空也上人像が東京に出開帳するのは半世紀ぶりだそうだ。以前も書いたが小学生のころ新宿小田急デパートで見て、大人になって六波羅蜜寺を訪れてみてこれが三度目の再会となった。運慶の四男康勝のデビュー作だが、根拠となる墨書が内繰りに書かれていることが、奈良国立博物館の写真資料でも明らかになった。平安時代に多くの人々に救いの手を差し伸べた空也上人そのものを鎌倉時代に制作された。貧しい衣を着てやせ細りながらもまるで生きている人を写生しているような康勝の写実性がすぐれた彫刻作品となっている。クリアなガラスケースに収まっているとはいえ羽織った鹿衣の質感まで表現されているのは驚いた。今週アップされた109ブログによると空也上人の口から出現する小さなほとけさまは南無阿弥陀仏の6文字を指すのではなく、1体が一度の念仏と考えるべきとの意見をいただいたとのこと。同じく口から小さな仏が出現する中国浄土教の祖師善導の肖像では、口から十体の小さな仏が現れていて、念仏を十回となえた「十念」を表している。本像の小さな仏は後補で、空也上人の口の中を見ると穴が三つある。仏師康勝は3ケ所の穴を使って10体像を出現させていたかもしれませんとのこと。109ブログには書いていなかったが日本の他の寺院の空也上人像にも3本の仏を表現している例があり、小さなほとけの宗教的意味がすとんと腑に落ちたと感じた。知れば知るほど魅力的な空也上人像を時間の許す限りこの上人像を眺めていたくなった。
会場の空也上人と反対側に展示されているのが、薬師如来と四天王だ。まるで一具のように祀られているが、四天王が秘仏本尊十一面観音の眷属である六波羅蜜寺はじまりのほとけに対し、薬師如来は客仏で創建時より少し時代が下り10世紀後半の作でかつてどこかのお寺の本尊として祀られていた仏像だ。西木学芸員によると製作技法からも違いがわかり四天王は一木造り、薬師如来は寄木造りだという。仏師定朝により完成した寄木造りだが、この薬師如来は寄木造りの初期の製作で定朝の阿弥陀如来が前後左右に分かれた財を寄せているのに対し、解体修理時の図録の写真でもわかるように、上半身は左右の二材に脚部は別の材でつくられていた。立像と異なり座像は前方に脚部がはみ出るので別の材で彫ることは珍しくないようです。このような技法が生み出された背景には末法思想が流行した10世紀後半から仏像の需要が高まったという要因もある。限られた時間に多量の仕事に迫られた仏師たちの工夫から寄木が生まれた。細かな表現や技法に注目するとより一層展覧会が楽しめるとの西木学芸員の文章に同感した。これからも仏像見るときその点についても心掛けていきたい。
深大寺には仏像クラブで今回出展の国宝釈迦如来像を拝観に行った。その際HPで秘仏があることを知った。本展のパンフレットをみると「日本最大の肖像彫刻、205年ぶりの出開帳」とあるので興味津々で会場に出かけた。鎌倉時代に制作されたこの肖像彫刻は像高2メータル足らずだが、大きさに圧倒された。皿井学芸員によると高僧は没後遺影がつくられることが多いが、この慈恵大師(元三大師)良源像は作例の数でも他の天台僧を圧倒しており、「鬼大師」「角大師」というバリエーションが生み出され、庶民に親しまれ点もあらゆる宗派の祖師信仰のなかでも特徴的であるとのこと。良源は教学的にも寺院経営でも剛腕ふるった僧侶で没後も比叡山山内にあって不動明王の化身という信仰が生まれた。その大きさに驚かされて会場をあとにした。
先週の土曜日U案内人の企画で入谷浅草大仏巡りに仏像クラブで出かけた。生誕150年の樋口一葉記念館によってから、以前よりFaceboookで拝観を申し込んだ西徳寺に向かった。お寺の担当者が事務所に待っていてくださり本堂で仏像を拝観させていただいた。西徳寺は京都にある仏光寺の末寺が関東に江戸時代に移転した浄土真宗のお寺で本尊の阿弥陀如来は像高99センチで肉髻珠・白毫に水晶がはめ込まれている鎌倉時代の仏像とのこと。。台東区教員委員会によると典型的に鎌倉初期に活躍した快慶の阿弥陀如来の形だが、本像は基本的にその形に従いながら、着衣の形に変化がつけられている。衣文線の型式化あわせて考えると鎌倉時代後期の製作と思われるとのこと。私は顔の形から京都国立博物館でみた南河内金剛寺の大日如来を思い出した。平安時代の作だが脇侍の不動明王を快慶弟子行快が製作したことから東寺の帝釈天のように行快も平安時代の大日如来を補修したかもしれない。そうなると京都由来の阿弥陀如来の製作が行快かもしれないと思った。お寺の方に御朱印をお願いすると西徳寺の伝来と寺宝の写真が載っている「西徳寺物語」を用意いただいており一同感激してお寺をあとにした、その後浅草に満開の桜を見ながら、金銅製の地蔵や釈迦如来などの大仏巡りをし浅草寺近くのそば処「十和田」にて大いに盛り上がった仏像クラブの面々だった。