見仏記には京都清水寺奥の院の平成15年の6月の243年ぶりの御開帳の様子
が書かれていたが、毎年秋に京都を訪れている私は一生見れないものとあきらめていた。なんと今年の春開催された「快慶展」では出展されておりきしくも出会うことができた。展覧会会場の入ってすぐのコーナーで、快慶仏にまじってひっそりと展示されていた。千手観音は三面ある上、頭上に二十五面を載せている。手はもちろん体のあちこちから伸びて法具を持ち、光背にも化仏が分散している。図録によると平面的な顔立ちが先に紹介した遣迎院阿弥陀如来に似ており快慶無位時代の作風に通じるとみており、私も墨書の記載はないものの快慶作に間違いないと確信した。まだまだすばらしい快慶仏が待っているので次の展示に向かった。
この秋の「京都非公開文化財特別公開」の目玉は南山城の仏たちだと朝日
新聞の記事に載っていた。一度見ているものは少なく多くははじめて聞く仏像だった。そのなかに「神奈川仏教研究所」のサイトで見かけた精華町常念寺の聖観音が入っていた。これは出かけないわけにはいかなくなり、京都につくや、まっすぐに精華町に向かった。朝日新聞の「京都非公開文化財特別公開」の特集記事で関ジャニ∞の丸山さんが訪ねる記事が載っており、いやがうえにも期待が高まった。朝早いせいか、参拝客もまばらながら「南山城古寺の会」のボランティアの方々の熱心な説明が始まっていた。本堂で写真で説明を受けてから別棟の薬師堂での拝観となった。像高170センチの平安時代前期の一木造り。以前は薬師菩薩として祀られて、関ジャニ∞の丸山さんがもって朝日新聞に載っていた江戸期の薬壺は見ることができなかったが、朝日新聞で対応されたご住職が「平安前期に神仏習合の思想の中で、神様を如来ではなく菩薩として表した貴重な作例です」との記載があった。私が神護寺の薬師如来をはじめとしてずっと追ってきた貞観仏のながれの作風の仏像に出会えて幸先よく次のお寺に向かった。
満願寺は浄楽寺と同じく横須賀市にあるお寺で仏像クラブでも個人的にも何
度も訪れたお寺で運慶風をよく理解した工房内の仏師が造像したといわれている。会場内では第二会場の後半に2メートル近い観音と地蔵が存在感があり圧巻である。図録には観音像が浄楽寺阿弥陀三尊の観音像に似ている説を紹介し「満願寺像も運慶の手になると考える説がある」と控えめに書かれていた。私はかねてより運慶の作品ではないかと思っていたが、芸術新潮の「オールアバウト運慶」のコラムに書かれていた瀧山寺の聖観音の光背と満願寺観音像の腕釧との共通性が書かれており俄然運慶作と確信した。鎌倉御家人に造像を頼まれていた事実から有力御家人の三浦氏の一族で一の谷ひよどり越えで活躍した佐原義連が創建した満願寺に運慶作品があってもおかしくないのでは。そう確信して会場を後にした。
本日(9日)仏像クラブの忘年鑑賞会として静岡下田にある上原美術館に出か
けた。熱海より伊豆急リゾート21「キンメ電車」に乗り込み一路下田に向かった。上原美術館の最寄り駅のことで一悶着あったが下田からバスでスムーズに向かうことができた。先月リニューアルオープンしたばかりの美術館は仏教館と近代館に分かれており、仏教館に美術館所蔵の仏像が展示されている。奥の名品コーナーにはこの時期に毎年、寄託される松崎町吉田寺の阿弥陀三尊(脇侍は観音と地蔵)が展示されており、両脇に館蔵名品の十一面観音や今回あらたに加わった大日如来などが展示されていた。小像ながら平安時代十一面観音は絵画をやられる仏像クラブのメンバーからデッサンの基本を押さえた素晴らしい名品だという言葉をいただいた。下田まで戻り、美味しい地魚を食べながら大いに語る仏像クラブ面々だった。
今回の京都・滋賀の旅行の日程を決めるときに確認したのが、京都非公開文
化財特別公開の日程と湖東三山西明寺の三重塔内陣特別公開の開始日だった。11・12日ならば両方見られるとのことで決定した。心配だったのが雨だったが、問題なかった。湖東三山地区のお寺巡りに予約制乗合タクシー「愛のりタクシー」を利用して巡ることにした。タクシー会社指定のJR河瀬駅に向かうと乗合タクシーであるが乗客は私一人だったので途中下車もなくまっすぐ西明寺に向かった。BS朝日の「五木寛之の百寺巡礼」で五木寛之が西明寺へのアプローチの参道をほめていたが、雰囲気のあるいい参道だった。三重塔内部は慶派の大日如来と柱や壁に描かれていた壁画がすばらしかった。宝冠のない大日如来の周囲には脇侍の三十二菩薩や宝相華・迦陵頻伽などが極彩色で描かれ、眼も艶やかな華やかさだ。拝観は入れ替え制となっており本堂にも見るべき仏像があるので三重塔を後にした。
平成23年、県立金沢文庫で開催された「運慶展」には瀧山寺の帝釈天と
ともに聖観音の装身具も展示されていた。その後、瀧山寺を訪れ聖観音をはじめて拝観した時もつけていなかった。今回の東博開催の「運慶展」ではなんと聖観音に装身具をつけ展示されているとのことで、ひそかに期待していた。聖観音は像高175センチ弱で源頼朝三回忌供養のため頼朝の従兄にあたる僧寛伝が建立し、頼朝等身大の聖観音を造り、像内に頼朝の遺髪(あごひげとも)と歯が収められており作者は運慶・湛慶との記録がある。金沢文庫の「仏の瀬谷さん」によると自由にうねる天衣をはじめ、衣装の表現は高野山の八大童子のそれをさらに洗練された趣とのこと。問題の装身具だが当初は後補のものと考えられていたが、近年その大部分が造像当初のものという見解が示され今回の展示となった。唐草文様の光背としっくりして私も運慶がつけたと確信した。光背は東博法隆寺宝物館にある光背とそっくりで芸術新潮の「オールアバウト運慶」によると頼朝を聖徳太子になぞらえて、東大寺焼き討ちをした平家を廃仏をした物部氏との関係に重ねているという。いろいろ示唆に富む聖観音であった。来年の金沢文庫開催の「運慶展」では瀧山寺の梵天が展示されるとのこと。ここら辺を踏まえてじっくり拝観したいと思う。
今年の秋の「京都非公開文化財特別公開2017」の目玉は南山城になってい
