2021年12月29日水曜日

特別展「最澄と天台宗のすべて」③(願興寺の薬師如来)

 

2015年夏に願興寺を訪れたが、秘仏の薬師如来は拝観できなかった。特別展「最澄と天台宗のすべて」では全国の天台系寺院の秘仏が出展されるということで、東京展のポスターには法界寺秘仏薬師如来とともに、東京展のみの出展の願興寺薬師如来が使われていた。願興寺は最澄が自刻の薬師如来を安置したことに始まる古刹と伝わるが、境内から発見された瓦から寺の創建は飛鳥時代末から奈良時代初頭にさかのぼる。本像は頭体主要部分を前と後ろに分ける寄木造で最澄の時代よりのちの製作で仏師定朝が完成させた技法が用いられている。6年越しに秘仏に出会い大満足の展覧会であった。

2021年12月18日土曜日

浅草寺のみほとけ②(大威徳明王)

 

特集「浅草寺のみほとけ」は今週末で長い展示期間を終えるが、どの仏像も自由におおらかに作られた造形だと思った。ここに紹介する「大威徳明王」はインドではヤマータンカと呼ばれ、その名のとおり冥界の王ヤマ神を調伏するため、文殊菩薩が変化した明王とされる。そのためヤマ神の乗り物である水牛に坐した姿で表される。有名の平安時代の東寺大威徳明王はその姿を忠実に再現した像となっている。ところが鎌倉時代の浅草寺にかかると大威徳明王がまたがる水牛は普通の牛になり、直立した状態で表されている。足が6本あるため、日本では六足尊ともよばれているが、この点は忠実に彫られている。大威徳明王が6脚すべてを左右に垂らす姿勢も類例が少なく、東博解説では「なにか特殊な典拠があったかもしれません」と解説しているがこれも私は自由な表現とみた。非常に興味深い仏像群であった。

2021年12月11日土曜日

京都・奈良2021④(唐招提寺の弥勒仏)

 

霊山寺の拝観を終え、バスと電車を乗り継ぎ西ノ京駅に向かった。近鉄西ノ京駅は薬師寺の境内の近くにあるが、昼食を済ませてから唐招提寺に向かった。唐招提寺境内も紅葉が進んでおり、絶景スポットの写真を撮りながら仏像を拝観した。2010年に訪問してから10年ぶりに本尊毘盧遮那仏や薬師如来・千手観音を拝観したが古色蒼然とした八世紀の仏像に圧倒された。毘盧遮那仏は像高3メートルで圧倒された。いとうせいこう氏も見仏記の中で仏像の質感を皮膚とたとえながら「我々と同じく皮膚をもったまま千年の時を経ている像を前に、親しみと畏怖の念をいだかざるを得ない」といっている。金堂を出て講堂に向かうと鎌倉時代の弥勒仏と奈良時代の釈迦のようなヒゲをもつ弥勒仏と奈良時代の持国天・増長天が祀られていた。弥勒仏は寄木造で奈良時代の本尊を模してつくられたとのこと。鎌倉時代の本尊の脇侍が奈良時代の天部というところに面白みを感じた。鑑真和上のお身代わりや宝蔵の仏像を見て。飛鳥園の写真集を購入して急いで薬師寺に向かった。



2021年12月4日土曜日

特別展「最澄と天台宗のすべて」②(法界寺薬師如来)

 

特別展「最澄と天台宗のすべて」は東京・九州・京都の三会場でそれぞれ展示が違うが、秘仏の法界寺薬師如来は東京・京都のみの展示だ。東博の皿井学芸員によると天衣に彩られた截金文様をよくみなさんに見てもらうため小さな展示ケースを選んだ。お寺では側面しか見れないが展覧会では像高88センチ余りの仏像の背中に広がる金糸の文様がよく見えた。比叡山の絶対秘仏最澄の自刻像を模して制作されたと伝えられている。右手を胸の高さに挙げて手を前に向け、左腕を前方に曲げ前に差し出し挙を上に向けるという姿は鎌倉時代に天台座主慈円が実見した延暦寺根本中堂の本尊、最澄自刻の薬師如来の姿に近い。根本中堂には二尺の素木仕上げの七仏薬師も納められた。この像が七仏薬師になぞられたとも、そのひとつが法界寺の薬師如来に相当するとも伝えられている。この仏像に出会えただけでも展覧会に来てよかったと思った。

2021年11月26日金曜日

浅草寺のみほとけ①


 先月のこととなるが、特別展「最澄と天台宗のすべて」をみたあと、本館14室で開催中の特集「浅草寺のみほとけ」を見にいった。最澄展の案内を作成した時に東博HPをみて本展のことを初めて知り、パンフレットをダウンロードして興味がわき急遽当日の展示案内に加えることにした。小さいながらも運慶展でみた海住山寺の四天王を凌駕する、善派の四天王や癒し系の中国製僧形座像。珍しい立った牛に乗った大威徳明王や不動明王。先ほど巨大な慈恵大師の化身と呼ばれる角大師やU案内人が「職人があまり材で遊びで作ったのでは」と感想を述べた風神・雷神像などみどころ満載の展示だった。やはりコースにいれてよかったと思わせる展示に満足して東博をあとにした。

2021年11月20日土曜日

京都・奈良2021③(醍醐寺の大威徳明王)

 

初めて醍醐寺を訪れたのは2011年だった。それからちょうど10年たった今年、再訪した。醍醐寺三宝院の快慶仏弥勒菩薩の特別参拝を予約した関係で、3時間半滞在し、ふだん訪れたことがない弁天堂の近くの和カフェ阿闍梨寮「寿庵」でゆば丼をいただき霊宝館拝観の途中ではフレンチカフェルクロスゥルスリジェでガトーショコラ「醍醐寺の石畳」をいただき時を過ごした。霊宝館では創建当初からのいつもの薬師如来と初めてみる上醍醐の五大明王を拝観した。この五大明王のうち大威徳明王は空海の弟子で醍醐寺を開いた聖宝に関連する創建当初ににさかのぼれる仏像だ。角ばったモデリングが特徴で「カマキリのような」ともしばしば形容される真言系の官営工房によるものとのこと。はじめて見る上醍醐の仏像に魅了されながら時間が来たので三宝院に向かった。


2021年11月13日土曜日

京都・奈良2021②(霊山寺の十一面観音)

 

京博の井上正氏の名著「古佛」には、通常の美しい仏たちとは次元の異なった世界で創り出された多くの仏像が紹介されているが、まだ訪れたことない霊山寺(りょうせんじ)を旅に出る前調べていた時、たしか「古佛」で紹介された仏像だと思い出し、霊山寺十一面観音のページをコピーして旅だった。2日目(11月7日)の最初に訪れたのが霊山寺だった。入口で特別拝観券つきのチケットを購入して昨日の京都より紅葉の進んだ奈良の古寺の錦秋に彩られた坂道をあがり本堂に向かう。仏像がところせましとならんでおり中央の厨子には平安時代の薬師三尊、その周りには鎌倉時代の個性豊かな十二神将、大和地蔵十福霊場の鎌倉時代の地蔵菩薩から奈良時代の塼仏まであった。堂内にボランティアの方がおられ参拝した善男善女にわかりやすく仏像を説明されていた。この十一面観音を井上氏は童形系列とかかわりあいが絶無と表現されるように厳しいお顔されていた。ところがボランティアのおじさんにかかると「酔っ払いのおっちゃんがとっくりさげている」との説明だった。霊山寺には大仏開眼を務めたインド僧菩提僊那の墓所があり、創建は小野妹子の子小野冨人だというからものすごく歴史がある寺院だ。井上氏は「古佛」で十一面観音の由来を語る資料や伝承はないが菩提僊那とつながる可能性を考えてもよいと書いている。奈良にはまだまだ謎多き仏像や寺院があると感じた。仏像の写真の絵葉書を購入して寺をあとに西ノ京に向かった。


