会場の一番奥にはのっぺりした顔の薬師如来と六波羅蜜寺創建当初像といわれる四天王が鎮座していた。空也上人の事績をまとめた古文書で確認されている。増長天は後世の補作で残りの三体は彩色もほとんどなく奈良時代の様式を今にとどめている。当初は4体とも赤色で覆われていたという。見た目にも古色蒼然とした仏像で六波羅蜜寺の歴史の古さを感じさせる。同時代の東寺の四天王の模刻像といわれてきたが、細部において相違があり同じ図を基に彫られたものであろう。この仏像も当時流行した疫病のパンデミックを見てきたのだろうか。空也上人1050年の御遠忌を記念して開催された本展だがパンデミック現在進行中の東京で開催されることに大きな意味を感じた。
展覧会場入り口で音声ガイドを聞きながら鑑賞したが、最初に参拝したのが、定朝の地蔵菩薩だ。皿井学芸員お得意のガラスケースで間近に鑑賞した。光背の透かし彫りも美しかった。今昔物語には閻魔庁に召されたた中級貴族、源国挙が自分が生き返ることができれば地蔵菩薩に帰依すると誓ったところ、生き返ることができたため、出家して大仏師定朝に依頼して等身大の地蔵菩薩を造り、六波羅蜜寺に安置したという。像高152センチ余りと小柄な男性の背の高さの仏像だ。この仏像は別の説話もあり「鬘掛地蔵」とも称される。皿井学芸員も均整の取れた体のバランス、手足の長いプロポーション、なだらかな曲面による立体構成は、平等院鳳凰堂阿弥陀如来に通じるところがあると言っている。源国挙の死んだ日から定朝の若いころの作品である可能性は十分にある。冒頭から素晴らしい作品に出会えたことに感謝し、次の作品に向かった。
今週の日曜日、東博に空也上人と六波羅蜜寺展を仏像クラブ5人で見に行った。半世紀ぶりに東京で開催した空也上人展は小学生の頃、小田急百貨店にあった小田急博物館に見に行った。口から仏を出す空也上人像を不思議そうに眺めていたことを覚えている。会場は聖林寺展と同じ本館特別5室でなかに入ると平安時代伝定朝作地蔵菩薩が皿井学芸員お得意の展示ケースに展示されており、光背の透かし彫りが見事だった。奥には四天王と薬師如来が勢ぞろいしておりそれぞれ露出展示で間近に見れて迫力で迫ってきた。会場には運慶作地蔵菩薩や伝清盛像いずれも鎌倉時代の名作ぞろいだ。夜叉人像などを見てから最後に運慶の五男康勝遺作の空也上人像をみうらじゅんの言う360(さぶろくまる)に鑑賞した。音声ガイドを借りていたので、担当学芸員の皿井舞氏の解説を聞きながら鑑賞した。皿井氏によると空也上人がまとった皮衣の質感まで木彫で表しており、運慶の才能はたしかに息子たちに受け継がれてと感じた。展示会場を出て、海洋堂の空也上人フィギュアを購入し、なじみの和楽庵で久しぶりに食事をしたが運慶地蔵菩薩の造形にいたく感動したらしく天ぷらとそばをいただきながら、仏像の話でおおいに盛り上がった仏像クラブの面々であった。
特集「浅草寺のみほとけ」で一番古い仏像が伝法院の不動明王だ。平安時代の作で巻き髪で、左目をすがめで睨み、牙を互い違いに生やすといった特徴は平安時代前期以降に不動明王図像の典型となる「不動十九観」にのっとたものと思われる。丸みのある穏やかな肉取り、浅く整えられた衣の襞などから平安時代後期に制作されたとみられる。いままで京都・小浜・大分など各地で不動明王の名仏を見てきたため物足りなさを感じたが、東京大空襲にあった浅草寺で災禍を免れた数少ない建築のひとつである伝法院の護摩堂に前回紹介した大威徳明王とともに祀られていた。近頃浅草寺のHPで小堀遠州の回遊式庭園に囲まれた伝法院の瀟洒な建築がただずむ写真を見たが、普段は非公開だという。仲見世の喧騒をよそに桜が咲きみだれる庭園は不定期に公開されるとのこといつかはいってみたいと思った。