る。専用サイトでも現光寺の十一面観音が大きく取り上げられていた。京博や金沢文庫での展覧会では見かけた仏像だが、お寺に行くのは今年が初めてだ。JR加茂駅から歩いて18分となっていたが、目立った標識もなく土地の古老に聞いてようやくたどり着くと、大勢の善男善女が拝観の列を作っていた。待つ間「南山城古寺の会」のご婦人がお寺のいわれから荒廃した様子。近年「海住山寺」の助力により復興し重文指定となり収蔵庫を立てた苦労話などを切々と語り待っている時間も無駄ではなかった。収蔵庫に入ると今まで見られなかった光背をつけた鎌倉時代のりりしい十一面観音が正面に見えた。わきには今回の公開に合わせて奈良博よりとり寄せた四天王像が祀られていた。近くにはひっそりした風情の中に建つ本堂があり、人が多くなければいい雰囲気だっただろう。電車の時間もあるので、足早に駅に向かった。
本日は湖東三山の西明寺と金剛輪寺を見て滋賀県の能登川に移動し聖徳太子伝説に彩られた石馬寺に向かった。聖徳太子の乗った馬が石になった池を横に見て最後の長い石段を登った。見仏記によると四天王に践まれてる邪鬼の顔が見所だそうだ。やっとの思いで境内にたどり着きメガネをかけた優しげな若奥様に拝観料を払い宝物館に向かった。中央に阿弥陀、左右に十一面観音と四天王が並べて配置しており、後ろに役行者と大威徳明王が控えている配置だ。木目も鮮やかな大威徳は、特に乗っている牛の大きさとリアルさが特徴的で、巧みである。本堂から帰り再度若奥様に声をかけ仏像のブロマイドを購入してバス停に戻り能登川から京都の喧騒に向かった。
今日から仏像巡りに京都に出かけている。南山城のお寺を巡り、今日最後に訪れたのは黄檗の萬福寺だ。仏像の写真集で萬福寺の韋駄天を見てからずっと会いたかった仏像だ。あいにくの小雨混じりの夕方なので薄暗がりでの対面となったが実物のほうが写真より良い。韋駄天は増長天に仕える八将軍神の位置づけだが、萬福寺では三十二神いる将軍神のトップという格が与えられ、その姿も個性的つくられている。一般的に合掌する姿で作られている韋駄天だが、この像は豪華な甲冑を着て合掌するどころか胸を張って反り返り、余裕の笑みを浮かべている。そこがこの仏像の魅力だ。他にも「禅展」に出展されていた羅怙羅(RAGORA)を初めとした十八羅漢もよかった。紅葉が始まった庭の写真を撮り京都の宿に向かった。
運慶展の第一章「運慶を生んだ系譜」の見どころは康慶の四天王像だろう
。平成21年の春、開催された「国宝阿修羅展」で360度拝観できたが、今回は横一列に並んだ展示だった。東博お得意の露出展示で明るい照明に照らされ布地の柄までハッキリ見える。像高は2メートル近くあり現在は中金堂に安置されているが、もともとは南円堂の不空羂索観音の眷属(けんぞく)として造られた説がある。私も南円堂を拝観したことがあるが、4メートル近い不空羂索観音にふさわしい迫力のあるお像だ。四天王は右手に宝珠、左手に剣を持つ持国天、右手に戟、左手に剣を持つ増長天、右手に羂索、左手に剣を持つ広目天、右手に多宝塔、左手に戟を持つ多聞天である。それぞれ決められた色で塗り分けられて見飽きない仏像だ。来年秋の中金堂落慶のおりにどこに安置されるか楽しみしている。その際はまた奈良を訪れたいと思う。
運慶展では第一章「運慶を生んだ系譜」として主に康慶の作品の展示があっ
たが最初に展示されていたのが、初めて玉眼が使用された奈良長岳寺の阿弥陀三尊だった。平成22年秋に長岳寺を訪れて拝観したが玉眼にばかり目を奪われ、その先進性に気付かなかった。展示解説によると肉付きのよい体躯や深く刻まれた丸みのある衣文などに、いちはやく鎌倉彫刻が先取りされているという。特に顕著なのが右ふくらはぎ上に表される三角形状の衣のあしらいで、康慶作興福寺不空羂索観音や願成就院の阿弥陀如来・浄楽寺の阿弥陀如来に継承されていくという。作者は奈良仏師で康助とみられ後継に孫の成朝ではなく康慶を選び慶派誕生のきっかけを作ったことで知られている。定朝様全盛の時代に康慶に己の先進性を継ぐものとして康慶を選んだことが作品でもよく分かった。
最近放送されたNHKBS「仏像ミステリー 運慶とは何者だ」では私が
京都で見た六波羅蜜寺の地蔵菩薩のCT映像も放送で初めて発表された。それによると地蔵菩薩の像内納入品に五輪塔とともに大量の紙が収められていることが地蔵菩薩を上から輪切りにした映像が流されていた。この映像と私が以前購入した山本勉先生の著作「運慶に出会う」の解説をまとめるとこのようになる。この地蔵菩薩は八条高倉に運慶自ら建立した地蔵十輪院の本尊で、運慶作品にしては珍しく一木造りであるのは運慶一族に師や先祖を弔うために地蔵菩薩をつくる伝統があったとのこと。中に入っていた大量の紙は昭和初期に調査された際発見された「印仏」で地蔵菩薩を刷った343枚の一部であり得る。このことから山本先生が指摘した運慶の師であり父である康慶の菩提を弔うためにつくられたのであろう。現在のCTの技術から運慶の思いまで類推することができるのは素晴らしいことだ。ただ番組中に女優の壇れいさんが「触れてみたいようだが、触れてわいけないよう」と言っていたようにここは永遠のミステリーにしたいと感じた。
運慶は平成の時代になってもニュースになる新たな発見がある仏師だ。新出
の大日如来がニューヨークのオークションにかけられたり、最晩年作が金沢文庫で発見されたり、最近では運慶作と思われ今回出展された十二神将のひとつから運慶死後の年号が書かれた墨書が発見されたりと話題に事欠かない。しばらくの間毎年夏の東博での展覧会に出展されていた、運慶作真如苑真澄寺の大日如来にも今回の展示で驚くべき発表がなされていた。文化庁がボアスコープ(棒状の内視鏡)で大日如来の耳穴より挿入し仏像の内部の撮影に成功してたとの発表。また東京国立博物館がCT調査によりX線写真では分かりづらかった心月輪や五輪塔という像内納入品をより明確に撮影に成功した発表。どちらも静止画での説明のためいまいちイメージがつかめなかったが、先週の土曜日NHKBSで放送された「仏像ミステリー運慶とは何者か」でCG動画がながれ全体像がつかめた。真澄寺の大日如来の胎内は黄金で彩られ、5色の五輪塔形木札が梵字とお経で荘厳されており、水晶製の心月輪と五輪塔が収められているという。驚くべきことだ。だれも見れない仏像の内部にこれだけの仕掛けをするのは運慶しか考えられない。ぜひ東博のミュージアムシアター向けにVR作品が製作され大画面でゆっくりと解説が聞けるようになることを期待している。
