2024年11月23日土曜日

知恩院三門再び


 2012年秋に京都非公開文化財特別公開で知恩院三門を訪れてから12年ぶりにまた知恩院を訪問した。京都は土砂降りの天気で大勢いた観光客が観光を中断するなか知恩院三門に向かうと国内最大級の木造の門が現れた。高さ24メートル幅50メートル国宝の「三門」だ。三門から見る景色は絶景でかの石川五右衛門が「絶景かな」と叫んだいつわも残っている。ビルがなかったら都全体を見ることができただろう。山門の受付で拝観料を払い長い木の階段にとりついた。ロープなどに助けられ三問にあがると観光客がまばらで学生の協会案内人の女性に声をかけ説明してもらった。中は十六羅漢像などが並び、中央に宝冠釈迦如来が座る。室町時代のもので絵は江戸時代狩野派の絵師によるものとのこと。400年前の色彩がしっかり残っておりまさに極楽浄土だ。以前拝観したときは大勢の観光客がいてかなわなかったが、雨のおかげで天井画をガイドつきで歩いて見て回る幸運に恵まれた。天井の竜が何匹いるとか、上半身が人で下半身が鳥の想像上の生き物「迦陵頻伽」についても歩いて見てまわれた。以前来たときよりよく拝観できてよかった。まだ大雨がやみそうもないので、コースを変更し「眷属展」開催中の龍谷ミュージアムに向かった。京都駅につくと雨はやんでおり予定通り阿弥陀寺にいけばよかったと思ったが、残念だった。眷属展を見に「龍谷ミュージアム」に向かった。

2024年11月16日土曜日

鎌倉の伝運慶仏・鎌倉国宝展


 先週の土曜日、鎌倉国宝館開催の特集展示「鎌倉の伝運慶仏・鎌倉旧国宝」に出かけた。会場に入るといつもの通り「鎌倉の仏像」の展示だと思ったが説明板によると「鎌倉の仏像」「鎌倉の伝運慶仏」「鎌倉旧国宝」の展示が入り乱れて展示されていた。教恩寺阿弥陀三尊の近くにいつもの辻薬師堂の薬師如来と十二神将で今日は鎌倉の仏像の展示品でもあり鎌倉の伝運慶仏の展示品。十二神将の間に伝運慶仏の地蔵菩薩が展示され、いつもの鎌倉の仏像の間に山本先生が審議委員会長の令和6年度横浜市指定文化財の東漸寺迦葉像。鎌倉旧国宝展はいつものガラスケースに円覚寺塔頭伝送庵から地蔵菩薩という展示だ。最初戸惑っていたU案内人出品リストと掲示を見て理解したらしく、伝送庵地蔵菩薩をさかんに絶賛していた。私はやはり修理完成した教恩寺阿弥陀三尊がよかった。それぞれの仏像の解説はあとにするが、限られた空間で効率的に展示した鎌倉国宝館の学芸員は優秀だと感じた。一通り見て鶴岡八幡の御朱印帳を購入して鎌倉を後にした。









2024年11月4日月曜日

修復新たに九体阿弥陀如来拝観


2日目(11月3日)京都を早く出て奈良に向かい近鉄奈良で奈良交通主催の木津川古寺巡礼バスにて9時過ぎに浄瑠璃寺についた。本堂に入ると中は少し薄暗く左手で目を光らせているのが四天王の持国天・増長天だ。その横から平成30年度より五カ年の計画で実施された保存修理で新たになった九体阿弥陀が並ぶ。明治の修復から110年ぶりの大事業で、昨年3月に完成した。綺麗に修復された光背の頭光と光脚に当初の部材を残すほか、九重蓮華座も蓮弁の一部をのぞいて造立当初の姿を伝えている。ヒノキ材とみられる針葉樹林製で奈良博山口学芸員によると充実した作風の中尊は11世紀で、左右に並んで安置される定印造八体については12世紀当初に追加されたという説を紹介している。有名な浄瑠璃寺吉祥天や地蔵菩薩、鎌倉時代の個性的な不動明王・矜羯羅童子・勢多迦童子と拝観する人を飽きさせない仏像の配置が並ぶ。大判の写真を購入し本堂を出てご開帳の三重塔へ向かった。いつ来ても充実した仏像群が並ぶ浄瑠璃寺であった。

大報恩寺六観音に再会

昨日から京都仏像巡りをしている。まず最初に行ったのは、最近、六観音地蔵菩薩が国宝になった。大報恩寺だ。ここ大報恩寺は令和6年度第60回京都非公開文化財特別公開開催寺院となっておりポスターも千手観音になっている。残念ながら本堂の釈迦如来は拝観できなかったが、本堂にも女性の協会関係者が待期して本堂が洛中で現在最古の建造物だとか、おかめさんの悲しい物語を教えてくれた。宝物殿では六観音が素晴らしかった。国宝になり照明が見直され人感センサーで照明の強弱がはかられる作りがとても見やすかった。またこちらの六観音は廃寺となった北野経王堂より移されたもので、展覧会では展示がなかった竜と鳳凰の彫刻がついた大太鼓は三代将軍足利義満からの寄進という説明をしてくれた。やはり文化財特別公開はより深く公開寺院のことがわかってよかった.その後大将軍八神社、知恩院三門と巡り龍谷ミュージアムで眷属展をみた。詳しい報告はまたのブログで。

2024年10月14日月曜日

大谷寺千手観音


 本日仏像クラブで宇都宮にある大谷寺に参拝に行った。朝九時に宇都宮に集合し乗り合いバスに乗りまずは大谷石の石切場跡地の大谷資料館から地下にある石切場を見学し大谷寺に向かった。拝観料を払いご本尊の大谷寺千手観音に参拝した大谷石を削り千手観音の姿に掘り出された観音様があった。ナレーションの説明では大谷寺千手観音は像高4メートルお寺の伝承では平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられている。古くから大谷観音と称され、鎌倉時代に板東19番目の霊場となり、多くの人々に崇拝されたとのこと。最初は岩の面に直接彫刻した表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、更に漆を塗り、一番表に金箔を塗る石心乾漆づくりで最新の研究では、バーミヤン大仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻した、日本のシルクロードと考えられているとお寺のパンフレットに記載されていた。特別展文明の十字路を見てきた私とU案内人にとってはにわかに信じがたいが日本で一番古い石仏であることは確かのようだ。お寺には他にも平安から鎌倉にかけてうがたれた石仏もあり観光地としては十分楽しめる内容になっている、バスで午後に銅像阿弥陀如来拝観のため山を下りた仏像クラブの面々だった。






2024年10月12日土曜日

創建1200年記念特別展神護寺④(薬師如来)

         

