本日は仏像クラブで覚園寺を訪れた。前回下見でU案内人と訪れたときより
蒸し暑かったがあじさいはよく手入れが行き届いているようで、きれいに咲き誇ってていた。茅葺の本堂に向かうと先についたの善男善女に例の年配のお坊さんが説明している最中だった。見上げると薬師如来が穏やかに我々を迎えてくれた。ここ覚園寺は2代執権北条泰時の創建した大倉薬師堂を9代執権北条貞時が二度と元寇なきようとの祈りを込めて寺に改めたとのこと。その際運慶が造った再興像として慶派が製作したが、また被災し尊氏の時代に本堂と薬師如来の修復、十二神将を再興した。本尊は頭部が鎌倉時代、胴体が室町時代と覚園寺の歴史が刻まれた造りとなっている。前回訪れたときはU案内人と話したのが頭部を製作した慶派の仏師についてだった。覚園寺は13世紀創建から、私は近くの金沢街道にある明王院不動明王の作者肥後定慶を押したが確証はない。きりりとしているが優しいまなざしの薬師如来を見つめながら、境内を散策し、小町通の素材屋でアジの御造りをいただきながら大いに語った仏像クラブの面々だった。
覚園寺十二神将は運慶作十二神将が大倉薬師堂被災し、二代目として院派の
朝祐が室町時代に制作したものだ。茅葺の薬師堂に足利尊氏の銘記が残るように足利将軍家や鎌倉公方と密接な関係があったことが、伺える。像高190センチ余りの仏像が多いなかやや小ぶりな戌神(いぬがみ)は製作時期が違うという説がある。大倉薬師堂の創建者北条義時にまつわる伝説について年配のお坊さんよりより詳しい話を聞くことができた。鎌倉三代将軍実朝が勅使を鶴ヶ岡八幡宮に迎える際、刀持ちの役をする予定だった北条義時が戌神の夢のお告げを見たが、気にせづ八幡社に向かうおり犬が目の前にあらわれずっと見ていたそうだ。その後気分がすぐれず変わってもらい危うく実朝暗殺の難を逃れたとのこと。覚園寺の戌神は髪をまいたヘアースタイルが鎌倉国宝館の十二神将に似ており初代の復興像と考えられる。じっくりと十二神将をU案内人とみて、あじさいを鑑賞しながらお寺をあとにした。
緊急事態も解除され同じ県内の鎌倉覚園寺にU案内人と出かけた。覚園寺は
仏像クラブの原点でU案内人と初めて訪れたお寺だ。普段は団体行動で拝観だが、コロナ禍のこの時期は10時から16時まで本堂の拝観を自分のペースでできることをフェースブックで掲載されたのでU案内人と相談して訪問した。茅葺の本堂に入ると薬師三尊と十二神将が迎えてくれた。U案内人は何か霊的なものを感じたらしく感じ入った雰囲気であった。しばらくするとお寺の年配のお坊さんが我々を気遣ってきていただき、我々の質問に答える形式で説明をしていただいた。私が質問したのは月光菩薩についている迦陵頻伽(かりょうびんが)が日光菩薩についていない点だった。迦陵頻伽は極楽浄土に棲む鳥で、顔は美女のよう、美しい声で鳴くといわれている。お坊さんによるとはめ込み式になっており、関東大震災のおりにはずれ紛失したとのこと。平成30年三井記念美術館でアメリカ人所蔵の迦陵頻伽をお坊さんも拝観されたそうで、覚園寺の迦陵頻伽ではないと感じたと話しておられた。私も仏の瀬谷さんのいう説には疑問があり今回よく見ると顔が違うと感じた。この覚園寺は知る人ぞ知るお寺だが2022年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」と決定し覚園寺の前の大倉薬師堂を創建した北条義時が主人公で覚園寺もロケ地に決定したことで日本全国から多くの人が参拝にくることになるだろう。U案内人と二人で思い切って鎌倉に来てよかったと思った。昼食のレストランで海鮮丼をほおばりながら鎌倉について大いに語った。
平成28年の秋に京都を訪れた際、木津川市秘宝・秘仏特別開帳を見に南山城
に出かけた。JR木津駅から徒歩10分で大智寺につき係の女性に案内を頼み、文殊菩薩を拝観した。像高66センチの小さな鎌倉の文殊菩薩を拝観したが、快慶の文殊菩薩に比べて見劣りがしてさほど印象が残らなかった。最近になって再開した奈良国立博物館で特別展示が行われるとのニュースが入ってきた。また奈良国博の山口氏お得意のCTスキャン調査により胎内には厨子入り文殊菩薩像や巻物状の品などの胎内納入品が見つかったとのこと。令和元年に本堂改修に伴い、木津川市に近い奈良国立博物館に預けていたため発見されたようだ。奈良国立博物館の冊子の写真を見ると、重文の仏像のため面目躍如されており、見違えるようだ。奈良国博によると鎌倉時代に木津川にかかった橋の御衣木(みそぎ)で製作し大智寺に供養された。左手に蓮花を持ち、右手に宝剣を執り、左足を垂下する姿や外套衣は安部文殊院文殊菩薩に近いとのこと。いつか奈良に行けるようになったらなら仏像館で見てみたいと思った。