相模川流域のみほとけ展は昭和44年から平成までの長年にわたる仏像調査の結果発見された平安から鎌倉時代の仏像の展覧会で神奈川歴博だから実現できた展覧会だった。ここで紹介する国分寺不動明王も30センチ余りの小像でいかにも寺の厨子に隠されていた仏像という雰囲気だ。ガラスケースに納められて肉眼では分かりにくいが確かに玉眼を嵌入し、図録によると顔の筋肉の凹凸は立体的であり、引き締まった体つきは鎌倉時代の様式が感じられる。構造は割矧ぎ造りで内刳りは丁寧に深く彫られている。別冊太陽運慶に写真が掲載された京都北向山不動院不動明王に作風が似ており、奈良仏師康助が造像し海老名の国分寺に送られたものとも考えれられる。康助と言えば奈良仏師の後継を康慶に指名した話は有名で、このような写実的な表現を定朝風に取り入れたさきがけの仏師だ。運慶の素地はこのようなところから生まれたと考えさせられる不動明王だった。
海老名市にある龍峰寺は毎年元旦と3月17日に御開帳があるが仏像クラブで日程があわず行けずじまいになっていた。神奈川県立歴史博物館で開催された「相模川流域のみほとけ」展で初めて展示されることとなり、U案内人と出かけた。神野学芸員が言っていた翻羽式衣文が裙(くん)に表されていた。清水式千手観音で像高は頭上の手まで含めると193センチと2メートル近い巨像だ。目には玉眼が嵌入されていてそのことから鎌倉時代に古像を模刻されたと評価されていた。構造はカヤ材を用いた一木造りで、伝説では坂上田村麻呂の協力した清水寺の千手観音と同時につくられ鎌倉時代に源頼朝によって発見されて堂宇に収められたとなっているが、あえて奈良時代と断言した神野学芸員の主張がよく理解できなかった。この件につては「ほとけの瀬谷さん」が「運慶と鎌倉仏像」ですんなり答えてくれた。「本像は国分寺ゆかりの古代の観音像を中世に清水式に改めた可能性がある」とのこと。短い文で端的に説明した瀬谷さんにさすが運慶の第一人者を感じた。県立の金沢文庫と歴博で多くの仏像展が開催されることを期待している。
本日荒天の中、神奈川県立歴史博物館に特別展「相模川流域のみほとけ」を見にいった。一緒に行ったU案内人のとの事前打ち合わせで学芸員の講演が毎週土曜日にあり、その時間に合せていくこととなった。地下の講堂に行くとU案内人は先に来て展覧会を見てから来たとのこと。学芸員は神野ノートで「浄瑠璃寺十二神将」が運慶作と提唱した神野学芸員だった。U案内人の話では会場に山本勉先生も来ていたとのこと。講演では相模川流域が鎌倉以前は相模国の中心であったことや、今回多くの秘仏をお寺のご厚意でお出ましいただいたこと。また感染症収束祈願として薬師如来を図録表紙やポスターに使用したことなどがスライドで語られていた。神野学芸員らしいと思ったのが海老名の龍峰寺千手観音の製作年代を奈良時代から鎌倉時代と特定されていないのにあえて奈良時代との発言があったところだろうか。講演が終わり会場に入ると真っ先に展示されていたのが龍峰寺の千手観音だった典型的な清水寺式千手観音だ。2メートル近い巨像で見ごたえ十分であった。寒川の大日如来の宝冠が展示されていないことにU案内人がくやしがったり、茅ケ崎の善光寺式阿弥陀三尊で広島でみれなかったチャングムの誓いの梵篋印(ぼんきょういん)に興奮したりと十分に二人とも楽しめた内容だった。帰りに馬車道通りのスタバでこの展覧会の感想や来週U案内人が会津に行くというので会津ころり三観音の話で大いに盛り上がった二人であった。
音羽山清水寺は京都を代表する観光地で「清水の舞台」で知られる国宝も本堂は今年2月に檜皮屋根の葺き替え工事が今年2月に完了している。ここも西国三十三所のひとつでこの十一面観音が聖地を訪ね2008年にU案内人と春の桜ライトアップで訪ね、多くの参拝客でごった返している中、U案内人の手招きで本尊お前立を見た覚えがある。ここ清水寺は征夷大将軍坂上田村麻呂が平安時代に自邸を寄進したことにより創建されたが、平安初期の十一面観音菩薩が出展されていた。京博のキャラクタートラりんの「虎ブログ」によれば京博が淺湫研究員によると十一面観音は大きな顔の上に11の小さな顔をのせ正確には12面で東西南北に合せ、北東、北西、南東、南西の八方位と上下を合わせて10とのこと。全身をクスかとみられる一木造りで、当初は彩色があり、比較的穏やかな表情や浅い衣文は平安初期の特徴とのこと。私にはどこかユーモラスな顔つきに思えた。他の興味深い展示もあるので早々に次の展示に向かった。