創建1200年記念特別展神護寺の目玉は本尊薬師如来であろう。今回は寺外初公開ではじめて厨子から出て明るい場所での拝観となった。それでもおそろしげな仏像であることに間違いない。なぜ恐ろしげかというと正面から見るのと違い側面の突き出しで正面と側面の印象が違う。また腕・足が恐ろしく太く衣紋の表現も彫りが深く波打っている。この仏像は神護寺の前身寺院河内の神願寺の本尊である。神願寺は和気清麻呂が八幡神と約束して建立した定かくじ額寺で本尊薬師如来は道鏡皇位継承を阻んだ宇佐八幡神託事件ののち、下野薬師寺に配流となり死んだあと怨霊になり和気氏をたたるであろう道鏡調伏のためといわれている。その後空海が神願寺と和気氏の私的な寺院、高雄山寺の合併に大きく関わり、皇統と和気氏守護を願って神護寺が建立されたということだろう。京都1番のパワースポットにまた訪れたいと感じた。





2024年10月5日土曜日

特別展文明の十字路バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰②(弥勒菩薩交脚像)


 特別展「文明の十字路バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」のメインビジュアルは平山郁夫シルクロード美術館所蔵のガンダーラ弥勒菩薩交脚像だ。バーミヤン大仏の西大仏は弥勒仏といわれバーミアンが栄える200年前にガンダーラで仏像が作られ始めておりバーミヤン弥勒菩薩の原型になったという展開だ。ガンダーラ仏は①頭髪を束ねたり、丸く結う形にする系統と②頭にターバン冠飾といわれる、冠帽状のターバンをつける系統に分かれるが、①は梵天(ブラフマン)②は帝釈天を表す。手塚治虫の「ブッタ」では若きシッダールタ王子の先生として謎のブラフマン先生が生老病死を教えるシーンがあるがそのブラフマンだ。欠落した手には水瓶を持ち弥勒菩薩を表す。この像の特徴は上半身裸で、三種の首飾りや聖紂飾り、臂釧などのの装身具(遊牧民に好まれるモティーフが含まれる)をつけ、左肩から右肩にかけて天衣をまとう。特に台座に腰をおろし、足首を支える交脚倚座と呼ばれる姿である。敦煌にも交脚弥勒菩薩が伝わっているが騎馬遊牧民の王侯像に由来する。東アジアで人々を救いに導く菩薩として幅広く信仰されるが、日本には交脚弥勒菩薩像は伝わっていない。私が思うには遊牧民にとっては交脚が正式な座り方でも正座で暮らしてきた日本人にはあわなかったからだろう。このようにこの展覧会はバーミアンではなくその周辺の仏像からバーミヤンの仏像を想像してみる作業の連続でU案内人もすぐに感想が出なかった。深く考えさせられる展覧会だ。






2024年9月23日月曜日

特別展「文明の十字路バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」①


 本日(9月21日)に東京日本橋にある三井記念美術館「特別展文明の十字路バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」にU案内人にと出かけた。この展覧会は2021年にイスラム原理組織タリバンによって破壊されたバーミヤン遺跡の高さ38mの「東大仏」と高さ55mの「西大仏」の爆破前に模写した貴重な壁画の画き起こし図を東京で初公開するにあたり周辺のガンダーラ遺跡出土の文物と日本に伝来した弥勒信仰によって作られた仏像を展示する展覧会だ。渓谷の崖面には多くの石窟と東西二体の大仏が掘られ、東大仏の壁画にはイランの太陽神「ミスラ」が、西大仏は弥勒大仏で仏龕天井には弥勒菩薩を主導とした兜率天世界が描かれた。画き起こし図によるミスラの姿は四頭立ての馬車に乗りマントを翻し、盾と弓を持つ二女神を従える姿だが、第一室では周辺のガンダーラやマトゥーラ遺跡出土の文物からミスラと思われる姿を追ったコインやスーリヤ象が並ぶ。第二室では西大仏弥勒の日本の姿の代表として野中寺弥勒菩薩像。展示3・4室は名古屋大学名誉教授宮治氏のバーミヤン大仏壁画の研究ノートと画き起こし図。古代のバーミヤンで学んだ三蔵法師の関連する薬師寺玄奘三蔵像と重文の玄奘三蔵像などが並ぶ。また西大仏のインドでの弥勒の表現としてガンダーラの弥勒菩薩交脚像や中国や朝鮮での姿として、菩薩半跏思惟像や京都妙傳寺(みょうでんじ)の菩薩半跏像が並び最後に日本の弥勒菩薩が三井記念美術館お得意の個人蔵の弥勒菩薩像が並ぶ。三井記念美術館がすべて国内の美術館や寺院から集めてこのテーマで展覧会が開催できたことはすばらしい。清水館長をはじめとした美術館関係者の努力に感謝したい。

2024年9月14日土曜日

創建1200年記念特別展神護寺③(五大虚空蔵菩薩)


 特別展神護寺の仏像展示のトップバッターはこの五大虚空蔵菩薩だ。毎年一定の期間しか神護寺では御開帳されないので私も神護寺では見たことがなかった。展覧会では1体だけ展示はあったが五大虚空蔵菩薩揃い踏みが謳い文句となっている。虚空蔵菩薩はそれぞれ名前があり宝戒・金剛・宝光・蓮華・業用虚空蔵菩薩となっておりそれぞれ色がよく残っている。みうらじゅん・いとうせいこう氏も新TV見仏記で初めてみれたぐらいの秘仏だ。みうらじゅん氏は独特の感性で色分けされた虚空蔵菩薩をレッドマン・ブラックマンと呼んでいたが、私が気に入ったのがブルーマンで宝珠を執る。神護寺の宝塔内では横一列になっているが、記録によれば今回の展示のように法界像(ホワイトマン)を中央に東北・東南・西南・西北に並んでいたという。ヒノキの一材で頭髪に乾漆をもった木心乾漆造の仏像だ。本像の造形は今回出展された高雄曼荼羅を典拠としている。神護寺にとって貴重な作例であることは間違いないだろう。クリアファイルが売っていなくて残念だったが、代わりに高雄曼荼羅の虚空蔵菩薩がアップにされたものを購入した。それによると虚空蔵菩薩に火炎光背が描かれていることから当初は立派な光背がついていたことを想像しながら会場を後にした。





2024年9月8日日曜日

成島毘沙門天に再会する


 岩手仏像探訪の旅2日目最後に訪れたのが、15年前にも訪れた成島毘沙門堂だ。新花巻の駅からタクシーで東和町に向かい入口の女性に拝観料を払い三熊野神社と成島毘沙門堂の共通拝観券を購入しまず三熊野神社から拝観した。ここは坂之上田村麻呂が和歌山の熊野三山からここに移し本殿を建立したとのこと。15年前より神社がこぎれいになり神主らしき人もいるように感じた。以前はこの後ろの廃屋のような建物に毘沙門天を祀っていたが重文指定で収蔵庫に移したとのこと。そちらを目指して、さらに少しばかり山を登ると、寺男のおじいさんがニコニコして拝観券をチェックして収蔵庫に入れてた。なつかしい兜跋毘沙門天が地天女と呼ばれる女性の肩に乗り見下ろしていた。ほぼ五メートルはある一木造りだ。脇をみちのくいとしい仏たち展に出展していた尼藍婆・毘藍婆が癒やし系で固めていた。また東博みちのくの仏像展に出展された伝吉祥天の美仏がひとりたっていた。その空間に酔いしれいつまでもいたかったがタクシーを待たせているので、期間限定のすいかの絵がかわいい夏詣の御朱印をいただき新花巻に戻り新幹線で盛岡に向かった。







