平成20年にU案内人と京都の広隆寺を訪れたが、その際出会ったのがこ
の十二神将だった。日光菩薩、月光菩薩の両脇に6体ずつ分けられていた。技術の光る戦いより舞踊(ぶよう)を感じさせる十二神将だ。これは大仏師定朝の息子覚助(かくじょ)と共に活躍した一番弟子長勢(ちょうせい)の作と伝えられている。なかでも「安底羅大将」は目を細めて矢を持つ姿が新薬師寺の頞你羅(あにら)大将を意識した造りとなっている。しかし平安時代後期のこの作品は当時の神将形の特徴である温和な憤怒相(ふんぬそう)と、激しい動きを抑えた姿勢を刻み、頭髪、甲冑に変化をつけ、漆(うるし)と彩色を交えて優美に装飾されている。いずれも国宝で円派の祖である長勢の数少ない遺作のひとつである。広隆寺は有名弥勒菩薩ばかりでなく他にも多くのみるべきものがたくさんある。大満足してその場を後にして宿に向った。
平成21年夏に岩手県を訪れた。当初は毘沙門天めぐりをしようと思ってい
たが、お寺の都合その他で拝観がかなわずこの成島毘沙門天のみの拝観となった。ツアーの参加者は私一人だったので、宮沢賢治ゆかりの地は、早めに周り成島毘沙門堂に時間をかけてもらうようガイドに頼んだ。成島毘沙門天は重要文化財に指定されているので山の上の収蔵庫に向う。拝観券を売ってくれたおじいさんと一緒に中に入る。目の前にほぼ五メートルはある毘沙門天が現れた。兜跋(とばつ)毘沙門天といわれる、その珍しい仏像は一木造で、地天女と呼ばれる女性の肩に載り、私をしっかりと見下ろしていた。別冊太陽「みちのくの仏像」によると当初の彩色が残り、頭部、体部、地天のそれぞれの背面に内刳り(うちぐり)が施され軽量化が図られているという。とわいえ圧倒的な重量感でせまってくる。その毘沙門天を苦しげに地天女が支えているように見えた。一木からこれだけの巨像を破綻なく彫り出す仏師の技量は並大抵ではない。坂上田村麻呂の化身と言われるのもうなずける。圧倒されながら成島毘沙門堂をあとにし、今夜の宿鉛温泉まで送ってもらった。
先月行ったサントリー美術館の「天上の舞・飛天の美」展で期待していた
のが、岩手県から来た松川二十五菩薩だ。二十五菩薩は阿弥陀如来に随って、音楽を奏で散華しつつ往生者を極楽に導くために来迎する観音・勢至以下の菩薩のことで、以前京都の即成院で平安時代の菩薩様たちを拝観した。この松川二十五菩薩は頭部や上半身を失っているが、優美なフォルムはそれを感じさせない。どのような朗らかな、お顔でいただろうか。楽器はどのようなものを持っていただろうか。想像するのも、楽しい。現地には江戸時代に頭部を復元した阿弥陀如来も残るとのこと。今度また岩手に行く機会があれば是非たずねてみたい松川二十五菩薩であった。