2021年11月8日月曜日

京都奈良2021①


今日(11月6日)から一年ぶりに仏像の旅に出かけている。今日は京都ゆっくり仏像巡りと銘打って、訪問寺院は最澄展でご本尊の素晴らしさに感動した法界寺と快慶の弥勒菩薩を僧侶が案内するツーアをネット予約した醍醐寺とみうらじゅん氏おすすめの長楽寺だ。法界寺ではご住職に薬師如来の素晴らしさに感動した話をしたら喜ばれたり、醍醐寺で快慶仏が持つ五輪塔の宗教的意味を長々と講話を聞いたり、長楽寺の准胝観音お前立ちの小ささに驚いたりなかなか忙しく過ごした。明日は奈良のお寺を巡る予定だ。

2021年10月30日土曜日

特別展「最澄と天台宗のすべて」①

 

今週の日曜日仏像クラブで東京国立博物館平成館に特別展「最澄と天台宗のすべて」を見に行った。この特別展は東京・九州・京都の国立博物館が巡回して来年の春まで開催する展覧会で第一章最澄と天台宗の始まりでは最澄自身に関連する展示となっており鎌倉時代に制作された最澄像や聖徳太子及び天台高僧像の絵画などが展示されていた。音声ガイドで最澄の頭巾のいわれや、作品の解説を聞きながらゆっくりと進んだ。この展示室の一番奥に京都日野の法界寺薬師如来が小さな展示ケースに展示されており間近に拝観できるようになっている。うまくライティングされており、截金文様がすばらしかった。その後、京都真如堂の阿弥陀如来の美しさに酔いしれたり、愛知瀧山寺の十二神将のおもしろい表情に見入ったり、調布深大寺の慈恵大師像の大きさにびっくりしたり、一同十分楽しめた展覧会であった。ショップで図録と手書きの御朱印をいただき1Fで天台宗の僧に日付を手書きしてもらった。同じ1Fでは延暦寺から梵字カフェが出張していると公式サイトにのっていたので、それぞれの干支をいって守護仏の梵字のカフェラテをいただいた。帰りに御徒町の天麩羅屋「天寿々」でおいしい天丼をいただき上野の町をあとにした。参加人数は少なかったが、仏像クラブが開催されてよかった。このまま感染症が収束に向かうのを願うばかりだ。

2021年10月23日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑫(伝橘夫人念持仏)

 

特別展「聖徳太子と法隆寺」の最後の展示が伝橘夫人念持仏だ。2009年の春、「国宝阿修羅」展で初めて目にしたがその繊細な鋳造技法に驚かされた。阿弥陀三尊像は蓮池から立ち上がる三茎の蓮華座の上に表され、その背後に据えられた後屏には上方へとたゆたう天衣をまとった化粧菩薩がそれぞれ自由な姿態を見せている。後屏の上部には七体の化仏が表されており、彼らと脇侍の二菩薩がやがてたどり着くであろう仏の境地を示している。生命感に満ち溢れた阿弥陀浄土のさまが、実にみずみずしく立体的に表現されている。写真家小川好三氏もこの後屏に注目しており、ヤマケイ仏像カレンダーの今月はそこに表された化粧菩薩をズームした写真を載せている。本展では阿弥陀三尊と後屏を厨子から出したより感動的展示となっており、三田学芸員の腕の見せ所となった。三田学芸員は最後に仏教を中心とした聖徳太子の偉業はわが国にとって大きな基礎となった。1400年遠忌というこの機会に令和の多くの人に聖徳太子と法隆寺に思いを寄せ、新たな時代を築いてく糧となることを願うものであると結んでいる。

2021年10月16日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑪(薬師如来座像)


 法隆寺金堂内に安置されている銅造薬師如来が「聖徳太子と法隆寺」展のために初公開された。金堂内と言えば太子等身大の釈迦三尊が有名だが、その中尊と瓜二つの薬師如来を会場で間近にみたが写真よりその表情のやさしさに驚かされた。三田学芸員によると釈迦三尊と同じ高い台座の上にある像は写真で撮るとどうしても下からの光や横からの斜光での撮影になる。それで表情がきつく見えてしまうのですが、今回の展示では薬師如来に上から自然な光が当たっているので、とてもいいお顔になっていると思いますとインタビュアーに答えていた。薬師如来の光背には法隆寺創建にまつわる縁起文が刻まれており、それによると太子の父用明天皇が病のおり「寺」と「薬師像」の造立を発願したものの、崩御のために実現できず607年に至って推古天皇と聖徳太子が完成させたという。これによれば釈迦三尊より古い仏像ということになるが、銘文自体は鏨(たがね)による線刻の「めくれ」や釈迦三尊の銘文のように整然と書かれているのし対し、薬師像のそれは各行の字数も不揃い。お像のすぐれた出来栄えに比べ、銘文の彫りがその水準に達していないのは不合理で、追刻されたとみるのが自然だと思いますとのこと。そうとは言え創建当初の若草伽藍に釈迦三尊四天王とともにあってその後、移座されたことは間違いないと三田学芸員は答えている。図録解説によると目を見開き、口元に微笑みを浮かべ神秘的な顔立ち、人体の肉感をあまり感じさせない体躯、平板で線的な衣文表現、そして、台座にかかる着衣を文様的に表した裳懸座(もかけざ)など、中国南北朝時代6世紀前半にもとづく形状を示すという。また光背は百済様式で、中国・朝鮮半島の様式を吸収しつつ独自の様式を確立した、飛鳥時代前期の様式美が見られるとのこと。着衣の形状や耳の形も釈迦像に最も近く、制作年代だけでなく、銘文の解釈や伝来、台座との年代差など、解明されているとは言えない問題を抱えた謎多き仏像であると図録は結んでいる。今回のブログを通じて逆に謎が深まった印象を覚えた。

2021年10月9日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑩(四天王のうち多聞天)

今回の展覧会では金堂内にあり普段真近に拝観することが出来ない仏像が展示されるとのことで楽しみにしていたが、出品されたのは、薬師如来と四天王のうち多聞天と広目天だ。三田学芸員によると金堂内後方に安置され普段拝観出来ない二天を公開したとのこと。第五章法隆寺金堂と五重塔の入ってすぐにこの二天像が露出展示されていた。みうらじゅんいわく360(さぶろくまる)で鑑賞できるとあってU案内人と私のボルテージは一気にあがった。四天王の飛鳥時代の作品だが袖の衣文のさざなみがみごとで背中邪鬼まで完璧に作り込まれている。広目天の光背の「山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)」の銘文もはっきり見えた。全体を見ても、細部を見ても、そしてどの角度から見ても流麗にして隙の無い造形感覚にただただ舌を巻く。四天王の頭には銅板を透かし彫りにした文様をつける豪華な宝冠をつける。四天王といえば東寺像のように個性的表情の造形が一般的だが、この四天王は直立し眉をひそめ、口を閉じた表情だ。それがまた迫力があるともいえる。邪鬼も手首を縛る特殊な姿は他に例がない。三田学芸員によると像の大きさが釈迦三尊の眷属としてバランスがよく宝冠の意匠が救世観音に近似していることを踏まえれば、釈迦三尊の製作後そう遠くない時期に制作されたと考えるのも可能だろうと図録に書いてある。いずれにしても日本最古で最高の傑作四天王であることは間違いない。


 

2021年10月2日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑨(地蔵菩薩)

 
法隆寺の地蔵菩薩と言えば聖林寺十一面観音展にも出展された、大神神社の地蔵菩薩が有名だが、こちらは法隆寺聖霊院に祀られた平安時代の地蔵菩薩だ。こちらも実は客仏でもともと飛鳥の橘寺にあって、その衰退のため平安時代に最初に金堂のちに聖霊院に移された仏像だ。古い記録ではインドに生育する白檀で作られたとあるが、実際は白檀ではなく榧で作られているが、白檀の代用材でつくられた。榧の仏像は彩色しない木肌をあらわすが、本像は唇に彩色が見られるだけでひたいの白毫は真珠とみられる。長い眉切れ長な目、筋の通った鼻は理知的で、眼球や頬のふくらみ、深く彫られた唇は肉感的である。これは大神神社の地蔵菩薩にも見られる特徴で地域の地蔵菩薩の手本となった可能性が考えられると図録は結んでいる。