今週の日曜日、仏像クラブで東京国立博物館平成館で開催の運慶展に出かけ
た。仏像クラブは発足以来、静岡の願成就院や横須賀浄楽寺、遠くは奈良の円成寺や興福寺を訪れ、運慶仏がひとつのテーマになって活動して来た。今回は運慶仏の31体のうち22体が集結するといううたい文句で期待が高まる。会場に入ってすぐに円成寺の大日如来が展示されていた。露出展示で見る初めての運慶の初作に引き込まれた。第一章「運慶を生んだ系譜」では初めて玉眼が使用された長岳寺の阿弥陀三尊が期間限定で展示されており、お寺で見た時よりすばらしく感動した。阿修羅展で見上げた像高2メートルの康慶の四天王や運慶作興福寺仏頭が並び、第二章では運慶の東国で活躍した仏像から京都・奈良での残された仏像が並ぶ。高野山の八大童子はガラスケースで間近に見れてよかったし、興福寺北円堂の無著・世親を囲むように最近運慶作と認められた、南円堂の四天王のコーナーは圧巻だった。第二会場では運慶作の可能性がある清水寺の観音菩薩・勢至菩薩や仏像クラブでおなじみの満願寺の観音・地蔵から運慶の後継の湛慶の毘沙門天や康弁の天燈鬼・龍燈鬼が並び、最後に問題の浄瑠璃寺伝来の十二神将が展示され、まさに息つく暇もない展示にU案内人も快い疲れを感じたと感想をのべていた。帰りにU案内人紹介の御徒町のそばやでおいしいそばを食べながら大いに運慶展の話題で盛り上がった仏像クラブの面々だった。
今週の月曜日、台風一過の青空のもと、上野東京国立博物館東洋館に出かけ
た。その日は無料開放日となっており、東洋館の地下1階の会場へと向かった。今、東洋館では「博物館でアジアの旅 マジカル・アジア」というテーマで展示や関連イベントが開催されており、「セブンワンダーツアー」と称して七人のトーハク研究員の案内が行われている。この日は「願いを叶える仏像の旅」というテーマでツアーが行われていたが、私がついたときには終了の拍手が沸き上がっており、残念ながら聞きそびれてしまった。展示品はすべて東博の館蔵品のため写真撮影OKで、シャッターを切る音を聞きながら鑑賞した。私も携帯のカメラを片手に夢中で展示品を見入っていた。平成21年に上野の森美術館で「聖地チベット展」を鑑賞したが、館蔵品はそれより小ぶりな展示品ばかりだが、どれもユニークで仏教を基本としながら独自に発展した仏像が興味深かった。くわしくはまたの機会に紹介するが、日本の仏像と対局にある異形の姿の仏像が次々と現れ興奮した。マジカル・アジアの他の展示品も気になるので、いったんその場を離れて他の展示品を見に行った。
奈良西大寺展は現在大阪会場がにぎわっているようだが、東京と山口での展
示が園證寺旧像の普賢菩薩だ。私があこがれている百毫寺の普賢菩薩に似ている平安時代の仏像だが、近年文化庁が文殊菩薩とセットで4憶5千万で購入した普賢菩薩だ。以前は生駒市の園證寺で拝することができたとのこと。国保有となって東京の展覧会でも鑑賞する機会を得られたのはうれしいことだが、反面雰囲気の良いお寺で拝観できないのは寂しい限りだ。大振りの髻を結い、腕前で合掌し座す姿で、条帛と天衣を掛け、裙を着ける。思ったより小さかったが、高く太い髻、両肩前に表され渦文、重厚な目鼻立ちで、量感溢れる仏像だった。最近国が購入したTV見物記でおなじみの額安寺の普賢菩薩も今年奈良博でお目にかかれなかったのでいつか拝したいと思う。
松代の清水寺で最後に紹介したいのが、平安時代の聖観音だ。像高160センチ
あまりの桂在一木造りで千手観音・地蔵菩薩と同時期の造像で、信州における最古の木彫仏だ。頭部を左に傾け、左手を上にあげ、右手を垂れ、左の膝を軽く緩めて、右足を踏み出す像の姿に動きがあり、然も肩の張りが極めて大きく、胴部を強く締めたその肉どりにも特色がある。膝下の裳の衣文はいわゆる翻波式衣文で、平安時代初期の仏像の特色をはっきりと示している。私が注目したのは頭部の表現で、まるで帽子を被っているようにも見えた。三体それぞれ特色があるうえ、まだ修復されていなかったり、江戸時代の補色を取られていない仏像があり見どころが多いお寺だった。丁重にお礼をいい清水寺を後にして善光寺へ向かった。
今年の春、奈良博で開催された「特別展快慶」に京都東山南方の地に伝わる
の悲田院の阿弥陀如来が出展されていた。事前に多摩美大の青木先生のコラムにお寺での阿弥陀如来の写真を見ていたので、光背なしの展示だったが化仏と蓮の花と思われるすばらしい荘厳に彩られた光背を想像しながら拝観した。この仏像は平成21年の京博他の調査で頭部前面に「安阿弥陀仏」の墨書が発見された新しい快慶仏で、髻を高く結い上げ肩を露わにしない通肩の姿で、鎌倉浄光明寺の阿弥陀如来のように本来は髻を覆うように宝冠を被っていた宝冠阿弥陀だろう。悲田院は泉涌寺の塔頭寺院で最近買った雑誌によると藤原氏が創建した法性寺の跡地に建てられた寺院で文献によると「法性寺安阿弥陀仏」とし快慶が記されておりも近くに居を構えていたという。藤原一門の信西入道とのかかわりもあり藤原一族のとの交流も指摘されている。いつか訪れる機会があれば是非とも光背で荘厳された阿弥陀如来を拝観したいものだ。
信州二日目は別所温泉にある国宝八角三重塔を観光し、塩田平を歩きとバス
で観光する予定だった。信州はこの日も朝から猛暑で行けどもお寺にには到着せず、頼みの「信州の鎌倉シャトルバス」も来る気配もなく塩田平交流センター「独鈷館」を見つけたので暑さから逃げるように中に入った。案内の方が親切にタクシーを呼んでくれて、上田駅に向かう前に中善寺に立ち寄れた。中善寺は塩田平の南側に峩々とした山容を見せる独鈷山の山麓にある。中善寺薬師堂は美しい阿弥陀堂形式の建物で、建物の屋根をそのままふきあげ、てっぺんに宝珠をのせる四角な台を乗せた「宝形造り」の屋根を冠した薬師堂の中に寄木造りの薬師如来がおられた。「独鈷館」で購入した塩田平のガイドによると「四天柱」という薬師堂の内部の4本の柱に囲まれて薬師如来がおられる珍しい形式の堂内となっている。円満な顔立ち、抑揚を抑えた体躯、整った衣文など、平安後期の定朝様の特徴を示している。ゆっくり拝観していたかったが、タクシーを待たせており、午後にお寺2か所を巡る予定なので早めにタクシーに戻り上田駅へと向かった。
前回の善光寺御開帳時に長野県信濃美術館で開かれた「”いのり”のかたち」