2024年8月31日土曜日

天台寺の聖観音

 

岩手仏像探訪の旅最終日、盛岡から新幹線で二戸に向かい予約したタクシーで初めて天台寺を訪れた。古代最北の寺院天台寺は当時の日本の統治領域から北にはみ出して整備された。タクシーを降りると最果ての寺院と思えないほどの立派な寺院だった。江戸時代盛岡藩主南部氏による再建だった。二つ収蔵庫や仁王門から続く灯篭群は平成の修理で作家で天台寺名誉住職の瀬戸内寂聴氏のご尽力のたまものだろう。収蔵庫には展覧会で何度かみた仏像が拝観できた。やはり魅力的なのは聖観音で116センチの小さい仏像だが鉈彫りと呼ばれる東国でよく見かける仏像様式だ。体にノミによる横縞模様が施された仏像で意図的にノミ痕を残して仕上げとした鉈彫仏は関東や東北を中心に数十体ほど確認されたいるが、ここ天台寺の聖観音が最高傑作であろう。以前は未完成仏とみる説もあったが天台寺像の背面は平彫で前面の端正なノミ痕を残している。霊木カツラに宿る神が、仏の姿を借りて顕われたようだ。あの井上正先生も鉈彫りのご本尊こそ、その化現の瞬間を彫ったものだと唱えられたとのこと。二戸にタクシーで戻りEUのバイヤーの舌をうならせた北三陸洋野町のウニを購入し盛岡に戻った。

2024年8月25日日曜日

黒石寺の持国天・増長天


 予約したタクシーで黒石寺につくと受付に以前案内頂いた女性がいらしたので拝観料を支払い案内をお願いした。15年前の岩手旅行の最後に黒石寺を訪れている。黒石寺は「見仏記」に載っている寺で、持国天のイラストが妙に印象に残っていたための訪問だった。あれから15年の月日が流れ、新幹線もチケットレスに変わり、行きやすくなっていた。今回の岩手探訪はいくつか目的があったが15年前に訪れた寺を再訪することも目的のひとつだ。収蔵庫で本尊アテルイ薬師に対面したあと、本堂に向かった。本尊跡にたくさんの仏像が囲んでいる。日光・月光その周囲に大きな四天王。これが素晴らしく見仏記的に言えば異常なほどパースが狂っている。頭がやたら小さく逆に足ががっちりとしている。2015年に開催された「特別展みちのくの仏像」では出展されていない四天王の目についての考察が解説されていたが私もミウラサン同様四肢に注目した。腰から下の力強い太さ、むっくりと曲線的に掘り出された質感によって強調されている。上半身は突然細くなるものの、肩のごつさによって、全体としては力を失わない。そして、その肩にめりこんでいるのは、小さな顔だ。口をへの字に曲げ、顎を四角くして、見得を切っている。じっくりと拝観して受付で本堂で見かけた蘇民祭のポスターをいただきタクシーで次のお寺に向かった。


2024年8月22日木曜日

東楽寺の十一面観音

岩手仏像探訪の旅の最後を締めくくるのが、盛岡玉山東楽寺の十一面観音だ。この仏像を知ったのが芸術新潮の平泉とみちのくの仏像という特集であった。中央の十一面観音は3メートルを超え東北地方で成島毘沙門堂に次ぐ大像である。頭頂の化仏と左腕を失っているが、堂々とした量感ある仏像である。他にも首がほとんど取れかけた仁王など私に訴えかける仏像が印象的だった。今度の岩手仏像探訪の旅で一環して言えるのが、多くの名もなき人に守られた仏像が多く見られたことだ。仏教への信仰心が熱いみちのくであった。



北上立花毘沙門堂

本日は一旦新幹線で水沢江刺に戻り毘沙門堂巡りを行った。最初に訪れたのが藤里毘沙門堂で地域に大切に守られた毘沙門天だった。次に訪れたのが、北上市の立花毘沙門堂で、近くの神社で守られた毘沙門天だ。神社の方に収蔵庫を開けてもらうと、中央に小ぶりな毘沙門天と両脇を立派な二天像がいらした。あまりにも不釣り合いだが、確か仏の瀬谷さんが近くの廃寺になった国見山極楽寺は857年に定額寺(=国分寺に次ぐ格の官寺)に列し、僧坊がひしめいていた。その中心が毘沙門堂で、そこには8メートルの兜跋形の毘沙門天があったとのこと。その話を案内の方にすると確かに発掘で相当な寺格を表す発掘品が出たとのこと。ニ天像も南からこの末寺に流れてきたらしいと教えてくれた。最期は花巻の成島毘沙門堂を拝観し今日の毘沙門堂巡りを終えた。

中尊寺金色堂展完結編

今日から岩手の仏像探訪の旅に出ている。東京から満席の新幹線に乗り一関へ。東北本線に乗り換え平泉へ。中尊寺金色堂のチケットは讃衞蔵で売っているのでそちらに向かうと宝物館になっており、境内の塔頭の価値ある仏像が次々と現れたり、東博に預けられている金食堂の長押に飾られた「金銅迦陵頻伽文華鬢」6枚を一同に見れたりと興奮状態だった。展覧会で見た阿弥陀様が遠く見れたが展覧会で間近で見る前と後では断然違っていた。あの素晴らしい阿弥陀様にまた出会えたという印象だ。二天像も本来の武器を手にしてより強そうだ。中尊寺で時間を食ってしまい、昼食の自然薯そばを掻き込み、急いで黒石寺に向かった。

2024年8月16日金曜日

創建1200年記念 特別展神護寺②(日光菩薩・月光菩薩)

 

創建1200年記念特別展神護寺では寺外初公開の仏像が多く拝観できるが、普段ご本像薬師如来の脇侍として金堂の一番奥に祀られる平安時代の日光月光菩薩も間近で見ることができる。見仏記でいとうせいこう氏が記載していたが、「両方とも膝下がやたらと短く、大きな蓮の茎を持っていた。」解説によると理由と時期は定かではないが後世に大破したらしく、大きく手を加えられており、日光菩薩は腰より下、月光菩薩は膝よりした下に当初の姿を残すものの、それ以外は頭部を含めて後補とのこと。後補の時期を特定できない東博に対し見仏記では「顔はどこかいかめしく、柔らかな表情でない。朝鮮半島や中国あたりの男性がモデルといってもいい面相である。」と作風から推定している。髻を結いあげ、宝冠を戴き、条帛・裳・天衣を着けて蓮台上に腰をひねって立つ。現存しないが運慶の仏像もあったらしく、神護寺1200年の間に多くの仏師の手がはいった京都でも貴重な仏像群だと感じた。