2021年9月25日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑧(聖徳太子及び侍者像)


聖徳太子の500年の御遠忌に制作された聖霊院の聖徳太子摂政像を初めてみた。瞼に植毛を植えた穴が残るなど実在感徹底した平安時代の製作だ。普段見慣れた南無太子像といわれる2歳像や香炉をもった孝養像(七歳像)と違い政治家聖徳太子を思わせる凛々しいお姿だ。聖徳太子が推古天皇に勝まん経を講義する姿と摂政像の合体とのこと。解説パネルに書いたあったが像内に銅造観音菩薩あり口のところが太子の口にあわさった救世観音の化身を表した太子信仰を表している。平安時代後期太子信仰の高まりを表した傑作と山口学芸員は解説は結んでいる


 

2021年9月18日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑦(法隆寺聖徳太子像【二歳像】)

聖徳太子展ならば欠かせないのが南無太子像と呼ばれる二歳像や孝養像だが、先行で開催された奈良展では聖霊会で10年に一度行われるパレードでお出ましになる聖徳太子七歳像は出展されなかったが、二歳の太子の手の中で発見された仏舎利は出展されていた。第四章「聖徳太子と仏の姿」では三田学芸員の構成で太子信仰発祥の法隆寺東院の太子像も何点か鑑賞することができた。実は2019年から私の中では太子ブームとなっており、きっかけは2021年の太子イヤーの先駆けの展覧会がその年に県立金沢文庫で開催され、翌年元興寺の南無太子像に心奪われ本展の開催を楽しみしていた。この法隆寺太子二歳像は鎌倉時代の作で直線状に切れ上がる眉と鋭い目が印象的な太子像だ。太子が数えで2歳の春に東方を向いて「南無仏」と唱えたという姿だ。上半身は裸で下半身は緋色の長袴を着け、腕前で合掌する通例の姿で表されている。ヒノキの寄木造で割首し玉眼が嵌入されている。張りのある頬や精悍な表情、充実した肉どりの体つきなど南無太子像の優品だ。文芸春秋にもキリリッ度ナンバーワンとの記載があるがまたお気に入りの太子像に出会って満足して次の展示に向かった。
 

2021年9月11日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑥(伝法堂阿弥陀三尊)

 
東博の三田学芸員がNHK日曜美術館や日テレ「ぶらぶら美術館」で聖徳太子と法隆寺展を紹介するときふだんお目にかかれない秘宝や金網越しにしか見られない仏像を間近に見れるまたとない機会といっているが、この普段非公開伝法堂の阿弥陀三尊もこのひとつだ。東京美術の「もっと知りたい法隆寺の仏たち」によると伝法堂の内部は中の間、東の間、西の間にそれぞれ阿弥陀三尊が安置され、前には梵天と帝釈天、如来が4体、地蔵菩薩一体、四隅に四天王が配されたにぎやかなお堂だ。中の間西の間の阿弥陀三尊は脱活乾漆造だがこの東の間阿弥陀三尊は木心乾漆で奈良時代の製作だ。第三章法隆寺東院とその宝物では奈良時代の聖武天皇周辺の女性から太子信仰の拠点東院へ献納された宝物を中心に展示されている。図録解説の執筆者奈良博山口学芸員によると伝法堂は聖武天皇の夫人橘古那可智(橘諸兄の娘か?)の邸宅を仏堂に転用したもので、展示品の阿弥陀三尊が当初より伝法堂にあったとのこと。腕前で説法印を結ぶ阿弥陀如来を中心に腰を内に捻った両脇侍が随侍するが以前は45度内向きに安置されていた。頭部の小さい均整のとれたプロポーションや両脇侍にみるしなやかな身体表現に奈良時代の典型が示されている。隣に展示されていたのは本尊の光背で宝相華文を透かし彫りにし、周辺に火焔上の唐草をあしらった豪華なつくりで奈良時代の光背が残る貴重な展示品だ。伝法堂にはまだま魅力的な仏像が多く展示され奈良大和路カレンダーに掲載された梵天など一度は目にしたいものだ。太子イヤーの今年の公開を願うばかりだ。



2021年9月5日日曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」⑤(法起寺の如来立像)

 

2010年の秋奈良を旅した際、法起寺を訪問したが、収蔵ケースに仏像がひしめいていたのを思い出した。聖徳太子と法隆寺展に出展された法起寺如来像もその中にあったのかもしれないが、覚えていない。奈良博の山口学芸員のコラムによると平成5年に「わが国最古の弥勒如来」と評価された仏像だ。ただこの仏像にはいわくがあり、今回の展覧会が奈良博で開催されるにあたり、X線CTスキャン調査を行った顛末が書かれている。それは、昭和11年刊行の古写真と面相が違うとされたことだ。それにより同年以降の補作と訂正され仏像は日の目を見る機会がなかったが今回のX線CTスキャン調査で顔と背中は後補だが後頭部から前面の指先まで飛鳥時代の特徴を表し、特に腰帯は法隆寺献納宝物の四十八仏に似たものがあり、衣文の階段状の表現や後頭部で頭髪を左右に分ける表現からも飛鳥時代の製作であることは造形の面からも疑いないとのこと。「わが国最古の弥勒如来」かどうかは異論が分かれるが、類まれな飛鳥時代の如来立像であることは今後注目すべき作品であると結んでいる。昭和になってから後補された事実に驚いたが、法起寺の仏像はまだまだ調査すればなにか出てくるのではないか。今後の調査を待ちたい。


2021年8月28日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」④(如来像及び両脇侍像【法隆寺献納宝持】)

 

「聖徳太子と法隆寺」展は奈良と東京で開催されたが、東博では法隆寺献納宝物の小金銅仏が展示されていた。2013年に法隆寺宝物館で初めて見たが、昨年も「出雲と大和」展で拝観したが、聖徳太子をテーマとした本展では仏教公伝と結び付けて考えられる。東博学芸員の三田氏が図録に書いた論文によると、太子の祖父欽明天皇の時代百済の聖明王から(中略)「釈迦仏の金銅像一躯」が送られそれを見た欽明天皇がそれまでなかった金色に輝く仏の姿を見て驚いた点が「日本書紀」に記載されている。この如来像及び両脇侍像はまさにこの頃、百済で製作された可能性が高く、日本仏教の黎明期を偲ばせるとのこと。また図録解説によると、近年の科学調査により中尊と脇侍の材料の成分が異なることから、中尊は百済製脇侍は日本製と考えられるがうまく一光三尊形式にまとまっている。光背に巻き付くような蔓(つる)が巻き付くよう植物表現は百済仏との共通性が見られるとのこと。東博出身の鎌倉国宝館山本館長の解説動画で芸人「みほとけ」がそこまでわかると驚いていたが、学芸員の解説により深くこの仏像のことがわかり、次回法隆寺宝物館を訪れる際、よく見てみようと思った。

2021年8月21日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」③(菩薩立像)


 聖徳太子と法隆寺展では前に見たことがある懐かしい仏像も数多く展示されていた。この菩薩立像は2010年夏の暑い日に友人と日本橋三井記念美術館で開催された「奈良の古寺と仏像」展に出展されていた仏像だ。その後の日本の仏像とは違い明らかに大陸の風を感じる止利仏師の仏像だ。図録によると夢殿の救世観音観音と同じく腕前に両手で宝珠をとることから観音菩薩としてつくられたとのこと。高い山型の宝冠を戴き、面長のやや角ばった顔に大振りの眼鼻立ちで、見開いた眼、わずかに口角を挙げた微笑みをたたえる。最初に見た10年前にはアルカィクスマイルばかり気になっていたがよくみると宝冠の頭部にササン朝ベルシャの王冠由来の太陽と三日月のモチーフが見いだされ、宝冠全体に雲気文などのモチーフが見いだされる凝ったつくりになっている。鰭状の衣など止利派の金銅仏らしい威厳をもった仏像だった。

