室生寺の金堂の仏像に圧倒されたあと、弥勒堂の「弥勒菩薩」と客仏の「釈迦如来」を拝観した。
弥勒堂の「釈迦如来」は3年前の「奈良の古寺と仏像展」に出展されており、その時拝観したが、それ以来の再会となった。飛鳥園の説明によると、「わが国の平安時代初期作品の白眉とも言える有名な仏像」とのこと。男性的な仏像で、いわゆる翻波式(ほんぱしき)の衣文、つまり衣文のドレープが豊かに波打つ向こうに、しっかりした腹が表現されている。頼れるお父さん、といったところだろうか。螺髪(らほつ)のない小さめな頭部にどっしりと安定感のある姿勢が余計そう感じさせる。釈迦が説法をする姿を表す優しさと静けさに満ちた表情だ。多くの善男善女でにぎわっていた紅葉まっさかりの室生寺だが、この弥勒堂だけ静けさに満ちているという錯覚を覚えた。隣の本尊である弥勒の大きめで、まるで童子のようなお顔を眺めて、次のお堂へ向った。
今回の奈良旅行のハイライトが紅葉に真っ赤に染まる室生寺だ。
室生口大野からバスで室生寺へ向う。紅葉に染まる門前を抜けてまっすぐ金堂に向う。お目当ては彩色がよく残る十一面観音と表情豊かな十二神将だ。本日は秋の特別公開として金堂外陣からの拝観となっており、仏像との距離が近い。金堂に入ると左端に安置されている十一面観音が眼に飛び込んで来た。肉付きがよい豊満な顔立ちというよりか、やや「しもぶくれ」したように見える十一面観音。天衣や条帛の襞(ひだ)を平行線で刻むと、全体に装飾的な傾向がつよく、女性的なやさしさが漂っている。唐草文様の光背も素晴らしく平安時代の初めの製作でありながらよく彩色が残っており、なまめかしい。私はしばらくたたずんで、十一面観音の前を離れることができなかった。
今回の奈良旅行は11月後半だったため、あらかたの秘宝・秘仏特別開帳は終わっていた.
ここ正暦寺は鎌倉時代の孔雀明王と白鳳時代の薬師如来がご開帳とのこと。紅葉の名所とガイドブックにも書いていたので急遽コースに入れた。近鉄奈良駅から乗り込んだ臨時バスは、予想通り混在していたが、お寺につくとすばらしい紅葉で今日が1番の見ごろだという。清酒発祥の地の石塔を見てまずは孔雀明王がおられる福寿院客殿に向う。須弥檀中央に孔雀明王、脇侍が愛染明王でかためれれていた。孔雀明王は毒蛇を喰らうという孔雀を神格化したほとけで、真言密教では息災や雨ごいのお経の本尊として重要視された。明王は通常恐ろしいお顔をしているが、孔雀明王は例外で慈悲相の菩薩形に表現され、四臂(しひ)で右手に蓮華と法輪を持ち、左手にザクロと孔雀の尾羽を持つ。翼を広げた孔雀の背に乗せた蓮華坐上に座り、大きく丸く広げられた尾羽が光背になる。来年には東京に来る高野山の快慶の孔雀明王が見られる。その快慶作と甲乙つけがたいすばらしい仏像だった。私は借景のすばらしい紅葉の中でたたずみ、穏やかな気分になっていった。
奈良一日目の午後は飛鳥を巡った。鬼の俎板や亀石などを見てから、
田園風景に浮かぶ橘寺に向った。平日で静かな境内を観音堂に向う。橘寺でのお目当ては平安時代後期の如意輪観音だ。雑誌の表紙で見た写真のイメージと違い、その大きさに驚かされた。半丈六(はんじょうろく)より大きく(170センチ)6本の腕を持ち、両足裏を合わせた如意輪観音だ。密教像らしい神秘的な姿ながら、平安時代後期の繊細優美(せんさいゆうび)と形容される定朝様式を示し、抑揚の少ない体つきに丸顔で伏し目がちの穏やかな表情が、拝する人を和ませる。堂内は私一人だけだったので、しばし静かな時間を過ごす事ができた。他の参拝客がこられたので、お堂を出て境内にある謎の石造美術「二面石」を見てから橘寺をあとにした。