今週の日曜日仏像クラブで東京国立博物館平成館に特別展「最澄と天台宗のすべて」を見に行った。この特別展は東京・九州・京都の国立博物館が巡回して来年の春まで開催する展覧会で第一章最澄と天台宗の始まりでは最澄自身に関連する展示となっており鎌倉時代に制作された最澄像や聖徳太子及び天台高僧像の絵画などが展示されていた。音声ガイドで最澄の頭巾のいわれや、作品の解説を聞きながらゆっくりと進んだ。この展示室の一番奥に京都日野の法界寺薬師如来が小さな展示ケースに展示されており間近に拝観できるようになっている。うまくライティングされており、截金文様がすばらしかった。その後、京都真如堂の阿弥陀如来の美しさに酔いしれたり、愛知瀧山寺の十二神将のおもしろい表情に見入ったり、調布深大寺の慈恵大師像の大きさにびっくりしたり、一同十分楽しめた展覧会であった。ショップで図録と手書きの御朱印をいただき1Fで天台宗の僧に日付を手書きしてもらった。同じ1Fでは延暦寺から梵字カフェが出張していると公式サイトにのっていたので、それぞれの干支をいって守護仏の梵字のカフェラテをいただいた。帰りに御徒町の天麩羅屋「天寿々」でおいしい天丼をいただき上野の町をあとにした。参加人数は少なかったが、仏像クラブが開催されてよかった。このまま感染症が収束に向かうのを願うばかりだ。
特別展「聖徳太子と法隆寺」の最後の展示が伝橘夫人念持仏だ。2009年の春、「国宝阿修羅」展で初めて目にしたがその繊細な鋳造技法に驚かされた。阿弥陀三尊像は蓮池から立ち上がる三茎の蓮華座の上に表され、その背後に据えられた後屏には上方へとたゆたう天衣をまとった化粧菩薩がそれぞれ自由な姿態を見せている。後屏の上部には七体の化仏が表されており、彼らと脇侍の二菩薩がやがてたどり着くであろう仏の境地を示している。生命感に満ち溢れた阿弥陀浄土のさまが、実にみずみずしく立体的に表現されている。写真家小川好三氏もこの後屏に注目しており、ヤマケイ仏像カレンダーの今月はそこに表された化粧菩薩をズームした写真を載せている。本展では阿弥陀三尊と後屏を厨子から出したより感動的展示となっており、三田学芸員の腕の見せ所となった。三田学芸員は最後に仏教を中心とした聖徳太子の偉業はわが国にとって大きな基礎となった。1400年遠忌というこの機会に令和の多くの人に聖徳太子と法隆寺に思いを寄せ、新たな時代を築いてく糧となることを願うものであると結んでいる。
法隆寺金堂内に安置されている銅造薬師如来が「聖徳太子と法隆寺」展のために初公開された。金堂内と言えば太子等身大の釈迦三尊が有名だが、その中尊と瓜二つの薬師如来を会場で間近にみたが写真よりその表情のやさしさに驚かされた。三田学芸員によると釈迦三尊と同じ高い台座の上にある像は写真で撮るとどうしても下からの光や横からの斜光での撮影になる。それで表情がきつく見えてしまうのですが、今回の展示では薬師如来に上から自然な光が当たっているので、とてもいいお顔になっていると思いますとインタビュアーに答えていた。薬師如来の光背には法隆寺創建にまつわる縁起文が刻まれており、それによると太子の父用明天皇が病のおり「寺」と「薬師像」の造立を発願したものの、崩御のために実現できず607年に至って推古天皇と聖徳太子が完成させたという。これによれば釈迦三尊より古い仏像ということになるが、銘文自体は鏨(たがね)による線刻の「めくれ」や釈迦三尊の銘文のように整然と書かれているのし対し、薬師像のそれは各行の字数も不揃い。お像のすぐれた出来栄えに比べ、銘文の彫りがその水準に達していないのは不合理で、追刻されたとみるのが自然だと思いますとのこと。そうとは言え創建当初の若草伽藍に釈迦三尊四天王とともにあってその後、移座されたことは間違いないと三田学芸員は答えている。図録解説によると目を見開き、口元に微笑みを浮かべ神秘的な顔立ち、人体の肉感をあまり感じさせない体躯、平板で線的な衣文表現、そして、台座にかかる着衣を文様的に表した裳懸座(もかけざ)など、中国南北朝時代6世紀前半にもとづく形状を示すという。また光背は百済様式で、中国・朝鮮半島の様式を吸収しつつ独自の様式を確立した、飛鳥時代前期の様式美が見られるとのこと。着衣の形状や耳の形も釈迦像に最も近く、制作年代だけでなく、銘文の解釈や伝来、台座との年代差など、解明されているとは言えない問題を抱えた謎多き仏像であると図録は結んでいる。今回のブログを通じて逆に謎が深まった印象を覚えた。
今回の展覧会では金堂内にあり普段真近に拝観することが出来ない仏像が展示されるとのことで楽しみにしていたが、出品されたのは、薬師如来と四天王のうち多聞天と広目天だ。三田学芸員によると金堂内後方に安置され普段拝観出来ない二天を公開したとのこと。第五章法隆寺金堂と五重塔の入ってすぐにこの二天像が露出展示されていた。みうらじゅんいわく360(さぶろくまる)で鑑賞できるとあってU案内人と私のボルテージは一気にあがった。四天王の飛鳥時代の作品だが袖の衣文のさざなみがみごとで背中邪鬼まで完璧に作り込まれている。広目天の光背の「山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)」の銘文もはっきり見えた。全体を見ても、細部を見ても、そしてどの角度から見ても流麗にして隙の無い造形感覚にただただ舌を巻く。四天王の頭には銅板を透かし彫りにした文様をつける豪華な宝冠をつける。四天王といえば東寺像のように個性的表情の造形が一般的だが、この四天王は直立し眉をひそめ、口を閉じた表情だ。それがまた迫力があるともいえる。邪鬼も手首を縛る特殊な姿は他に例がない。三田学芸員によると像の大きさが釈迦三尊の眷属としてバランスがよく宝冠の意匠が救世観音に近似していることを踏まえれば、釈迦三尊の製作後そう遠くない時期に制作されたと考えるのも可能だろうと図録に書いてある。いずれにしても日本最古で最高の傑作四天王であることは間違いない。
法隆寺の地蔵菩薩と言えば聖林寺十一面観音展にも出展された、大神神社の地蔵菩薩が有名だが、こちらは法隆寺聖霊院に祀られた平安時代の地蔵菩薩だ。こちらも実は客仏でもともと飛鳥の橘寺にあって、その衰退のため平安時代に最初に金堂のちに聖霊院に移された仏像だ。古い記録ではインドに生育する白檀で作られたとあるが、実際は白檀ではなく榧で作られているが、白檀の代用材でつくられた。榧の仏像は彩色しない木肌をあらわすが、本像は唇に彩色が見られるだけでひたいの白毫は真珠とみられる。長い眉切れ長な目、筋の通った鼻は理知的で、眼球や頬のふくらみ、深く彫られた唇は肉感的である。これは大神神社の地蔵菩薩にも見られる特徴で地域の地蔵菩薩の手本となった可能性が考えられると図録は結んでいる。