2021年8月14日土曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」②(聖霊殿の如意輪観音)


 特別展「聖徳太子と法隆寺」の展示室に入りまず初めに見れるのがこの法隆寺聖霊殿の如意輪観音だ。この仏像は平安時代の太子像の近くに祀られている。四天王寺本尊の模刻像と伝えられた定朝風の平安時代の古像だ。太子信仰では太子は観音の化身とされており救世観音と太子ゆかりの寺では呼ばれている。しかし経典には救世観音という尊名がなく中国皇帝が「国主救世菩薩」と呼ばれ、太子直筆の「四天王寺縁起」に金堂にある仏像・宝物の筆頭にあげられるのが「金堂救世観音一体」と記されているが、経典に沿って如意輪観音と呼ばれている。像高126センチあまりの仏像で台座に腰かけて左足を降ろして右足を大腿部の上にのせて半跏し、右手の指先を頬にあて、広袖付きの貫頭衣を着用して平帯で腰を締める特異な像容をもつ。これは図像集「別尊雑記」に記載された四天王寺救世観音の姿に似ている。七回火災にあい戦後再建された昭和の四天王寺救世観音が施無畏与願印であるのに対しもとの姿を今に伝えるものだとU案内人と小声で話しながら、次の展示に向かった。



2021年8月8日日曜日

特別展「聖徳太子と法隆寺」①


 今週の日曜日(8月1日)U案内人と東京国立博物館開催の特別展「聖徳太子と法隆寺」を見にでかけた。猛暑の中、平成館に入場し2Fの会場に入るとまず迎えてくれたのが如意輪観音だった。この仏像は四天王寺の救世観音の模刻像と伝えられる仏像だ。第一章「聖徳太子と仏法興隆」では旧一万円札に採用された聖徳太子二王子像(模本)や十七条憲法版木・太子が書いたと伝えられる三教義疏のひとつ法華義疏も展示されていて、太子を身近に感じる展示となっていた。そのなかで法起寺如来像とX線写真が展示されたいて興味深かった。第二章は「法隆寺の創建」で前期の目玉の天寿国繡帳で后橘大郎女が太子の死後大使が住む天寿国の姿が見たいと推古女帝に訴えて作成された刺繍だ。1400年前の刺繍が今に伝えられるのは奇跡的なことだと思った。第三章は「法隆寺東院とその宝物」で仏舎利が展示され、第四章「聖徳太子と仏の姿」では聖霊院に祀られている平安時代の太子像や仏画・地蔵菩薩が展示されていた。第五章は「法隆寺金堂と五重塔」で金堂から四天王のうち広目天・多聞天、薬師如来が展示されていた。展示品が多いので2時間かかったがもりだくさんの展示だった。かえすがえすも残念だったのが先行で行われた奈良展には出展されたが東京展で展示されなかった五重塔内部の羅鑑像や夢違観音などの仏像に出会えなかったことだ。帰りにグッズ売り場で図録とクリアファイル、シークレットキーホルダーを購入して上野のとんかつやで太子話で大いに盛り上がった。

2021年7月31日土曜日

ニコニコ美術館「奈良博三昧」(如意輪観音)

 

昨日ネット番組ニコニコ美術館で奈良国立博物館開催の特別展「奈良博三昧」の番組を視聴した。ニコニコ美術館は博物館所属の学芸員の解説付きで4時間という長時間で展覧会を紹介する番組で、いつも楽しみにしている。今回はコロナ禍でなかなか行けない奈良国立博物館の特別展「奈良博三昧」がやっていた。さすが奈良だけに多くの仏像が紹介されたが、その中で印象に残ったのがこの如意輪観音だ。如意輪観音といえば南河内弾丸ツアーで南大阪の観心寺を訪れたが、学芸員の話によるとそれよりあとの時代の平安時代一木造りの仏像とのこと。学芸員の話でおもしろかったのは江戸時代に丹後の海中より発見されたという伝承を紹介されず、仏像の印象の説明に終始した点だった。顔が大きくつくられどっしりとしているとか一木造りで重そうとか自由な紹介の仕方がこの番組の特徴でおもしろく拝観できた。また図録は通販でも買えるというちゃっかりとした宣伝もよかった。またニコニコ生放送のお馴染みの視聴者からの質問で「なぜ手が六本あるの」というのに多くある方が便利という回答もユニークだった。私も「なら仏像館」でこの仏像を拝観したが、大ぶりの筒形の宝冠や眉のつらなった厳めしい表情にみょうに魅かれた。また奈良博や京博の展覧会の番組があれば視聴したいと思った。

2021年7月24日土曜日

特別展「聖林寺十一面観音」~三輪山信仰のみほとけ④(大国主大神像)

 
会場に大神神社所蔵の大黒天に似た神像が置かれていたが、案内には大国主大神とのこと。出雲の国譲りに登場する大国主だが大神神社とのかかわりは、疫病を蔓延させる恐ろしい神、大物主大神が大国主の国造りを助けるため三輪山に自身を祀らせたという話だ。大国主は大神神社の創建に深くかかわった重要な存在なのである。後世、大国大神を大黒天で姿で表す例が多く、大国と音写が大黒となったとのこと。神像は平安時代に造られた全面古色仕上げで会場では気が付かなかったが唇にわずかに朱色が残る鎌倉時代に多くの作例がある大黒天の先駆けとなる貴重な作例だ。

2021年7月18日日曜日

特別展「聖林寺十一面観音~三輪山信仰のみほとけ」③(大御輪寺日光・月光菩薩)


会場の隅に展示されていたのが、大御輪寺から正暦時に移座された日光・月光菩薩だ。 正暦寺は奈良訪問の際訪れたが、孔雀明王など名仏を多く境内が広いお寺だったが、この仏像を見るのは初めてだった。日光・月光といっても東大寺の日光・月光菩薩のようにとても一対には見えなかったが図録を読んでよくわかった。近年の修理前まで両手先が欠失しており造立当時の尊名は不明。材質・構造技法、作風も異なり本来一具ではなかったとのこと。日光はケヤキ材で月光は檜材。日光は一木造で、内刳りを施し、月光も一木造だが内刳りはない。ただし両像とも、高い宝冠や胸から腹にかけて細かく絞り腰を強くひねる姿勢、量感ある下半身に平安時代前期の様相が見られるとのこと。日光は目鼻立ちが大振りで耳の張り出しも大きいので細面の月光より私は気に入った。やはり十一面観音の素晴らしさにはかなわないのでU案内人と私はまたもどって近くや遠くから眺めて会場をあとにした。

2021年7月10日土曜日

特別展「聖林寺十一面観音~三輪山信仰のみほとけ」②(大御輪寺地蔵菩薩)

 

会場では十一面観音の存在感が他を圧倒しているため目立たないが、大神神社の神宮寺であった大御輪寺で十一面観音の横に不動明王と一緒に祀られていたのがこの地蔵菩薩である。奈良博の山口学芸員によると地蔵菩薩と言うよりも神像として祀られていたのだろう。像高172センチ余りのヒノキの仏像で明治の初めの神仏分離令のおり一度聖林寺に入りその後法隆寺に移され釈迦三尊と背中合わせに祀られていたが、その後法隆寺大宝蔵院に移された仏像だ。一木造りで翻羽式衣文や茶杓型衣文を交えた着衣表現は平安時代の特徴をあらわし、制作は遷都まもない平安時代初期に制作されたのであろう。一木彫像の実在感にあふれ、大ぶりな目鼻立ちは平安時代初期の特徴を表しているとのこと。確かにすばらしい仏像で会場で鑑賞したがまた十一面観音の前に戻ってしまう二人であった。



2021年7月3日土曜日

特別展「聖林寺十一面観音~三輪山信仰のみほとけ」①

 