2024年7月27日土曜日

創建1200年記念 特別展神護寺①


 本日(27日)仏像クラブで東博で開催されている「創建1200年 特別展 神護寺」に行った。神護寺は和気清麻呂創建の寺で、中国・唐から帰国した空海が活動の拠点とした寺院。第1章では空海ゆかりの出品が多く展示され、展覧会冒頭には鎌倉時代に制作された板彫りの弘法大師像が展示されていたり、空海直筆の多くの書が展示されていた。第2章では教科書にものっている源頼朝像をはじめとした神護寺三尊像といわれる肖像画と空海が唐から請来した高雄曼荼羅など貴重な宝物が展示されていた。第3章・第4章は鎌倉時代以降の貴重な絵画や書が並び、いよいよ第5章は「神護寺の彫刻」としていままでそろってみたことがない五大虚空蔵菩薩が曼荼羅風に円形にならびひとつひとつをじっくり拝観できるのが仏像ファンにはうれしい展示だ。TV見仏記でみうらじゆん氏が言っていたレッドマンやブルーマンなど平安時代の秘仏だがよく彩色がのこっているのに感動した。続いて空海もみた薬師如来と対面。脇侍の日光・月光の三尊で拝観でき、やはりすばらしい仏だ。本堂の薄暗がりにまとまって拝観していた十二神将もひとつひとつスポットライトがあたりよかった。鑑賞も終えた仏像クラブの面々もいたく感動したらしくそれぞれよかった仏像を語っていた。御徒町のおいしいてんぷらを食し大いに語っていた仏像クラブの面々だった。

2024年7月17日水曜日

館仏三昧ミュージアム巡り④(静嘉堂@丸の内)

 

本日(7月17日)館佛三昧ミュージアム巡りの第三弾として世田谷から2年前に丸の内に移転してきた静嘉堂文庫美術館に慶派の十二神将を見に行った。展覧会は「超・日本刀入門REVIVE」という展覧会で昨今の日本刀ブームにのって静嘉堂文庫美術館が所蔵する鎌倉時代から江戸時代までの名刀の展覧会となっていて、いつもの仏教・仏像の展覧会より女性客が多くみられた。国宝「曜変天目」以外は写真撮影OKとのことで運慶作かと騒がれた慶派の十二神将7体を撮影した。パンフレット掲載の午神の表情をアップでとらえたり、静嘉堂文庫美術館中央ホールを背景に安貞2年の墨書がある、亥神を撮影したりと十分に楽しめた。交通の便がよくなったのでまた静嘉堂文庫美術館に行きたいと思った。静嘉堂@丸の内を後に、梅雨明け真近の東京駅に向かった。



2024年7月7日日曜日

館佛三昧ミュージアム巡り③(旧足利樺崎寺下御堂大日如来)

 

半蔵門ミュージアムの展示の目玉はニューヨークのオークションにも掛かったこの大日如来だが、この仏像を初めて世間に知らしめたのは現在館長の山本勉氏だ。彼が初めてこの仏像を見た驚き喜びは東博研究誌「MUSEUM」589号を読むとよくわかる。「昨年(2003年)にご所蔵の仏像の像内納入品があるかもしれないのでX線写真を撮れないかという趣旨の書状をいただいた。二葉の写真が同封されていた。(中略)かんたんなスナップ写真だから細部までを確認できたわけではないが、それでもそこに写った像の姿に衝撃をおぼえたのである。(中略)所蔵者のお宅に伺って、大日如来像を調査することができたは想像をはるかに超えた優作であった。」その後東博での出品のおりX線撮影を行い内部の仏像の魂としてあらわされる心月輪が判明したことで運慶工房での作という考えにいたったとのこと。2008年のオークション騒ぎを経て2009年に重文に指定するための文化庁奥建夫しのボアスコープ(棒状の内視鏡)を耳孔より挿入した画像により像内は金箔が押され五輪塔の空輪には薄青、風輪には青、火輪には赤、水輪には白、地輪には黄、それらの各面に四方五大種子、その下には陀羅尼が記載されていることが判明した。運慶の製作当初の仏像の色彩が像内納入品に残っていたのは驚きだ。その辺をコンパクトにまとめた動画が半蔵門ミュージアムで無料で見れるので、ぜひおすすめしたい。

2024年6月22日土曜日

特別展「法然と極楽浄土」②(誕生寺阿弥陀如来)

 

法然が活躍した時代は保元・平治の乱や治承・寿永の乱など騒乱が多い時代だった。源平の一の谷の戦いで平家の公達敦盛を泣く泣く首をはねた熊谷直実の物語は有名だが、その直実が法然の下で出家し、熊谷蓮生法師として岡山の誕生寺や長岡京の光明寺を創建したことはあまり知られていない。誕生寺の創建は幼いころ争いに巻き込まれ父を亡くした法然が美作国稲岡庄に弟子の蓮生を遣わし、法然所持の仏像を持参した熊谷蓮生法師が屋敷跡を寺院に改めたことが始まりとのこと。本像は快慶一派によくみられる三尺阿弥陀で来迎印を結ぶ安阿弥様のヒノキの寄木造。解体修理の際、中から印仏が見つかり「法然上人御生所御本尊」の墨書があり当寺こそ法然の生誕地で、本像は旧本尊である可能性が高まった。製作背景に法然の百回忌を想定する説もありいずれにしても熊谷蓮生法師の活躍で誕生寺にある仏像かその小像を模して作った仏像であろう。歴史の面白みを感じて次の作品に向かった。

2024年6月15日土曜日

令和六年新指定国宝重文展②(大報恩寺の地蔵菩薩)


 話はひと月前に戻るが、令和六年新指定国宝重文展出展の仏像の中でいきなり重文を飛び越して国宝となったのがこの地蔵菩薩だ。大報恩寺(千本釈迦堂)のすぐ近くが北野天満宮でそのほど近くに「北野経王堂」という創建7世紀に遡る古代寺院があった。江戸時代に廃寺になり北野経王堂にあった六観音と一緒に大報恩寺に移されたとのこと。六観音の内の准胝観音が肥後定慶作といわれるが、伊東史朗氏が面貌や耳の表現がこの地蔵菩薩と酷似しているとの指摘もあり私はこれも肥後定慶作と認めてよいであろう。六観音と同じ大きさでこの時代に珍しく一木造の仏像でなにか霊木が使用されていたののだろう。国宝指定とのなりさらに研究が進むことが期待される地蔵菩薩だ。

2024年6月9日日曜日

館佛三昧ミュージアム巡り②(醍醐寺旧蔵の如意輪観音)

 