展では多くの長野の仏像が展示されていたが、そのころは信州の仏像の素晴らしさに目覚めてなかったので、行かなかった。その後信州の仏像の写真集を見つけてそのレベルの高さに驚き、今回の訪問となった。今回紹介する地蔵菩薩は、「”いのり”のかたち」展には出展されていなかったがSNSで写真が載っており注目した仏像のひとつだ。地蔵菩薩は千手観音と同じく平安時代初期に製作された像高157センチの一木造りの仏像だ。お寺の方とも話したが、斜め横から表情が素晴らしくうっとりした。いかにも堂々たる量感、動きのある像容、そして彫り強い衣文の特色が見受けられる。正面の裳を大きな波の間に小波を二条はさむ、複雑な翻波式衣文で飾り、胸の肉身部と鮮やかなコントラストをみせている。お寺の方の説明によると平安時代の地蔵菩薩としては錫杖を握るお姿は珍しいとのこと。このお姿は鎌倉でよく見られる鎌倉時代の特色であり、鎌倉時代以前は右手をそっと垂らししている姿だった。清水寺の地蔵菩薩は右手に錫杖を握っており、造像当時から錫杖を持ったお姿であった可能性が高く、錫杖を持った地蔵菩薩像として、日本最古の像と云われている。清水寺にはこのような驚くべき仏像が人知れず祀られていたのに驚かされ、地蔵菩薩の前で動けなくなった。
今日は信州仏像巡りの最終日。急いで昼食を済ませ青木村行きのバスに乗り
込み。一路大法寺を目指した。停留所からかなり歩いて本堂に着くと三重塔に行くように指示があり塔の近くの観音堂に向かう。観音堂の立派な厨子は観音の像高に会わないため後ろに安置されていた。顔は卵型であごにかけて柔らかい丸みは魅力的だ。少し眠そうな目をしているのに親近感がわき見入ってしまった。かの白洲正子もここのお寺を訪れておりエッセイで「穏やかなお顔が地蔵様に似ているのは、地蔵と十一面を一体ともなす思想の現れであろう。材は桂で、台座に木の根の部分を使ってあるのも、立木観音の伝統を踏襲していることに気がつく」と書き残している。脇侍は普賢と文殊で立像のため獅子や象はつかない。多分他の寺からの客仏だろう。帰りのバスの時間もあるのでそうそうに切り上げ最後の寺に向かった
今日から信州の仏像巡りに出かけている。長野についてまず最初に訪れたのは、松代の清水寺だ。此処は知る人ぞ知る貞観仏の宝庫で、重要文化財の仏像が、三体もあるお寺だ。信州に来ていきなりクライマックスのお寺を訪ねることになるのだが、メインの3体がすばらしいので3回に分けて報告する。お寺の方に収蔵庫を開けてもらい中に入ると中央に千手観音、左に地蔵菩薩右に聖観音が祀られいた。千手観音は頂に如来相、その周囲、天冠台の上に十一面をいただき、手が四十二本、頭部を比較的小さめにつくり、179センチの像容の肉どりをいかにも端正にまとめている。自宅に双眼鏡を置いてきたので十一面のひとつづつをじっくり見れないのが残念だったが、近くから拝せるのでその迫力は十分に伝わった。仏女新聞にも書かれておりこの千手観音の金箔の貼り方に注目している。製作は九世紀の頃で、信州における現存する最古の木造であり、一木造りの仏像では東日本で最も古いほとけさまとお寺の方は言っていた。さい先よくいい仏像に出会えて明日の期待が高まるそんなお寺だった。
特別展タイ九州展開催の頃からタイ仏像大使のみうらじゅん・いとうせいこ
う氏が騒いでいたのが12世紀にタイ南部伝来の「ナーガ上の仏陀」だ。展覧会場でもいきなり最初に展示されており、圧倒された。よく見るると鼻筋が通っている「イケ仏」で端正な顔立ちと穏やかな微笑みにタイ観光大使の乃木坂46がうっとりするのもわかる。この「ナーガ上の仏陀」はアユタヤより古い「シュリーヴィジャヤ美術」の流れをくむ仏像でその完成度が高いのには驚かされる。瞑想する仏陀を雨風から守る蛇の神ナーガの題材は東南アジアでよく見かけるが、日本の大乗仏教の仏像ではあまり見かけないので、いかにも南国らしさを感じいっきにタイの世界観に引き寄せられる展示品だ。露出展示で360鑑賞できるので後ろに回ると、7つの顔を持つ大蛇の尻尾はひとつのところも興味がわいた。帰りのグッズ販売コーナーでクリアファイルが売っていたので購入した。何度でも見に行きたくなるような仏像だった。
東北出身の会員より何年も前から、白水阿弥陀堂への訪問を提案いただいた
が、遠いことなどを理由に実現には至らなかったが、常磐線の品川駅開通や仏像クラブ発足10周年記念など環境が整い、実現の運びとなった。いわきの北部にある薬王寺からいわき市街地を通らないバイパスで一路白水阿弥陀堂に向かう。阿弥陀堂に着くとそこは池に囲まれた公園になっており、東日本大震災をきっかけに原発事故などにより遠のいた観光客をなんとか取り戻そうとしている福島の人々の願いが込められているのを感じた。京都の平等院・浄瑠璃寺・法界寺、大分の富貴寺、平泉の中尊寺や宮城の高蔵寺など多くの国宝阿弥陀堂で定朝風阿弥陀如来見てきたが、ここ白水阿弥陀堂も奥州藤原二代基衡の娘徳姫が亡き夫の冥福を祈って、故郷平泉の金色堂に模して創建したと伝えられている。「白水」は「平泉」の「泉」より取ったと説明の僧侶の話にあった。正面に平安時代後期の定朝風の阿弥陀三尊と前方に二天像を安置している。向かって右側の持国天の鼻筋が通っているのが印象に残った。おりしも浄土庭園の池には、ハスの花が咲き始めており帰り際にそれを鑑賞してからタクシーに戻った。湯本の寿司屋で昼食をとり、本日のいわきの仏像巡りについて熱く語る仏像クラブの面々だった。
5月に奈良に行ったとき、福智院へ向かう道すがら「璉珹寺御開帳」と達筆
で筆で書かれた紙を何度も見かけた。「璉珹寺」とは「見仏記」でみうらじゅん氏がイラストを描いた半身裸の阿弥陀如来がいらっしゃるお寺だと気づき、福智院の後急遽訪問することにした。お寺にはご開帳の日らしく大勢の檀家の方々が詰めかけており、本堂に招かれた。中には中央に半裸の阿弥陀如来、右には観音菩薩が祀られていた。阿弥陀如来は顔も体も白っぽい肌色に塗られていて艶めかしく、下半身にはいたハカマは絢爛たる柄物。顔の造作は大きく、ゆえにおおらかさや慈愛が強調されている。頭髪のゆるいうねりは縄状で清凉寺式なのだが、それがこの仏の場合パーマのようにも感じられて女性的に見える。一説には光明皇后がモデルだともいわれるのは当然のことだろう。本尊の右に、黑く締まった体つきの観世音立像があり、こちらは少し吊り目で精悍な顔つきをしていた。お寺のかたによると東博で開催された仏像~一木に込められた祈り展に出展されたことがあるとのこと。みうらじゅん氏によれば「ダルビッシュ系」だそうだ。思いがけずいい仏に出会え結縁できたことに満足して奈良駅に向かった。
