元興寺にはみるべき仏像が多い。元興寺の南無太子像もそのひとつだ。見仏
記によると「きりりと利発な表情」をしているとのこと。誕生仏好きなみうらじゅん氏に「太子像は飢えた虎に餌をやるようなもの」と書かれていたがなぜこの仏像と誕生仏が結びつくのだろうか。単にベイビーを思い起こさせるだけではなくちゃんと意味がある。そこを仏の瀬谷さんは聖徳太子信仰展で解説してくれる。「二歳像は南無太子像とも呼ばれ、東に向かって南無仏と唱えたところ、手に仏舎利が顕れた様子を造形化しています。仏教の原点回帰において釈迦の誕生仏とともに、仏舎利も重要視され、舎利信仰が生まれました。二歳像はそれを取り込んだもので、鎌倉後期に数多く造られています。」とのこと。一度衰退しかかった元興寺を復興させたのが西大寺の叡尊が開いた真言律宗でここに南無太子像があるのは当然といえる。そんなことを考えながら元興寺をあとにした。
奈良博特別展「毘沙門天」の最後のコーナーは「兜跋毘沙門天」だ。東寺の
兜跋毘沙門天から東北岩手の三熊野神社の尼藍婆・毘藍婆まで一同に会して拝観することができた。中でも造形的に優れているのが九州大宰府観世音寺の兜跋毘沙門天だ。この仏像に会うのは3度目で過去、観世音寺には2回訪れたことがあり、九州仏のコーナーで一度紹介している。今回は展覧会場で間近に鑑賞できた。奈良博の図録によると東寺像が西域風なのに対し唐風とのこと。クスの一材から右腕を除く全身と地天・二鬼を彫りだす一木造りで、頭部は小さく作り、胸の下で胴を絞る独特のプロポーションを持ち、下半身の重量感が特に強調されている。これは聖林寺十一面観音にみられる釈迦のヨガと呼ばれるアナバーナ・サチを表すのだろう。頭には二重連珠文帯の天冠台を着けているいるのが注目される。地天女は大宰府の鬼門に位置する竃門山の祭神、玉依姫(たまよりひめ)か神功皇后を表している。中世以前にこの仏像がどこにあったか不明だがU案内人に買ってきてもらった「九州仏展」図録には最澄も訪れた竃門山が最も相応しいと書かれている。私もそう思う。素晴らしい造形に見ほれながら会場を後にした。
平成10年5月の猛暑の中、タイ・スコータイを訪問した。「見仏記」海外篇
で紹介されたワット・シーチュムに向かった。ここには高さ15メートルの巨大な壁に囲まれたアチャナ仏が有名だ。ツアー一行が向かうと人がすれ違えるくらいの幅の切れ目があり、そこから巨大な仏像が垣間見える。アチャナ仏と呼ばれ尊者という意味で仏陀ではないらしい。仏像は降魔印で、なんと周囲の壁から頭頂部がはみ出している。「見仏記」では顔が黒かった写真があったが、私が見たときは白く塗られていた。この仏像は何回か塗り替えられるみたいで、平成29年7月開催の「タイ展」では東博平成館の階段に大きなアチャナ仏の写真があり、螺髪と降魔印の手の色が金に塗り替えられていた。仏像の顔は東洋的顔に西洋的鼻がついていた。これは「ミズノ先生の仏像のみかた」によるとコーカソイドとモンゴロイドがごちゃ混ぜになった顔とのこと。この仏像がより大きく感じるのは、下半身が大きくつくられており、足もでかければ膝に下した右手もでかい。それがみごとな曲線をえがかれて作られており、信じられないくらい滑らかな形をしている。今回のタイ旅行で一番に印象に残った仏像だった。
平成23年に清凉寺の兜跋毘沙門天を拝観したが、これは珍しい座像の毘沙門