今週の日曜日、U案内人と東博開催の特別展「聖林寺十一面観音~三輪山信仰のみほとけ」を鑑賞しに出かけた。昨年から事前予約制となった東博だがスムーズに入場することができた。開催場所は東博本館1Fの特別5室、音声ガイドを借りて開催のあいさつをゆっくり聞いていたが、U案内人は中央にある十一面観音のガラスケースに吸い寄せられていた。私もつられて十一面観音の前に立ちガラス越しであるが、わずか数センチの近さで拝観した。私は2010年に聖林寺を訪れて少し離れた展示ケース越しに拝観したが、東博ではみうらじゅんがいう360(さぶろくまる)鑑賞でき、後ろも鑑賞できるようになっている。随筆家白洲正子が奈良に十一面観音を訪ねた際、聖林寺を訪れ「さしこんで来るほのかな光の中に、浮かび出た観音の姿を忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味わえない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。」とエッセイ「十一面観音巡礼」に書いている。他の観音にない男性的な感じに白洲正子は引き寄せられたのだろう。雑誌でお孫さんの白洲信哉氏と対談した金沢文庫のほとけの瀬谷さんが「ゆらめきながら現れた」の一文に注目し「十一面観世音神呪経」に十一面観音が出現する時に仏像がゆらぐと書かれていて、それが十一面観音の造形化に影響を与えていると指摘していた。U案内人をみると初めて見た聖林寺十一面観音にいたく感動したらしく会場を出て他の仏像の展示を見ているとき椅子に崩れ落ちるほど感動したらしい。私も東京初公開の十一面観音の展示の素晴らしさに感動し、何度もU案内人と見入ってから会場をあとにした。


2021年6月20日日曜日

特別展「横浜の仏像」㉒(林際寺地蔵菩薩)


 「横浜の仏像展」は横浜のみほとけを紹介する展覧会だがこの林際寺地蔵菩薩は静岡県河津にあり、その由来については山本館長の講演で詳しく語られていた。南北朝時代に鎌倉で活躍した仏師朝栄により関東管領上杉憲方の寄進により武蔵金沢能仁寺に造営されたと像内墨書に記載されていることが平成30年上原美術館の調査であきらかになった。文化庁の調査により何らかの事情で建長寺塔頭に移されたこの仏像が江戸時代寛文年間に林際寺に移されたことが林際寺過去帳から明らかになったと語られた。この地蔵菩薩は鎌倉から南北朝に流行った法衣垂下像ではないが、図録によると法衣垂下だった痕跡が残っているという。鎌倉幕府滅亡により流出した仏像がまだ他県のお寺にひっそりと祀られているのではないか。発見を期待したい

2021年6月5日土曜日

特別展「横浜の仏像」㉑(慶珊寺の十一面観音)


鎌倉地方様式として山本館長が紹介した遊戯坐(ゆげざ)像としてみほとけちゃんねるで紹介されたのが慶珊寺の十一面観音だ。 山本館長の説明によると鎌倉時代の鎌倉幕府滅亡の前年に院派の院誉によってつくられた像で、もとは十一面観音の化仏がついていたが今は欠落してあとだけが残っているとのこと。左手を地面につけるくつろいだ雰囲気の仏像で京都にはない鎌倉地方独特の宗風(中国風)の仏像だ。製作者がわかる銘文が胎内の文字がスライドで映され興味深かった。建長寺地蔵菩薩の法衣垂下像ととともに鎌倉地方を代表する仏像だ。リラックスしたポーズがとても癒された仏像だった

2021年5月30日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑳光傅寺の地蔵菩薩

 

山本館長の講演の講演は終盤になるほど盛り上がり、最後の「中世仏の展開」に至った。鎌倉大仏が鋳造され、金沢北条氏により称名寺が創建された鎌倉幕府滅亡、南北朝動乱の時代、中央仏師はすでに鎌倉幕府の庇護を受けた慶派には目立った人物はなく、室町幕府に重用された院派・円派が活躍したとのこと。一方鎌倉では東国運慶派と呼ばれる仏師集団が活躍し東国善派・東国院派と造像を競っていたという。鎌倉地方様式の特徴は中央よりも宋・元風(中国風)への傾斜が顕著で、東慶寺観音菩薩に見られる遊戯座像や建長寺地蔵菩薩に見られる法衣垂下(ほうえすいか)が代表的な形式とのこと。代表的な表面装飾は浄智寺韋駄天に見られる土紋、共通する構造技法は浅い上げ底式内刳りを挙げている。ここで紹介する光傅寺の地蔵菩薩は東国運慶派の作品で大仏師が康増で小仏師に増慶らの名が体部の墨書に書かれている。山本館長の解説では堅実で素朴な造形がこの一派の特徴とのこと。とはいえ円応寺初江王を造った幸有も東国運慶派の一人であるので、落ち着いたら今度鎌倉国宝館に行ったときにそのような見方で初江王を見てみたいと思う。

2021年5月23日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑲永勝寺阿弥陀如来

 

山本館長の講演で太寧寺と同じく善光寺式阿弥陀と清凉寺式釈迦の合体仏として紹介されていたのが、永勝寺の阿弥陀如来だ。この仏像は善光寺阿弥陀を親鸞が感得し作ったという伝承がある。この仏像の特徴は顔を覆う僧形の面があることで、戦国時代お寺の前を馬上で通ったものが落馬し、無礼は振る舞いで本尊に向かえば倒れることがしばしばおこったため面をかぶせたとのこと。みほとけちゃんねるで出演者のイラストレーター田中ひろみ氏が言っていたが千葉の安房の真野寺にも同じような千手観音があると指摘していたが、千葉市美術館で2013年に開催された仏像半島展で私も現物をみたがこちらはお面がかぶったままの展示であったためより印象が強かった。頭髪は螺髪がない平彫りとし、肉髻珠・白毫相をあらわす如来像で、背部から右肩・右腕をおおって袖状に垂れる覆肩衣(ふげんえ)のうえに衲衣を偏段右肩に着け、下半身に裙を着ける鎌倉時代のヒノキの仏像だ。「ミズノ先生の仏像のみかた」によれば覆肩衣はもともと尼が胸を隠すためにきたものという。それが仏像にとりいれられるとは知れば知るほど面白い仏像の世界だ。

2021年5月16日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑱(太寧寺薬師如来)


 仏の瀬谷さんの本で紹介された太寧寺薬師如来にずっと会いたかったがこの「横浜の仏像」展で奇しくも実現した。山本館長の講演では善光寺式阿弥陀如来と清凉寺式釈迦如来の合体応用仏として当時の流行が横浜にも来ていた。ほとけの瀬谷さんの図録解説によると「へそ薬師」と呼ばれ村娘より糸玉の「くりへそ」を購入した僧が薬師如来だったという伝説がある。鎌倉時代中期の仏像で頭部は髪を同心円状に表す清凉寺式で、袈裟を両肩にかけて通肩善光寺式阿弥陀の合体仏だ。いっぽう印相は手を腕前に掲げる薬師如来特有のものとなっている。この仏像製作の意図についても瀬谷さんの解説によると清凉寺式と善光寺式の生身仏思想により生身薬師の造像を意図して造立されたという。山本館長の講演にもどると太寧寺薬師如来のひみつと題し両目の裏にはめ込んだ板の表側に天平写経の「目」字紙片を貼っていることも実物の仏像の裏側の写真のスライドで紹介された。講演後半になっても山本節は勢いをまして圧倒されながら講演を聞き入っていた。

2021年5月7日金曜日

特別展「横浜の仏像」⑰(真福寺釈迦如来)