先週の土曜日仏像クラブで福島県いわきの仏像鑑賞会を行った。仏像クラブが創立10年を迎えて、初めて東北地方へ遠征をおこなった。メンバーのアドバイスでジャンボタクシーを手配して、長隆寺・薬王寺・白水阿弥陀堂と巡った。最初に訪れた長隆寺はSNSで初めて知ったのだが、鎌倉時代の快慶風の地蔵菩薩がまつられている。野趣溢れる参道をあがりご住職に連絡し地蔵堂を開けていただいた。中央の厨子には像高177センチの立派な地蔵菩薩が祀られていた。縁起によると鎌倉円覚寺の長老より南北朝時代に贈られたもので、鎌倉時代の快慶の作と伝えられているとのこと。秘仏になっていたのか衣の色が良く残っており、袖を装飾的に波立たせるなど快慶的な特徴も見いだせるが、解体修理を行ってみないと断定はできないと感じた。仏像クラブの面々はいわきにこのような素晴らしい地蔵菩薩があることに感動したらしく熱心に写真に収めていた。その次に向かったのが薬王寺で、鎌倉時代の文殊菩薩をはじめ重要文化財の寺宝を持つ寺だ。別冊太陽「みちのくの仏像」にも掲載されている仏像で慶派の作とのこと。左手に経巻、右手に剣をとっていたものと思われるが、持物は失われている。増高42センチだが迫力のある獅子に乗っており、慶派の作とみて間違いないだろう。突然の訪問にもこころよく応じていただいた次世住にお礼を申し上げ、白水阿弥陀堂に向かう仏像クラブの面々であった。
先週の土曜日に東博で開催されている「特別展タイ~仏の国の輝き~」を鑑
賞しに出かけた。梅雨明けまぢかの猛暑でうだるような暑さだったが、待つこともなく平成館の涼しい会場に入ることができた。会場は第一会場と第二会場に分かれており、第一が仏像中心で古代からスコータイまで、第二がアユタヤとラタナコーシン(バンコク)の工芸品・絵画を中心とした展示構成になっている。会場に入ってすぐ今回の展覧会のポスターになっていた、みうらじゅん氏お勧めの「ナーガ上の仏陀」に会える。ほとんどの作品が露出展示となっており、作品との距離が近く360鑑賞できる作品もあり、この仏像など大蛇の尻尾まで後ろに描かれている。他にも観音菩薩など大乗仏教の仏像も展示されており、第1章だけでこれは面白いと感じた。第二章「スコータイ 幸福の生まれ出づる国」では微笑みの仏たちがいっぱいで、ウォーキングブッダも登場。癒しを感じる空間になっている。第三章のアユタヤでは金象や神様に捧げる靴・金冠などのまばゆい工芸品が多く展示されていた。江戸時代にシャムで活躍した山田長政関連の展示品など日本との関わりが展示されており、最後のコーナーでは「ラタナコーシン インドラ神の宝蔵」と題し、ラーマ二世王作の大扉が展示されていた。日本の資金協力で修復されたバンコク中心部の寺院を飾る大扉を扉ごと日本に持って来て展示されている。表面には猿・鳥・虫などの彫刻が施されており興味深かった。見ごたえがあり1時間半ぐらい鑑賞でき、快い疲れを感じ会場をあとにした。
4月のことになるが、三浦半島二大霊場大開帳奉修の京急のキャンペーンポ
スターに載っていた野比の最宝寺に三崎のマグロを食べたあと向かった。つつじが満開なお寺の境内を通って薬師堂の中に入り拝観した。横須賀市教育委員会によると最宝寺は鎌倉に創建された天台宗のお寺で創建当時の本尊とのこと。像の構造は玉眼入りの寄木造、像高は86センチ左手の薬壺と彩色は後世のもの。面立ちは眼尻の切れ上がった切れ長の目で張りのある引き締まった威厳のある相をしている。全体に鎌倉後期の宗風の影響が顕著であるが、建長寺の地蔵菩薩にみられる法衣垂下の特徴は見られないが、衣文のひだの重なりが良くまとめられている。中世の薬師如来像が現存する例は鎌倉でも少なく、優作として貴重なものとのこと。三浦は何度も仏像クラブで訪れたが、まだまだ優作の仏像があることに感動し、お寺をあとにした。
先週の日曜日、今年の東京仏像さんぽとして東京中野区のほとけ様を見に仏
像クラブで出かけた。梅雨時のあいにくの雨模様だったが、西武新宿線の新井薬師前で集合し、先ずは新井薬師に向かった。新井薬師梅照院は駅から5分ほどの距離にあり、16世紀の天正年間の創建で、本尊の薬師如来は光る梅の木から発見されたことによりつけられたとされている。薬師如来は秘仏のため薄暗い堂内の先にはお前立の江戸期の薬師如来が日光・月光菩薩とともにまつられていた。薬師如来を囲む壁には十二神将像がまつられていた。引き続き菅原道真作と伝承が残る鎌倉期から南北朝期の千手観音を参拝した。素地の風合いをとどめ、卵型のお顔に刻まれた目鼻口元や、厚みをもたせ下腹部を覆う衣文など非の打ちどころなく、千手もほとんど当初のままであるという。実にありがたい美仏だ。ガラス越しでの拝観だったが頭上の化仏と十一面もよく見れてよかった。これが、中野区有形文化財でしかないのが驚かされる。最後のお寺に歩いて向かうそこかしこに、由緒正しき立派なお寺があり中野区の寺の多さに驚く仏像クラブの面々だった。最後の宝仙寺は法事で中からの拝観はかなわなかったが、東中野のジャズが流れるそばパブで天ぷらそばをいただきながら仏像について語る会う仏像クラブの面々だった。
先月のことになるが、特別展「鎌倉の至宝~優美なる慶派のほとけ」を見に
久しぶりに鎌倉国宝館に出かけた。特別展を見る前に同時開催している平常展示「鎌倉の仏像」を鑑賞した。鎌倉国宝館のHPで神奈川県立歴史博物館から仏像が4体来ていることを知っていたので注目していた。今回展示されていたのは県博所蔵の阿弥陀如来・保木薬師堂の薬師如来・宝生寺の大日如来の三体で県博所蔵の菩薩半跏像は展示されていなかった。特別展のコーナーに向かうと鎌倉教恩寺の阿弥陀如来及び両脇侍像と秦野金剛寺の阿弥陀如来及び両脇侍像が今回の展覧会のメインの展示になっていた。教恩寺像のガラスケースには「快慶」金剛寺のガラスケースには「定慶」と張った展示になっておりわかりやすかった。奈良で「快慶展」の仏像をたくさん見てきているので教恩寺像が快慶作とは思えなかったが、教恩寺は平重衡の伝説も残されておりいちがいに否定できなかった。今回の特別展は小規模だったが印象的な展示だった。