5月31日館佛三昧ミュージアム巡りの目玉がこの半蔵門ミュージアムの如意輪観音だ。この仏像は京都の醍醐寺から縁あって半蔵門ミュージアムに寄贈された平安時代の仏像だ。半跏思惟半跏踏下坐の仏像で、醍醐寺の開祖聖宝が上醍醐に結んだ草庵に准胝観音と如意輪観音だったと伝えられ、醍醐寺にとって如意輪観音は貴重な尊格。この像は江戸時代初期に修復され快慶の弥勒菩薩で有名な三宝院持仏堂に安置されたことが知られているがそれ以前の伝来は不明とのこと。曼荼羅にも描かれている六臂像だが、右足を左腿の上に跏し、左足を踏み下げて座る半跏の姿はきわめて珍しいものだ。10世紀後半頃の製作とみられるとの説明だったが、金沢文庫に寄託されている龍華寺脱活乾漆菩薩像や奈良興福院で見た阿弥陀三尊の脇侍に通じる仏像とみた私には9世紀はくだらない古仏とみた。今回の修復で顔に木屎漆が盛られていることが分かり、修復の際除去したと半蔵門ミュージアムXに記載されていた。また会いに行きたい仏像だ。






2024年6月4日火曜日

館佛三昧ミュージアム巡り

 

先週の金曜日通称「紫陽花休暇」という有給休暇をとり、都内のミュージアム巡りに出かけた。東京メトロ東西線の早稲田で下車し早稲田大学前のU案内人ご推薦「Pizzeria TAKADA BOKUSYA」でマルゲリータランチをいただき、早稲田大学構内にある會津八一記念博物館で開催されている「館佛三昧Ⅱ」に入場した。展覧会場はすべて歌人・書家・東洋美術史研究者の會津八一のコレクションを展示する内容となっており、ガンダーラ仏からだれかの念持仏であった小観音まで興味深い展示だった。写真はコレクションの帝釈天像で「法然と極楽浄土」展でみた知恩院帝釈天と同じ仏師の作か?早稲田駅に戻り東京メトロ半蔵門駅で降り半蔵門ミュージアムで開催の音を観る-変化観音と観音変化身に入場した。ここは宗教団体の所有のミュージアムで所蔵している運慶大日如来が地下の展示室で常設展示している。展覧会にも仏教由来のタイトルがつけられている。詳しくは次回からの見ていくが、このミュージアムは地下一階地上三階の大規模なつくりとなっており地下の展示のあと三階のシアターで運慶大日如来の説明映像を観覧したり二階のミュージアムショップとカフェで展示品クリアファイルや絵葉書など購入できたりと至れり尽くせりの施設だ。大満足して東京メトロ半蔵門線で渋谷に出て帰路に就いた。次回の有給休暇またどこかのミュージアム巡りをしたいと思った。              

2024年5月31日金曜日

吉野奈良仏像探訪記③(金峯山寺金剛蔵王大権現)

        

今年のGWは吉野に向かった。ロープウェイの山上駅から坂道を金峯山寺に向かう参道は人影もまばらだったが、世界遺産登録20周年の金峯山寺に着くと大勢の人でにぎわっていた。修学旅行生たちはバスで桜本坊近くの竹林院前からあがってきたためだった。入口で蔵王堂への靴袋付きの拝観料を払い広い畳敷きの外陣に通されたわれわれ善男善女は特別拝観とはいえ内陣には入れてもらえないようだ。蔵王権現は中尊が730cm右尊610cm左尊が615cm天正20年に完成した蔵王堂と同時期の造立。3体とも檜の寄木造で、右手で三鈷杵を振り上げ、右足を蹴り上げた姿。左尊と右尊の左手は指を2本たてた刀印を結んで腰にあてる。作者は山本半蔵門ミュージアム館長によると奈良大仏再興にかかわった俗人仏師の棟梁源次の子が宗印で東京増上寺三解脱門釈迦三尊が代表作として挙げられる。鎌倉時代初期の快慶作品あたりに学んだ端正なまとまりがあり、奈良の地の長い造像伝統が突然花開いた観があると館長大絶賛だ。大きさだけに圧倒されたがまとまりなど抑えており仏師の腕を感じ内陣裏の仏像拝観に向かった。




2024年5月21日火曜日

特集「行道面 ほとけを演じるための仮面」


令和六年新指定国宝重文展鑑賞後、U案内人たちと26日までの開催している特集「行道面 ほとけを演じるための仮面」を鑑賞した。行道面とは寺社で行われる法要(通称お練り)で使用された 面で仏教の守護神八部衆や二十八部衆の仮面をつけ練り歩く法要だ。當麻寺のお練りは有名だがここに展示されている快慶作浄土寺菩薩面も浄土寺で行われているお練りで以前使用されていたもの。浄土寺には快慶作阿弥陀如来(裸形)が残されており、この菩薩面を被った僧たちが阿弥陀如来に着物を着せ台車で運び来迎会という行事を明治になるまで執り行われていたようだ。展示ケースをみると様々な表情の菩薩面があり興味深い。左側の二面は笑顔で頬がふっくらとしており、「その24」は歯さえ見せている。「その24」で注目すべき点は眉の部分がくりぬかれていることだ。演者の僧たちは目の穴で視界を確保するが、眉が彫り込んであれば息もしやすく実用的な工夫だ。右側の二面は頬がすっきりした死者を迎えるおごそかな雰囲気の表情だ。快慶のもと複数の仏師が制作したとみられる。どれが快慶自ら製作したかわかっていないが、頬がすっきりした表情が快慶らしさを感じ、頬がふっくらとして落ち着いた雰囲気が運慶や康慶にちかい雰囲気ともいえるかもしれない。近づいてじっくり法会で使われている様子を想像して鑑賞した。他の和歌山の神社の持国天や毘沙門天・夜叉天から五部浄まで様々な行道面が鑑賞でき大満足な一行は東博をあとにした。


2024年5月12日日曜日

令和六年新指定国宝重文展①(八坂神社牛頭天王像)

4月29日東博平成館の特別展鑑賞後、U案内人たちと本館11室に移動し「令和六年新指定国宝・重文展」をみにいった。今回の指定では京都大報恩寺六観音(国宝)や伊豆河津南禅寺の仏像群(重文)の展示もあり、なじみの仏像の晴れ姿見に行く鑑賞会となった。11室の入口にはいつものガラスケースにメインの仏像展示があるのだが、出展されていたのは福井八坂神社牛頭天王だ。TV見仏記福井越前編で八坂神社の十一面女神像は紹介されたが本殿の秘仏牛頭天王は御神体として厳重に秘されて祀られていて1963年の仏像調査報告があるだけで研究者でも拝するのが難しい仏像とのこと。そのため保存状態がよく当初の火焔光背の彩色もよく残る平安時代の神仏混交仏だ。新指定国宝重文展ではここだけしか二度と鑑賞できない仏像が出展されるので仏像ファン注目の特別展だ。牛頭天王は疫病を防ぐ神として、祇園社(現京都八坂神社)を中心に信仰集めた。本像は三面十二臂で本面頭上に牛頭を戴き、武装して虎の上に座す。牛頭天王は同時代の神像彫刻のなかでも優れた出来栄えを示し、当初の光背、台座が残るなど保存状態も良好とのこと。近頃本屋で購入した「かまくら春秋」という小冊子には山本勉半蔵門ミュージアム館長のエッセイのなかに鎌倉寿福寺籠釈迦の写真が掲載されお寺や神社には秘されてなかなかお目にかかれない仏像があることを知った。このような機会を逃さないよう注意していきたいと思った。