山本館長の講演では清凉寺式釈迦如来の説明から自然に真福寺釈迦如来の解説となった。清凉寺式釈迦如来はインドから中国そして日本に伝わった三国伝来の仏像であること。スライドには清凉寺式釈迦如来のもととなった揚州開元寺の仏像も移しだされ特徴である、縄目・渦巻き状の頭髪、首周りまでおおう通肩の衣など淡々と説明されていた。図録では眼は銅板を貼り付けとしたが、研究者の指摘により本材から彫りだしたものだとわかったとの訂正もあった。お笑い芸人みほとけも衣文の美しさや光背の素晴らしをのべていたが、木目にあった衣文がとてもよく見ごたえがあった。山本館長も謎が多い仏像として紹介しており鎌倉から足利へ運ぶ僧が途中で亡くなり釈迦堂を立てたとも、鎌倉の比企や亀ヶ谷の新清凉寺から移されたとも記載しており一概に鎌倉伝来の可能性を無視できないとしている。興味がつきないみほとけだった。

 

2021年5月5日水曜日

特別展「横浜の仏像」⑯(龍華寺の阿弥陀三尊)


 山本館長の講演に戻ると中世仏の諸相といって運慶後の鎌倉時代後期の仏像について話が及んだ。鎌倉後期は善光寺式阿弥陀三尊・清凉寺式釈迦如来・両者の合体・応用及び聖徳太子などの肖像彫刻が流行したとのこと。特に善光寺式阿弥陀三尊・清凉寺式釈迦如来は霊験像・生身像として敬われた。生身像とは現世に具体的な姿を現した仏の身体を指し、生身の三如来として有名なのが嵯峨の釈迦(清凉寺釈迦如来)因幡堂の薬師(平等寺薬師如来)善光寺の阿弥陀(善光寺阿弥陀三尊)で清凉寺釈迦如来と善光寺阿弥陀三尊は多くの模造が大流行した。善光寺阿弥陀三尊は伝承では天竺で釈迦が門前に現れた姿を金銅で鋳写しそれが百済に伝来し欽明天皇仏教公伝時に伝わり、推古天皇の時代に信濃に移したとの伝承があり模造の大流行により善光寺式阿弥陀如来が各地に残っている。龍華寺阿弥陀三尊も一光三尊像の形式でまぎれもなく善光寺式阿弥陀三尊だが、龍華寺以前に鎌倉公方の祈祷所である光徳寺にありどのような経緯で本尊として龍華寺に安置されたかは金沢文庫の仏の瀬谷さんも不明とのこと。昨年の夏一光三尊像を求めて尾道や鞆の浦を廻ったが関東にもしっかり来ていたことが展覧会で解った。


2021年5月2日日曜日

特別展「横浜の仏像」⑮(寶蔵院阿弥陀如来)

 

横浜の仏像展を紹介したテレビ番組「ぶらぶら美術館」で吉井大門学芸員がおぎやはぎに説明していたのが、金沢区にある寶蔵院阿弥陀三尊だ。図録では山本館長が解説しており、それによると鎌倉時代の製作で木造金泥塗・漆箔・玉眼の仏像だ。吉井学芸員も説明していたが中尊は衲衣が特徴的で上層の縁に下層部分二か所を引き出してかける形式、衲衣の末端近くに輪を付けて背部から左肩越しに紐で吊る形になっている。山本館長は鎌倉時代の新様式だとのこと。吉井学芸員は両脇侍が両手で蓮台を持ち合掌しているが、腰をかがめず、むしろ左右にひねる形から当初は運慶の浄楽寺のような片手を垂下し長い蓮茎をとる伝統的な平安時代の形式だったものを後補し作り変えたと説明していた。山本館長がまとめると平安後期の伝統的な製作に深くなじんだ作家が、何らかの要請にもとづき、やや未消化ながら新時代の流行に対応した製作を試みた印象があるとのこと。お笑いタレントみほとけも他の仏像の山本館長の説明に感心していたが、山本館長の仏像に対する洞察力に感心する展示だった。


2021年4月29日木曜日

特別展「横浜の仏像」⑭(龍華寺の大日如来)

 

講演の中で山本館長も述べていたがまだまだ紹介したい仏像が目白押しなのが横浜の仏像展だ。ここで紹介するのは何度か訪れた金沢区の龍華寺にある鎌倉時代の大日如来だ。県立金沢文庫の「仏の瀬谷さん」の解説によると伝承では光背・台座は快慶、本体は運慶が手掛けたとあるが怪しいものだ。運慶作円成寺大日如来の系譜を引くもので、鎌倉時代前期に慶派仏師により制作されたことは確からしい。浄楽寺阿弥陀如来の上げ底式にして像内を密閉するところが、本像ありまず間違いないだろう。髻を高く結い上げ、左肩に条帛をかけ、下半身に裙をつけ、腰布を巻き、腕前で智拳印を結ぶ。細かい髪筋を刻む立体的な髻、玉眼を嵌入した意志的な面貌、胸をやや引き両腕前に空間をとった姿勢、両膝前に円弧を描く深く刻まれた衣文などが特徴とのこと。瀬谷さんの解説には触れていないが、モデルとなった円成寺大日如来は条帛を別材で製作しているが、この像では装飾として彫っているだけだろう。顔立ちが童形なところなど願主が女性であったのではないか。横浜の仏像を通じて日本の仏像史に思いをはせる時間だった。


2021年4月24日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑬(保木薬師堂薬師如来)

 

運慶仏の時代で山本館長が最後に紹介したのが、青葉区保木薬師堂の薬師如来だ。以前から私も注目していた仏像で普段は神奈川歴史博物館に寄託されており年1回保木薬師堂に里帰りする仏像だ。一目みて鎌倉仏のいい顔をしており、慶派の影響を受けた仏師が製作したことがわかる。山本館長の講演によると玉眼がとれた穴からのぞくと仏師尊永作で承久3年(1221年)製作とわかる貴重な仏像だ。承久3年は後鳥羽上皇が鎌倉と争った承久の変まっただ中であり、運慶最晩年のころだ。神奈川歴博の神野氏によると構造は寄木造とし頭と体幹部は前後二つに分け前半部分を中心で左右にわけており、螺髪は別材で貼り付けている。表面の古色塗りは後補とのこと。以前は玉眼を内側からあてていたが、今は脱落しているとのこと。世の中が落ち着いたら里帰りの日にお寺を訪ねたいと思う。

2021年4月17日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑫(東漸寺薬師如来)

 

山本館長の講演も佳境でいよいよ「運慶仏の時代」に入った。「横浜の仏像」展では運慶の作品である金沢文庫所蔵の光明院大威徳明王は出展されず、運慶周辺の仏師の作が並んでいた。山本館長が最初に紹介したのが磯子区杉田の東漸寺薬師如来で像高85センチ余りの堂々した体躯、鎌倉時代寄木造り玉眼の仏像だ。とても穏やかな顔立ちで像内銘記から仏師は特定できないが山本館長によるとそこかしこに運慶に影響された痕跡を持つ薬師如来だ。まず注目したのが後頭部の螺髪で運慶の彫り方として逆V字型をあげ、願成就院阿弥陀如来と比較した平安時代の仏像と明らかに違う特徴をあげた。みほとけチャンネルで山本館長があげたのが衣文の折り返しで浄楽寺阿弥陀如来で運慶が始めた特徴だという。運慶仏のもうひとつの特徴が浄楽寺像に見られる「上げ底式内刳り」だがこの像では採用されず古風なままだ。運慶に極めて近いながら古風な仏像をつくる仏師から関東で活躍した宗慶や実慶が想起されるが山本館長は仏師を特定していなかった。いっきに運慶仏の時代に引き込まれる仏像だった。




2021年4月10日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑪(證菩提寺阿弥陀如来)

 

