮子離宮の跡地にたてられ、創建当初に制作された阿弥陀如来は立像としては最古と言われている。阿弥陀如来は量感を押さえた柔らかな彫口を持ち、針葉樹の一木造。着衣の表現や白毫がない点は一世紀以上遡る平安時代前期の頃の彫像の表現が採用されている。このことは本尊の造像に古像が参照されたことを強く示唆するものであり、最澄自刻の薬師如来か円仁招来の阿弥陀如来の可能性があると思われる。お寺で配られたパンフレットには慈覚大使円仁作と書かれている。いま盛りの紅葉を見ながらその様ことを考え家路についた。

2025年11月10日月曜日

特別展運慶~祈りの空間ー興福寺北円堂⑥(北円堂増長天)


 引き続き、半蔵門ミュージアム山本館長の講演の報告だが、残り15分になり急いで四天王の話となった。現在中金堂にある四天王(2017年3月まで南円堂)は持国天・増長天は2メートル余り、広目天・多聞天は2メートル足らずのカツラ材寄木造でかつて康慶作不空羂索観音に随侍し、当時の康慶一門の作と見られていた。四天王が北円堂像説の根拠も示され、用材がカツラで弥勒・無著・世親と共通、身色が興福寺曼荼羅図の北円堂四天王との類似、台座の八角框と弥勒三尊台座八角框、八角須弥壇、北円堂の八角円堂との形の符号を挙げている。さらに、せまい須弥壇上に大きな四天王を配置する工夫として、上下への視線を強調する姿勢、邪鬼がいない小さな台座、奈良時代の唐風創建像の再現として大袖をあらわさない、衣の裾をあらわさない、目を彫りあらわした瞳を高くする(異材を嵌め込んだ塑像のイメージ)、おおげさな怒りの表情、大きな動きの割に軽やかな足元の静寂感をあげている。目が高く表現されているのはニコナマ美術館でも確認できたが天平時代の当初像には塑像に黒曜石などの異材が嵌め込まれていることの再現だとわかる。中国宗代図様の意匠をとりいれており、上の写真でもわかるように胸甲の鬼面や広目天冠台の雲文風の唐草文など和風と異なるはなやかさを表している。山本館長の講演では四天王が北円堂にあった説の説明に終始するだけに終わったが、持国天が湛慶・増長天が康運・広目天が康弁・多聞天が康勝とそれぞれ個性がある。山本館長も言い足りなかったのか、Xに増長天のみ月代(さかやき)をつくっているとのコメントあり平安貴族のひたいから江戸時代の侍まで流行った髪型があらわされていることを追記しておこう。次回は無著・世親について。

2025年11月6日木曜日

特別展「金沢八景みほとけ巡礼」①

 
今週の日曜日(11月2日)会期が今月9日までの神奈川県立金沢文庫(県立金沢文庫)主催の「金沢八景みほとけ巡礼」に出かけた。運良く15時からのボランティアによる展示解説があるとの館内放送があったので1階の集合場所に向かった。いつもさりげなく通りすぎた一階展示室から解説がはじまり。鎌倉幕府の執権北条氏一族と源氏・天皇との関わりを示した展示の説明だった。平安時代からの六浦に古代寺院があり、二代執権北条義時の息子実泰が鎌倉時代中頃に金沢(かねさわ)に入り、実泰の息子実時が称名寺と金沢文庫を整備し発展した。展覧会では金沢ゆかりの仏像を一堂に展示、金沢の仏像を通して日本彫刻史を知るというのが瀬谷学芸員(ほとけの瀬谷さん)のコンセプトだった。県立金沢文庫でときどきみかける龍華寺の脱活乾漆造りの菩薩像や運慶作大威徳明王、瀬戸神社の運慶作舞楽面や神像。称名寺の清涼寺釈迦や観音勢至像。仏像クラブで訪問した安養寺の阿弥陀三尊などの見たことがある仏像に加え、清凉寺式と善光寺式が合わさった大寧寺の薬師如来と日光・月光から以前金沢にあったことがわかった静岡河津町の林際寺の地蔵菩薩まで。95周年記念特別展にふさわしい展示だった。ボランティアによる説明もテンポよく歴史から展示品の説明まで充実してよかった。詳しい仏像の説明は次回にするが見応えのある展覧会であった。


2025年11月3日月曜日

特別展「運慶」~祈りの空間ー興福寺北円堂⑤(弥勒如来その二)


 前回の半蔵門ミュージアム山本館長の講演の続きだが、弥勒仏像(弥勒如来)の体躯について、運慶作品の壮年期の願成就院像・浄楽寺像が豊満で量感あふれる姿であるのに対し、北円堂が痩せ身であることにふれ、定朝が確立した和様以前の豊満な体躯から定朝様への回帰を果たしているとの解説だった。顔つきについても滝山寺まであった甘さが影をひそめたのは、宋風をふまえて独自の境地にいき、人間ならざるものとなったとの説明だった。浄楽寺像に見える玉眼を多用した表情がくずれ、人間味がなくなったのは、そのころ日本に入った宋風が影響したのかと納得した。弥勒仏像の胎内仏についても「弥勒仏像の納入品」の章で触れ、昭和9年の解体修理時に内部の厨子に弥勒如来と厨子絵に不動明王・薬師如来・地蔵菩薩と弘法大師空海・鑑真和上があり、奉籠願文は北円堂の勧進上人で正暦寺の僧専心の名前があり白檀の弥勒菩薩を持っており納入したと書かれており、正暦寺の弥勒菩薩を運慶がつくった記録から36体の運慶仏であるという大胆な説が発表された。その後、飛鳥仏との類似性や東大寺中性院・東博菩薩像などに展開されたとのこと。その後心月輪の話、そして衲衣のおなかのでっぱりは心月輪の蓮華を暗示しているとの説を披露した。弥勒仏だけでも、こいだけの刺激的な講演がなされ、聞き応えがあった。次回は四天王について触れる。