おおい町を訪れ最初に向ったのがこの常禅寺だ。おおい町の多くの寺がそ
うであるように、ここ常禅寺も住職がいない無住の寺院で町の組合長の方に連絡を取ってみせてもらう約束をして出かけた。この常禅寺の不動明王を始めて知ったのは仏像クラブを始めてまもないころ、学研の「神仏のかたち不動明王」を購入した際、表紙になっておりずっと気になっていた不動明王だ。おおい町のホームページを調べたときたまたま載っており、今回の旅行の訪問寺院に加えた。収蔵庫をあけてもらうと、像高80センチの力強い不動明王が現れた。平安時代の作で名品揃いの藤原時代の不動明王の中でも佳作に挙げられる。訪れる人も少ないおおい町にこれほどの名品があるのには驚かされる。若狭には藤原氏の荘園があり、中央の影響が濃い多くの仏像がつくられたとのこと。一人で心行くまで不動明王を鑑賞し、おおい町の次のお寺に向った。
若狭3日目は自転車で遠敷(おにゅう)の古寺を巡った。なれない電動自転
車で転びながらたどり着いたのが、神宮寺だ。少しマンガチックな仁王がたつ門をくぐり、緑のまっすぐな参道を進む。ここは奈良のお水取りに使う水を送る寺で、八世紀依頼、綿々と続く儀式に深くかかわっているため、参道もどこか他の寺と違った、おごそかな雰囲気だ。拝観料を払って本堂に向う。こうし戸の中にオレンジ色の照明があるのだが、それでも中は薄暗かった。ずらりと何かが並んでいるのだけがわかる。3日目に予約しないと内陣には入れないが、参拝者のために大きな懐中電灯が用意されていた。目がなれてくると中央に薬師その周りに不動、十一面、十二神将が置かれ、布がかかっているコーナーもあった。ここは典型的な神仏習合の寺で、布の置くには「大神社展」で拝観した男神像と女神像が祀られている。右端には本尊より古い鎌倉時代の御前立ちの薬師如来が祀られている。ガイドブックにものっていたきれいな顔をした薬師如来だが、とにかくうす暗くよく見えない。絵葉書を購入した際、係りの方に場所を聞きなおして再度見に行ったぐらいだ。奈良のお水取りに使うありがたいお水をいただき、寺をあとにした。
おおい町の仏像を午前中に見て、午後からタクシーで小浜の寺を巡った。羽
賀寺の十一面観音に再会したあと、妙楽寺に向った。ここには白洲正子も絶賛した千手観音がおられる。しかも真数千手といって手が千本あり、頭上には二十一面と顔両脇にある菩薩面と憤怒面とあわせて二十四ものお顔をお持ちになっている。憧れていた写真は外に出したお姿であったが、実際のお寺では狭い厨子に収まっている。そのため両脇のお顔もよく見えない状態だった。うす暗いながら正面のお顔はよく見え、上唇はぽってりと厚く、目はおぼろげ。その視線は妖しく、かつ冷たい。美しさに背筋がぞっとする。みうらじゅん氏によるとフェニックスのように空を飛べる観音というのもうなずける。かつては秘仏だったので文句は言えないが、厨子を出たお姿をじっくり見たかった。お寺で観音の写真を購入し次の寺に向った。
おおい町で2番目に訪れたのが、意足寺だ。タクシーを降りると御住職がここ
ろよく迎えていただいた。この寺からの連絡は出発の前日にいただき、それまで拝観をあきらめかけていたのだが、ぎりぎりで間に合った。頑丈な収蔵庫のなかに1メートルのこぶりな千手観音がおられた。お顔やお体はどっしりとした存在感があり、頭上の十一面や四十二本の手の表現も見事なものだ。細く小さい手にそれぞれ持物をもち細かな表現をしている。御住職の話では昭和二十八年に台風による山嵐(土砂崩れ)の被害を受け、厨子ごと流されたが、観音様はほとんど無傷で発見され、最後に残った手も土地の古老が偶然見つけたとのはなしだ。御住職も「奇跡としか思えない」とおっしゃっていた。伝教大師最澄作と伝わる千手観音の奇跡に驚き、平安時代から変わらぬお姿に感動して寺をあとにした。
小浜の旅の終わりに福井県立若狭歴史博物館に向かった。ここはつい先月リューアルオープンした博物館で、若狭各地の仏像や仏像のレプリカが展示しているコーナーがあり、まさに海の奈良を実感できる展示スペースとなっている。ここで私が注目したのが、加茂神社に伝わる千手観音だ。以前テレビで紹介された秘仏で、ぜひ会いに行きたかった仏像だ。その観音様が博物館で展示されるとの情報を博物館フェイスブックで確認していた。仏像は平安時代のヒノキの一木造の千手観音で重文指定を受けている。とても保存状態がよく千手観音の事物もよく残っている。写真では解らなかったが、肉厚な胸の割に腰が恐ろしく細く奈良聖林寺の十一面観音のようにインドの呼吸法アナパーナサチを表している。これは中央の仏師の作と見て間違いないだろう。小浜が改めて京都文化圏だということを理解できた秘仏だった。
今日はおおい町にある三ヶ寺を巡って、小浜の寺巡りをしている。愛想のいいタクシーの運転手によると、ほとんど仏像を見に来た人を案内した経験がないとのこと。私はテレビの番組で芸大女子学生の模刻製作の紹介番組を見てから、ずっと会いたかった仏像がここおおいにあることを知って若狭路の旅を計画したぐらいだ。その仏像とは清雲寺の毘沙門天で脇侍に吉祥天と善膩師(ぜんにし)童子を従えている。毘沙門天は細身に造られ派手な意匠で、両手の衣の端、裳は風にひるがえり、目鼻だちは強く引き締まり、写実的な筋骨、憤怒の様相がうかがわれる。番組では脇侍のニ体がクローズアップしていたが、私は断然毘沙門天がかっこよいと思った。管理人の方も毘沙門天が好きらしく、わざわざお寺のスタンプに使っている。素晴らしい仏像との出会いを感謝して、小浜に向かった
今日から若狭路を巡っている。若狭に入る前にどうしても見たかった仏像を見に行った。それは舞鶴にある古刹金剛院の深沙大将と執金剛神だ。快慶作とはっきりしている仏像だ。お寺の方の説明だと快慶初期の作品とのことだったが、出てきて快慶のサインは安阿弥陀とのこと。ニ体とも1メートルほどの仏像だが、作品の出来は素晴らしい。特に金がよく残っている執金剛神が良かった。宝物殿に座り込んで、いつまでも眺めていたかったが、電車の時間もあるので、お寺を後にした。
今回の南山城の古寺巡礼展では、写真でも見たことがない、多くの初めて
見ることができた。この海住山寺の薬師如来もそのひとつで、眼球がやや目頭側に寄るようにあらわされている個性的な表情だ。私も行った「書写山円教寺の常行堂の阿弥陀如来(予約していなかったため見逃したが)などを思わせる」と図録の作品解説に書いてあったが、製作は10世紀末ごろだろうか。「TV件仏記」(播州姫路編)で言っていたが、平安時代前期の仏師安鎮(あんちん)の作であろうか。解脱上人定慶以前の「海住山寺」を伝える貴重な仏像だ。その特徴ある表情が気になって印象に残った仏像であった。