 

2024年5月5日日曜日

吉野奈良仏像探訪記①

今日(5月2日)から奈良に来ている。早朝に新幹線と近鉄特急を乗り継ぎ近鉄吉野駅に降り立った。あたりはまさに新緑が映えるうっそうとした森で南朝の歴史の舞台だ。早速、金峯山寺の蔵王堂に向かう。江戸時代に再興され金剛蔵王大権現を初めて拝観した。像高7メートルで憤怒の表情で参拝者を睨み付けてくる。蔵王堂では以前三井記念美術館でみた寺宝が祀られいたので、それは次回以降に紹介したい。次に行く予定だった大日寺のご住職の都合で15時以降になったので、桜本坊を拝観した。最後に大日寺の五智如来を拝観し御朱印をいただきロープウェイで下山し予定通りの特急で奈良に向かった。早足の参拝となったが修験道の世界にどっぷりとはまった半日旅行だった。あとからわかったのだが東南院にも平安時代の大日如来があり一度は拝観したいと思った。明日は憧れていた興福院の阿弥陀三尊や佐保路の仏像を巡る予定だ。

2024年5月4日土曜日

吉野奈良仏像探訪記②(興福院阿弥陀三尊)


吉野奈良仏像探訪の2日目、初めて拝観する興福院へ向かった。興福院は創建当初尼辻にあり聖武天皇の御学問所を天平勝宝年間に和気清麻呂が賜り弘文院という一族のための学校とした跡で本尊は丈六の金銅薬師如来と伝えられている。三門を入ると季節の花がよくて入れされた庭に咲き乱れ、苔も手入れ中だが青さが眩しく手のよく入ったいかにも尼寺らしい庭が迎えてくれた。拝観入口で本堂拝観と茶室拝観、抹茶の振る舞いで三千円取られたが、襖絵も素晴らしく、抹茶もお手前も古都らしい饗応だった。仏像は天平時代の趣を残した木心乾漆造。後補はあるが、説法印を結んだ中尊と、上体を中尊の方に傾けてそれぞれ外側の脚を踏み下げた半かふざの脇じの姿は、天平末期造形の一つの典型といえるだろう。素晴らしお寺に出逢えたことに感謝し、静かにお寺を後にした。

2024年4月30日火曜日

特別展「法然と極楽浄土」①

 


昨日、U案内人と東京上野で東博開催の特別展「法然と極楽浄土」を見に行った。御徒町の「とんかつ山家(ヤマベ)」で腹ごしらえをして季節外れの猛暑の中、東博に向かった。本展は鎌倉仏教の一大宗派・浄土宗の歴史を通覧する史上初の展覧会とのこと。事前に雑誌で予備知識を入れてから仏教に詳しいU案内人の説明を聞きでかけた。第1章「法然とその時代」では法然の著作と教えが書かれた「選択本願念仏集」や法然の生涯を表した「法然上人絵伝」が展示されていた。また當麻寺所蔵の「法然上人座像」も展示されており生前のリアルな上人の面影がわかりよかった。第2章「阿弥陀仏の世界」では法然の誕生の地に立つ岡山誕生寺の地蔵菩薩や国宝「阿弥陀如来来迎図」(早来迎)などが展示され、第三章「法然の弟子たちと法脈」では當麻曼荼羅や弟子の像が第四章「江戸時代の浄土宗」では増上寺の五百羅漢図や知恩院の八天像が展示されていた。私的に一番興味があったのが、香川法然寺の涅槃群像で釈迦入滅の場面を描いた群像彫刻だ。写真撮影もできたので一番弟子阿難が倒れ込む様や動物まで泣いている様を夢中で撮影した。2時間近く拝観し「令和六年国宝・重要文化財展」の会場に向かった。



2024年4月21日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑦(青森県今別町本覚寺多聞天)


 この作品をみたときどのような風景のから生まれたか想像できなかったが、「津軽海峡冬景色」で歌われる「竜飛岬」近くの漁師町との解説に合点した。お寺の目の前が津軽海峡という本覚寺境内の多聞天堂に寛政二年(1790年)からご神体としてまつられてきた像。今も年に1度漁師たちがそろって祈祷におとずれる多聞天は御簾のかげに秘せられきたため当初の彩色がよく残る。寺伝の「多聞天像」は持物や形姿からみて正しいが、背後に大きな竜を背負い、顔は閻魔、さらに胸の宝珠は大黒手には多聞天お決まりの宝塔を持つ。漁師の願いが一つに結実した結果で、民間仏とはそういうものだろう。竜の造作がみごとなことから像すべてを船大工又は宮大工の手によるものであろう。民間仏のおもしろさがわかる印象に残る作品だった。

2024年4月14日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑥(青森県五戸町毘沙門天像)

 

この展覧会コンセプトは民間仏の紹介だが、青森県五戸町に伝わる毘沙門天像はいかにも名もなき僧や職人によって造られた、遊び心満載の仏像だ。大きな兜と大きな兜と重そうな衣装をまとい、型抜きの枠の中に造形毘沙門天の姿は玩具のようにさえ見える。帯を締めた獅子がみは獅子でなく鬼の顔になっていて、足元に踏みつけられながら笑っているような邪鬼の顔に繰り返されている。青森県南部地方に残る民間仏の中でも出色の像である。東京ステーションギャラリーの学芸員はその邪鬼の表情に注目して「仏教図像よりも土地の共通理解が優先された見本といえ、踏んづけられた邪鬼さえかわいさ満点です」とのこと。雪国の厳しい自然環境の中ユーモラスをもって人々に寄り添う仏像の姿であろう。

2024年4月7日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑤(青森恵光院の女神像)

 

2015年に東博で「みちのくの仏像」が開催され2008年の夏から東北の仏像巡りをして来た私には再会した仏像や初めて見る仏像に出会ったいい展覧会だった。その会場の片隅に置かれていたのが、この青森恵光院の女神像だった。東博の図録解説によると「青森県三戸郡の南部町にある恵光院はもと長谷寺といわれ、霊峰・名久井岳の麓に位置しています。秘仏として尊ばれている十一面観音菩薩像は県下で屈指の古像として知られますが、ともに伝わった女神像は最近の調査で見いだされたものです。女神像は、頭からすっぽりと衣をかぶって座り、腕前であわせた両手を衣に包んでみせないため、全体のずんぐりとしたシルエットが際立ちます。衣からのぞく顔は、のびやかな円を描く眉に、目尻を下げた優しいまなざし、厚い唇とゆたかな肉づきの頬が印象的で、東北にに根差した母なる大地の神にふさわしい姿です。」とのこと。この女神像は古像だが、内繰りを施していないと思われたが背面に亀裂を施して正面の干割れを防いだという製作技法にまで触れている。本展の図録では「ふっくらした身体に大らかであたたかい表情は、幸福に包まれることを願った表れです。」と女神像とそれを祈った人々の思いに言及し「くらしに寄り添う仏像」というコンセプトで解説しており味わい深いものとなっている。いつか青森を訪ねることがあったら、恵光院を訪ねたいと思った。