最近、山本勉氏のツィターを見ていると鎌倉国宝館館長を拝命したとのこと。この證菩提寺阿弥陀如来を初めて見たのが鎌倉国宝館で「古都鎌倉と武家文化」展での展示だった。その時は頼朝の忠臣の菩提を弔う仏像とされていたが、山本館長お得意の阿弥陀三尊左脇侍台座銘文に江戸時代寛永から460年前との記述がされたことで、以前は他のお寺にあった仏像を證菩提寺に移したとのこと。講演ではわかりにくかったが、山本館長執筆のコラムによると證菩提寺阿弥陀如来はもとは鎌倉寿福寺の境内に三浦一族の岡崎義実が平治の乱で死んだ源義朝の菩提を弔う仏像であった。頼朝が源義朝供養のため勝長寿院を建立したため、岡崎義実が息子義忠の菩提を弔う證菩提寺を作り、そこに移り転用され義忠供養の阿弥陀三尊となった。本展では阿弥陀如来のみ出展されガラス越しだがすぐ近くで拝観することができた。運慶以前の慶派仏師によるものだろうが山本館長も仏師特定に至っていない。また古文書の発見により明らかになることを期待する。

2021年4月3日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑩(西方寺の十一面観音)


 西方寺十一面観音を初めて見たのが2017年の特別公開のおりで、東日本大震災で足ほぞを損傷し自立できなかった像を横浜市文化財保護審議委員の山本勉先生の監修のもと再建された仏像だ。講演ではコラムを書いた萩原氏に遠慮してスライド紹介のみで多くを語らなかった。コラムでは西方寺がもと極楽寺の境内にあったが、鎌倉幕府の滅亡で寺勢を失い新しい地を求めて鶴見川上流の新羽の地に室町時代に移ってきたとのこと。ここには平安時代後期からあった観音院と称するお寺にあったため、制作年代は平安後期とされている。像高は1メートル余りでヒノキ材の割剥造り、素朴で穏やかな表情や控えめな肉どり、浅く柔らかい衣文表現が平安時代の仏像の特徴をよく表している。西方寺は桜や彼岸花が美し花の寺として有名でこのお寺にふさわしい花のような観音様であった。


2021年3月27日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑨(宝樹院阿弥陀三尊)


宝樹院阿弥陀三尊は2015年に展覧会とお寺で二回も見に行った仏像クラブ思い出の仏像だった。今回の「横浜の仏像」でも出展されており、山本勉先生の講演でも取り上げられていた。山本先生の図録解説によると元は金沢文庫近くの称名寺の末寺である廃寺常福寺にあったことが、山本先生お得意の像内納入修理眼文で明らかにされたことが、説明された。眼文には願主の内藤武直の名が見られ相模国在庁官人で源義朝との関係もある人物とのこと。中尊は偏袒右肩に衲衣を着け、腹前で定印を結ぶ。脇侍は珍しく左手を曲げ、右手を下げる同型だが、中尊寺阿弥陀三尊より水準は低いとのこと。惜しむべきは中尊を修理時に髪高や目つきに修理を加えたことだろう。専門家の解説を直接聞けて、会場で見かけた山本先生のツィターによると会場で質問を受けるためにいらしていたとわかり質問すればよかったと悔やまれる仏像展だった。 

2021年3月20日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑧(龍華寺阿弥陀如来)

 

山本勉先生の講演もいよいよ彼得意の定朝以降の仏像の話となった。王朝仏への憧憬のコーナ-でまず彼が紹介したのが、龍華寺阿弥陀如来だ。メディアではもっぱら證菩提寺の阿弥陀如来を取り上げていたが、山本先生はまず定朝に影響を受けた横浜の仏像の一覧から説明した。仏像クラブで見に行った證菩提寺や宝樹院阿弥陀三尊が紹介された。龍華寺は何度も行ったがこの仏像を見るのは、初めてだ。後世の修理による金泥塗がみごとな仏像で、山本先生によると、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来に匹敵する金泥塗とのこと。像内銘文より製作年代が特定できる貴重な仏だ。山本先生お得意の像内銘文を映したスライドがながれ高野山の僧蓮意の名前が記載されていることから高野山で製作され何らかしら経緯で龍華寺にもたらされたのであろう。御室派の関東の名刹龍華寺が西日本の寺院とつながりがあってもおかしくない。会場では金泥塗の素晴らしさに感動してこの仏像を見入っていた。


2021年3月13日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑦(向導寺の阿弥陀如来)


 展覧会場入り口が最近はやりのフォトスポットになっており、泉区向導寺の阿弥陀如来が展示してあった。関東大震災で大破しバラバラになっている仏像を今回の展示のため組み立てたものだ。講演で少しふれられたが、今回お笑いタレントみほとけの「みほとけちゃんねる」で山本先生が詳しく解説されていた。こちらは横浜文化財指定仏像の第一号で平安時代後期の作。定朝様式の仏像で耳の前にある突起が特徴だという。さらに図録の解説によると粒上の螺髪は後補に群青色に着色されており、もとは黒漆塗の仏像だあったとのこと。いきなりインパクトある仏像からはじまり、しかも定朝様式とは「横浜の仏像」の世界にいっきに引き込まれる阿弥陀如来であった。



2021年3月5日金曜日

特別展「横浜の仏像」⑥(弘明寺十一面観音)


 弘明寺の十一面観音は以前仏像クラブで御開帳のおりに拝観したが、いよいよ山本勉先生の講演でもこの仏像の話に及んだ。まず山本先生は鑑真来朝から平安前期までの中央仏と地方仏の比較を語り代用壇像(カヤ)による官営工房で生み出された捻塑像(木心乾漆・脱活乾漆)の整理・洗練された仏像に対し、民間私寺による木彫像の野趣あふれる個性的な仏像が生まれたとのことだった。先日のBS日テレ「ぶらぶら美術館」でも東北の仏像に似ているとして証菩提寺の薬師象が紹介されたが、弘明寺十一面観音がそれにあたる。次に山本先生の講義は鉈彫りの説明に入り「像の全面または大部分に、水平方向のノミ痕を残す素地仕上げの木彫像」と説明し木で仏像をつくることの根本思想の表現とし、つまり木から仏があらわれる表現で、地方の独自性を主張していると。弘明寺が当時の群のあった場所にあり、鉈彫りに公的性格を持たせたと主張した。展覧会場でU案内人が指摘した仏像が割れていることに対しても山本先生によると立木から仏像をつくる神木のためとの説明だった。ひとつの仏像からこのような洞察をする山本先生に頭がさがる思いで十一面観音を鑑賞していた。


2021年2月27日土曜日

特別展「横浜の仏像」⑤(光明寺の菩薩像)


 山本勉先生は無名の仏像から運慶作品を見入出す観察眼をお持ちだ。それがこの講演でも遺憾なく発揮されたのが南区光明寺の菩薩像に関する紹介の場面だった。講演では鑑真来朝から平安前期の金銅仏・乾漆像から木彫仏への劇的な変遷が語られ中央の木彫は整理・洗練されているが、地方の木彫は個性・野趣あふれる仏像との説明だった。光明寺菩薩像は保存状態が悪くいかにも野趣あふれる仏像だが中央の比較する仏像は京都遍照寺の十一面観音だという。遍照寺の十一面観音は仁和寺と御室派のみほとけ展で友人とうっとりながめるほど美しい仏像だがとても今回展示の菩薩像と共通点が見いだせなかった。ところが帰って図録をよく読むと、髻を結い、その正面に宝冠を付け、条帛・天衣を懸け下半身に折り返し付きの裙を着ける菩薩像とのこと。発見の逸話として法事で訪れた光明寺の玄関先に置いてあり、その価値を見出した山本先生は審議委員をやっている横浜市に法事そっちのけで仏像調査に入ったとの話であった。図録の執筆者も保存状態は良好でないが、古代彫刻ならではの充実した存在感にはとくに賞すべきものがあると記載してあった。さすが山本先生と感心した仏像だった。

2021年2月23日火曜日

特別展「横浜の仏像」④(龍華寺の菩薩像)


