展覧会に行ったときには、必ず展示解説を見ることにしているが、2月に行っ
た毘沙門天展で実際の作品を鑑賞して、展示解説を読むことによってその魅力に気付くことができた作品に出会った。それが岐阜の岩滝山毘沙門堂の毘沙門天で像高150センチ余りの鎌倉時代の作品だ。わざわざ本屋で取り寄せ購入した「月刊大和路ならら」にもパンフにも写真が掲載されておらず、「奈良国立博物館だより」に写真のみ掲載されていたが、会場で展示解説を読むと彩色から奈良仏師ないし慶派系統の仏師の手になることが暗示されていると書かれている。足元の邪鬼は後補だが、三個の火焔光背は当初のものだ。腹帯に雷文繋ぎ文を表すことや、白ではなく赤い腹帯をまくのも例がなくこの像の魅力だ。冑には鋲状の突起を表し、正面に龍の顔を表すが、その頭上の二つの角がさながらクワガタのように見える。快慶得意の截金を採用していないことからも運慶・快慶の影響を受けない兄弟弟子の作品ではないか。随所に個性的な表現を取り入れた魅力的な仏像だった。
2月に元興寺に拝観したあと、少し遠いが歩いて東大寺拝観に向かった。東大寺南大門をくぐり、戒壇堂を11年ぶりに拝観した。入口で拝観料を払うと渡されたパンフの表紙が広目天になっていた。前回訪れたときは入江泰吉記念館で広目天の怖い目をした大きな写真を見たあと向かったため恐れを感じたが、小振りの塑像で頑張って守っている姿に頼もしさを感じた。薄暗くてよく分からなかったが、広目天の肩には獣の口があり、革製を思わせる胸当てもバランスよく配置されていた天平甲制だ。ミズノ先生の「仏像のみかた」に書かれていたが、日本の甲はワンピース型でへそや急所を守る部分を一枚の板にしているためデザインとしては単純でかっこいい。この広目天も帯を締めるだけになっており実戦で暴れれば板が落ちてへそや急所をつかれてやられてしまうとのこと。4体の仏像しかない戒壇堂だがいろいろ見どころが多く長いしたかったが、寒さが身に染みるので法華堂に向かった。
明治の神仏分離・廃仏毀釈以前は普通に神社に五重塔や多宝塔が残されてい
たし、内部には大日如来や四天王が祀られていた。鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮にも五重塔が以前あり仏像があったとの記録がある。この毘沙門天は京都八幡市にある石清水八幡宮の多宝塔にあったということが像とともに伝来した厨子扉に記された墨書により知られる。右ひじを強く張ったポーズに特色があり、静岡願成就院の毘沙門天を思わせる運慶風だ。彩色に金泥塗を多用するところは快慶風だが、截金は補助的使用にとどまる。文様は幾何学文よりも雲龍・鳳凰・花葉などのモチーフが主となる特徴がある。顔は男性的で忿怒の相で玉眼を嵌入しているおり表情に生々しさがあり、金銅製の火焔の光背もすばらしい。運慶・快慶両方に影響を受けながらも個性を持った鎌倉時代半ば頃の慶派仏師の作であろう。クリアファイルを購入して奈良博物館をあとにした。
2月に訪問した元興寺の阿弥陀如来は平安時代10世紀の作で室町時代に焼失した多宝塔から本堂に移された記録がある。元興寺の仏像と言えば八世紀の薬師如来が有名だが、こちらは見仏記によると幼い風貌の阿弥陀如来とのこと。本像は半丈六の座像でケヤキ材の一木造りで衣の襞や身体のしわなど、一部に塑土を併用してふくらみをだし、金箔を押されている。堂々として体躯の柔らかい表情を持つ仏像だ。袈裟の着方は変則的な偏袒右肩(へんだんうけん)でミズノ先生によると中国河西回廊で流行った仏像の様式で「涼州式偏袒右肩」といわれている。寒い地域で流行った仏像の着衣形式で肌の露出を避ける点で日本人に受け入れ易かったのだろう。印相はいわゆる来迎印で親指と人差し指を接し、右手を上にあげて、左手を下げている。ゆったりとした時間でゆっくり鑑賞できて満足して元興寺をあとにした。
