東大寺ミュージアムには法華堂より移された仏像もいくつかあり、天平仏の
日光・月光菩薩もその一つだが、この弁財天も法華堂の梵天・帝釈天の巨像に隠れて目立たない存在だが、ここミュージアムでは光を放っていた。天平時代の塑像で白くたおやかな体形で、しかも塑像ならではの柔らかいニュアンスを表情にあらわし、先ほど見た日光・月光の苦み走った顔とは対照的だ。弁財天は像高219センチで顔と腕が補修され唐風の衣装を着てゆっくりと立つ。顔は張りのある丸顔で眼は半眼とし、鼻・唇も小振りで引き締まり、気品を感じさせる。下半身は細くしぼる形で、上体はやや反り気味である。こうした形は唐代貴婦人や高松塚古墳の壁画にも見られ、唐風を意識して造立されたと思われる。天平盛期の遺品として貴重な仏像だ。ずっと見ていたかったが、ほかの展示品も気になるので先を急いだ。
10月に開催された特別企画「文化財よ、永遠に」に遠くベトナムから75年
ぶりに里帰りした阿弥陀如来が展示されていた。昭和18年に東博より当時ベトナムを統治していたフランスの極東学院に文化財交換で渡り長らく行方不明になっていた仏像だ。今、東洋館で見られるクメール彫刻はその時の交換品だ。近年の九州国立博物館のベトナムとの交流事業でベトナム歴博の所蔵品がそれにあたるということが判明し、平成26年に美術院の修復で左足裏に東博のラベルが貼ってあることも見いだされ東博から送られた仏像と確定したとのこと。阿弥陀如来は鎌倉時代の仏像で快慶が得意とした金泥塗や截金文様が施されている。植え付けの螺髪の脱落は目立つが、巻き毛を表す白毫、表面の金泥塗りと着衣の截金まで造像時の装飾を残す優品だ。ベトナムではハノイからサイゴンに移されベトナム戦争やサイゴン陥落を潜り抜けよくベトナムの人が守り伝えてくれたことに感謝したい。美術院の修復で当時の美しい仏像によみがえったこともうれしい限りだ。これからもベトナムで大切に守り伝えられるであろう。
昨年10月に訪れたた金沢文庫開催の特別展「聖徳太子信仰」の訪問きっかけ
になった仏像がこの茨城県小松寺の如意輪観音だった。雑誌「目の眼」でそのお姿を見てこれは会いにいかねばと実際に会場にいってみるとガラスケースの中の展示で約8センチ四方の四角い白檀とみられる香木にレリーフとしてて彫られていた。さすが運慶の小さな大威徳明王を発見した仏の瀬谷さん主催の展示らしく、小さいながら出来栄えがよい如意輪観音だった。仏の瀬谷さん面目躍如というところだろうか。瀬谷さん書いた展覧会の紹介文によると、「如意輪観音は聖徳太子の本地仏で、同体とされています。(中略)そこで本展では如意輪観音も展示しているのです(後略)」と説明しているこの如意輪観音は平重盛の念持仏との伝承があり、重盛は父平清盛より聖徳太子の墓所のある大阪の寺院の再興を命じられたり、平家物語の中に清盛を十七条憲法を引用して諫めた話もあったりする。仏の瀬谷さんも重盛は太子信仰を持っていたと考えられますとのこと。なかなか興味がわく展示品ばかりで見ごたえのある展覧会だった。
「文化財よ、永遠に。」展では海の奈良、福井県小浜市から仏像が出展され
ている。それが高成寺の千手観音だ。平成26年に小浜を再訪した際、こちらの仏像の拝観を申し出たが一般公開の9月でなければ見せられないと断られた仏像だ。やっと念願かなって上野で拝観することができた。高成寺の千手観音は平安時代の頭から脚部までヒノキ一材から掘り出した一木造りの仏像だ。内部を空洞にする内刳りが行われていないことから九世紀の仏像だということがわかる。修理を手掛けた住友財団の報告によると古くは平安時代後期から江戸時代元禄年間にも何度も修理が施されており平成の修理の際、彩色を除去しており平安時代になかった彩色が施されていたが、平安創建当初の作風がわかるようなったことは望ましいことだ。修理の過程で元禄年間の修理の墨書が発見されたという。このように仏像の歴史と修理の過程が一緒に解説されより深く理解できてよかった。今後もこのような展示を期待したい。