平成20年7月に伊豆の願成就院を訪問した。法要が終わり、拝観料を払いお堂の中に入る。中央に阿弥陀如来坐像、右に毘沙門天立像、左に不動明王立像と制吨迦童子立像と矜羯羅童子立像が居られた。自然に合掌できた。阿弥陀如来は、損傷が激しいが、これぞ仏像ニューウェィヴといえる。気流のように渦巻く衣文は平安後期の仏像にない過激な表現だ。
運慶作の脇侍(観音・勢至菩薩か)があったとのことだが今は失われている。向かって右の毘沙門天は写真で見るよりは小さかったが、いかにも強そうで、それは運慶が出会った東国武士たちの、理想化されたお姿だ。左手に宝塔をかかげ、右手に戟を執り、右脚をやや開き気味に立つ毘沙門天。おっとりと構えた平安後期の多くの毘沙門天と異なり、戦闘体勢をとっているかのような緊張感に溢れている。私が注目したのは、毘沙門天のお顔だ。ギョッロットした眼でこちらを睨みつけ、おそらく運慶が接した多くの東国武士の面影が投影されている。向かって左の不動明王と制吨迦童子立像・矜羯羅童子立像だ。不動明王は剣も羂索も胸の高さまであげ、それによって制吨迦童子・矜羯羅童子のいる空間が生きてくる運慶の計算された技法だ。矜羯羅童子はテレビでフィギアースケートの真央ちゃんに似ていると言っていたが、どこかにいそうな子供のあどけない表情が印象的だ。逆に制吨迦童子は今にも走り出しそうな元気な子に見えた。この二童子の製作が後に高野山の八大童子につながっている。運慶は奈良の円成寺のあと10年後にこの諸像を作るのだが、円成寺の大日如来よりずっと運慶らしく、ここで運慶なるものが始めて生まれたのではないかと、願成就院から帰る道すがらU案内人と語りあった。
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