2024年5月12日日曜日

令和六年新指定国宝重文展①(八坂神社牛頭天王像)

4月29日東博平成館の特別展鑑賞後、U案内人たちと本館11室に移動し「令和六年新指定国宝・重文展」をみにいった。今回の指定では京都大報恩寺六観音(国宝)や伊豆河津南禅寺の仏像群(重文)の展示もあり、なじみの仏像の晴れ姿見に行く鑑賞会となった。11室の入口にはいつものガラスケースにメインの仏像展示があるのだが、出展されていたのは福井八坂神社牛頭天王だ。TV見仏記福井越前編で八坂神社の十一面女神像は紹介されたが本殿の秘仏牛頭天王は御神体として厳重に秘されて祀られていて1963年の仏像調査報告があるだけで研究者でも拝するのが難しい仏像とのこと。そのため保存状態がよく当初の火焔光背の彩色もよく残る平安時代の神仏混交仏だ。新指定国宝重文展ではここだけしか二度と鑑賞できない仏像が出展されるので仏像ファン注目の特別展だ。牛頭天王は疫病を防ぐ神として、祇園社(現京都八坂神社)を中心に信仰集めた。本像は三面十二臂で本面頭上に牛頭を戴き、武装して虎の上に座す。牛頭天王は同時代の神像彫刻のなかでも優れた出来栄えを示し、当初の光背、台座が残るなど保存状態も良好とのこと。近頃本屋で購入した「かまくら春秋」という小冊子には山本勉半蔵門ミュージアム館長のエッセイのなかに鎌倉寿福寺籠釈迦の写真が掲載されお寺や神社には秘されてなかなかお目にかかれない仏像があることを知った。このような機会を逃さないよう注意していきたいと思った。







 

2024年5月5日日曜日

吉野奈良仏像探訪記①

今日(5月2日)から奈良に来ている。早朝に新幹線と近鉄特急を乗り継ぎ近鉄吉野駅に降り立った。あたりはまさに新緑が映えるうっそうとした森で南朝の歴史の舞台だ。早速、金峯山寺の蔵王堂に向かう。江戸時代に再興され金剛蔵王大権現を初めて拝観した。像高7メートルで憤怒の表情で参拝者を睨み付けてくる。蔵王堂では以前三井記念美術館でみた寺宝が祀られいたので、それは次回以降に紹介したい。次に行く予定だった大日寺のご住職の都合で15時以降になったので、桜本坊を拝観した。最後に大日寺の五智如来を拝観し御朱印をいただきロープウェイで下山し予定通りの特急で奈良に向かった。早足の参拝となったが修験道の世界にどっぷりとはまった半日旅行だった。あとからわかったのだが東南院にも平安時代の大日如来があり一度は拝観したいと思った。明日は憧れていた興福院の阿弥陀三尊や佐保路の仏像を巡る予定だ。

2024年5月4日土曜日

吉野奈良仏像探訪記②(興福院阿弥陀三尊)


吉野奈良仏像探訪の2日目、初めて拝観する興福院へ向かった。三門を入ると季節の花がよくて入れされた庭に咲き乱れ、苔も手入れ中だが青さが眩しく手のよく入ったいかにも尼寺らしい庭が迎えてくれた。拝観入口で本堂拝観と茶室拝観、抹茶の振る舞いで三千円取られたが、襖絵も素晴らしく、抹茶もお手前も古都らしい饗応だった。仏像は天平時代の趣を残した木心乾漆造。後補はあるが、説法印を結んだ中尊と、上体を中尊の方に傾けてそれぞれ外側の脚を踏み下げた半かふざの脇じの姿は、天平末期造形の一つの典型といえるだろう。素晴らしお寺に出逢えたことに感謝し、静かにお寺を後にした。

2024年4月30日火曜日

特別展「法然と極楽浄土」①

 


昨日、U案内人と東京上野で東博開催の特別展「法然と極楽浄土」を見に行った。御徒町の「とんかつ山家(ヤマベ)」で腹ごしらえをして季節外れの猛暑の中、東博に向かった。本展は鎌倉仏教の一大宗派・浄土宗の歴史を通覧する史上初の展覧会とのこと。事前に雑誌で予備知識を入れてから仏教に詳しいU案内人の説明を聞きでかけた。第1章「法然とその時代」では法然の著作と教えが書かれた「選択本願念仏集」や法然の生涯を表した「法然上人絵伝」が展示されていた。また當麻寺所蔵の「法然上人座像」も展示されており生前のリアルな上人の面影がわかりよかった。第2章「阿弥陀仏の世界」では法然の誕生の地に立つ岡山誕生寺の地蔵菩薩や国宝「阿弥陀如来来迎図」(早来迎)などが展示され、第三章「法然の弟子たちと法脈」では當麻曼荼羅や弟子の像が第四章「江戸時代の浄土宗」では増上寺の五百羅漢図や知恩院の八天像が展示されていた。私的に一番興味があったのが、香川法然寺の涅槃群像で釈迦入滅の場面を描いた群像彫刻だ。写真撮影もできたので一番弟子阿難が倒れ込む様や動物まで泣いている様を夢中で撮影した。2時間近く拝観し「令和六年国宝・重要文化財展」の会場に向かった。



2024年4月21日日曜日

みちのくいとしい仏たち⑦(青森県今別町本覚寺多聞天)


 この作品をみたときどのような風景のから生まれたか想像できなかったが、「津軽海峡冬景色」で歌われる「竜飛岬」近くの漁師町との解説に合点した。お寺の目の前が津軽海峡という本覚寺境内の多聞天堂に寛政二年(1790年)からご神体としてまつられてきた像。今も年に1度漁師たちがそろって祈祷におとずれる多聞天は御簾のかげに秘せられきたため当初の彩色がよく残る。寺伝の「多聞天像」は持物や形姿からみて正しいが、背後に大きな竜を背負い、顔は閻魔、さらに胸の宝珠は大黒手には多聞天お決まりの宝塔を持つ。漁師の願いが一つに結実した結果で、民間仏とはそういうものだろう。竜の造作がみごとなことから像すべてを船大工又は宮大工の手によるものであろう。民間仏のおもしろさがわかる印象に残る作品だった。