奈良西大寺展には叡尊の弟子により復興された多くの寺院の仏像も出展さ
れており、不空院の不空羂索観音もそのひとつだ。不空院を知ったのはみうらじゅん・いとうせいこう氏の見仏記で、みうらじゅん氏のイラストから、いつかは拝んでみたい仏像のひとつだった。鎌倉時代の作で、一面三目ハ臂で高い髻を結い、顔を正面に向け、左右第一手は腕前で合掌し、他は蓮華・錫杖・羂索などを執り座している。見仏記によるといかにも慶派の作として座してながら動きを感じるとのこと。先日奈良の璉珹寺に参拝したときに奈良市のボランティアガイドに勧められたが、時間がなくお寺の訪問は出来なかったが、見仏記によると瀟洒なお寺だが、確かに不空院は仏像マニアの心をくすぐるお寺だとのこと。機会があればお玉地蔵の香薬師寺とセットで高畑あたりをそぞろ歩きたいものだ。
先週の日曜日、仏像クラブで三井記念美術館開催の奈良西大寺展へでかけた。開場時間の10時に入口の前に集合し、西大寺に関する動画を観賞してから展示室に入場した。入ってすぐは密教法具のコーナーで展示の目玉となっているのが国宝金銅透彫舎利容器だ。360に観賞でき、仏像クラブの面々も食い入る様に見ていた。次の展示室は西大寺の仏像のコーナーで、塔本四仏坐像の内釈迦、阿弥陀のみの展示であった。いとうせいこう氏が大好きな文殊菩薩や善財童子、最勝老人もよかった。最後のコーナーでは一門の仏像が集まっており、不空院の不空けんさく観音が素晴らしかった。鎌倉極楽寺の仏像も展示されており、充実した内容となっていた。展覧会観賞を終えて近くの和食屋で、展覧会図録を見ながら今見た名宝仏像について大いに語る仏像クラブの面々であった。
快慶展で楽しみしていたのが、お寺で非公開の仏像だ。遣迎院の阿弥陀如来もその一つで京都のお寺にひっそりと祀られいた。奈良国立博物館の山口学芸員によると快慶の三尺(約90センチ)阿弥陀は今知られているだけで15件あり、この仏像は醍醐寺弥勒菩薩の2年後に造られたとのこと。運慶を思わせるような肉感的阿弥陀如来で、快慶お得意の金泥下地上のキリかねが肉眼で確認できて素晴らしい美仏だ。多摩美術大学の青木先生によると遣迎院の阿弥陀如来の納入品結縁交名からは壇之浦で滅亡した平家一門から重源、栄西、歌人の西行の名まであるという。快慶展では結縁交名の実物も見ることができた。快慶を巡るネットワークは信西の盟友平清盛の一門から西行まで実に幅広かったことが伺えることに驚く。仏像の彩色の素晴らしさに立ち尽くし、いつまでも見たかったが他の作品も気になるので次の展示に向かった。
快慶展の日帰り旅行を計画していく中で、当初から訪ねたいと考えたのが奈
良町の隣の福智院の地蔵菩薩だ。新TV見仏記でみうらじゅん・いとうせいこうが訪ねた像高2メータ70センチの巨大な鎌倉時代の仏像だ。拝観を希望するものは鐘を2度鳴らす段取りになっており、鳴らすと見仏記に登場した次世住の奥様が現れお堂をあけていただいた。丁寧にお茶を振舞いいただき地蔵菩薩の説明をしていただいた。見仏記によると地蔵菩薩の足の組み方は安座という形になっていて「すぐに立って救いに行く」という姿なのだという。慶派の康慶がリードして作らせたと言われ、肌色に赤い衣を着ていたらしかった。奥様の説明によると宣字座という箱型の台座は本来如来が使用するが福智院のお地蔵様は56億7千万年後に如来となることを約束されているいわゆる弥勒信仰のもとに許されているとのこと。光背は千仏光背で大小あわせて560体あり化仏6体と坐像本体を足せば567体になるという。化仏の太山王と閻魔大王も間近で拝観させていただいた。見仏記でこのお寺のことを知ったとお伝えしたところうれしそうにされている奥様の笑顔が印象的だった。いい仏像に出会い心穏やかになりお寺をあとにした。
快慶展を見終わって昼食を済ませ、午後は興福寺で開催されている「阿修羅
天平乾漆郡像展」を見に行った。興福寺の国宝館が1年間休館しているため、展示していた阿修羅を初めとする八部衆・十大弟子から鎌倉時代再興の金剛力士や天燈鬼・龍燈鬼が仮金堂に安置され今はなき西金堂の宗教空間イメージを一部試みに視覚化したとのこと。仮金堂に安置されていた四天王も一緒に展示されていた。向かって右から左へと拝観するコースになっており郡像のため仏像と仏像が重なって見える奥行きがある展示になっており、奥の仏像は持ってきた双眼鏡越しによく拝観できた。興福寺曼荼羅に描かれている仏像配置とは少しずつ違い前列にあるはずの定慶の金剛力士が多聞天の横に置かれたり、最後列にあるはずの人気の阿修羅が最前列にあったりと西金堂の配置とは同じではなかったが気にならなかった。阿修羅が合掌していた問題も左肩が脱臼している様子も確認でき、満足してお堂を出た。もう1周してもよかったが、東金堂の仏頭帰還や北円堂の特別開帳も気になり早々に仮金堂をあとにした。
本日、奈良国立博物館に快慶展を観賞しに出かけた。早朝にたち、奈良には9時半過ぎに着き奈良国に向かった。じっくり観賞するために音声ガイドを借り入場すると、いきなり醍醐寺三宝院弥勒菩薩が迫ってきた。ボストン美術館所蔵の弥勒菩薩が快慶の初作と言われているが、いきなり二作目で後白河院追善という大きい仕事を任されている不思議さを感じた。解説にもその点が書かれており、院ないし藤原一門に通じる血筋ではないかとしている。同じ部屋には私が舞鶴で見た金剛院の深沙大将と執金剛神が展示されており、こちらの方がよっぽど初作っぽい。いくつか気になった作品があったが既に見ている作品の良さを再発見したり、初めて見る作品の素晴らしさを理解するのに時間がかかったりあっという間11時を過ぎていた。詳しくは作品ごとに書くつもりだが、最後の部屋まで飽きさせない展示は学芸員の面目躍如というところだろう。心地よい疲れたを感じなら仏像館に向かった。
本日GW初日以前ネットで調べていた「三浦半島二大霊場大開帳奉修」に出