2024年3月30日土曜日

祝重要文化財 南禅寺伝来諸像

 


南禅寺伝来諸像との出会いは今から12年前の2012年5月のことだった。「ふるさとの仏像に会いに行く」に掲載された静岡県河津町にある南禅寺(なぜんじ)にある仏像に仏像クラブで会いにいった。町の世話人の方に訪問日を告げ、河津桜は終わり新緑が眩しいよく晴れた日に古びたお堂にある26体の仏像に出会った。二天像やガラスケースに入った薬師如来・十一面観音・地蔵菩薩が印象的だった。今年の重要文化財に指定されたのが南禅寺伝来諸像で26体一括の指定となっている。解説文によると「南禅寺堂と呼ばれる堂に伝来した26躯からなる木彫群で、堂の本尊、薬師如来像をはじめ、大半が10~11世紀の製作になり、仏・菩薩・護法神など当時の堂宇に安置される主要な尊格が揃う。いずれも一木造で仏像は基本的にカヤ材、神像はクスノキ材を用いる。各像の作風や製作技法に共通点が認められることから、同系統の工房が当地において継続して造像をおこなったことが推定される。平安時代の地方における造像のさまを如実に伝える遺品として重要である。また十一面観音像の一躯は素朴な作風ではあるが、カヤ材の一木造で各所に古様を示すことから、奈良時代に遡る製作とみられる」とのこと。町の世話人が必死に守り河津町が展示館を立てて守った仏像群がこうして国に評価されるのが喜ばしいことだ。関係者にお祝い申し上げます。


2024年3月23日土曜日

祝国宝 「大報恩寺六観音・地蔵菩薩」

 
今年の国宝彫刻の部は京都・大報恩寺の六観音・地蔵菩薩が指定された。この六観音と快慶の十大弟子、行快の釈迦如来を何度も京都や上野の展覧会でも出会った。見るたびに感動した仏像群だが、六観音がまだ国宝になっていないのは驚きだった。文化庁の解説によると「准胝観音像の銘文に名が記される肥後定慶を統率者として六人の仏師により造られたとみられる六観音で、像内銘や納入品から貞応3年(1224年)に制作されたことが判明する。克明な写実を踏まえて情感に富んだ菩薩像の様式を造りだし、鎌倉時代彫刻の一つの到達点を示した仏師として、運慶次世代の中で最も注目されている定慶の代表作であり、当代の壇像彫刻の代表的な遺品である」と肥後定慶をほめちぎっている。山本先生の「鎌倉時代仏師列伝」によると私は各地で肥後定慶作品に出逢っていることがわかった。京都では大報恩寺像と鞍馬寺の聖観音、岐阜県では横倉寺の金剛力士像、鎌倉で明王院不動明王と展覧会で鎌倉常楽寺阿弥陀三尊と多い。山本先生によると大報恩寺准胝観音は「運慶が完成した興福寺北円堂弥勒仏に通ずる。しかし、髪筋の一部を天冠台に配した花形飾りの中心の孔に通すなどの細工をした髪型や、やや複雑で変化にとんだ衣文の形は古代の壇像彫刻の一部をとりこんだと思われるが、独特のはなやぎがある。」それから肥後定慶はよく言われる運慶の息子ではなく、運慶風を基本としたが古代壇像彫刻も作風に取り入れられた独立した仏師だと結論ずけている。とにかく国宝指定はめでたいことだ。まだ文化庁より令和六年度国宝・重文展の発表はないが、大報恩寺の出展があるかどうかが注目されるだろう。

2024年3月16日土曜日

特別展「中尊寺金色堂」⑤(二天像)

 

特別展「中尊寺金色堂」の仏像展示の最後を飾るのが、二天像だ。持国天は目を瞋らして口を結び、左手を高く上げて右手を強く振り下ろし、これに呼応するように袖が大きく翻る。増長天は口を開き、増長天とは逆に右手を高く上げて左手を振り下ろし、袖を大きく翻す。激しい造形は左右対称形に破綻なく造形する。口の開閉、身体の色から判断すると本来像名が逆で、安置位置も現在と左右逆であった可能性が指摘されている。前回の地蔵菩薩のブログで書いたようにもとは当初基衡壇にあったものと推定される。白水阿弥陀堂や鎌倉大善寺の二天像のように本像を模したと思われる仏像も安置され規範性のある著名な像であったと推察される。おそらく源頼朝も目にしており、鎌倉永福寺に同じ像を運慶に造らせたであろう。台座は後補でユーモラスな邪鬼があてられているが荒々しい奥州にある中尊寺にふさわしいのは岩座であろう。そのような想像をめぐらしながら会場をあとにした。

2024年3月10日日曜日

特別展「中尊寺金色堂」⓸(六地蔵)

阿弥陀三尊の次は左右に分かれている六地蔵を見た。お寺では阿弥陀三尊の方を向いているので奥の地蔵菩薩が見えにくいが会場ではガラスケース越しだがしっかりと鑑賞できた。最初の印象ではどれも同じように見えたが、自宅に帰って図録をみるとそれぞれ個性があるつくりとなっている。1089ブログでもあごの向きに注目し「左列内側に展示している前方の像はグッと顎を引き、中央の像はスーッと正面を見据え、外側に展示する後方の像はクィッと上げます」またこの六地蔵と二天像は阿弥陀三尊のころより頭部小さくつくられており、阿弥陀三尊とはあきらかに時代がことなり木の材質も違うものでつくられており、いつの時代に移動したかはわからないが地蔵菩薩に袈裟の内側に内衣と腹帯をのぞかせるのもあたらしい感覚で阿弥陀三尊より一世代あとの時代の製作を想像させることから、西北檀と入れ替わったという説がある。いずれにしても世界遺産であり国宝だと強く感じた地蔵菩薩であった。

 

2024年2月23日金曜日

特別展「中尊寺金色堂」③(観音菩薩・勢至菩薩)


 阿弥陀如来が強烈な印象だったため現地で左右の観音菩薩・勢至菩薩を見ても何の印象もなっかた。U案内人も「ご本尊ばかり見てました。」とのこと。しかし図録で観音・勢至菩薩をみるとグッときた。特に観音様がいい。皆金色(かいこんじき)の定朝以降の仏像で「仏像のみかた」のミズノ先生によるとこの時代の仏像は「頬の張った丸顔で、まぶたやあごのふくらみにほのかな抑揚をもちながら顔全体はゆったりとした曲線で構成されています。そして、目・鼻・唇はみごとな均衡をたもって、やさしさにあふれた表情をあらわしています。」とのこと。まさに今東博に展示されている観音様がよく定朝様式・藤原風をあらわした仏像だ。勢至菩薩はクールな印象だが図録では「当代の一流仏師、とりわけ円勢周辺の仏師の手によるものと思われる」とのこと。平泉に奥州藤原氏の財力で花開いた仏教文化の重要な遺産だと思った。