天だ。「月刊大和路ならら」によると体を上下に一度材を切り離す胴切りという技法を採用し、かつ体の部分は基本的に前後2材ながら間に補材を挟んで胴部の奥行きを増すなどの複雑な工程を経ているそうだ。平成24年に訪れた京都長講堂の院派院尊作脇侍の天冠台に似ており、院派作とも考えられる。また仁和寺に残された図像には兜跋毘沙門天のように地天女と尼藍婆・毘藍婆が描かれており現在の岩座に座っていない説もある。また海老籠手は西域風だが唐風の鎧をつける点など本像と図像が一致するとのこと。また両胸に雄しべを伴う丸い花飾りをつけるのも珍しい。顔は赤く鎧と宝棒・宝珠は金色に塗られているが、中世における後補だ。私は顔つきや花飾りから奈良仏師ではなく院尊ではないかと推測するが、制作仏師や地天女など謎多き平安仏だった。
2月に行った「毘沙門天」展で毘沙門天三尊像の次のコーナーが双身毘沙門天
だ。二体の毘沙門天が背中を合わせて立つ特異な仏像だ。その中で私が興味をひいたのが東大寺に残された「勝敵(しょうじゃく)毘沙門天」だ。鎌倉時代の作で像高37センチの小像ながらその迫力に目をみはった。2体の武装天部形が背を接し、各1体の腹ばいになった邪鬼の上に立つ。一方は宝塔と法棒を、もう一方は羂索と戟を執ったとみられる。注目すべきは口許から長い牙が伸び、2体のそれが連続している。13世紀前半の慶派仏師の作と思われる。銘記がないので断定できないが、記録によると後鳥羽上皇が起こした承久の乱の年(1221年)の五月に清水寺の僧が勝敵毘沙門天を作り供養の法会を行っている。その法会に後鳥羽院の近臣も列席しており、その願意に幕府調伏があったと思われると図録では記載してあった。よく調べてみるとそのような単純なことではなさそうだ。乱がおこる三年前に暗殺された源実朝は早く父頼朝をなくし右大臣の官位を賜った後鳥羽上皇を父のように慕っていたとの学説がある。そのため実朝暗殺まで幕府と朝廷の関係は良好で、北条義時と内裏再建で対立したのち義時を除き幕府を意のままに操ろうとしたのではないか。結果は御家人大江広元の進言で幕府に攻撃され配流の身となったが、そうするとこの仏像は北条義時調伏のため造られたこととなる。歴史の面白さに思いを馳せながら、仏像鑑賞に浸った。
2月に東大寺戒壇堂に参拝したのち寒風の中、法華堂に向かったがいつのまにか真冬の日差しがあたり暖かく感じ御堂への道を急いだ。中に入ると像高4メートルを超える大きな仏像群が迎えてくれた。私は以前お寺の関係者から説明を聞いたとき腰かけた、奥行き深い畳の敷いた段に腰かけ仏像群を見上げていた。中央に八臂の、いかにも強い法力に満ちて見える不空羂索観音立像。その左右に梵天と帝釈天。目の前には金剛力士が二体と四方に四天王の都合六体が警護をする。見えている像はすべて乾漆、奈良時代の傑作だ。この仏像群の中ではやはり目立つのが4メートルの梵天と帝釈天だ。中でも武装した梵天に目が行った。本尊の不空羂索観音(362センチ)より40センチも背が高くなっている。前から思っていたが、同じ堂内に本尊より大きい仏像があるのは少し不自然だ。不自然さはそれだけでなくこの法華堂のような組み合わせは他にない。梵天が左手に経巻を持ち、大きな中国風の衣の下に甲冑を着ているようにつくられているが、甲冑がないのが梵天という通説に反する。私が思うには遣唐使が盛んなこの時代は中国からダイレクトに新しい仏像の作風が持ち込まれ、その後本場中国では消滅した配置がここ奈良で時が止まったように1300年前の仏像が存在しているからだろう。そんなことを考えながら法華堂をあとにした。