かけた。三浦半島にある28の不動明王のお寺と21の薬師如来のお寺が132年に一度の二霊場同年開帳を行うとのこと。京急グループもタイアップしていて「おトクなきっぷ」三浦半島1DAYきっぷを上大岡駅で購入して出かけた。事前にWEBから霊場情報を調べており本日のツアーでは運慶仏で有名な浄楽寺を訪れ、昼食は三崎漁港の老舗マグロ店でいただき午後は京急のポスターにでていた薬師如来のお寺を訪問する日程だ。新逗子駅で「三浦半島二大霊場大開帳奉修」のオリジナルてぬぐいをプレゼントされバスで浄楽寺へ向かう。今日は春の風の強いものすごくよい天気で浄楽寺に向かうバスの車窓から葉山の海がきらきらと輝いて見えた。浄楽寺は仏像クラブで何度も訪れており勝手知っている境内を収蔵庫に向かう。今日はご朱印をもらう人が多く参拝するため入口で名前といただきたい仏像のご朱印のメモを渡してから参拝した。久々の訪問だったがいつもの通り運慶仏はすばらしく、阿弥陀如来の彫眼と毘沙門天・不動明王の玉眼を見比べながらご朱印が書き終わるのをまった。しばし拝観していたかったがお昼をすぎており急いでバスを乗り継いで三崎港に向かった。
昨年行った滋賀県立近代美術館開催の「つながる美・引き継ぐ心展」ポスタ
ーの表紙を飾ったのが、この正法寺の帝釈天だ。像高1メートルの平安時代の仏像で胸元のフリルや衣文が美しく華麗に着飾った印象の帝釈天である。図録の解説を読むまで気づかなかったが、額に三眼をもつ密教系の帝釈天で頭部の毛筋彫りがきれいだ。張りの強い小鼻や、への字に結んだ口元などの表情からは、仏法の守護神としての意志の強さを存分に感じさせる仏像だ。この仏像は平成23年に韓国の国立中央博物館に出品され、滋賀の仏教美術の魅力を海外にも伝えたとのこと。時間がなくゆっくり鑑賞できなかったが、平成32年の新美術館での再会を楽しみに待つとしよう。
平成21年4月東博で「国宝阿修羅展」が開催された。私とU案内人は阿修羅
ファンクラブに入会し、会員限定の夜間特別拝観でゆっくりと阿修羅を鑑賞した。「国宝阿修羅展」ではみうらじゅんがよく言う360(360度)で拝観でき阿修羅の隅々まですぐ近くで鑑賞できた。その後阿修羅は九州国立博物館に移動して展覧会が開催され合計100万人の来館者があったとのこと。最近NHKで「阿修羅1300年の新事実」という番組を視聴した。九州国立博物館が2月に発表した「阿修羅は合掌していた」という問題に関するCTスキャンやX線での映像がより詳しく紹介された番組だった。阿修羅は肩の心木が脱臼しているようにはずれていて、実際は正中線上で合掌した状態で制作されたとのこと。これは阿修羅の通説を覆す説だ。この春興福寺では「天平乾漆郡像展」が仮金堂で開催され私も快慶展のあと興福寺に行く予定だ。この機会に久々に阿修羅との再会を楽しみたいと思う。
先月のことになるが、根津美術館で定慶の梵天・帝釈天を見たあと開催中
の特別展「高麗仏画」~香り立つ装飾美を鑑賞した。この展覧会は古美術書「目の眼」で紹介され掲載の写真の素晴らしさに眼を奪われたため、先月行くことに決めていた展覧会だ。仏像展と違い派手さはないが、静寂した館内でじっくり鑑賞することができた。高麗王朝は10世紀から14世紀までの朝鮮半島を治めた王朝であつく仏教をうやまい高い美意識のなか華麗で繊細な仏画が生み出された。13世紀の頃の仏画であるため会場では作品保護のため照明が落とされていたが、保存状態のよい根津美術館の阿弥陀三尊や泉屋博古館の水月観音など特筆すべき仏画もあり展示が楽しめた。表現で注目されるのが頭上から足元を覆う白く透明なヴェールである。極細の白線を格子状に表す事で、下に書いた絵の発色を損なうことなく、奥行感を感じさせる超絶技法だ。帰りに根津美術館の日本庭園を散策して都会の喧騒を離れ静かな時間を楽しみ帰路についた。
山本勉先生のツイッターをチェックしていたら、横浜市新羽の西方寺にて修
理完成記念特別開帳が行われることを知った。根津美術館に定慶仏と高麗仏画を見に行く日の朝に横浜市営地下鉄の新羽の駅に初めて降り、西方寺を目指した。門前に早咲きの桜が舞い散る境内をすぎ、お寺に向かった。神奈川新聞で紹介されたらしく、すでに参拝者が数人いらした。観音堂の中を覗いてみると、光背と一体になった白木の十一面観音がいらした。無料で配布してある解説文を読むと東日本大震災での転倒で損傷した十一面観音を自立させるために光背との一体を図る修理を行ったとのこと。山本先生が修理にかかわったらしく江戸時代の修復でよく見かける顔の金箔は除去され平安時代の面影を今に伝えている。うららかな春の日差しの中思いがけずよい観音様に出会えて大満足で境内をあとに根津美術館に向かった。
本日春爛漫の天気の中、仏像巡りに出かけた。横浜の新羽にある西方寺の十
一面観音特別開帳を見たあと、表参道にある根津美術館に特別展示の興福寺梵天・帝釈天と特別展『高麗仏画』を見に出かけた。根津美術館のエントランス奥にある展示室のガラスケースの中に仏師定慶作の梵天と帝釈天が展示されていた。定慶は興福寺の金剛力士や文殊菩薩などの作品を残した康慶一門の仏師で興福寺にしか作品が残っていない興福寺専属で活躍した。ひと目梵天の顔を見た印象はおおらかで優しい印象だった。徹底した写実表現に裏打ちされた美しさがあった。帝釈天は明治には顔のほとんどがない状態で修復されたため印象は梵天とかなり違う像になっていた。高麗仏画も気になったので、なごり惜しいが展示室をあとにした。
3月10日に文化庁より仏像5体の国宝指定答申がなされたニュースが入って
きた。調布深大寺の釈迦如来倚像・法華寺の維摩居士と共に河内長野市金剛寺の大日如来・不動明王・降三世明王の三尊が指定された。なら仏像館で快慶の弟子「行快」の降三世明王に出会いその迫力に圧倒され京博で修復が終わった大日如来と不動明王を拝観した。文化庁の解説によると三尊の構成は円珍が中国よりもたらした曼荼羅に準拠する唯一の遺品とのこと。保存修理に伴う本格的調査の結果、この三尊像は半世紀をかけて造られ、以後おおむねその状態をとどめて今日まで伝えられていることが明らかになった。それも国宝指定の理由のひとつのようだ。東博で4月18日より国宝・重文展が開催されるが、三尊揃った展示を是非みたいものだ。
昨年行った禅~心をかたちに展には京都宇冶萬福寺から十八羅漢のうち三
