平成25年にはじめて「なら仏像館」(奈良国立博物館本館)で出会ったのが、こ
の十一面観音だ。芳香を発するビャクダン材を用いて一尺三寸という経典に忠実な高さで作られた奈良から平安時代に製作された重文の仏像だ。細身の体つきながらひじを外にはってゆっくり下ろす造形が平安時代の充実した威風を感じさせると奈良博のHPに書いてあった。小像ながら細かい装飾には目を見張るものがあり、東博東洋館で見た「三蔵法師の十一面観音」に通じるところがあるが、装身具の一部などに別材製のものを貼り付け、頭髪に乾漆を盛るなど、唐の作例にみられない技法が採用されており、日本国内での製作とする意見が定説だ。最近文化庁が発表したイタリアで開催される「日本仏像展」に出展される奈良博所蔵の十一面観音はたぶんこの仏像ではないだろうか。すばらしい造形で多くのイタリア人を感動させるに違いない。
先週の日曜日仏像クラブで埼玉県ときがわ町の慈光寺に出かけた。東武東上
線の武蔵嵐山駅より慈光寺に町営バスを乗り継ぎ到着した。境内には山桜がちょうど見ごろで、桜の中を本日御開帳の千手観音を拝観しに観音堂に向かった。千手観音は頭部は室町時代の製作で体部は江戸時代に造られたものだが、近年表面の彩色を塗り変えたらしく新しくなっていた。観音堂を出て国宝のお経の展示室を見ながら収蔵庫に向かう。収蔵庫には1300年間法灯を保ち続けた慈光寺の宝物が並んでいた。私が注目したのが宝冠阿弥陀如来で鎌倉時代慶派の作とのこと。宝冠釈迦如来といえば、鎌倉浄光明寺の釈迦如来や、東博でみた静岡方興寺の釈迦如来のようにりっぱな宝冠をかぶっている仏像を思い出すが、慈光寺の末寺の本尊とのことで宝冠はほとんど壊れて失われており、戦乱の世を耐え抜いたこの寺の歴史を今に伝える仏だった。帰りに日帰り温泉に入り遅めの昼食をとりながらおおいに語り合った仏像クラブの面々だった。
昨年のことになるが大津市歴史博物館で開催された「比叡山展」にてその展覧
会ホームページの表紙に出ていた見たことがない仏像がこの大津市内の個人蔵の菩薩像だ。像高が38センチで平安時代の作だが、個人の念持仏としてはちょうどよい大きさだろう。頭部は大きな髻を表し、後方に貝の様に広げて倒している。左右の耳前で髪の一部を巻き上げ、それが天冠台にかぶさっている。細かく実によく出来た仏像だ。どのような経緯で個人蔵になったかわからないが、大津の懐の深かさを感じさせる一品だった。
2年前、藝大で開催された「観音の里の祈りとくらし」展では狭い会場に所狭しと
18体の仏像が展示されていたが、この菅山寺の十一面観音はそのなかでも異彩を放っていた。それはこの像が他の仏像と違い木心乾漆づくりで、独特の雰囲気を醸し出している1メートル弱の仏像だからだ。漆により、より細かな表現が可能となり若干露歯(ろし)を思わせる開き気味の口元や深くあつい衣文線をあらわしている。近頃見た「新TV見仏記」でみうらじゅんは手前の手を大きくつくってあるという造形の特徴からはいるなどさすが美術のひとだと思った。私も不思議な魅力の観音の前にたたずみ、しばし時間を忘れた。今年の7月に同じ藝大で「観音の里の祈りとくらしⅡ」が開催される。「TV見仏記」で有名なあの千手千足観音や黒田観音堂の千手観音など40以上の仏像が展示される。今から期待している。
先日行った「観音ミュージアム」では、リニューアルオープン展「長谷寺仏教美術
の至宝-彫刻編」の期間中、神奈川最古の大黒天が展示されていた。大黒天は七福神のひとつでインド由来の武装神で三面六臂(さんめんろっぴ)の姿で中国の絵図などにあらわされてきたが、日本に伝来したとき神話の大国主命との習合を遂げて、今の形となったとのこと。初期の大黒天像としては大宰府観世音寺で見た大黒天が有名だが、そちらは厳しい顔つきのに対し、この大黒天は見慣れた穏やかな顔つきでいつもの俵に乗っている。このように穏やかな表情になったのは中世になってからとのこと。中世製作のごく初期の作例として注目されている。ありきたりの大黒天にもこのように深い歴史があるのだと感心し次の展示に向かった。