2021年10月16日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑪(薬師如来座像)


 法隆寺金堂内に安置されている銅造薬師如来が「聖徳太子と法隆寺」展のために初公開された。金堂内と言えば太子等身大の釈迦三尊が有名だが、その中尊と瓜二つの薬師如来を会場で間近にみたが写真よりその表情のやさしさに驚かされた。三田学芸員によると釈迦三尊と同じ高い台座の上にある像は写真で撮るとどうしても下からの光や横からの斜光での撮影になる。それで表情がきつく見えてしまうのですが、今回の展示では薬師如来に上から自然な光が当たっているので、とてもいいお顔になっていると思いますとインタビュアーに答えていた。薬師如来の光背には法隆寺創建にまつわる縁起文が刻まれており、それによると太子の父用明天皇が病のおり「寺」と「薬師像」の造立を発願したものの、崩御のために実現できず607年に至って推古天皇と聖徳太子が完成させたという。これによれば釈迦三尊より古い仏像ということになるが、銘文自体は鏨(たがね)による線刻の「めくれ」や釈迦三尊の銘文のように整然と書かれているのし対し、薬師像のそれは各行の字数も不揃い。お像のすぐれた出来栄えに比べ、銘文の彫りがその水準に達していないのは不合理で、追刻されたとみるのが自然だと思いますとのこと。そうとは言え創建当初の若草伽藍に釈迦三尊四天王とともにあってその後、移座されたことは間違いないと三田学芸員は答えている。図録解説によると目を見開き、口元に微笑みを浮かべ神秘的な顔立ち、人体の肉感をあまり感じさせない体躯、平板で線的な衣文表現、そして、台座にかかる着衣を文様的に表した裳懸座(もかけざ)など、中国南北朝時代6世紀前半にもとづく形状を示すという。また光背は百済様式で、中国・朝鮮半島の様式を吸収しつつ独自の様式を確立した、飛鳥時代前期の様式美が見られるとのこと。着衣の形状や耳の形も釈迦像に最も近く、制作年代だけでなく、銘文の解釈や伝来、台座との年代差など、解明されているとは言えない問題を抱えた謎多き仏像であると図録は結んでいる。今回のブログを通じて逆に謎が深まった印象を覚えた。

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