尊者の像が出展されていた。そのなかで私が注目したのは羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)だ。展覧会のパンフレットにも出ており、この展覧会の目玉のひとつとなっている。羅怙羅尊者とは釈迦の子とされている。像高は130センチで中国明代の范道生作とのこと。萬福寺に行ったときここは中国かと錯覚してしまうのは、この范道生の十八羅漢に囲まれたときだった。両手で胸を開き、中から仏の顔がのぞいているの姿は、すべての人に仏性、すなわち仏になれる可能性が具わっていることの表現したもので、群像のなかでも異彩を放っている。みうらじゅん氏も注目したらしく羅怙羅尊者のTシャツをつくって会場で販売していたが、来館者も年齢層が高い方が多く大量に売れ残っていた。私も買わずに会場をあとにした。
平成21年の紅葉真っ盛りのころ京都を訪れた。そのときは一泊二日で三千院
をはじめとした大原の寺と肥後定慶作の六観音が有名な千本釈迦堂や夜間紅葉ライトアップでみかえり阿弥陀の永観堂を訪れたり、昼間の紅葉が素晴らしい伏見・醍醐の寺を巡った。随心院のあと醍醐寺を訪れ秋の特別拝観で三宝院を訪問した。庭の景色はチラッとぐらいしか見ずに仏殿の快慶作弥勒菩薩を目指した。いつもは秘仏になっている弥勒菩薩を間近で拝観できるまたとないチャンスで足早に向かった。誰もいない仏間で快慶作弥勒菩薩と対面した。像高は1メートル弱だが見仏記によると精神がぴったと平静であり、はるか遠くまで意識を乱すことなく見通している顔つきをしている。鮮やかな快慶お得意の金泥塗りで五輪塔を両手で支え、丈の高い宝冠をかぶり、切れ長の目と厚めの唇で人間への親近感をあらわしているという。これがボストン美術館で見た弥勒菩薩と同時期に制作されたとは驚く。今年は奈良博で快慶展が開催され期間限定で弥勒菩薩も出展される。近頃出展一覧も発表され海外からの出展もあるという。開催を今から楽しみにしている。
昨年行った滋賀県立近代美術館開催の「つながる美・引き継ぐ心」展で東南
寺の地蔵菩薩に再会した。4年前日本橋の三井記念美術館で開催された「近江路の神と仏名宝展」展示されており印象が残った地蔵菩薩だった。本像は目尻を吊り上げ、口を強く結んだ表情には威厳があり、腹部やももを強調した表現には60センチ余の小像と思えない迫力に満ちている。造像は平安時代中期と考えられるが、平安時代前期の雰囲気もある滋賀県最古の地蔵菩薩だ。僧形神像として造像された可能性もあり吊り上った目や口角をあげた口元は神像としての霊威を十分に感じられる。近江で多くの神像の雰囲気をもった仏像を見てきたがこの地蔵菩薩もその雰囲気を持っている。博物館に寄託されているのが残念だが、お寺にあればより神像的雰囲気をかんじることができたであろう。
昨年の京都旅行の目的のひとつが鞍馬山霊宝館を拝観することだった。鞍馬
寺は以前訪れたが、霊宝館は本堂から離れたところにあり、訪問しなかった。叡山電鉄鞍馬線で鞍馬駅で下車し門前の紅葉を見ながら長い参道を息を切らしながら本殿金堂で一休みし霊宝館に向かった。霊宝館の二階が仏像の展示室になっており中央に平安時代の毘沙門天がいらした。京都の鞍馬寺に伝わる至宝の三尊は、毘沙門天を中心に向かって右に吉祥天、左に善膩師童子(ぜんにしどうじ)が祀られ、三体とも国宝に指定されている。鞍馬寺の毘沙門天は通常の持物である宝塔を持っておらず、左手目の上にかざして都を監視している。霊宝館にはそのほかに平安時代後期から鎌倉時代の毘沙門天も拝観できるが、本像が1番出来がよかった。そのことを霊宝館に置いてある拝観者のノートに書き鞍馬寺をあとにした。
平成21年春に開催された「国宝阿修羅展」で興福寺仮金堂に安置されている薬
王・薬上菩薩が出展された。鎌倉時代の製作で像高が3メートル半に及ぶ巨像で展覧会場で見上げるように見たのを覚えている。胎内納入品の木札より旧西金堂設置ということがわかっている。図録によると頭部が大きく、腹より上が短い寸の詰まったプロポーションで、腰を一方に捻るものの動きの少ない姿である。奈良時代の復古的な像が求められたという制約があったとしても、運慶の作風とは隔たりがある。運慶と近い奈良仏師の制作とのこと。興福寺国宝館が耐震工事のため丸一年休館となっているため、普段閉まっている仮金堂にて春と秋に「天平乾漆仏像郡展」が開催され江戸時代の釈迦如来・四天王とともにお馴染みの阿修羅や十大弟子や定慶作金剛力士など西金堂オールスターズが拝観できるとのこと。興福寺の仏頭の東金堂帰還とともに注目される。奈良博の「快慶展」を訪れた際、拝観したいと思う。
昨年開催された特別展「禅-心をかたちに」の禅のほとけのコーナーでは普段「禅」
とは意識していなかった仏像が集められ興味深かった。十八羅漢や韋駄天、宝冠阿弥陀などが禅寺で見られる仏像だが、ここで紹介する「感応使者立像」もそのひとつだ。なら仏像館の館蔵品であるこの仏像は異形の大黒天像とみなされ、「走り大黒」の名で親しまれてきたが、近年では寺院伽藍の守護尊である伽藍神中の「感応使者」にあたると考えられている。頭巾・袍・袴を着用し、手足を大きく前後に出して疾駆する姿の像。活き活きとした面構えと躍動する体の描写、着衣の巧みな風動表現などに、いかにも鎌倉彫刻らしい溌剌とした感覚が認められる。伽藍神といえば中国宋風の衣装をまとった鎌倉建長寺の仏像が有名だが、こちらは随分趣が異なる。京都東福寺にも似たような像があるというので機会があれば見に行きたいと思った。
昨年のことになるが、「禅-心をかたちに」展で静岡浜松の方広寺の宝冠釈迦如
来と再会した。今回は文殊菩薩と普賢菩薩も展示されて三尊での鑑賞となった。製作は南北朝時代院派の院吉・院広の銘がある。慶派全盛の鎌倉時代をすぎ南北朝時代の為政者足利尊氏にいちはやく結びついたのが院派だ。山本勉先生の「別冊太陽仏像」によると、「癖の強い面貌、箱を積み上げたような体形、曲がりのつよい曲線を多用する衣文など、様式的な特徴がきわだっている。」とのこと。鎌倉幕府とつながりがつよかった慶派をきらった足利氏が院派にいままでにない仏像の制作を要望したのだろうか。山本先生も「飛鳥時代以来各時代に特色ある美しさを達成してきた日本の仏像の栄光の歴史を知る者には、いささかなじみにくいものがある。」と言っている。会場ではライティングがすばらしく違和感を感じさせない展示だった。今回は文殊菩薩の獅子と普賢菩薩の象の展示がなかったので、いつか機会があれば方広寺を訪問したいと思う。