2024年2月18日日曜日

特別展「中尊寺金色堂」②(阿弥陀如来)

 

             

NHKのCG8K映像を見た後、中央の展示スペースには多くの仏像が並んでいるのが見えた。U案内人から「どの仏像から見る?」と問われ私は迷わず「ご本尊から」と答えた。東博お得意の展示ケースで至距離で見る阿弥陀さんがすごかった。仏像の前面は多くの善男善女でごった返しいたから1089ブログにあった阿弥陀如来のパンチパーマのセンター分けともいうべき後頭部の螺髪に注目した。後頭部で螺髪を左右に振り分けるように逆V字形に刻む鎌倉時代に慶派仏師が行う技法が先進的に使われていた。何とか正面から見られたが思ったより肉付がよくむっちりした仏像だった。この仏像の先進性に初めに気づいたのはU案内人だった。「見る角度により仏像の表情が変わる」とつぶやいた。たしかにそのようの見えるよう計算しつくされた造形だ。のちにU案内人からメールで「この仏様集団は、形式美、様式美の芸術」という賛辞が送られてきた。会場では気付かなかったが、右肩にかかる袈裟を別材つくる運慶の円成寺大日如来で使われた技法の先駆けがここにあった。当時としては新たな造形や技法を用いているのは、奥州藤原氏がこうした新規性を受け入れられる素養があったからであろう。そのころ京都では定朝後継の仏師が院派・円派・奈良仏師と三派に分裂した時代。ここに平泉派ともいうべき仏師集団がいたという想像をするのも楽しい。阿弥陀様の造形に感度して他の展示品に向かった。

2024年2月10日土曜日

特別展「中尊寺金色堂」①


 本日、仏像クラブの面々と東京上野で開催されている特別展「中尊寺金色堂」を見に行った。先日NHKで紹介されたようで会場には多くの善男善女が詰めかけており、大混雑であった。会場に入ると大型ディスプレイに8KCG超繊細映像で金色堂の内部が映し出されており、改めて中尊寺金色堂を体感できるような仕掛けだ。鬱蒼とした森の中、覆堂に守られ900年という果てしない時を刻んできた金色堂。当初材の9割が現存している他に類を見ない。中央が仏像の展示スペースになっており、まずは阿弥陀如来を拝観した。東博お得意の展示ケースで至近距離で阿弥陀さんを拝観する。1089ブログに書いていたセンターわけを確認し360に鑑賞した。U案内人が角度により表情が変わると驚いていた。他に金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅や金堂迦陵頻伽文華鬘なども見られ、展示品が少ない割にはじっくり鑑賞でき大満足の展覧会だった。展示品の詳細については後日また書くが、お昼まで時間が余ったので東博の他の展示を見たり外のイベントに寄ったりしながらいつもの和楽庵で大いに中尊寺金色堂の素晴らしさに大いに語り合った仏像クラブの面々だった。






2024年2月3日土曜日

みちのくいとしい仏たち⓸(宝積寺六観音)

 
会場の中ほどが「いのりのかたち宝積寺六観音像」のコウナーで展示品はこの六観音のみ。しかし横一列に自立している姿は印象的で江戸時代の儀軌にとらわれないおおらかな六観音だ。背中の墨書で尊名はわかるが、ここまでこだわりがない仏像は稀有だ。手が2本しかない千手観音や帽子を被った馬頭観音など実に自由だ。しかもこの表情ひとのよいおじさんたち総出演という感じだ。みちのくいとしい仏たち展の図録では仏像ひとつひとつの解説がされており、六体中もっとも凛々しいのが十一面観音とか菩薩より金剛童子や荒神像を思わせる准観音など仏像とみちのくの心に寄り添う解説となっている。今回の展覧会で印象に残った仏像たちだった。

2024年1月21日日曜日

みちのくいとしい仏たち③(岩手県八幡平兄川山神社山神像)

 

第二章「山と村のカミ」では仏像から発展した神像を取り上げられている。京都では松尾大社に代表される衣冠束帯の神像が多いがここ北東北ではあくまでも個人がそれぞれ思うカミが自由に製作されたようだ。ここに取り上げる兄川山神社山神像は80センチ足らずの像高でそういったもののひとつで監修者の須藤先生によれば、「この(山神像)は奇跡的に大切にされてきたもの」だと語る。一般的にお宮にある神像・仏像は秘仏でだれも見ないうちに祠のなかで朽ち果てていくことが多い。全体を見ると、異常に体が細く、角ばった山神。だが斜めからみると意外とふくよか。顔の大きさに比べ、目鼻や口、耳などのパーツが小さく、むしろこちらが山神の悩みを聞いてあげたくなる、そんな表情だ。林業に従事する人々に今もあつく信仰されているのもうなづける。

2024年1月13日土曜日

みちのくいとしい仏たち②(天台寺の伝吉祥天)

 

岩手には2009年に仏像巡りで訪れ、今回出展されている、尼藍婆・毘藍婆がある花巻の成島毘沙門堂が私の仏像巡りの北限だった。あとから知ったのが二戸市の天台寺に鉈彫様式の聖観音をはじめとして素晴らしい仏像が収蔵されているとのこと。2015年に東博で開催された「みちのくの仏像展」で鉈彫聖観音を拝観したがシャープな印象がする仏像だった。今回は展覧会のコンセプトにあった仏像が集められたようで、このこけしの様な愛らしさの伝吉祥天は太づくりの体躯、野良着のような衣装に墨描きの文様。ホトケよりカミを意識した像といえる。このようなほっとさせる仏像が会場にあふれている。夢中で次の展示に向かった。


2024年1月6日土曜日

みちのくいとしい仏たち①


 本日(2024年1月5日)東京ステーションギャラリーに「みちのくいとしい仏たち」という展覧会を見に行った。北東北の地方民間仏といわれる仏像を集めた展覧会で、初のこころみだというので期待してでかけた。初めて訪れた東京ステーションギャラリーは東京駅ドームの3階・2階の展示室と1階受付で構成された美術館で、東京駅の喧騒を抜けると静かでやさしい空間が広がっていた。全部で8つのセクションに分かれている展覧会場は「ホトケとカミ」「笑みをたたえる」「ブイブイいわせる」「やさしくしかって」「かわいくてかなしくて」などユニークなタイトルがならび展示されている仏像もほほえんでいるか、怒っていてもどこかユーモラスな仏たちでいっぱいだ。だれても癒される空間が広がっている。みちのくといわれる東北地方の仏像を見になんどもでかけたが岩手の花巻以北の仏像を見に行ってなかったので出会わなかったのであろう。私の東北仏のバイブルである別冊太陽「みちのくの仏像」(2012年発行)にも今回の目玉の展示宝積寺六観音や八幡平の兄川山神社の「山神像」が掲載されていた。今回の展覧会がきっかけで北東北のいとしい仏たちに出会う旅に出かけたいと思った。年始早々いい展覧会を見られて上機嫌で東京駅にの喧騒をあとにした。