2019年10月26日土曜日

特別展「聖徳太子信仰」②(水戸善重寺の聖徳太子摂政像)

今週訪れた県立金沢文庫開催の特別展「聖徳太子信仰」は広島県尾道浄土寺
の寺宝以外に関東のいくつかのお寺の聖徳太子関連の寺宝も展示されたいた。いつもの正面1Fの展示室には茨城県の太子像が展示されていた。中でも眼をみはったのが水戸善重寺の太子像で髪の毛は頭の両側でもとめる形で、左手に香炉右手に笏を持った像高130センチの堂々とした鎌倉時代の太子像だ。袖は赤地で華麗な文様が描かれ鴛鴦(えんおう)丸文は皇太子だけが着用を許される文様で中にオシドリが描かれている。元は佐竹氏のお寺にあった像を水戸光圀公が寄進したとのこと。華麗な彩色は秘仏で厨子に保管され御開帳のおりにだけ公開されたからであろう。仏の瀬谷さんによると、真言律宗中興の祖叡尊の弟子忍性が関東に下向した際拠点としたのが常陸で、現在残っている茨城の太子像は、その時造像されたと思われるとのこと。導入から聖徳太子像の魅力に引き込まれたが、ほかの展示も気になるので2Fに向かった。

2019年10月22日火曜日

特別展「聖徳太子信仰」①

昨日(20日)思い立って神奈川県立金沢文庫に特別展「聖徳太子信仰」を見に出かけた。興味を持ったきっかけは、雑誌「目の眼」で尾道の寺院群とこの展覧会の様子を紹介した記事を読んだからだ。それによると平安末期から鎌倉時代にかけて太子信仰が盛り上がっており、鎌倉仏教の始祖である親鸞から平重盛や、三代将軍源実朝などから篤く信仰されたいたとのこと。この展覧会では西大寺の叡尊が、再興した真言律宗の茨城県のお寺の太子像からTV見仏記で放送された尾道浄土寺の太子像まで展示されているとのこと。会場の1Fの入口には彩色がよく残る水戸善重寺の鎌倉時代の1メートル以上ある「孝養像」が出迎えてくれた。2階にあがると聖徳太子の本地仏であるわずか8センチ四方の如意輪観音のレリーフや尾道浄土寺の太子「摂政像」「孝養像」「2歳像」の三体や奈良元興寺の「孝養像」などが展示されていた。ボランティアによるガイドは終わっていて聞き逃したのは残念だが、聖徳太子像の魅力を十分に味わい会場をあとにした。

2019年10月19日土曜日

特別展快慶⑬(旧青蓮院の不動明王)

この不動明王像は京都の青蓮院に旧蔵されていて現在はアメリカのメトロポ
リタン美術館にある仏像だ。奈良博の山口学芸員によると旧蔵とされる伝えは青蓮院本堂に江戸時代の作とみられる模刻像が二童子像(制吨迦・矜喝羅か!)を伴って残されているからだそうだ。不動明王は総髪で両眼を見開き、上歯で下唇を噛むいわゆる弘法大師様の不動だ。私はその顔つきからどこかニューヨーク帰りの雰囲気を感じたのは修復の方法の違いからなのか。隣には前にも紹介した海外流出を免れた兜跋毘沙門天が並んでいた。気になるのが快慶作の二童子像がどこにいったのかだ。日本のお寺にひっそりと祀られているのか、海外流出したのかはわからないが日本にあることを祈るばかりだ。

2019年10月11日金曜日

特別展示 奈良大和四寺のみほとけ⑧(安部文殊院の文殊菩薩)

奈良大和四寺のみほとけ展では本尊は奈良を訪ねてお参りくださいという
コンセプトであったが、私はすべての本尊を拝観済みだ。その中で一番印象に残っているのが、快慶作安部文殊院の文殊菩薩だ。みうらじゅん氏・いとうせいこう氏のトークショーでスライド2枚のみうらじゅん氏のイラストを見せながらしつこいぐらいに文殊菩薩の素晴らしさを話していたのが印象的だった。私が2010年に奈良で拝観したのも彼らと同じで、獅子から降りた文殊だった。TV見仏記でもご住職の渡海文殊の説明を見たが、本の見仏記によると文殊菩薩は40年ごとに修理するが、ちょうどそれが遷都の記念と重なったそうだ。私はてっきり遷都の記念だと思っていた。維摩居士、須菩提、右に膝を曲げて両手を合わせて振り向く善財童子、胸を張った優填王たち眷属が同じ風を受けながら地上に現れた瞬間が表されている。TV見仏記でいとうせいこう氏が指摘していたが、風上の善財童子には風が激しくあたる様を衲衣で表し風下の優填王にあたる風は穏やかになっている快慶の素晴らしい表現で渡海文殊を形成している。東博の浅見課長も1089ブログの座談会で快慶作の立派なお像の出展を依頼したが断られたと言っていたが、国宝展に出展した善財童子でもあれば、渡海文殊の雰囲気を味わうことができたのに残念だ。いつか訪れる機会があれば安部文殊院を訪ねてみたいと思う。


2019年10月5日土曜日

特別展「国宝東寺」⑤(西寺の地蔵菩薩)

春先に開催された「国宝東寺展」で見る人をほっとさせるのが、この地蔵菩薩だ。もとは平安京遷都に伴って建立された西寺の仏像が西寺衰退で東寺に客仏できたらしい。図録や「オールアバウト東寺」による解説によると平安時代の製作で、平安初期は神護寺薬師如来を代表する厳しい表情、複雑で彫りの深い衣の襞を持ち、木の重さをそのまま伝える重量感豊かな像がつくられたが、しだいに穏やかな表現になっていった。地蔵菩薩の穏やかな表情や整理された襞は十世紀後半製作であることを示しているとのこと。真言密教の仏ではなく顕教の仏であることも会場で老若男女を癒してきた要因であろう。