私が特別展鑑賞前に行っているのだが、博物館発行の「博物館ニュース・博物館だより」などの刊行物をウェブで確認してからでかけている。毘沙門天展では「奈良国立博物館だより112号」に上席研究員の岩田氏のコラムがあり、毘沙門天への思い入れがよくわかって読み応えがあった。それによると毘沙門天像を博物館への収蔵に携わる機会を得たとのこと。奈良博所蔵の毘沙門天像は石清水八幡宮多宝塔にあった毘沙門天が廃仏毀釈で市中に流れたものを奈良博で購入したり、四国愛媛の仏像調査に従事し如法寺の奈良時代にさかのぼる毘沙門天に出会った思い出は鮮烈だと書かれている。中でも思い入れが強いと感じたのが、高尾地蔵堂毘沙門天で岩田氏が「甲賀市史」の執筆に関わったとき鈴鹿山麓の集落に守られていた高尾地蔵堂毘沙門天との出会いがあったとのこと。手先などを失い、後世に施された彩色が浮き上がり、剥落が進むばかりか、足元の邪鬼はバラバラになっていたと書かれている。奈良博に寄託され往時の見事な姿が甦った。院政期に京都で活躍した円派又は院派仏師の作とのこと。忿怒の相が誇張されていない作風のため余り印象が強くなかったが、今この姿でわれわれの目を楽しませてくれることが奇跡だと思った。昨年も奈良博で購入した毘沙門天がありまだまだ名作の毘沙門天が日本中に埋もれていると感じた。
展覧会に出かける前にその特別展に関する書籍やブログに目を通してから会
場に向かうことにしているが、その際多い役に立つのが東博公式サイトの1089ブログだ。今回の出雲と大和展でも目を通してから出かけたのだが仏像に関するブログは出かけたあとアップされていた。皿井学芸員によると出雲の鰐淵寺の観音菩薩は飛鳥時代後期の作で出雲地方の有力氏族が両親のためにつくったことが銘文からはっきりわかるとのこと。図録にはあっさりと記載された銘文の文字が書かれておりさっぱりわからなかったが、このような心温まる古代の出雲人のメッセージが書かれたいたことを事前に知っておけば仏像のみかたも変わってより深く楽しめたであろう。出雲地方はスサノオノミコトや大国主命の神話からもわかるように大和をしのぐ王権が存在していたことがわかるが、このように両親への愛情を表現する心温まる人もいたのかと深く感銘した。現在開催できない展覧会についてもネットワークを駆使してブログ更新いただきたいものだ。
今度の展覧会で一番楽しみにしていたのがロサンゼルスの美術館から来た毘
沙門天三尊像だ。元出雲の岩屋寺にあった仏像でファイバースコープでの胎内調査によると吉祥天と善膩師童子の梵字があり、文化庁保存の古写真によると確かに三尊だったようだ。毘沙門天はギリシャ神話のヘラクレスのような前面に龍をあわわした冑を被り、肩喰には怪獣の面、オールバックの髪型の帯喰の鬼面などがあり見ていて飽きない。鎧にも唐草風の植物文様や花弁で表され装飾性に優れた仏像だ。口は大きくあけて舌をのぞかせている点は毘沙門天としては珍しいと図録に書いてあった。確かに今までみた毘沙門天は仏頂面をして口を真一文字に結んでいる。鎌倉時代に院派の院快が修理を行い色鮮やかな朱や緑青といういわゆる紺丹緑紫で彩られてとても印象的な仏像だ。この仏像に出会えてわざわざ奈良まで来たかいがあったと思った。