法然が活躍した時代は保元・平治の乱や治承・寿永の乱など騒乱が多い時代だった。源平の一の谷の戦いで平家の公達敦盛を泣く泣く首をはねた熊谷直実の物語は有名だが、その直実が法然の下で出家し、熊谷蓮生法師として岡山の誕生寺や長岡京の光明寺を創建したことはあまり知られていない。誕生寺の創建は幼いころ争いに巻き込まれ父を亡くした法然が美作国稲岡庄に弟子の蓮生を遣わし、法然所持の仏像を持参した熊谷蓮生法師が屋敷跡を寺院に改めたことが始まりとのこと。本像は快慶一派によくみられる三尺阿弥陀で来迎印を結ぶ安阿弥様のヒノキの寄木造。解体修理の際、中から印仏が見つかり「法然上人御生所御本尊」の墨書があり当寺こそ法然の生誕地で、本像は旧本尊である可能性が高まった。製作背景に法然の百回忌を想定する説もありいずれにしても熊谷蓮生法師の活躍で誕生寺にある仏像かその小像を模して作った仏像であろう。歴史の面白みを感じて次の作品に向かった。
話はひと月前に戻るが、令和六年新指定国宝重文展出展の仏像の中でいきなり重文を飛び越して国宝となったのがこの地蔵菩薩だ。大報恩寺(千本釈迦堂)のすぐ近くが北野天満宮でそのほど近くに「北野経王堂」という創建7世紀に遡る古代寺院があった。江戸時代に廃寺になり北野経王堂にあった六観音と一緒に大報恩寺に移されたとのこと。六観音の内の准胝観音が肥後定慶作といわれるが、伊東史朗氏が面貌や耳の表現がこの地蔵菩薩と酷似しているとの指摘もあり私はこれも肥後定慶作と認めてよいであろう。六観音と同じ大きさでこの時代に珍しく一木造の仏像でなにか霊木が使用されていたののだろう。国宝指定とのなりさらに研究が進むことが期待される地蔵菩薩だ。
5月31日館佛三昧ミュージアム巡りの目玉がこの半蔵門ミュージアムの如意輪観音だ。この仏像は京都の醍醐寺から縁あって半蔵門ミュージアムに寄贈された平安時代の仏像だ。半跏思惟半跏踏下坐の仏像で、醍醐寺の開祖聖宝が上醍醐に結んだ草庵に准胝観音と如意輪観音だったと伝えられ、醍醐寺にとって如意輪観音は貴重な尊格。この像は江戸時代初期に修復され快慶の弥勒菩薩で有名な三宝院持仏堂に安置されたことが知られているがそれ以前の伝来は不明とのこと。曼荼羅にも描かれている六臂像だが、右足を左腿の上に跏し、左足を踏み下げて座る半跏の姿はきわめて珍しいものだ。10世紀後半頃の製作とみられるとの説明だったが、金沢文庫に寄託されている龍華寺脱活乾漆菩薩像や奈良興福院で見た阿弥陀三尊の脇侍に通じる仏像とみた私には9世紀はくだらない古仏とみた。今回の修復で顔に木屎漆が盛られていることが分かり、修復の際除去したと半蔵門ミュージアムXに記載されていた。また会いに行きたい仏像だ。
先週の金曜日通称「紫陽花休暇」という有給休暇をとり、都内のミュージアム巡りに出かけた。東京メトロ東西線の早稲田で下車し早稲田大学前のU案内人ご推薦「Pizzeria TAKADA BOKUSYA」でマルゲリータランチをいただき、早稲田大学構内にある會津八一記念博物館で開催されている「館佛三昧Ⅱ」に入場した。展覧会場はすべて歌人・書家・東洋美術史研究者の會津八一のコレクションを展示する内容となっており、ガンダーラ仏からだれかの念持仏であった小観音まで興味深い展示だった。写真はコレクションの帝釈天像で「法然と極楽浄土」展でみた知恩院帝釈天と同じ仏師の作か?早稲田駅に戻り東京メトロ半蔵門駅で降り半蔵門ミュージアムで開催の音を観る-変化観音と観音変化身に入場した。ここは宗教団体の所有のミュージアムで所蔵している運慶大日如来が地下の展示室で常設展示している。展覧会にも仏教由来のタイトルがつけられている。詳しくは次回からの見ていくが、このミュージアムは地下一階地上三階の大規模なつくりとなっており地下の展示のあと三階のシアターで運慶大日如来の説明映像を観覧したり二階のミュージアムショップとカフェで展示品クリアファイルや絵葉書など購入できたりと至れり尽くせりの施設だ。大満足して東京メトロ半蔵門線で渋谷に出て帰路に就いた。次回の有給休暇またどこかのミュージアム巡りをしたいと思った。