京都の長楽寺に行こうと思ったのが、みうらじゅんが出した仏像の写真集にやたら長楽寺の上人像や仏像が載っていたからだ。見仏記にもかかれておりデフォルメした一遍上人像に興味がわいたからだ。醍醐寺から東山に出て知恩院界隈の京都らしい道をくだり、円山公園を抜けて人の背丈ほどの看板を見ながらどんつきに向かった。やがて石段があり本堂に向かうと何やら小さな観音像があったそれが写真集に載っていた准胝観音お前立だった。気を取り直して収蔵庫に向かった。そこには上人像や仏像が展示されていた。上人像を彫ったのは慶派仏師の流れをくむ康秀であった。中央に時宗の祖である一遍上人像がたっていた。見仏記によると「これがまた、すさまじい像であった。リアルなのだが、細さにおいては現代美術のような印象を与えるのだ。顎はあり得ないほど尖り、目はぎょろついている。(中略)合わせた手から、いまだに法力が出そうな迫力である。」私は彼らのように上人ブームが来ていないのでそれほどの像だとは感じなかったがよくできた上人像だった。帰りに秘仏の准胝観音の話を寺男として令和元年が始まった5月にご開帳があったそうだ。残念に思いながら石段を下り見おぼえのある道を八坂神社の前を通り、清水道より京都駅ゆきのバスに乗り込んだ。
2012年夏愛知県にある瀧山寺を拝観したが運慶の三観音ばかりに目がいったがまさかこんな素晴らしく愉快な十二神将があるとは知らなかった。最澄と天台宗のすべて展では秘仏ばかりが展示されたが、これも秘仏(?)だったのか。みうらじゅん・いとうせいこうの見仏記にもこの十二神将には一言もふれられていないので、当時は修理中だったのか。寺伝によると鎌倉時代の作で運慶の三観音が頼朝追悼のため製作された時期と重なる。写真の2号像は夜叉を意識して作られたと図録に書いてあったがどこかユーモラスだ。お寺に安置されているらしいので、また瀧山寺を訪ねていきたいと思った。
私の太子像マイブームが始まったきっかけが令和元年秋に県立金沢文庫で開催された「聖徳太子信仰展」がきっかけだった。その後令和2年コロナ禍の中、尾道旅行を断行し、尾道の名刹を周り、いよいよ太子1400年御遠忌にあたる令和三年に東博の「聖徳太子と法隆寺」展を見てその年の11月から開催されたサントリー美術館の本展を今年の年末年始休み見に行った。茨城県善重寺の聖徳太子孝養像は令和元年「聖徳太子信仰展」で見たが本展でも展示されていた。截金が美しく胸の鴛鴦(おしどり)の丸文が印象的だった。善重寺は親鸞門下の寺であることから親鸞の太子信仰に関連した作と思われがちだが、鎌倉時代佐竹氏が中興した慈願寺より江戸時代徳川光圀にが移座したとのこと。そのため真言律宗の叡尊の弟子忍性が拠点とした常陸で製作された太子像であると仏の瀬谷さんが雑誌で答えていた。本展ではコラムも担当して叡尊・忍性の四天王寺別当就任なども紹介され叡尊の太子信仰活動が解りやすく解説され興味がもてた。太子イヤーは終わったが引き続き太子像は追いかけていきたいと思った。
薬師寺のある西ノ京から奈良中心部に戻りU案内人一押しの興福寺五重塔初層開闢を見たが拝観料1000円にしては大したことなかった。急ぎ隣の紅葉まっさりの奈良国立博物館なら仏像館に向かった。お目当ては吉野金峯山寺金剛力士だ。この金剛力士像は金峯山寺の仁王門に安置されていたが、修復のため昨年の2月から令和10年まで奈良国立博物館に展示されている。まず見てその大きさに驚かされた。像高5メートル余りの仏像で近くの東大寺運慶作金剛力士像に匹敵する高さだ。山口学芸員によるとこの金剛力士像も寄木造で南北朝時代の作。角材を縦に並べ、貫を用いて箱組式に組み上げ、さらに多くの材を矧ぎ寄せている。像内墨書から大仏師康成の名がかかれており1338年の製作とのこと。金峯山寺には高さ7メートルの江戸時代の蔵王権現がありこの金剛力士より巨像文化が引き継がれていたのだろう。二軀の金剛力士像は鎌倉時代後期の颯爽とした姿を基本とし、まとまりがよい作風を示している。丈六の仏像を破綻なくまとめあげた康成のすぐれた技量をみることができるであろう。運慶快慶らが造立した奈良東大寺南大門像に次ぐ大作として、また当代を代表する金剛力士像としてきわめて高い価値を有していると山口学芸員も絶賛している。金峯山寺に帰るまえにもう一度見ておきたい仏像であった。