 山本勉先生の「横浜仏像史」の講演で2番目に紹介されたのが、おなじみの県立金沢文庫預託中「龍華寺の菩薩像」だ。山本先生はまずこの仏像の発見の歴史からひも解く。龍華寺の境内に福寿院という子院がかつてありそこの本尊として江戸時代の寛延のころ(1750年)祀られていた記録があり、平成10年に龍華寺宝蔵解体時に発見。翌年脱活乾漆の天平仏なので横浜市指定文化財に指定され保存修理が始まり平成14年に完成したとのこと。また修理前と修理後の写真のパネルで足の付け根から腰のあたりと腕先が補われていることも説明された。また最近の情報として大阪市立美術館で開催された「天平礼賛」という展覧会で兵庫の金蔵寺の阿弥陀如来と一緒に展示されたことをふれ、耳の形がそっくりなことから金蔵寺阿弥陀如来の脇侍ではなかったかという説も紹介された。何らかしら事情で同じ御室派の龍華寺所蔵となったとのこと。私もその記事を気になっていたが、山本先生の講義でより深く理解することができた。私は先生の講義内容をメモを取りながら食い入るようにスライドを見ながら聴講した。また展示品を通じて講義内容を逐次紹介したいと思う。


2021年2月20日土曜日

特別展「横浜の仏像」③(證菩提寺の薬師如来)

 

本日、U案内人と横浜歴史博物館を再訪した。山本勉先生の講演を初めて聞きにいくためだ。登壇した山本先生が横浜の仏像展を通じて仏像史を語るテーマで約一時間半語りつくした。展覧会の構成は時代別になっており前回紹介した松蔭寺如来像を通じて中国南北朝時代の技術(止利様式)や初唐様式など展覧会の展示物を通じた講演だった。栄区の證菩提寺を訪れたのは2012年12月だった。法事があり本堂の阿弥陀如来は見れなかったが収蔵庫にある平安時代の阿弥陀如来を見ることができた。横浜の仏像展では平安時代の薬師如来と阿弥陀三尊、南北朝時代の聖観音と出展されている。證菩提寺は源頼朝創建の寺として知られているが、ここで紹介する薬師如来は山本先生によると證菩提寺開創以前に薬師如来をまつるお堂があり、行基の作との伝説がある。一木造りの技法や全体のおだやかな雰囲気で野趣あふれる仏像との解説だった。講演ではこの仏像発見のエピソードが語られ證菩提寺の阿弥陀三尊調査のおり傍らに置いてあった厨子から発見されたとのこと。その他多くの出展されている仏像について語られたのでおりを見て紹介したいと思う。出展仏像の絵葉書を買い横浜の喫茶店で横浜の仏像について多いに語った仏像クラブの面々だった。





2021年2月13日土曜日

特別展 横浜の仏像②(松蔭寺如来坐像)


横浜の仏像展は山本先生の監修で構成されているが、時代別に横浜の仏像が陳列されている。「仏像史の曙光 」のコーナーは飛鳥時代・奈良時代の貴重な仏像が並んでいる。まず最初に紹介するのが、松蔭寺如来坐像だ。山本先生も図録掲載の「横浜仏像序説」の中で「飛鳥時代末期にさかのぼる金銅仏の遺品である。鋳造技法も中央の作例に遜色なく、市域はもちろん神奈川県下でも最古の仏像として貴重このうえない」と述べている。像高は25センチ余りと小像ながら裳掛座・短い腕・体の比率に比べて大きい手や足は止利派の金銅仏に見られ、童顔童形の金銅仏とも共通性が見られる。東博法隆寺宝物館で多くの小金銅仏を鑑賞したが、その仏像に様式が似ていると感じた。また図録執筆者の神奈川県歴博の神野氏に国宝深大寺釈迦如来に代表される初唐様式も入っており止利派と初唐様式の折衷的な仏像とみられるとのこと。またミズノ先生の言われている河西回廊のある涼州式偏袒右肩(りょうしゅうしきへんだんうけん)も初唐様式の特徴でこの仏像でもあらわされている。どのような経緯で古代の横浜に伝わった興味がつきない。まだまだ見たことがない仏像が続くので次の展示に向かった。


2021年2月6日土曜日

特別展 横浜の仏像①

 
今週の日曜日横浜市歴史博物館に特別展「横浜の仏像」しられざるみほとけたちを見にいった。コロナ禍の緊急事態で開催されるか心配だったが、監修する山本勉先生のツイッターでも順調に準備される様子があり、安心してでかけた。横浜に歴史博物館があることを初めてしったが、最寄りの横浜市営地下鉄センター北駅に降り立つと横浜の仏像の写真パネルやポスターがあり一人盛り上がりながら、横浜歴史博物館へ向かった。玄関の柱にも仏像写真があり体温を測り連絡先を書いて入場した。最初に出迎えてくれたのが、泉区向導寺の阿弥陀如来で顔と胴体が離れていたものを今回の展示のためくっつけてあった。写真撮影をしQRコードのアンケートに答えるとマグネットがもらえるのでそれにこたえてから展示室に向かった。山本勉先生の監修らしく飛鳥時代から南北朝時代まで横浜の仏像がワンフロアで体系的に鑑賞できるようになっている。それぞれの時代に「仏像史の曙光」「運慶仏の時代」など個性的にタイトルがつけれていた。個々の仏像の説明は次回とするが、初めて見る仏像や仏像クラブで訪れたなつかしの仏像の晴れ姿に感動した。1Fの売店で図録とさきほどアンケートに答えたマグネットをいただいて歴史博物館をあとにした。今月20日には山本勉先生の講演があるし、まだ来ていない弘明寺十一面観音や慶珊寺(けいさんじ)十一面観音も2月9日より展示されるので、また訪れたいと思う。



2021年1月31日日曜日

聖衆来迎寺と盛安寺④(聖衆来迎寺の日光・月光菩薩)


 2014年に近江坂本を訪れた際、、聖衆来迎寺の拝観を申し出たがお寺の行事という理由で断られたことがある。普段公開されない仏像が昨年開催の大津歴史博物館で公開されるというので、京都観光を中断して大津歴博に向かった。盛安寺のコーナーを過ぎるといよいよ聖衆来迎寺のコーナーになっており多くの仏像が迎えてくれた。私にまず注目したのが日光・月光菩薩像だ。この仏像は京都岡崎元応寺が応仁の乱で焼きだされ、坂本に移ったが織田信長の比叡山焼き討ちなどにあい今は聖衆来迎寺の本尊の脇侍に収まっている。像高は1メートル余りで面長でやや平板な顔立ちや頬下が広くやや冷めた目つきは十四世紀ごろの像によくみられる表情だ。日光菩薩は胸前にあげた右手の指で輪をつくり、太陽をあらわし、月光菩薩は月の標識を表している。像内の書付から今となっては幻の寺院となった創建期の京都の仏像の作風をしる貴重な仏像だ。他にも見どころが多い展覧会なので次の展示に向かった。


2021年1月23日土曜日

特別展「相模川流域のみほとけ」⑦(茅ケ崎宝生寺阿弥陀三尊)

 

昨年いった相模川流域のみほとけ展では身近な町の珍しい仏に出会うことができた。昨年の夏、定年退職記念に旅行した広島での隠れたテーマが「一光三尊像に出会う」だった。尾道では法事のため厨子が閉まっており見ることができなかったり鞆の浦では修復のため脇侍が出されており出会えなかった。予備知識なしに「鎌倉時代の仏像」のコーナーで鑑賞しているとその仏像は突然現れた。思わず、「梵篋印(ぼんきょういん)」と叫んでしまった鎌倉時代の善光寺式阿弥陀三尊で光背がないので一光三尊像ではないが、もとは光背もあったかもしれない。相模国風土記には高麗仏との記述があり中央に阿弥陀立像。横に観音と勢至。広島で出会えなかった「チャングムの誓い」に朝鮮王朝の挨拶の仕方ででてくる両手を横にしてちがいに合せる梵篋印(ぼんきょういん)を組んでいるではないか。また宝冠はシンプルな帽子のようなものをかぶっており探し求めた仏像だった。鍍金の仏像だがほとんど剥げており、当初は東博法隆寺宝物館でみたような金色相に覆われただろう。図録によると勢至菩薩に火を受けたあとが見られるとのこと。やはり鍍金に覆われた当初の一光三尊像が見たかったと思いながらひとり興奮して次の作品に向かった。